イエスは、人間として処女マリアから生まれ、私達人間として33歳まで、地上で生活をして、色々な奇跡、「死人を生き返させたり、病人を治したり、目くらを治したり」を起こしたのです。そのイエスが私達人間の罪のために死んだのですが、その心情はどうだったのでしょうか?
もう一度、「受難の週」を見てみます。
聖日曜日、イエスは、過越祭を過すために、弟子とエルサレムに向かったのです。過越祭のために集まった群集は、奇跡を起こしたイエスを一目見ようとナツメ椰子の枝をもって歓迎したのです。その時、イエスはロバに乗って入城しているのです。
ここで重要なのは、馬と違ってロバは、常に頭を垂れて黙々と働くのです。このロバに乗って入城したことは、旧約の預言の成就であり、柔和さ・謙虚さの象徴なのです。
このエピソードは、マタイの福音書第21章5節、ヨハネの福音書第12章13~15節に記載されています。
また、イエスは、エルサレム入城の以前に、自分が死んで復活することを3度予告しています。
一回目は、イエス・キリストの死まで、9~10ヶ月の頃です。
「その時以後,イエス・キリストは,ご自分がエルサレムに行って年長者・祭司長・書士達から多くの苦しみを受け,かつ殺され,三日目に蘇らされねばならないことを弟子達に示し始められた。」 (マタイの福音書第16章21節)
2回目は、ガレリアにて。
「人の子は裏切られて人々の手に渡されるように定められています。そして人々は彼を殺し,三日目に彼は蘇らされるでしょう」 (マタイの福音書第17章22~23節、マルコの福音書第9章31節、ルカの福音書第9章44節)
3回目は西暦33年の春、過越祭りのエルサレム入城をする前です。
「ご覧なさい,私達はエルサレムに上って行きます。そして,人の子は祭司長や書士たちのもとに引き渡され,彼らはこれを死罪に定め,ついで,これを愚弄し,むち打ち,かつ杭につけるために諸国民[の者たち]に引き渡すでしょう。そして,三日目に彼はよみがえらされます」。 (マタイの福音書第20章18~19節、マルコの福音書第10章33~34節、ルカの福音書第18章32~33節)
これらの預言は、イエス自身が使徒達に話し掛けた言葉ですが、イエスはすでにエルサレムの入城以前に自分が死ぬ覚悟があったのです。
聖月曜日: エルサレムに入城したイエスは、神殿の庭を商売に利用したり、賄賂が祭司に渡されていたりしたことで、イエスは激しく非難した聖なる怒りを見せたのです。イエスが怒りを見せたのは、ここでのみでした。そしてそれらのユダヤ人達を追いだし、神殿の庭を清めるのです。(マタイの福音書第21章12~17節、ルカの福音書第19章45~48節)
聖火曜日には、神殿の庭で、民衆に対してエルサレムの滅亡が近づいているとか、終末が来ることなどの説教や預言をしたのです。そしてイエスは弟子達に自分が2日後に捕らえることを予告したのです。
聖水曜日には、イエスと使途達は、エルサレムを離れベタニアのシモンの家に滞在します。その家にマリヤという女の人が来て、イエスの葬りの備えのために、高価な香油を注ぎます。その一方でイスカリテのユダは大祭司のもとを尋ね、銀貨30枚でイエスを引き渡す約束をしています。イエスが予告したように彼はイエスを裏切ったのです。
聖木曜日には、イエスと使途達は、再度エルサレムに戻り過越祭りの準備をします。イエス自身が過越祭が行われる場所を決めたのです。そして、弟子達にその祭りのための仕度を整えるように命ずるのです。そして過越しの晩餐がイエス・キリストを含めた12人によって始まったのです。
「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(ヨハネの福音書第13章1節)
これが「最後の晩餐」と呼ばれ、レオナルド・ダビンチなどの画家が絵を残しています。
この過越祭の晩餐をする前に、イエス・キリストは、弟子達を愛する故、弟子達の足を洗うのです。
「夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいをとって腰に巻き、それから水をたらいに入れて、弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手ぬぐいでふき始められた。」(ヨハネの福音書第13章4~5節)
イエス・キリストは、十字架で受けなければならない苦しみもすでに、神から知らされていたのです。そして最後の晩餐が始まります。
「イエスは彼らに言われた、『私は苦しみを受ける前に、貴方がたとこの過越の食事をしようと、切に望んでいた。貴方がたに言って置くが、神の国で過越が成就する時までは、私は二度と、この過越の食事をすることはない』。」(ルカの福音書第22章15~16節)
そして今でもキリスト教会で儀式として取り入れている、ワイン(血)とパン(肉)を分ける「聖餐式」の話が始まります。現在でもこの儀式は、教会において引き継がれています。
「そして杯を取り、感謝して言われた、『これを取って、互に分けて飲め。 貴方がたに言っておくが、今からのち神の国が来るまでは、私はぶどうの実から造ったものを、いっさい飲まない』。 またパンを取り、感謝してこれをさき、弟子達に与えて言われた、『これは、貴方がたのために与える私の身体である。私を記念するため、このように行いなさい』。 食事の後、杯も同じ様にして言われた、『この杯は、貴方がたのために流す私の血で立てられる新しい契約である』」(ルカの福音書第22章17~20節)
そして自分が弟子の1人に裏切られることを弟子達に話すのです。
「しかし、そこに私を裏切る者が、私と一緒に食卓に手を置いている」(ルカの福音書第22章21節)
「イエス・キリストは自分を裏切る者を知っておられた。それで、『皆が綺麗なのではない」と言われたのである』。」(ヨハネの福音書第13章11節)
「イエスがこれらのことを言われた後、その心が騒ぎ、おごそかに言われた、『よくよく貴方がたに言っておく。貴方がたの内の1人が、私を裏切ろうとしている』。」(ヨハネの福音書第13章21節)
「そして、一同が食事をしているとき言われた、『特に貴方がたに言っておくが、貴方がたの内の1人が、私を裏切ろうとしている』。」(マタイの福音書第26章21節)
「そして、一同が席について食事をしているとき言われた、『特に貴方がたに言っておくが、貴方がたの中の1人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている」。(マルコの福音書第14章18節)
更にイエス・キリストは、一番弟子である使徒ペテロに、
「その朝鶏が鳴く前に、貴方は私を三回知らないと言うでしょう」(ヨハネの福音書第13章38節)
「ペテロよ、貴方に言っておく。今日、鶏が鳴くまでに、貴方は三度私を知らないと言うだろう」(ルカの福音書第22章34節)
「貴方によく言っておく。今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、そう言う貴方が、三度私を知らないと言うだろう」(マルコの福音書第14章30節)
「よく貴方に言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、貴方は三度私を知らないと言うだろう」(マタイの福音書第26章34節)
最後の晩餐が終わり、イエス・キリストは、晩餐の席を離れ、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子達を連れてエルサレム神殿の東のケデロンの谷を渡り、ゲツセマネの園と言われているオリーブ山のふもとに行くのです。そしてこのゲツセマネの園でイエス・キリストは、十字架刑を受けることの苦悩を祈るのです。
『父よ、御心ならば、どうぞ、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の思いではなく、御心が成るようにしてください』。そのとき、御使が天から現れてイエスを力づけた。イエスは苦しみもだえて、ますます切に祈られた。そして、その汗が血のしたたりのように地に落ちた。」 (ルカの福音書第39~44)
『私は悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、目をさましていなさい』。 そして少し進んで行き、地にひれ伏し、もしできることなら、この時を過ぎ去らせてくださるようにと祈りつづけ、そして言われた、 『アバ、父よ、貴方には、出来ない事はありません。どうか、この杯を私から取りのけてください。しかし、私の思いではなく、御心のままになさってください』。」(マルコの福音書第14章32~36節)
「『私は悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、私と一緒に目をさましていなさい』。 そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、『わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい』。」(マタイの福音書第26章38~39節)
イエスは、三度祈ります。その後、大司祭の兵士達がイエスを捕らえるためにゲセネマの園にくるのですが、その時イスカリオのユダは、イエスを裏切る証拠としてキスをするのです。そして自ら逮捕されることになるのです。
イエスは捕らえられ、大祭司カヤパのもとに連行されるのです。そして、イエスを危険視した最高法院のメンバーである祭司、律法学者、長老達は、イエスを十字架に掛けさせることを決断し、ピラト総督にに引き渡すことを決定するのです。
ここから、イエスの受難が始まるわけです。
悪くない奴らが成功するに、この一日の出来事の内容とイエスが十字架に掛けられる心境を理解することなのです。イエスは、私達人間の罪を背負って帳消しにするために、祈りそして死の恐怖で血が出るぐらい恐ろしさを経験しています。このイエスの苦痛の経験は、私達人間の苦痛の経験なのです。
ですので、イエスは、私達人間の全ての苦しみ、悩み、痛み、病、嫉妬、激怒、弱みなどを良く知っています。だから、イエス・キリストを受け入れ、信じることで、現在の抱えている問題を解決してくれるのです。
ですので神に感謝、感謝、感謝です。