まちかど逍遥

私ぷにょがまちなかで遭遇したモノや考えたコトなどを綴ります。

八丈島 高倉と旧八丈支庁

2022-07-31 20:53:24 | 建物・まちなみ

八丈島の続き。

 

ここが玉石垣で有名な大里集落。本当にこれまでに見たお屋敷の石垣などよりもさらに高く、長く続く見事な石垣だ!!

こういう石垣が集落じゅうの道路わきを飾っているのだ。何と美しい集落なのだろうか!

角は切り石を積んで強度を確保。やはり腕の良い石工の仕事だな。

さっきお昼をたべたあとに、まちなかの東京都八丈支庁の建物内にある歴史民俗資料館に立ち寄ったらとても面白かった。そこには近藤富蔵コーナーもあり詳しく説明されていた。徳川家譜代の旗本で蝦夷・千島の探検をした近藤重蔵の長男。隣家の7人を殺傷した罪で流罪となり、こちらに来てからは悔い改め、仏像を彫ったり石垣を構築、夜学の開設など、八丈島に多大な貢献をしたという。

八丈島の流刑の始まりについても解説があり、それは1606(慶長11)年に宇喜多秀家からはじまった。豊臣家の五大老で備前の領主であった宇喜多秀家は関ケ原の戦いに敗れ八丈島へ流された。近世の伊豆諸島流人の最初の人であり「八丈島流人の祖」と言われるのは少々気の毒な肩書だが・・・まぁ贅沢な暮らしではないものののんびりと過ごしたようだ。流罪生活は50年間にも及び、八丈島で没した。1871(明治4)年までの265年間に付き人も含め約1900人が入島した。罪人は明治維新後全員が赦免されたが島に残る者もいたようだ。

実は歴史民俗資料館でお話を聞いていたとき、古い伝統的な高倉が昔の民俗資料館の場所に移築されて残っているということだったのだが、その場所がどうもよく分からない。地図にも載っていなくて、人に聞きながらうろうろしていると、なんかすごい建物を見つけた。

これはどう見ても民俗資料館ではなく個人邸なのだが、あの変わった建物は高倉じゃないの!?住人の方がいたらちょっと写真を撮らせてもらいたいと思って玄関まで行ったのだが誰も出て来ない。近くで見ると、1.5mぐらいの高床でハシゴが立てかけてある。柱は丸い石の上に直接載っているし、屋根と上の壁はトタンが張られているものの1階部分は全面縦板張りで横材で押さえてある。これは本当に伝統的な高倉だろう。こんなのが村の中に残っているとは!貴重だから保存してあるというのでもない。床下には雑多なものが置かれ、日常的にハシゴで上り下りしているふうに見える。バリバリ現役なのだ!いや~、感激。

 

旧歴史民俗資料館を探してうろうろしながら、優婆夷(うばい)宝明神社にも行ってみる。ここには「キリシタン灯篭」がある。

こちらがそのキリシタン灯篭で、足の部分が十字形になっている。とは言っても、キリスト教信仰とは関係がなく、戦国時代のキリシタン大名だった古田織部が始めた形式の灯篭なのだとか。これは仙次郎という石工が作ったもので、彼は腕の良い江戸の石工だったが喧嘩の罪でここへ流されてきたという。

そしてこちらの本殿を見て驚いた!!何と石積の建物で、しかもそれが赤い溶岩の切石積みなのだ。手前の拝殿は木造で本殿のみが石造なのは、台風などの気候に耐えシロアリに食われないよう頑丈に造ったのか、石という素材自体に信仰的な意味があるのか、、、ちょっとよく分からないが、、、

基壇も石積みで、赤い石で白っぽい石を囲んだモザイクのような意匠になっている。こんなの見たことない!白っぽい石は安山岩だろうか、両者は明らかに違った質の石だ。その上の柵も石で造られていた。何と美しい神社の本殿なのだろうか!いや~~興奮。

 

そしてようやくたどり着けた旧歴史民俗資料館。ここはもともと東京都八丈支庁だった建物で、この島でたぶん唯一の洋風近代建築だろう。

 

 

1939(昭和14)年に庁舎新築、1971(昭和46)年に庁舎移転。資料館は1975( 昭和50)年に開館、2018(平成30)年で閉館、建て替えられた支庁舎展示ホール内に移転して再オープンしている。

「東京都八丈支庁」「八丈島歴史民俗資料館」二つの看板が今も玄関に残る。

下見板張り、石積み基礎の上に隙間を開けて木造の建物が載った平屋建。棟はH形で結構大きい。現在は閉め切られ何も使われていないようだし、特に保護もされていないように見える。

そしてその前庭に、聞いていた通り高床の倉がふたつあった。大きい方は6本脚、小さいほうは4本脚で、茅葺屋根。江戸末期頃に建てられたものを平成20年に移築した。高倉はもっと大きい12本脚のものもあるとか。

造りはやはりさっき見た高倉と同じで、壁は縦板張り、はしごをかけた入口部分は縁側のようになっている。

 

これは小さいほうの倉についていた、自然の曲がった木を利用した足掛けで「ノブ段」と呼ばれる。

この高倉は穀物貯蔵庫として使用されていたもので、「ノブ段」はネズミ対策であり、脚にはネズミ返しもあった。床下は物置や作業場として使われた。

美しい高倉や貴重な旧支庁舎。現在の資料館の場所には持って行くことはできないのだから、この場所ももう少し整備して分かりやすく名前をつけて観光スポットとして案内すればよいのにな。こここそ「ふるさと村」とすればどう!?

 

さぁそろそろレンタカーを返す時間だ。まちへ戻りレンタカー屋へ向かっていたとき、何度か通りかかって気になっていたこちらの天照皇大神宮に最後行ってみようと思いついた。

上り始めると、玉石の石段が延々続く・・・・

 

上り切ったところにコンクリートの貯水槽のようなものがあったが、、、まさかここへ上るための石段ではあるまいな(苦笑)。鳥居があったし・・・

さらに行くと、うわぁ・・・・なんと美しい。圧倒される玉石づくしのアプローチに対して、お社は小さなものだった。この玉石積みも含めて信仰の場所なのだろうと思えた。見に来てよかった。

なお、秋には天照皇大神宮祭という大きなお祭りが二日間にわたって開かれ山鉾巡行などもあるらしい。

続く

 

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八丈島 滝と古民家

2022-07-26 22:39:21 | 建物・まちなみ

八丈島の続き。

車を借りたら早速でかけよう。

八丈島は大きく見るとひょうたんのように中央部がくびれた形をしている。それは三原山と八丈富士という二つの火山がつながってできたからである。まちはそのくびれた低地に広がっていて、北岸にさっきフェリーで着いた底土港、南岸に八重根港、二つの港がある。そしてど真ん中に八丈島空港。ふたつの港の間の距離は6km弱、まぁまぁ広い。

二つの山は、見かけも生い立ちも全く異なっている。地図で見るだけでもそれは一目瞭然。八丈富士の一周道路はきれいな円を描いているのに対し、三原山の一周道路はギザギザ、特に北岸はヘアピンカーブがエンドレスに続いているようで、これを完走する自信は全くない。なので最初から一周するつもりはないが、やはり元気なうちに一番遠いところへ行っておこうと、今日は末吉集落まで行くことに。

三原山も南側の道はなだらかだ。道すがら、「服部屋敷」に立ち寄る。かわいい玉石積みの塀がカギ状に続いており巨大なソテツが茂っている。この奥に古い建物が残っているのか・・・と思いきや、行ってみると割と新しめの建物があるだけ。ん~~~?基壇部が立派な石積みの祠があったので拝んでおく。

 

説明板によると、服部家は下田の出身で、2代目からは官船のうち小舟のお舟預かりを務めて資産を築いたのだとか。

そしてこの石垣は流人近藤富蔵という人が作ったのだという。近藤富蔵って誰?後で調べよう。

八丈島に古い建築物などがないかと一応行く前にチェックしたのだが、あまり出て来ないのは、やはり台風などの被害や多湿な環境のために長持ちしないからだろうか。八丈島と言えば、の黄八丈の工房は休業中だった。オフシーズンだし観光客もまだほとんどいないから仕方ないな。

ということで自然を満喫するべく、硫黄沼・唐滝を目指す。八丈富士登山はかなり本格的な登山らしく早々諦めていたので、小一時間ほどで行けるこのコースぐらいちょっと奮発して(笑)行ってみよう、と。そして唐滝への道は崩れていて通行止めということなので、近い方の硫黄沼だけでちょうどいい。それほど高低差もなく日ごろの運動不足解消にぴったりのハイキング、道に迷うこともなく硫黄沼に到着したが、、、曇っていて硫黄の色は全然見られず、普通の水たまりだった(苦笑)。。。

次は裏見ヶ滝を見に行こう。その名の通り、滝裏へ回れるらしい。

車を停めてジャングルのような森の中を15分ほど、裏見ヶ滝が現れた。おぉ~~~っ、いいねぇ!

森の中の丸く開けたところにオーバーハングした岩から、レースのような水しぶきが広がって落ちる。美しい~~

硫黄沼はちょっと肩すかしを食ったけどこちらは期待通りの素晴らしさで、来た道を戻るのもごきげん。

 

ところで滝へ行くまでの道の脇に玉石を組んだ石段があった。「為朝神社石宮」と書いてある。パラパラっと降ったり止んだりの雨で石はしっとりと濡れて美しい。こんなにつるつるな上に天面が水平でなくかなり傾斜がついているのだから、どう見ても滑るだろ!こわいこわい!!・・・しかしこの美しい石段を上らないと後悔するような気がしたので登ってみた(笑)

 

そしたらやはりこれまた美しい玉石の擁壁に守られた祠があった。確かに「石宮」だ。これは島産の橄欖石玄武岩を使って、流人の石工、仙次郎が作ったものだと書かれていた。八丈島はかつて罪人が島流しされる場所だったが、技術や知識を持った人が島に新たな文化を作っていく一面もあったようだ。

さて、行きはよいよい・・・帰りは座り込みながら何とか滑らず降りることができた。

裏見ヶ滝の向かいには「裏見ヶ滝温泉」というとても雰囲気のある温泉もあって、入りたかったのだが、ここは水着着用でないとだめで、もちろん水着など持ってきていないので断念。。

さてどこかでお昼にしよう。休みのところも多いから電話をかけて確認してから向かう。いそざきえんという食事処はこんな趣のあるところ。あまりにも目立たないので一度通り過ぎてしまった。

 

しかしここが当たりだった!築200年の古民家を移築したという建物はとても落ち着けて、お料理も地産のものでとても美味しかったのだ。

装飾はないが、部屋の中の廊下側の半間分が垂れ壁で区切られているのが特徴的。

黒潮料理、というセットを頼んだら、お刺身、海藻や魚の煮たやつ、明日葉、こんにゃくなど、いかにも島の料理という感じで素朴なおいしさだった。魚の入った味噌汁もついている。

麦の雑炊。もちもちしておいしい。

そしてデザートは何と、モンステラの実だって!?モンステラって観葉植物の鉢植えでよく見かける穴の開いた葉っぱだ。熱帯ではそこらへんに雑草のように生えているが、実って食べられるのか!トウモロコシのように見えるが、まわりの部分はふにょふにょでイチジクのよう、いや、もっと柔らかいな。甘くておいしいが少しえぐみもある。これは熱帯フルーツアレルギーの人はダメなやつだろう。これも八丈島ならではのいい経験だ。

そしてお店に入る前に建物と建物の間から見えて気になっていた、石積みアーチを見せてもらう。総石積みで、コンクリートなどは一切使っていないように見えるが、厚さ3mぐらいあってめちゃくちゃ頑丈そう。尋ねてみると、もとは隣も同じ敷地だったが分けるためにあとから作ったものだそうだ。と言っても100年ぐらいは経っていそうな感じ。。

やっぱりこの吊るしてあるものも気になるよね!大根だそう。面白いなぁ!

 

途中で見かけて急遽車を停めた「大御堂」。ここも玉石積みがきれい!平安時代の地蔵があったり幕末の洋鐘が所蔵されている。そして同じ境内には、この中之郷集落だけで733人もの餓死者を出したという明和の飢饉の「冥福の碑」もあった。断崖が多く過酷な気候の火山の島。離れ孤島での生活は想像を絶する厳しさだったのだろう。。。

続く

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木更津をちょろっとうろつく。

2022-05-10 02:52:52 | 建物・まちなみ
長らくあきすぎてブログの書き方も忘れかけてる・・・(汗)
ちょっと余裕がなくてここ数か月書けていなかったけど、ぼちぼちでも続けようと思う。

さて、鋸山からの続き。
下山したあと浜金谷駅からJR内房線に乗って木更津へ移動して泊まる予定。
浜金谷駅はローカル風情豊かな素敵な駅。鋸山へ遊びに来る人もあまりここから乗降しないのだろうか、
フェリーの方がよっぽどお客がいた。静かでお客は数人のみ。


かつては貨物などあったのだろう、ヤードは広くレールが幾筋にも分岐している。


ホームから見える位置に本日のフェリーの運航状況が掲示されている。このあたりの人がここでフェリーに
乗換えて神奈川方面へ向かう需要は今もあるのだな。JRで東京まわりだと確かに時間がかかる。


花壇に大きな石が転がっているなと思ったら、文字のようだ。BOSO・・・ボソ??あぁ、房総、か!
アイラブ房総、だな。


さて到着した木更津駅の駅舎は、これもまたある時代の標準だっただろう小さなコンクリート駅舎。
地方都市に残るこのタイプの駅舎もどんどん建て替わっていっている。


お昼を食べ損ねていたので、ラビンというちょっと素敵な純喫茶を見つけて休憩を。。。
地元の若い子がひとりで静かに本を読んでいたりする。軽食のメニューは豊富。私はプリンを・・・


こういう喫茶店が駅前にはあってほしい。


駅前をちょっとうろついてみたら、東口は古い建物は何もないがタイルが少し。。。
ガラスタイルのグラデーションの壁。


その家の玄関まわりはアップルパイみたいなタイルが(笑)。


波々にカットした薄い板を」垂直に貼り合わせたタイル。


駅の西側は古い建物が少し残っている。こんな昔ながらの佇まいのお風呂屋もあるのだ。宮の湯。
内部はそれほど古びておらず、実用の銭湯だ。温まってから宿へ。


今回、大多喜町役場の今井兼次のモザイクを見たかったのだが、事前に聞いたら平日しか見れないとのことで諦め、
その他は特に何も決めていなかった。木更津のいくつかの建築をぶらぶらする。
その名の通り、港町として栄えた木更津。町家や蔵や戦前と思しきモルタル塗りのレトロ建築などがぽつぽつあった。


すでに廃業している有名なお風呂屋、人参湯。あぁ、現役だったらなぁ!2011年に廃業したらしいから
もう20年以上たつ。しかしいろいろと活用されているようなので意外に建物は状態がよい。
やはり建物は使われている間は、建物自身が生き延びようとするのだろうか。




美しい水色のタイル。


横から見るとまるで立派な老舗旅館のようだな!


円柱のある建物。床屋さんっぽい?




近代建築「らしい」装飾のある建物。




蔵造りの建物や、房州石積みの蔵なども時々目に入る。。


昭和レトロな商店も。藤色の濃淡のタイルに覆われた商店のファサード。


青海波またはイチョウ型に玉石タイルを貼ったパネルなのだろうか?


側面はこんな二丁掛タイルがいちめんに。


こちらは山田眼科医院。ふたつの建物が渡り廊下で結ばれている。


こちらは診察棟。1928(昭和3)年。右側の建物は入院質で1937(昭和12)年という。




こちらは現在金田屋というアンティーク屋さんになっている建物。


色ガラスも入っている。


木更津をぶらぶらしている間に、地震?何だったか忘れたけど電車が止まってしまったらしい。
ええっ、帰れなかったらどうしよう~~、と焦ったが、木更津駅前からなんと品川行のバスが出ていた。
かなりの本数があり、しかも電車より早く1時間で着くとは!今度また大多喜町へ行くときはバスでも良いな。
関東は鉄道路線が複雑で、バス路線の開拓まではなかなか頭も回らないが、地方都市へ行くのにバスという手も
あるということを覚えておこう。

遠足のような楽しいBOSOの小旅行だった。

おわり。

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鋸山資料館と金谷のまち

2022-02-03 01:27:43 | 建物・まちなみ
金谷港からの続き。



鋸山をめぐるルートはいくつかあり片道約1時間。結構本格的な山登りだということは事前にネットで調べていた。
久里浜からのフェリーの中では鋸山へ行くらしいハイキングスタイルの人々も見かけた。
まちなかならいくらでも歩けるけど坂道となると途端にヘナヘナになるヘタレな私、ロープウェイがあるので
上りはそれを使って下りだけ歩こう、と楽観していたのだが、、、なぬ、ロープウェイは休業中だって!?そんな~~(泣)

今日の予定はここのみなので、とりあえず、港近くの鋸山美術館の奥にある鋸山資料館に入る。
ここは鈴木家住宅の古い二階建ての石蔵で、中には房州石についての資料が凝縮して展示されている。
詳しい上にとても分かりやすいので鋸山登山の予習にぴったりだ。
石材業者だった鈴木家だけあって、蔵自体も最上級の房州石が使われている。




凝灰岩である房州石は耐火性があり加工しやすいので建築や土木材料に適している。
鋸山での採石は江戸時代中期ごろから始まり、近代化の進む時代に大量に切り出されて海路で東京方面へ運ばれた。




房州石は伊豆石と似ているがちょっと違う。「桜目」「井桁目」「砂目」「梨目」「ガリ目」「磯石」という種類があり、
模様や石質が異なる。花びらのようなピンク色や白い模様の入った「桜目」が最上級とされる。




品質の高い石の地層に沿って縦に横に掘り進むのは大谷石の石切り場でもどこでも同じである。
昔は手掘りだったが、昭和33年以降は機械が導入され生産性は10倍にアップした。
「尺三」と呼ばれる棒状の定型(26cmx29cmx82cm/80kg)で切り出された石を、昔はねこ車に
3本ずつ積んで女性が山道を下ろしたという。信じられない!トロッコや索道ができ楽に下ろせるようになった。
1985(昭和60)年で採石は終了し、一部が切り落とされたような山容の鋸山は観光名所となった。
山全体が産業遺産と言える。


資料館を出て鋸山の方へ向かって金谷の集落内を歩くと、そこここに房州石の塀が見られる。
ここは、さっきの資料館の石蔵の所有者である鈴木家の住宅主屋である。さっきの場所は庭の一角だったのだ。


さすがに立派な房州石の石塀が長々と続いていている。土木構造物には縞模様の「井桁目」の石が向いていると見える。
繊細でやわらかそうな「桜目」はやはり建築物向けなのだろうな。


歩いていくと、なんか異様な建物が目に入る。何だ、あの民家風の建物は!?敷地の入口にはロープが張られ閉まっている。
緑色の大きなこう配屋根は、こんな海辺のまちにあるようなものではない。古民家「風」でもなく本当に古そうではあるが・・・
こちらは裏側のようなので表へ回ってみよう。


ここの外構もまた房州石の塀で、路地はとっても雰囲気がある。


塀の向こうを覗いてみると、「合掌館」と書かれている。何?道場?宗教施設??


表に回ってみると、立派な房州石の門があって「珈琲道えどもんず」との看板が。あぁ、カフェなのか。しかし
やっぱり閉まっていて、一月三十一日まで臨時休業とのこと。
ちょっと検索してみると、飛騨高山の白川郷から移築した合掌造民家で築2百数十年なのだとか。。。


浜金谷駅も古い木造駅舎だ。フェリーが頻発する港の最寄り駅だが、船を降りてここから鉄道で移動する人は
それほど多くないのだろうか。


いや、私はお客が増えてもこのままの趣ある木造駅舎のままでいてほしいよ。1916(大正5)年開業。


駅前というのにくねくねした路地があって、入り込むと房州石の塀や蔵や畑の土留めなどが見られ楽しい。


モルタルで補修した跡がちょっと残念。もう少し自然な感じで補修できる材料はないのだろうか。


美しい曲面の塀。


房州石の産地ならではのこういう風景がやっぱりいいね。


さぁ、鋸山案内書でマップをもらって、覚悟を決めて登山口へ向かおう(笑)。
内房線をくぐるガードがいい感じ。


この橋脚は国鉄仕様だから房州石ではなさそうだな。


続く
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天心邸へ

2021-12-19 00:42:07 | 建物・まちなみ
北茨城の続き。

野口雨情生家
を後にして五浦海岸へ向かう。そそり立つ崖が複雑に入り組んだ地形の五浦海岸は、
茨城県北ジオパーク構想のジオサイトの一つ。
美術史家で日本美術院を創設した岡倉天心はこのロケーションをいたく気に入り活動拠点とした。
崖上の広い敷地に、自邸である「天心邸」の他、六角堂、長屋門などの「天心遺跡」が残り、現在は
茨城大学五浦美術研究所として管理、活用されている。

受付事務所として使用されている長屋門。


茨城大学に移管されたあと、1963(昭和38)年に建てられた天心記念館。天心と日本美術院関係者に
関する資料が展示されている。
この年代の建物はなかなかカッコイイ。


そこに展示されていた、五浦海岸の奇岩風景をつくっている「炭酸塩コンクリ―ション」という岩石についての
説明が興味深かった。堆積物に鉱物がしみ込んでつくられるもので、「天然のセメント」と言われるほど硬い。
五浦海岸の炭酸塩コンクリ―ションは「砂岩が石灰化して砂質石灰岩となったもの」といい、
これほど広範囲に分布しているのは世界的に珍しいのだとか。


山道のような切通しの小径を歩いていく。両側の法面には青々と苔がむし、割石を埋め込んだ石畳は
何とも風雅で、京都のお寺の庭園を歩いているような錯覚を起こす。。。




小径を抜けるとこの風景!そう、ここは海岸の崖の上なのだ。
五浦海岸の名は、大小5つの入江があることから名づけられた。


そして明るい芝生の広場に面して建つこちらの建物が天心邸。もともとここに建っていた観浦楼という鮑料理の
店の建物で仮住まいを始めた天心が、その部材を再利用して自らの設計で1904(明治37)年に建てたもの。
天心はここで心身を充実させ、日本とボストンを往復して活動した。
日本美術院を東京から五浦に移し、横山大観、菱田春草、下村観山といった画家らがこの地で創作に励んだ。


中へは入れないが建具は開け放たれており覗き込むことができる。




もとは隣に離れ座敷が付属し、主屋ももっと大きかったようだが、昭和戦前に縮小されたらしい。
離れ座敷の跡地には浴室のタイルだけが残っている。締め切られて立ち入ることができないが
四角く白いタイルと、花形や扇型、ひょうたん型、桜、雪輪・・・いろんな形をした比較的大型のタイルが
残っている。


真四角で印花文の入ったタイルもあるが瀬戸のものとは明らかに違う。色、釉薬の雰囲気など見たことない感じ。
このタイルについて書かれた文献を事務所で見せてもらった。明治43年頃に天心が奥様に依頼して手配した
ものと書かれていたが、タイルの製造元は判明していないようだ。昔の写真を見るともっとたくさんあったが
だいぶ剥がれてしまったという。




東日本大震災の津波では天心邸の床下まで浸水し、芝生の庭がしばらくの間池のような状態だったとか。
こんな崖の上まで!?全く、想像もつかない。。。


崖上でそうだから、この広場から石段で降りたところに建っていた「六角堂」はもうひとたまりもなかった。
津波が引いた後には基礎しか残っていなかったらしい。この六角堂も天心が自ら設計した建物で
登録文化財だったが、失われたため現在のものは復元建物である。再建を願う人々から寄付金、また
材料や技術の提供を受け2012(平成24)年に完成した。
しかしすごいところに建てたものだな。。。岡倉天心はここで波の音を聞きながら瞑想したり思索にふけったとか。


岡倉天心って、彼自身がアーティストというわけでもなく、何をした人なのか正直よくわかっていなかったが、
東京美術学校の設立に尽力し、日本美術院を創設し、美術史の研究、美術評論、アーティストの養成などを通して
日本の美術界に大きな貢献をした人だとわかった。


天心邸のあと、近くの市場食堂でランチを。メニューがたくさんあって迷いに迷ったが・・・
あまり食べたことのないものをと、あんこう丼を。あんこうの天ぷらを卵とじにしてある。


あっさりしていて「これがあんこうか!」という独特の味はなかったけど(苦笑)おいしかった!


続く
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日立駅から、野口雨情生家

2021-12-18 00:41:14 | 建物・まちなみ
茨城県の大洗から苫小牧へ行く商船三井フェリー。船旅好きの私はずっと乗りたいと思いながら関西人にとって
なかなか縁遠い航路なので、こっちにいる間に実現しようと計画を立てた。


大洗港まで2時間ほどかけてせっかく行くので、港へ行く前にちょっと遊んでから行こうと、金曜日休みを取って
早起きし気合を入れて出かけた。レンタカーを予約していた日立で下車。日立で借りたのは、水戸から
行こうと思っている北茨城まで、眠くならずに走る自信がないから・・・(苦笑)。


日立駅はもちろん私は初めて降り立ったのだが、コンコースが全面ガラス張りで、ロータリーの向こう側まで伸びた
通路の先に、カフェか何かだろうか、海の上に浮かぶようにガラスの箱が張り出している、驚くほど斬新な駅舎だった。


これは世界的に活躍し日本人女性として唯一プリツカー賞を受賞している建築家、妹島和世氏が手掛けたものと知った。
彼女の出身地が日立なのだとか。
日立と言えば、この木何の木の日立製作所のおひざ元、工場地帯だと思っていたのでほんとに驚いた!

※写真は帰りに撮ったので夕方でちょっと薄暗い(汗)

北上ドライブでまずやってきたのは野口雨情生家。場所がわからず一度通り過ぎてしまい、Uターンしたけど
今度は曲がり損ねてうろうろ。近くには野口雨情記念館もあるがそれは全く別の施設だ。
ようやく車を停めた。風格ある門構えの2階建て建物が見えている。角部分に配置された部屋の反り返った
入母屋屋根が強いインパクトを与える。


門をくぐると右手にある古そうな建物が生家で、正面のきれいな建物は資料館だ。


生家から入ってみる。この建物は1877(明治10)年頃に雨情の父により建てられた。
野口家は楠一門の落人をルーツとし、水戸徳川家に仕えた家であり、水戸光圀はしばしばここに逗留し
眺望の良さから「観海亭」と名付けたという。この額はレプリカだが本物は資料館の方にある。


入口付近に横長の小さな土間があり座敷に上がれるというちょっと変わった造り。


そしてその土間にかわいらしい模様が・・・タイルが埋め込まれている!?


無釉のモザイクタイルだ。こんなアーガイル模様みたいに並べてあるのは初めて見る。土間はコンクリートに
なっているのでやり直されているだろうが、元からこんなふうに並べられていたのだろうか?


土間に接したかわいいスペース。


それほど広くはないが上質な材でしっかり造られている。


「赤い靴」「雨ふりお月さん」など良く知られた童謡の詞をたくさん書き童謡界の三大詩人の一人と言われた
野口雨情。伊豆大島の波浮港をうたった「波浮の港」も作詞している。
資料館の方では年配の女性が野口家の家系図や文学界の人々との交流などについていろいろと説明して
下さったのだが、なんとその方は野口雨情のお孫さんだった。偉大なお祖父様の足跡を広く知ってもらうために
資料館での案内や全国で講演なども行っておられるという。

生家は東日本大震災の水害で倒壊したが、元の部材を使って再建したそう。自然な古び方で、ずっと昔のままかと思った。
資料館のある場所にはもとは主屋があったが建て直したのだとか。海からはだいぶ高いところにあるように思ったし
石組の基礎の上に建っているが、それでも建物をなぎ倒すほどの津波が来たのか。。

思いのほかゆっくり滞在してしまった。ちょっと急ごう。

続く
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鈴木信太郎記念館と伊豆石の蔵

2021-11-03 21:29:26 | 建物・まちなみ
雑司ヶ谷からの続き。

15分ほど歩いて鈴木信太郎記念館にやってきた。ざっくりした風合いの大谷石の石積みは2mぐらいある。


16時半までだからあと15分ぐらいしかない(汗)。早く入ろう。。


階段を上っていくと、道路からはほとんど見えなかった建物が姿を現した。中央に入口、芝生の庭に面して
右側に洋館、左側に木造の和館がある。


洋館は蔵のように窓が小さく、緩やかに波打った破風を模した装飾がついている。変わった意匠だな!?
2階は増築だろう。


和館は庭に面した広縁に全面ガラス障子がはまり、明るく快適そうだ。


なんとここも無料。玄関ホールから右を見ると、洋館の入口はまさに土蔵の入口のようだがRC造である。


中は床から天井まで本棚が作りつけられており薄暗い。そして驚いたことに暖炉があった。まぁ、蔵と思っていたから
意外な気がするが、洋館なら暖炉があるのも普通だ。くし形の通路の両側に書架を配し効率よく収納している。


鈴木信太郎はフランス文学者で、留学先から帰る際に船火事に遭い大切な蔵書を失った経験から、
絶対に燃えないようコンクリートでこの書斎棟を作り、窓を小さく、シャッターを取り付け、万全の防火対策をとったのだ。


その甲斐あって、空襲でも書斎棟は焼けず蔵書も守られた。


小さな窓には、鈴木信太郎自身がデザインしたステンドグラスがはまっている。これも空襲に耐えたのだ。
素人と思えないセンスのデザイン。ステンドグラスは全部で大小計5枚あり、書かれた文字は並べると
「MONDE EST FAIT POUR ABOUTIR A UN BEAU LIBRE S.M.」(世界は一冊の美しい本に近づくべくできている
 ステファヌ・マラルメ)となる。



和館は焼けたため戦後しばらく鈴木一家はこの書斎棟で暮らしたとか。


戦後すぐに玄関左側の「茶の間・ホール棟」を新たに建築し、さらに続く2間続きの座敷は、
埼玉県の実家の書院を移築したのだという。そして書斎棟の2階も増築した。


縁側の桁の材を見ても、お金をかけて建てられた上質な建物であることが分かる。


結局15分の間でバタバタと見た。16時半が最終入場=閉館とは、ちょっと早すぎるな・・・(涙)
手早く外観を撮ってから退散。


鈴木信太郎記念館は実はメトロの新大塚駅のすぐそば。ここから乗って帰ってもいいのだが、せっかくなので
お風呂に入って帰ろう、と都電荒川線の向原駅へ向かって歩き出したら・・・大塚五丁目の大きな交差点の
向こう側に古い石蔵が見えた。うわっ、こんな大通りに面して石蔵が完璧な姿で残っているのか!


横断歩道を渡り近寄ってみる。辻野園茶舗の店舗とくっついているのでここの倉庫なのだろう。


おや、見覚えのある石。よくある大谷石かと思ったが、これは伊豆斑石じゃないか。
これまでこの石のことを知らなかったからかもしれないが、伊豆斑石の蔵は下田ではたくさん見たが、
他ではあまり見た覚えがない。


鎧戸や持ち送り金物も含め完璧な姿じゃない!?素晴らしいなぁ!


向原駅から都電荒川線に乗って早稲田駅まで行く間にとっぷりと日が暮れてしまった。終着駅の早稲田駅。


豊川浴泉は高い折り上げ格天井や鯉のいる池がある昔ながらのお風呂屋だが、内部はきれいに改修済みで
お客も多い。やはり東京は人口が多いだけにお風呂屋人口もそれなりにあるんだろう。当分は安泰かな。



あぁさっぱり!

終わり。
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雑司が谷旧宣教師館(旧マッケーレブ邸)

2021-11-02 23:51:21 | 建物・まちなみ
池袋からの続き。


公園のような雑司ヶ谷霊園の中を通り抜けて歩く。広い霊園の中央を縦横に車道が貫いていて、巨木の並木道もあり
静かな公園のようだ。「墓地」という暗いイメージが全くないのは特定のお寺の墓地ではなく都営の霊園だからだろうか。
1874(明治7)年に開設。ひとつひとつのお墓も広くて囲いがあって立派だ。
「竹久夢二の墓」というプレートが目についた。有名人の墓がたくさんあるようだ。


さてようやくやって来た雑司が谷旧宣教師館(旧マッケーレブ邸)は、霊園に近い住宅地の中にあった。
松の枝が門の上に覆いかぶさるように伸びているのがミスマッチな感じ。


かわいらしい木造下見板張りの洋館。アメリカ人宣教師J.M.マッケーレブが1907(明治40)年に建てた家で、
34年間ここに住み、宣教活動の拠点とした。解体及びマンション建設計画があったが地元住民の保存運動の甲斐あって
豊島区による取得・保存が決定し、1984(昭和59)年に復原工事で創建当時の姿に戻された。


去年(2020年)、開館以来の大規模修繕が行われたとあって内部はとてもきれいだが、意匠も細やかに再現されて
いることが感じられるし、間取りや造りからはアメリカ直輸入の洋館らしさが感じられる。




1階の居間は応接室も兼ねていたといい、建物内でいちばん立派な暖炉があり、ビクトリアンタイルが唯一使われている。


深いグリーンにピンクが映える、アールヌーボー柄のタイル。




大きな窓がとられた明るい食堂。窓の桟がおしゃれだな!


東・南面にはサンルームのようなガラス張りの広縁が回っており、階段が唐突にある。




二階には寝室と書斎があるが、いずれも天井の押し縁に割竹が使われている。それもすす竹のようなあめ色だ。
もちろんこれも復原されたものだが、アメリカ人が住んだ純粋な洋館の中でここだけ日本の材料を取り入れられて
いるのが面白い。


いくつかの部屋にはショーケースなどが置かれ、マッケーレブの生活や活動の紹介、雑司ヶ谷の歴史などの
資料が展示されている。マッケーレブが住み始めた当初はこのあたりは鉄道もなく辺鄙な片田舎だったようだ。

この建物は無料で公開されていて、国際色豊かな近所の子供たちが自転車で連れだってやってきて、展示を見たり
部屋の片隅に座り込んでおしゃべりしたりと、遊び場になっているようなのも微笑ましい。

マッケーレブ邸を出て霊園沿いの道を歩いていると古そうな建物が。建物の前には手押しポンプもある。何だろう。


看板とガラス障子に「此花亭」の名が入っている。そして「東京都雑司ヶ谷霊園公認附属茶亭」と墨書きされた
古い木の看板が。へぇ、公認茶亭なんてのがあったのか!
中に人がいるのが見えたが、お店をやっているような感じではなかった。


続く。
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ルボワ平喜と東商ビル

2021-11-01 23:33:35 | 建物・まちなみ
池袋からの続き。


池袋第一生命ビルの角を入ったところにルボワ平喜はあった。マンションで1階に平喜屋という居酒屋が入っている。
ここが建物のオーナーのようだな。


梵寿鋼の建築で見たことがあるのは、東京に来てから仕事で行った西川口でたまたま出くわしたPozzo Biancaと、
もう15年ぐらい前に見たドラード早稲田のみ。当時の記事→こちら。超あっさり(笑)
ここもまた、足元から塔屋まで、ダイナミックなモルタル造形に包まれている。


そして自由奔放な鋳物のパーツ。このサインは内照になっているようなので夜は光るんだろうな。


個性爆発の装飾に述べる感想は「すごい」という言葉しか思いつかない・・・


エントランスはPozzo Biancaやこないだ渋谷でたまたま見つけたRomanee80ビルとも似て狭く閉鎖的。
魔女の館みたいなイメージの鋳物の扉がつき、ガラスモザイクタイルのカラフルな天井画がエレベーターホールまで続く。




宗教画っぽくも見え、いろいろ意味深そうな図柄だが、私には読み解けない・・・(苦笑)


床にもタイルが敷かれている。たまに見かける柄のデザインタイルだが、こんなふうに色違いを市松に貼ってあるのは
見かけない。ちょっとくどいけどリッチな雰囲気だな。



扉より中へ立ち入るのはやめておく。

ところで、ちらっと眼に入った近くのビル、壁に日があたって何だかざわざわした質感に見え気になったので
ルボワ平喜を撮り終わってから見に行ってみた。
間口の小さい4階建てのビル。光が強すぎて目の前まで来ても、このざわざわした壁が一体何なのかよく分からない。


プリントなのか、ガラスなのか、金属なのか・・・?
1階の壁には店の看板がベタっと貼られ自販機も置かれているが、入口脇の壁がわずかに見えていたので、
ぐぐ~~っと近寄ってみた。


すると・・・えっ、これは!?鋳物のパネルの中に、ステンドグラスに使われるガラスが埋め込まれている。
しかも鋳物の桟のデザインは皆違う。実際は数種類のパターンがあるのかもしれないが、ガラスの組み合わせも
またそれぞれなので、実際すべて違っていると言える。


ガラスのカットや埋め込みは手作業だな。ガラス部分が光を通すのかどうかは不明。


あぁ、これが4階までのファサードを覆いつくしているのだ!


そして、このビルの入口にも格子戸がついていて、直線による構成ながら一部に鏡がはまっていたりとデコラティブ。


さっきからうすうす感じていたのだけど、天井からぶら下がった鋳物のオブジェを見ると、やっぱり、この建物もまた
梵寿鋼じゃないの!?
と思ったら、壁に小さな紙が貼ってあって、「建築家、梵寿鋼デザインのビル ポケストップ」と書かれていた(笑)。
検索しても不動産情報は出て来ないが、多くの人がSNSに上げていて、それによると1990(平成2)年竣工と
比較的新しいビルのようだ。


ビルの形自体は普通だし目を引くような大きな装飾があるわけでもない。カラフルなガラスも離れて見ると色がまざって
グレーに見える。それでもなお、遠目にもどこか他とは違う雰囲気を醸し出しているのはやはり建物に込められたパワーだ。
あぁ見つけられてよかった。
尚、このビルは意外と奥行があり、裏側も細い道路に接していた。裏は装飾なし。表から見た印象よりも大きなビルだった。


寄り道ばかりでなかなか進まないが、雑司が谷旧宣教師館へ。

続く。
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池袋のかっこいいビル

2021-10-31 23:45:52 | 建物・まちなみ
ふと思い立って雑司が谷旧宣教師館へ行ってみることにしたのだが、アクセスを調べるとどうも行きにくい。
都内ぐらいでうろつくときは交通機関は2種類までにしたい。いろんな線に乗り換えると高くつくので・・・(苦笑)
それでJR池袋駅から歩くことにした。

池袋駅の東口を出てグリーン大通りをまっすぐ進むと、駅から程ない大きな交差点に面して何やら場違いな小さな建物が。
なんだあれは?横断歩道を渡って近寄ってみると、木造モルタル塗の建物に「キリン堂薬局」の文字が。
うわぁ、この大通り沿いに、よくぞ残っているなぁ!場違いとは失礼な話で、元はこういう店舗が軒を連ねていたのだ。
もちろん今はもう営業してないだろうが、高層ビルに囲まれてひとり踏ん張っている姿が健気で愛おしい。


おや、この隣のビルもなかなかカッコいいじゃないの。シンプルだけど窓の奥行きが深くて、窓と窓の間に装飾があるなど
今どきのビルとはちょっと違う。


東京信用金庫の本店らしい。検索してみると、1974年9月竣工らしい。やっぱりそうか!


人が入って行って入口の自動ドアが開いたとき、正面の壁が気になった。あれはガラスブロック?


風除室まで入ってみると、六角形の連続した二重ガラスのようで、しかも表面が凹レンズのようにポコポコ凹んでいる。
なんか見たことのない建材だな。クール!!






この辺に梵寿鋼のルボワ平喜があるはずなので立ち寄ろうと思っていたのだが、その手前でまたカッコいいビルを見つけた。
青空に映える!


池袋第一生命ビル。鉄板を切り抜いたような角丸の正方形の窓が等間隔でずらりと展開している。


しかしエントランスを見るとガラス張りで、これは割と最近のビルかな・・・という気が。
検索してみると、何と2014年竣工らしい。へぇ~~今でもこういうビルを作れるんだな!




さてここを一本入ったところにルボワ平喜があるのだ。

続く。
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下田 欠乏所跡のなまこ壁

2021-09-12 21:08:15 | 建物・まちなみ
下田の続き。

下田のなまこ壁の町家はだいたいが江戸時代から明治、大正時代に建てられたものだが、昭和なまちなみも残っていて
タイルもちらほらあって楽しめる。


現役の理容・美容院、青島さんのファサードはおしゃれ!ドアがふたつあってお風呂屋みたいだが(笑)
美容院と理容院の入口を分けているのだろう。法律で定められているのかも。
ふたつの入口に挟まれた1階の中央の壁にデザインタイルが配されている。二階の窓の手すりも効いているな!


この日はお休みのようだったが、シャッター半開きの入口ドアから中を覗くと、中にもタイルが使われていた。
変わった色・柄、エキゾチックな雰囲気を醸し出している。


ここは旅館か何かだったのかな?モザイクタイル貼りの腰壁が。


その向かいには、私の好きなタイル。深い緑色の透明釉がかかっていて一部水色の差し色。酸化と還元の具合だろう。
このタイル、透明度が高すぎて正面から撮ると鏡のように自分の姿が映り込んでしまい、いつも撮るのに苦労するのだ。。。


さっき目を付けていた昭和湯が開店している。まぁだいたい目ぼしいところは歩いたので、汗を流して帰ろう。


昭和湯は名前の通り、昭和のタイル貼りの純粋なまちのお風呂屋さん。
下田の古いまちなみエリアは観光地だが生活の場でもある。すでに近所の常連のお客がちらほら入りに来ていた。
昼っぱらから湯船につかる贅沢。。。


汗を流した後はお茶でも飲んでゆっくりするか。平野屋にしようと決めて行ってみると・・・改修中のため休み。
えぇ~そんな・・・(涙)


入口の脇に「欠乏所跡」という石碑が建っている。
「欠乏所」とは変な名前だが、要は、入港してくる船に薪・水・食糧・石炭などを売る補給基地のような場所だった。
さらに、航海のための必需品だけでなく、反物や瀬戸物、工芸品などいろんなものが「必要な品物」として売られ、
幕府が貿易を禁じる時代にあって、実質的な貿易拠点となっていたという。


足場が組まれ外壁がシートに覆われているが、ちょっと近くまで行ってみよう。
・・・おや、このなまこ壁、どう見ても正方形じゃないぞ。中央あたりの目地のラインが左上へ行くほど広がっているし
右下あたりも幅が違っている。
これは伊豆大島の旧甚の丸邸で見た30度のなまこ壁の類・・・ではなく、墨を打ち間違えたな!?
よく手描きで平行線を引くとき、途中で目盛りを見間違えて狂ってしまう、あのパターンだ。
しかし仕上げてしまうまで途中で気づかなかったのだろうか。まさかわざと・・・ってこんな微妙な??


これが元からなのか、改修して復旧したときのものなのかは分からないが、元がこのようになっていてそれを
忠実に再現した・・・なんて考えにくいので、改修時に起こったことだろう。面白いからそのままでOK(笑)
しかし結局、水平と四半貼り以外の角度のなまこ壁は下田では見当たらなかった。


ところで、現在カフェレストランになっているこのなまこ壁の建物は、それ自体が欠乏所だったものか、それとも跡地に
建てられたものなのか?下田市の公式サイトでは「現在はカフェに」と何だかあいまいな書き方。。。
欠乏所の建物は1854(安政元)年の安政東海地震の津波被害後の復興でこの地に新築されたものであり、
1859(安政6)年、神奈川、長崎、 函館の開港に伴い、下田港での貿易が終了し廃止された。
跡地に建てられたのなら1859年以降だし、欠乏所の建物だったとしても1855年。「江戸中期の建物」
「250年前のなまこ壁」というのは矛盾する。ネット上にあった当時の欠乏所の模型の写真(平野屋の中にあるらしい)
を見るとなまこ壁ではないし、屋根の形も明らかに違う。。しかし廃止されたからと言ってすぐ更地にするとも思えない。
これらのことから考えるに、欠乏所の跡地に後年、江戸中期築のなまこ壁民家を持ってきて移築した、というのが妥当か。
平野屋に入れたら真実がわかったかもしれないが。。。

平野屋に振られたのでペリーロードへ戻り、風待ちに入ることに。もう長年やっているのだろう、雑貨も売られ
楽器などが置いてあったり。遊廓建築だそうだがそんな雰囲気はもうない。




奥には蔵もあった。絵や骨とう品などいろいろ飾られていて、アートな雰囲気。


クリームソーダを頂く。てんこ盛りのアイスクリームがおいしい~~
二階のことをご主人に尋ねてみたが公開していないとのことだった。やはりあのおしゃれな窓に目を留める人は多く、
公開できるように整備したいと言っておられたので、今後に期待!


さぁそろそろ駅へ向かおう。
通りがかりに見ることができた下田簡易裁判所のエントランスの渋いタイル。プレートの下だけ1/4サイズの
タイルを貼ってあるのがクールだねぇ!


蛇紋岩の乱積み、初めて見た。


住宅地の奥にあった日本キリスト教団下田教会。


ペパーミント色に塗られた壁と赤いとんがり屋根。絵本に出てきそうなかわいらしい教会だった。


まちの向こうに見える山は木々の間から岩肌が露出している。山全体が伊豆石でできているのだろう。


伊豆急下田駅は地上の終着駅。伊東へ、そしてJRで都内へ。。。普通電車で4時間近くかかるけど、爆睡あるのみ(笑)


暮れゆく海。
列車の予約もなく思いついたらふらっと行けるっていいなぁ。西伊豆の方にもまた行ってみたい。


終わり。
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下田 ペリーロード周辺の風景

2021-09-03 22:14:48 | 建物・まちなみ
下田の続き。

平滑川沿いの道は、黒船で来航したペリー提督一行が、日米和親条約付録下田条約締結の舞台となった了仙寺まで
行進した道で、「ペリーロード」と呼ばれている。


ペリーロードの東端に建つ旧澤村邸は、下田で数少ない一般公開建物。なまこ壁と伊豆石が使われた伝統的建造物だが、
町家ではなく門があり庭のある邸宅である。1915(大正7)年築と、このあたりでは割と新しい建物だろう。
澤村家は江戸時代から造船業を営んでおり、この邸宅を建てた澤村久右衛門氏は旧下田町の町長も務め、その子正三氏も
下田町議会議員を務めるなど、地域の発展に寄与した名家である。


2008(平成20)年に下田市に寄贈され、2012(平成24)年から一般公開されている。
内部は改修されて割ときれいになっており明るい雰囲気。


裏側に建つなまこ壁の蔵はギャラリーになっていた。


そして表側に張り出している部屋は中を見ると洋風で、「洋館付き住宅」と言えるかもしれない。近代和風らしいな!
ここは無料休憩所としても使える。


和風の主屋からつながる段差の部分はやわらかい曲線になっていた。


旧澤村邸から少し山手へ進むとなまこ壁の蔵があった。
このときは閉まっていたが「下田日待」という雑貨屋になっている。


伊豆石は畑の土留めにも使われていた。いや、これは邸宅の塀だったのだろうか。


平滑川沿いに戻って歩く。植えられた柳の新緑の若芽が風になびいてなんとも風情があるな。
柳と言えば花街。そう、ここもやはり花街だったのだ。


逢坂橋のたもとに建つ風雅な建物は、ギャラリー兼喫茶室の草画房。ここはなまこ壁ではなく、二階の窓は
楕円形に抜いたすりガラスが入るなど近代和風っぽいな・・と思ったらやっぱり大正3年だ。戸袋は銅板貼り。


外からちらっと覗くととてもおしゃれな雰囲気。中も見てみたいけど、大人気で混んでいるしお茶するにはまだ
ちょっと早いので(ランチ前だったので)・・・もう少し歩こう。




草画房の隣には重厚な石蔵、そして角石を積んだ古めかしい洋館が。


いかにもな感じなので「なんちゃって洋館」かと思ったが、本物の明治初期の建物らしい。ページワンという
イタリアンのお店になっていて、イタリアンでランチもありかなとふと思ったが、やっぱりお刺身がいいなと(笑)


カラフルなタイル円柱。


こちらの一面なまこ壁の建物は軒が低くてだいぶ古そうだ。土佐屋という飲み屋だが、入口まで埋もれている感じ(笑)
1854(安政元)年。


少し裏手にある長楽寺は、日露和親条約が締結された場所。歴史の教科書に載っている出来事が本当にあった史実
なのだと今さらながら実感する(苦笑)。


どの店も割とリーズナブルだし落ち着いた感じ。観光地ではあるが安っぽく浮かれた店はなく好感が持てる。




花街らしい意匠も残り散策が楽しいね!




こちらの風待工房というカフェも花街建築。とてもきれいな状態で残っている。


二階の窓を見上げると、おぉっ、窓の桟の割付がひし形でおしゃれ!その上、写真ではわかりにくいが
色ガラスがはまっている。これは内側から見てみたいなぁ~~!!


あとで時間があったらお茶しに来よう。




歩いていると京都の五条あたりの高瀬川の雰囲気を思い出した。


続く
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下田 なまこ壁と伊豆石のまちなみ2

2021-08-29 21:43:10 | 建物・まちなみ
下田の続き。



引き続きなまこ壁と伊豆石のまちなみを楽しみながらふらふら歩きまわる。なまこ壁ってほんとにきれいで大好き。
日本人の美的感覚が誇らしい。




そして伊豆斑石の模様の面白さ!どういうわけか、縞はほとんど斜めに走っていて、水平とか垂直とかはあまり見かけない。


並べれば、水の流れのようにダイナミックな模様が現れる。


旧町の南端を平滑川(ひらなめがわ)という1本の川が流れている。その川沿いの道はペリーロードと呼ばれ
観光の中心地でもあるが、ペリーロードは次回に回そう。


その手前で見かけたこちらの建物、窓には全部板戸がはまっているが今もお住まいのようだ。
両端の壁に伊豆斑石が使われている。


他と違ってふっくらとクッションエッジに仕上げてあってやわらかな印象。そしてここのは縞模様が水平垂直に近い。
やっぱり縞の向きはたまたま採れた場所によるようだ。


複雑な形のモールディング。柄が派手なのに彫刻までしてあるとさらにゴージャスさが出ているな。


こちらは総石積み蔵を住居に転用したっぽい建物。暑くないのだろうか。


さて、漁港でも有名な下田だからランチには新鮮な海鮮を食べたい!散策しながらお店もちょろちょろチェックしていると
結構どこもリーズナブルなお値段で各種定食などを出しているようだ。迷ったが、さりげない店構えに惹かれて入った
こちらの「ゑび満」、結果は大正解!!


あら煮、焼き魚+刺身、地魚尽くし、などいろんな定食メニューがあり、まぐろのユッケ丼やオリジナルのメニューも
あって大いに迷うが、ここは(たぶん)看板メニューの「下田丼」を注文。そしたら、大きなあら汁とおかずもついてきた。


そして丼の魚のラインナップがすごい。
「まぐろ めじな いとより鯛 ちびき 平目 真鯛 かさご うまづらはぎ かます 地金目鯛」
10種類もある!「ちびき」なんて聞いたことないし、かさごやうまづらはぎなんてあまりお刺身でも食べない。
そしてちゃんと「地」金目鯛が入っているのがうれしいよね!それぞれ3切れずつぐらい入っていてすごいボリューム。
尋ねなくても手書きのメモをつけてくれる心遣いにも感激。これで1500円なんてなんか申し訳ない感じ。。。
ゑび満さん、お勧め~~


こちらのくしだ蔵は美しいなまこ壁の蔵をリノベーションしたお店。ここも入ってみたかった。


相馬京染店は現役のお店。


裏に、縦長窓のある洋館っぽい建物が見えた。




こちらの邪宗門という喫茶店はマップにも載っている有名店。入ろ!




中は薄暗くてアンティークというか古道具というか、いろんなものが飾られている。個性が詰まった濃厚な空間だ。
1966(昭和41)年創業、下田で最古の喫茶店だとか。珈琲店なので、一応カフェオレで。。


邪宗門という名の喫茶店は下田の他にもいくつかあるが、チェーン店ではなく「グループ」だという。
国立の店に集ってマスターの価値観に共感した仲間たちがそれぞれの場所で同じ名を冠した喫茶店の経営を始めた、のだとか。


建物は150年以上前のもので、床が途中で一段上がっている。この手前までが土間だったらしい。
もともとどんな建物だったのかと尋ねた記憶があるのだが、メモが見つからない(汗)


外壁の伊豆石を止めたかすがいはあとからの補強だが、石は本当に積んでいるだけなんだな。
地震が来ないことを祈る。。。


続く
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下田 なまこ壁と伊豆石のまちなみ

2021-08-28 23:55:45 | 建物・まちなみ
厚木の古民家岸邸に行った日、本厚木駅まで戻ってカーシェアの車を返したら雨が止んでいた。駅前をひと回りしてみるが
面白いものは見つけられず、純喫茶でもないかなと思ったがうまく見つけられず(汗)、駅近くのチェーンカフェで休憩。
スマホで地図を見ていたら、厚木って鎌倉よりも西なんだな、南へ下れば茅ヶ崎なのか、小田原もすぐそこじゃないか、と
あらためて気づいて驚く(笑)。そして天気予報を見ると、今日の夜は100%だが明日の日曜は晴れになっている。
もともとこの週末は下田へ行こうと思っていたので、今から向かって泊まれば明日朝イチから散策できるなと思いつき、
急遽宿を予約してのんびり普通電車で下田へ向かったのだった。さすがに下田駅から宿までは台風の雨で濡れたが今日は寝るだけ。


・・・というわけで、日曜の朝から下田のまちを散策開始。
伊豆半島の南端に近いところにある下田は海上交通の要衝で、風待ち港として古くから漁業や商業で栄えた。
幕末、ペリー来航の時に開港して日本開国の舞台となったまちでもある。
なまこ壁の町家が多く残る歴史的なまちなみが有名で、だいぶ前から訪問の機会を探っていた。
少し前に行った伊豆大島の旧甚の丸邸が下田の民家のスタイルを移入したものと知って、下田で30度のなまこ壁があるのかどうか、
確かめたくて、今回乗り込んだのだった。


旧町のエリアに入ると早速なまこ壁の民家が現れた。おぉ~いいねぇ!
台風が多いので屋根は基本寄棟である。切妻だと妻側が風圧を受けやすい。そしてここの建物は軒の出がすごく短いな!
雨をしのぐよりも風を受けないことを重視しているのだろう。


ちょいちょい目についたのは、瓦の下に石が使われているのだ。ほぉ~~。
いつもそれほどしっかり見ているわけではないが軒裏はだいたい漆喰で塗り固めてあると思う。こんなところに石材が
使われているというのはあまり見た記憶がないなぁ。これは伊豆石だろう。産地らしい特徴だな。


そして歩いていると、家々の基礎や壁や石畳や、塀や何やと、伊豆石が町中もう至るところで使われているのだ。
木のかわりに石を使っているという感じ。


なまこ壁の民家はたくさんあり、部分的に使われている建物から全面覆っているようなものまで、いろいろ。
こちらは軒下だけがなまこのパターン。


こちらは大面積のなまこ壁。修復したのだろう。とても美しくまちなみのイメージアップにかなり貢献している。
ちゃんと伝統的な材料と技術で修復してあるから最初は新しくてもなじんでくる。


こちらは外構に伊豆石がふんだんに使われたお宅。


なまこ壁の替わりに壁の下半分に伊豆石が使われていることも多い。


そしてまた気になるのが、伊豆石の中でも、ベージュの無地のものと、縞模様の入ったものがあるのだ。
伊豆石には、溶岩である「堅石」と凝灰岩である「軟石」の2種類があり、下田を含む伊豆半島南部では軟石が
採れたとマップに書いてあるが、無地の石と縞の石の違いについては触れていない。


材質的には同じなのかもしれないが、縞模様は地層のようにはっきりしていて、斜め方向の縞ををデザインと
して使っているように見える。縞模様の石はとても派手な印象で、なまこ壁と同じくらいインパクトがある。
何か名前があるはずだけど・・・何と言う石なのだろう。
後日全然違う場所、旧新橋駅で見たのだが、これは「伊豆斑石(まだらいし)」と呼ばれるもののようだ。


整然とした街割は江戸時代前期に形成されたらしい。ジグザグに歩いて見ていく。立派ななまこ壁のお屋敷は
中もすごいんだろうか。見てみたいなぁ。トイレやお風呂はどうだろうか。
30度のなまこ壁ともうひとつ、甚の丸邸にあった瀬戸の本業タイルも下田にあるのかどうか知りたいのだが。。。

こちらの「安直楼」は唐人お吉が料亭を経営した店で、今は公開している建物のはずなんだけど、閉まっている。
後からもう一度来てみたのだけどやっぱり閉まっていた。残念だな・・・


こちらは旧松本旅館。今はもう営業されていないが、入口のガラスに「松本旅館」の金文字と、旅館らしい風情が残る。




たまたまおばちゃんがおられたので入口付近を見せてもらうことができた。入ったところは土間で、天井が一部格天井に
なっていた。


そして、古い屋根瓦と共に置いてあったのがこちら。これはなまこ壁の貼り瓦だな!四隅に釘穴がある。


おばちゃんとひとしきりおしゃべり。「楽しんで行って~」「ありがとう~~」
少しだけど見せてもらえてよかった。


そしてこちらが土藤商店。現在は酒屋で保命酒などを売っており、向かいの蔵をギャラリーとして古道具などを
展示したり売ったりしている。見学がてら、酒粕のアイスを買ってギャラリー内で食べる。


近世の建物だからだろう、意匠的には特筆するものはないが、風水を考えて作られたらしい図面などもあり
また、昔の下田のまちなみの写真も展示されていて、興味深く見る。瓦屋根がぎっしり。左の方に赤い文字で
書いてあるところが土藤商店。




商店の店構えは鉄板の外装で覆われてしまっているが建物は古いままで、裏にはちゃんと庭園が作られているのが
フェンス越しに見えた。真ん中に石組の築山があって水面が川のように囲んでいる。そして小さな太鼓橋。
これって甚の丸邸の庭とそっくりだな!


ぐるっと回ると裏には石積みの蔵もあった。


海沿いに出ると干物屋さんが並んでいて、イカやキンメなどいろんな魚が干してあった。
干物もおいしそうだけどお昼には新鮮なお魚の刺身が食べたいなぁ(笑)






台風の雨で漁港の水は茶色く濁っていた・・・


続く
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伊豆大島 旧港屋旅館

2021-08-15 23:28:00 | 建物・まちなみ
伊豆大島の続き。

さっきヒイコラ言いながら上ってきた石段は「踊子坂」と呼ばれている。踊子たちはお呼びがかかるとこの坂を
上り下りしたことからついた名だ。


そのふもと近くにもう1軒古い建物がある。これが港屋旅館だ。
朝イチここを通った時にはまだ開いていなかったので甚の丸邸に先に行ったのだった。


「やとなみ」ではなく「みなとや」。
傾斜地に建っているので、下から見ると1階分ぐらいの石積みがあり、2階建てでも見上げるような高さ。
しかし実はこの山側の奥にさらに3階建ての棟が続いているのだ。崖の中腹の狭い土地を目いっぱい使って
建てられた大バコ旅館。この規模から見ても当時の波浮港の繁栄ぶりが分かる。


この石積みの上に造られた小さな前栽には池まで設えてある。


さて中へ。広い玄関は開放的で明るい。お客や仲居さんが入り混じってどやどやと出入りしていた情景が浮かぶ。
この2階建ての旧館は明治時代に建てられ、背後の三階建の新館は大正時代に増築された。
夜ごと宴席で賑わい、混雑を避けるために階段は前後に造られていたという。


上の写真の左手が帳場で、左奥に電話室がある。島で電話交換業務が開始されると港屋旅館ではいち早く電話を設置し、
郵便局の「一番」に次ぐ「二番」を使用した。それほど港屋旅館は有力だったのだ。


ところでこの港屋旅館の見どころは建物ばかりじゃない。当時の様子を再現した等身大の人形がたくさん
飾られていて、さながら「人形の館」である。この人形たちがとても面白いのだ!
こちらの客は若い漁師のようで髪が潮焼けして茶髪になっている。


新館の2階の広間では踊りを披露する踊子の一行と、それを見物する泊り客の宴席風景が再現されていた。
川端康成の「伊豆の踊子」の「薫」のモデルになったのはタミという実在した踊子だった。
踊子の一行は5人で、踊る人、三味線を弾く人、鼓を鳴らす人・・・人形はいずれもきれいどころで、こちらは
特に面白くもないのだが、何と言っても客の方が面白い!特におっちゃんたちが、いかにもその辺にいそうな
個性的な顔ぶれ。髪型も皆違う。


こんなマネキン、想像では作れない。これは絶対に実在のモデルがいて、知ってる人が見たら絶対に分かる。
表情やしぐさもリアルで、何なら石膏で型取りまでしたんじゃないか!?
昔のパンフレットの写真には載っているが現地では見かけなかった顔もあるので、時々入れ替えているのかもしれない。
せっかくだから全員集合でぎっしり並べてほしいところだが、交代で休憩が必要か(笑)。


部屋の欄間も見事な透かし彫り。




床の間もちゃんとある。・・・いや、この建物は正直建物よりも人形の方が面白くて(爆)




3階は残念ながら非公開。曲がり階段の裏側が三次元曲面に塗りこめられていた。




港近くのまちなみ。あまり古くないのは、1956(昭和31)年に波浮港で大火があり16戸が焼失したため。


2階の窓辺に欄干のついた旅館風の建物や銅板張りの建物など少し古そうな建物もいくつかあった。




このまちなみの中ほどにあるお寿司屋が評判がいいので早めのランチをと思っていたのだが、予約のみらしく・・・
食べ損ね。。

続く
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