今年の復活祭(イースター)は、3月31日の日曜日に、十字架にかけられて死んだイエス・キリストが三日目に復活したことを記念する祝日です。因みに、昨年は4月8日でした。
何故このように毎年復活祭の日にちが変わるのは、何故でしょうか?
それは西方教会(グレゴリオ暦)と東方教会(ユリウス暦)が、「春分の日の後の最初の満月の次の日曜日」と決められたのです。しかし、両方の使用する暦は、暦のカウント方法が異なるために、復活祭の日にちも違っています。
まずはこの復活祭(イースター)の簡単な説明をしましょう。
第1日目: 金曜日(過越しの祭り)の昼頃、イエス・キリストは、首都エルサレムに入り、十字架上での6時間にわたる苦しみの後、午後3時ごろ息を引き取ったのです。即ち、イエス・キリストは、私達人間のために「過ぎ越しの生贄の子羊」となったわけです。(第一のコリント人への手紙第5章7節)
第二日目: 土曜日は安息日であったため、活動が厳しく制限されていたために、すぐにイエス・キリストの遺体はユダヤ人議会のアリマタヤのヨセフ議員の墓地に収められました。そしてローマ兵士達が墓の前で死体が盗まれないように見張りをしていました。
第三日目:日曜日の朝、朝日が昇るのを待ちかねていた女達は、急いで墓に向かったのですが、墓は空っぽだったのです。イエス・キリストが復活されたのです。
イースターは、この3日目に起きた復活のお祭りなのです。
では何故イエス・キリストは、十字架での磔刑によって死ななければならなかったのでしょうか?
その1つの理由として、預言者イザヤが預言した、メシヤ(救世主)の出現の予言が「成就」したことを意味しているのです。このメシヤが、イエス・キリストなのです。
イザヤ書第53章4~6節には、「誠に、彼は私達の病を負い、私達の痛みを担った。だが、私達は思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は、私達のそむきの罪のために刺し通され、私達の咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私達に平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私達は癒された。 私達は皆、羊のようにさ迷い、各々、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私達の全てのとがを彼に負わせた。」と有ります。
ユダヤ人達は、このイエス・キリストを今でもメシヤとしていないのです。その為にか、ユダヤ人達は迫害の歴史をたどっているかも知れません。更に、ユダヤ人達が、イエス・キリストを世界に広めさせるための「パイプ役」となって、旧約での預言を「成就」させた民族と言えるのではないのでしょうか。
イエス・キリストは、ダビデ王の血統(子孫)でユダヤ人であることと、そしてそのユダヤ人達が、イエス・キリストを十字架に磔けたことを、ここで認識しておいて下さい。
以下はイエス・キリストがダビデ王の子孫であることを証明しています。
イザヤ書第9章6~7節には、「1人のみどりごが、私達のために生まれる。1人の男の子が、私達に与えられる。主権はその肩にあり、その名は不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これを支える。今より、永久まで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」と有ります。イエス・キリストが降誕する預言が、新約の福音にて「成就」するわけです。
更に、ゼカリア書第9章9節には、「シオンの娘よ、大いに喜べ、エルサレムの娘よ、呼ばわれ。見よ、貴方の王は貴方の所に来る。彼は義なる者であって勝利を得、柔和であって、ロバに乗る。即ち、ロバの子である子馬に乗る」とあります。
イエス・キリストは、この預言の通り、ロバに乗って、エルサレムに入場しているのです。(マルコの福音書第11章7節、マタイの福音書第21章7節、ルカの福音書第19章35節、ヨハネの福音書第12章15節)その時に群衆は、賛美の歌を歌いながらイエス・キリストの入場を迎えるのです。
旧約に記されているメシアに対しての預言は、ほとんどがイエス・キリストによって成就しているのです。そしてまたイエス・キリストは、自分の死が近づいていることと、3日目に蘇えりをすることを預言をしています。今でもユダヤ人達は、このような預言をしたイエス・キリストを、メシヤ(救世主)ではなく預言者として呼んでいるです。
「この時から、イエス・キリストは、自分が必ずエルサレムに行き、長老、祭司長、律法学者達から多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえるべきことを、弟子たちに示し始められた。」(マタイの福音書第16章21節)
「見よ、私達はエルサレムへ上って行くが、人の子は祭司長、律法学者たちの手に渡されるであろう。彼らは彼に死刑を宣告し、そして彼をあざけり、むち打ち、十字架につけさせるために、異邦人に引きわたすであろう。そして彼は三日目によみがえるであろう。」(マタイの福音書第20章18~19節)
「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者達に捨てられ、また殺され、そして三日目によみがえる。」(ルカの福音書第9章22節)
このように使徒達が残した、イエス・キリストの預言の言葉で、旧約の預言を成就させる言葉であり、実際、十字架に架ったイエス・キリストは、3日目に蘇ったのです。
このエピソード(十字架での死お復活)が、他の宗教と違って、イエス・キリストがこの世に生誕された最も大きな目的なのです。メシア・救世主は、私達の苦しみを良く知っています。それはイエス・キリストが経験した苦しみ、(無実の裁判、裸にされ鞭打ち、十字架を担ぎ死刑場に行く、手足を釘打ちされ十字架に架られる)そして死です。イエス・キリストは、私達が想像できないほどの苦しみ、屈辱、痛みがあったに違いありません。このことは、イエス・キリスト自身が私達に代わって、神よりの裁きの苦しみの経験してくれたわけです。
この苦しみ、痛みに耐えてイエス・キリストは、自分のことだけではなく、私達人間に思いやりを示しているのです。それはイエス・キリストの十字架での最後の言葉の中から証明できます。
ルカの福音書第23章34節、「父よ彼らをお赦しください。彼等は、何をしているのか自分でわからないのです」と言って、そして遂に力が尽き果て最後の言葉を残します。
「すべてが終った」(ヨハネ福音者第19章30節)
「父よ、わたしの霊をみ手にゆだねます」(ルカの福音書第23章46節)
アダムとエバの罪をイエス・キリストは、十字架によって、そして彼の血によって流してくれたのです。ですのでこのエピソードは、私達の罪を贖うための「神からの贈物」なのです。そして何百人の人々が、このエピソードを目撃をしているのです。(歴史的な証明があります) すでに紹介したように、私達人間は、アダムとエバが犯した罪を生まれたときから備えられて、その罪の報酬が、死なのです。
「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私達の主イエス・キリストにある永遠の命です」(ローマ人への手紙第6章23節)
神は、私達人間に永遠の死を望んでいません。私達人間のために、イエス・キリストを生誕させ、贖いと復活の道を開いてくれたのです。
聖徒パウロは、イエスキリストの復活に関して、以下の様な表現をしています。
「罪の力は破られ、罪を愛する性質は葬られ、罪が私達を支配、束縛することはもうないのです。」 (ローマ人への手紙第6章2~6節)
「イエス・キリストの復活によって、私達も彼と同様となり、古い罪の性質は死に絶え、今は神に対して新しい命が生まれました。」(ローマ人への手紙第6章5節、第6章11節)
繰り返しますが、イエス・キリストは、罪のために死んだのです。この意味は、私達も同様に罪のために死んだのです。そしてイエス・キリストは、神の恵みによって蘇ったのです。
「神は私達の罪のために、罪を知らない方を罪とされた。それは、私達が、イエス・キリストに在って神の義となる(罪を赦され、神の前に正しい者とみなされる)ためなのである。」(第2のコリント人への手紙第5章21節)
悪くない奴らが成功するには、イエス・キリストの死と復活を理解、認識すること、即ち唯一の神の存在を信じ、イエス・キリストを受け入れることで、イエス・キリストと一緒に私達も蘇る事が出来るのです。
ですので、神に感謝、感謝、感謝です。