イースター・復活祭の1週間前の週を「聖週間」とか「受難週」と呼ばれていて、イエス・キリストがエルサレム城から受難を経て復活をするまでの一週間として尊重されてきたのです。その中でもイースター・復活祭の前の木曜日、金曜日、土曜日の三日間は、特別な典礼や礼拝が行われてきました。
本題に入る前に、最後の晩餐から十字架そして復活の四日間の出来事を簡単にまとめました。
木曜日(最後の晩餐):イエス・キリストが使徒の足を洗う、最後の晩餐、ユダの裏切り、イエスのゲツセマネの園での祈り、イエスの逮捕、ペトロの裏切り、カイアフィアと最高法院のメンバー達による尋問、
金曜日(受難の日): ユダヤ総督ピラトによる裁判、ユダヤ総督ピラトはヘロデ王にイエス・キリストを送る、ヘロデ王はイエス・キリストをユダヤ総督ピラトに送り返す、ユダヤ総督ピラトが手を洗う、イエス・キリストを十字架の刑を決定する、イエス・キリストは鞭打ちをされる、イエス・キリストは、十字架を担ぎ刑場に向かう、ゴルゴタの丘で十字架に掛けられ息を引き取る、ガリラヤから従ってきた婦人たちがイエス・キリストの死を確認、ヨセフがイエスを日没の前に埋葬する
土曜日(安息日): 金曜日の日没から土曜日の日没まで安息
日曜日(復活): 墓が空であることを女性達が確認、天使がマグダラのマリヤ、ヤコブ、ヨセフの母マリヤが墓の前にて出現、イエス・キリストが蘇ったことを告げられる、マグダラのマリヤが弟子達に知らせに行き、再び墓に戻った時に復活したイエス・キリストと出会う
復活後40日目(昇天祭): イエス・キリストが復活した後、天に昇り、父(神)の右に座する。
さて本題に戻ります。悪くない奴らが律法と恵みを理解するのには、この受難の日を理解することが重要なことなのです。では何故重要なのでしょうか?まずは「律法」に関して紹介しましょう。
イエス・キリストが、十字架に架って息を引き取ったすぐ後に起こった出来事に注目してください。
「しかし、イエスは再び大声で叫び、息を引き取られた。そのとき、神殿の垂れ幕が真っ二つに裂け、地震が起こり、岩が裂け、墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる者たちの体が生き返った。そして、イエスの復活の後、墓から出て来て、聖なる都に入り、多くの人々に現れた。百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、本当にこの人は神の子だったと言った。」 (マタイによる福音書 第27章50~54節)
「イエスは声高く叫んで、ついに息をひきとられた。 そのとき、神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。」 (マルコの福音書第15章37~38節)
この下線の部分、「神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた」に注目して読んでください。
神殿の幕が裂けたということが、悪くない奴らが成功するために理解すべき、新約の大変重要な箇所なのです。
この神殿の幕が裂かれたということは、これらの大祭司による、旧約による契約が破られたことなのです。
旧約での律法は、人を裁くために作られ、儀式を重んじています。これは宗教どれもが儀式を重要視しています。その儀式をすることで、私達人間は神に近づけると信じていました。更に罪を洗い流してくれると信じていました。しかしこの儀式は、神に奉げるために、生贄の犠牲の血を流していたのです。
神に許しを得るために子羊の血を奉げたのです。神殿は、大祭司が罪のための生贄、全焼の生贄、和解の生贄、穀物の奉げ物など、生贄や奉げ物を神の前に携えるために、建てられたのです。
そしてこの神殿には、二重の壁があり、外側の壁の中が異邦人の庭と呼ばれ、誰にでも入るこ とが出来るところでした。そしてもう一つの壁がその中にあり、そこはユダヤ人以外は入ることが出来なかったのです。そして青銅の祭壇があり、その祭壇で犠牲の動物が激しい火で焼かれました。
殺された生贄の動物の血を洗い落とすために、常に水が神殿の横に流れていました。
またこの神殿には一切椅子が置かれていないのです。ユダヤの大司教は立ったまま神に祈るのです。
しかし、イエス・キリストは、天に昇り、神の右座に座り、私達を見守ってくれているのです。
地上の祭司達は、民の罪のために神殿で日々、生贄を奉げたり、奉仕をしているので、決してその座に座ることは出来ないのです。そのために神殿には、椅子がないのです。
そして十字架でのイエス・キリストの死によって犠牲の血が流されたことによって、ユダヤ教の生贄の犠牲は必要でなくなったことなのです。律法のための裁きが、イエス・キリストの血によって流れ消されたわけです。ただ一度、イエス・キリスト自身が、私達の罪のための生贄として奉げて、罪の贖 いを永遠に成し遂げたのです。
ヘブル書第7章28節、「 律法は、弱さを身に負う人間を立てて大祭司とするが、律法の後にきた誓いの御言は、永遠に全うされた御子を立てて、大祭司としたのである。」
ヘブル書第8章1~2節、「以上述べたことの要点はこうです。すなわち、私達の大祭司は天におられる大能者の御座の右に着座された方であり、人間が設けたのではなくて、主が設けられた真実の幕屋である聖所で仕えておられる方です。」
イエス・キリストの死によって、神との「新しい契約」が出来、「古い契約」、即ち律法が打ち壊されたことなのです。「律法」は、裁くために作られた約束なのです。
エレミア書第31章31節、「主は言われる、見よ、わたしがイスラエルの家とユダの家とに新しい契約を立てる日が来る。」とエレミアは預言しました。この預言がイエス・キリストの死によって「成就」されたことなのです。
では、「恵み」とは何なのでしょうか?それは、過去の罪から救ってくれることであり、現在の罪から自由にしてくれることであり、未来の罪から守ってくれることなのです。即ち、神が私達人間の罪を、イエスキリストの血で洗い流し、罪を赦してくれたことなのです。
たびたび繰り返しますが、イエス・キリストは、神の1人子であり、神と一緒に存在していること、そして神は、私達人間を愛しているがために、私達人間を罪の罰から救うために、神の1人子を自ら生贄にさせたのです。神は、終わりの日に、罪を犯したものを罰しなければいけないという契約を、神の1人子によって、私達人間の代わりに罪の罰を受けられたのです。そのことによって、私達人間には、罪に対して罰をもって報うことは無いという契約を定められたわけです。
ここが他の宗教と大きな違いなのです。そしてイエス・キリストを通して、神と人間が直接会話することが、儀式を通さず出来るようになった訳です。
エペソ人への手紙第1章7節、「 私達は、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。 これは神の豊かな恵みによることです。」
イエス・キリストを受け入れることは、自分の過去の罪の赦し、即ち「恵み」を受けることなのです。この事が、本当のクリスチャンなのです。
最後に、「愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない、不作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで、真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。」(第1のコリント人への手紙第13章4~7節)
神の言葉を理解、認識することで、悪い奴らが成功することが出来るのです。これはビジネスにおいて、夫婦関係、親子関係などに「成功する鍵」なのです。
神に感謝、感謝、感謝です。