昨日のニュースを見て、沖縄タイムス記事 総理と仲井真知事 を読んでの私の直観的かつ主観的な意見
知事がきっぱりとNO!と仰ったことに一安心
管首相も地元に足を運び、実際に基地もご覧になった様子、そのことに関してはいいことだと思う。
何より、地元住民の基地の県内移設反対を肌で強く感じたことでしょう。
政府は基地の県内移設は無理だと早くあきらめた方がベター&ベスト!
日本そして世界の政治家、指導者に言いたいこと、フェアー に生きましょうよ(行きましょう)!
戦後65年、現在の沖縄の状態は異常なんです。アンフェアー、全国での負担分担がフェアーでしょうね。
↓ は、那覇少年少女合唱団が万博の合唱祭に出場した際の写真
その時のユニフォーム、知事が着ていらしたモスグリーン、または鶯色と同色なんです。
実は、指揮者&指導の安谷屋長也先生がその時ユニフォームの色について仰ったことをよく覚えているのです。やはり予算的なことでした。沖縄は貧乏県でしたからね~。今も変わりませんが。
でも、この色、福木(フクギ)染め、いにしえの頃、高貴な方々が使っていたとのこと。
実は私、現在 job hunting 中
このご時世、就職活動中の人は、老若男女、世界中いたるところに居るのですよね。実感してます。
兎にも角にも 経済産業 に力を入れて欲しい。
そのための英語学習が必要なのではと思います。
昨晩、おば(元小学校教諭・米寿)に ちんすこう と ちぃるんこう の お礼の電話を入れたら、
「今の若い人は仕事が無くてかわいそう。若い人と一緒だと横文字が多すぎる。」とのこと。
そうよね~
ご連絡遅れて申し訳ございません。
安谷屋長也先生のことは、沖縄の音楽教育関係の方に聞けば直ぐに分かることなのですが・・。
その時代は戦後戒厳令下だったのですね。忘れていました。沖縄には台湾料理店もたくさんありました。
3歳上の姉は中学生の頃にガールスカウトとして台湾へ行きました。歌以外の交流もあったのだと思います。
私自身、台湾への遠征旅行はよく覚えていて、ホームステイ先の女の子の雰囲気も思い出せます。ほっそりと背の高い少女で確かではないのですが、英語が上手だったような記憶があります。家庭料理も美味しくて沖縄の家庭料理に似ていました。
メールアドレスをありがとうございます。
何か分かり次第ご連絡差し上げます。
那覇少年少女合唱団は現存するようですので、そちらの現在の指導されている先生にメールして詳しいことを聞いて見ます。
万が一同姓同名の違う人だったとしても戦後戒厳令下の台湾に沖縄から歌の交流があったことが素晴らしい事だと思いました。
また、何か当時のことを思い出しましたら教えてください。ありがとうございます.
沖内辰郎 randomnote76@gmail.com
竹村国小学校の創立85年の式典出席のために台湾へいらしたのですね。
私たち那覇少年少女合唱団は、安谷屋長也先生の引率で台湾へ遠征旅行に行きました。
安谷屋長也先生は私の小学校の音楽教諭でした。私は高学年の頃に、先生が指導なさっていた琉球放送合唱団に入団その後、那覇少年少女合唱団に再編成されました。
私はその頃の最年長で台湾遠征旅行の後、退団し、高校卒業後は上京し関東に住んでいますので、私が入団していた前後の先生の消息はよくは分かりません。
しかし、先生が校歌を作詞または作曲された可能性
は高いと思います。
もし、もっと詳しいことが分かりましたら、こちらでご紹介させていただきます。
お役に立てずすみません。
安谷屋長也先生のことでお尋ねします。
昨年台湾の朴子という所にある竹村国小学校の創立85年の式典に行きました。
戦前、私の祖父森永信一がそこで教師をしていたからです。
当時小学生だった方にお話を伺うと他にも日本人の先生がいて、特に安谷屋長也先生はいまでも歌い継がれている校歌を作ってくれたそうです。
おそらく間違っていないとおもいますが、先生が戦前に台湾に居たかご存知ですか?