聖金曜日(グッド・フライデー)がまた来ました。イエスは、屈辱、激痛に耐え、十字架にかかりましたが。この十字架の6時間をもう少し見てみましょう。
イエスは、以下の7つの言葉を私達人間に語り、残したのです。
なぜ、この7つの言葉が重要なのでしょうか?
イエスは、十字架の刑を自分から逃げようとすることはしなかったのです。また今までのような色々な奇跡を起こして、「自分は神の息子」であることを証明して、私達人間を信用させようとすることはしなかったのです。
むしろイエスは、無罪にも係わらす、「十字架での死」によって、罪人として他の人間と同様な死に方をしたのです。
そのことによって、イエス、すなわち「神の息子」であることを「死」によって証明させ、私達人間達のために、本当の神であることを示したのです。それが「復活」となって証明されたのです。
以上のことを理解してください。十字架の死に行く間の7つの言葉の内容を1つずつ紹介していきます。
第1番目の言葉: 父への赦しの祈り
「父よ。彼らをお赦し下さい。父よ。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカの福音書第23章34節)。
「父よ」と声を掛けます。この最初の言葉「父」は、イエス自身が「神の子」であることを証明しているのです。それまで神を「父」と呼べるのは、イエスのみでした。ユダヤ人達は、「神」と読んでいますが、決して「父」と呼んだことは無かったし、「父」と呼ぶことは無礼なことと成っていたのです。
またこのときのイエスは、鞭に打たれ、十字架を背負った後、釘を手首(手)と足に刺された激痛に苦しみながらの言葉だったのです。それなのにイエスは、私達人間が何をしているのか解らないと、父に赦しを求めたのです。決して自分だけのために助けを求めた訳ではないのです。私達人間のためになのです。このことを忘れてはならないのです。
第2番目の言葉: イエスが私達に残した約束
「まこととに、貴方に告げます。貴方は、今日、私と共にパラダイスにいます。」(ルカの福音書第23章43節)。
ゴルゴダの丘で、イエスと共に2人の強盗を、1人は右にもう1人は左に、十字架に磔けられ、死ぬのですが、その死ぬ前に、2人の罪人は、イエスを嘲っていてのですが、一人の罪人は、イエスの崇高さを見たことで、この罪人はイエスを神の御子と認め、心から救い主と信じたのです。その悔い改めた強盗に対するイエスの約束のことばが、これです。どんなに罪深い人も、悔い改めてイエスをキリスト(救い主)と信じるならば、さばきから救われ、永遠のいのちを受けることができるのです。
1人の強盗は、「貴方はキリストではないか。自分と私達を救え。」と言って嘲ったのですが、もう1人の強盗は、「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。我々は、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」と言って、反対側の嘲った強盗をたしなめたのです。そして、イエスに、「貴方の御国の位にお着きになるときには、私を思い出して下さい。」と願ったのです。
そのため、死ぬ直前、この強盗にイエスに対する信仰心があることを見て、イエスは、強盗(罪人)を癒やし、「約束」の言葉を掛けたわけです。これが私達人間に対しての「約束」の言葉だったのです。私達人間は、生まれたときからアダムの罪を持って、この世に生まれてきているのです。ですので、イエスを信じる信仰のみによって、罪が赦されるという、私達人間に対しての「約束」の宣言なのです。
第3番目の言葉: イエスが母親に対しての思いやり。
「女の方。そこに、貴方の息子がいます。そこに、貴方の母がいます。」(ヨハネの福音書第19章26~27節)
十字架の足もとにイエスの母マリヤと弟子のヨハネが立っていたのです。イエスは、マリヤに目を注いで、この言葉をマリアに掛けたのです。そしてマリアがヨハネを自分の息子として面倒を見て欲しい、そしてヨハネににはマリアを母として受け入れ親孝行するようにと、愛そして思いやりの言葉を掛けたのです。
そしてイエスは、「神の子」であることから、マリアを通してこの世に現れたことで、マリアは、「母」ではなく「1人の女」と言う言葉で表現したわけなのです。
第4番目の言葉: 神が見捨てられた人間の声の代弁
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(マタイの福音書第27章46節)。
「わが神、わが神」と言う言葉は、詩篇第22章1節にでてくるバイブルの言葉なのです。私達人間が、神から離れ、神との会話ができなくなったために、ユダヤ教の信者に解る様に発した、「叫び・呻き」の全力を振り絞った大声なのです。
第2コリント人への手紙第5勝12節で、「神は罪を知らない方を、私達の代わりに罪とされました」とあるように、無罪で有るべきイエスが、私達人間の代わりに、神に見捨てられたなのです。
三時間の暗やみの中、イエスが、神に捨てられるという恐怖感は、私達人間にとっては、想像がつかないことなのです。この「死と神に見捨てられる」恐怖心は、どれほど恐ろしいことだったのでしょうか?
神の計画は、自分の1人っ子を死刑に架けることで、神の愛を示すためだったのです。それは、私達人間の「救い」のための計画だったのです。
第5番目の言葉: 限界に達した苦しみと新しく始まる人間の代弁
「わたしは渇く。」(ヨハネの福音書第19章28節)。
イエスはすでに6時間の苦痛を十字架で過しています。大声で叫んだことで、更に体が弱くなって、死に近づいてきたのです。そして人間が耐えることが出来る限界に達した時に、この言葉を発したのです。
その時にローマ兵士は、布のついた槍先に、酸っぱいぶどう酒を染みさせ、イエスの口にもって言ったのです。この出来事は、詩篇第69章21節、「私が渇いたときには酢を飲ませました。」の成就する行動だったのです。
また、私達人間が限界に来たときでも、即ち渇く人間のみ、イエスの元に行く事で、神の国に入れると云うことの言葉でもあったのです。ヨハネの福音書第4章37節、「誰でも乾いているなら、私の元に来て飲みなさい。」と記載されています。
第6番目の言葉: 救いの完了宣言
「完了した。」(ヨハネの福音書19:30)。
イエスは、私達人間の罪を背負って、罪の身代わりとして死を迎えるのです。その瞬間に、「完了した。」と言ったのです。神の計画通り、聖母マリアから受肉生誕され、33年半の人生をこの世で過しました。その間、イエスは、私達人間と同様な多くの迫害や試練を受けたのです。
特に十字架における6時間の肉体の苦しみは、耐え難い体験であったと思います。そして特に後半の3時間、暗闇の中で沈黙が続いたのですが、この間、サタンの誘惑や母から愛、弟子との活動など、色々な事が、イエスの頭に投影されていたと思います。そして全て「神の計画が、イエス自体か生贄になる十字架刑で完成」したとして、この発言をしたのでしょう。
私達人間の罪から救済するための計画だったのです。神の愛・恵みがここにあるのです。
第7番目の言葉: 神である父にゆだねる
「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカの福音書23:46)
イエスは、自分の肉体の死が近づき、なすべきすべてが完了することをすでに察知していました。そのためにできるだけのことを弟子達に教え、奇跡を起こし、イエスが神の子であることを啓示していたのです。その仕事が終わったわけです。
この仕事が終わったとき、イエスは、愛、安らぎ、平和感を味わったのではないのでしょうか。そして、神即ち慈愛に満ちた父のもとに行けることを、思ったのではないのでしょうか。
だから、最後の苦痛の中で息を引き取る瞬間、第1番目の言葉と同様の「父よ。」と言う、親しい言葉を出されたのです。そしてイエスは、全てを父にゆだめ、息を引き取り、父の元に行ったのです。
さて地上に残された私達人間は、イエスと神の恵みと愛をどのように受けいれなければならないのでしょうか?
悪くない奴らが成功するには、この言葉を十分に理解して、社会に貢献してください。
そして神に感謝、感謝、感謝です。