前回の記載で天地創造の神を知ることを紹介しましたが、バイブルには、何故人間は生きているのか、そして人間は何のために生きているのでしょうか?そのために、創造主である唯一の神の創造の目的を紹介したのです。くどいようですが、更にこのことを紹介していきます。
神は、独りでは何の役にも立たなく、独りで喜ぶことはできなかったために、喜びを得るためには、人間の創造が絶対に必要だったのです。神が創造した創造物を見て満足したとバイブルに記載されていますが、それは神の自己満足でしかならなかったのです。
人間も神と同様に、何らかの対象があってこそ、喜び、愛そして生きがいを感じるわけですが、対象物が無ければ、それらの感動は一切味わうことは無いのです。
そのために神は、人間が生きるために必要な自然と万物の創造を、人間を造る前に造ったのです。その創造によって、神は人間が自然界と万物との喜びを味わえる環境を私達人間にしてくれたのです。神は,人間が創造主の目的に叶うように環境を整えてくれたのです。ですので神と人間の関係は、地が出来る前にすでに計画されていたわけです。
神と人間が、親子関係となった時点、即ちアダムとエバが作られた時点で、人間の生きる目的ができたのです。そのことを簡単に言うと、人間は神のように完全な者になることなのです。
ところが、人間は神の義に逆らってしまったのです。そして神は、創造した人間に対して心を痛めたのです。
創世記第6章5節に、「主は人の悪が地にはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであるのを見られた。」
創世記第6章6~7節には、「主は地の上に人を造ったのを悔いて、心を痛め、わたしが創造した人地のおもてからぬぐい去ろう。人も獣も、這うものも、空の鳥までも。わたしは、これらを造ったことを悔いると言われた。」と有ります。
そして神が人間の行動に対して怒りを示しています。そしてノアの箱舟のエピソードであり、ソドムとゴモラなど人間を完全に消滅させています。
しかし神は、人間が犯した罪を許すのですが、義のものに対してのみ祝福をします。それらの人間がノアであり、アブラハムであり、ロトだったのです。またヨブに関しては次回紹介しましょう。
さて人間は何のために生きているのかの本題に戻ります。
私達全ての人間は、アダムの子孫である事を認知してください。そしてアダムが犯した罪、即ち嘘・死・働きの苦しみ・産みの苦しみなどを、私達全ての人間が引き継いでいることも認証してください。
では神が神に似せて造った人間は、この罪をどのように消す事が出来るのでしょうか?そして神のような完璧な人間となるのにはどうすれば良いのでしょうか。
それは簡単に言って、「神の恵み」を受け入れることなのです。ではその「神の恵み」とは一体何なのでしょうか?新約の聖徒パウロがガラテヤ人のクリスチャンに手紙を送っています。その中に、
ガラテヤ人への手紙第1章4~5節、「キリストは、今の悪の世界から私達を救い出そうとして、私達の罪のためにご自身をお捨てになりました。私達の神であり父である方の御心によったのです。どうか、この神に栄光が永久にありますように。アーメン。」とあります。
聖徒パウロは、「神の恵み」を知ることによって、初めて罪から離れ、罪に打ち勝ち、また身体の贖いによって、罪そのものを無くすことが出来ると言い切っています。
ここがキリスト教の一番重要なところで、悪い奴らが成功するためには、この「神の恵み」を認識することで、私達人間は、何のために生きているのかを知る事が出来るのです。
唯一の神は、神の子であるイエスをマリアから「蘇生」させることで、人間業ではないことを私達人間に知らせています。そして更にイエスの死、血を流すことで、私達人間の罪を洗い流してくれているのです。つまり、罪即ちアダムから継がれた罪を断ち切ってくれたのです。
そしてイエスの復活が、私達に重要な意味を示してくれます。イエスは、十字架の死後、天国の神のもとに昇り(昇降)、神の右座に座って私達を見守ることをしていてくれているのです。そしてイエスは地上に再来します。
この出来事、死から蘇えることが、仏教、イスラム教、ユダヤ教の違いなのです。そしてそのことによって、私達人間もアダムの罪を洗い、死んだ状態から生まれ変わるのです。これが「新生」と言われるのです。
ヨハネの福音書第5章24節、「私の言葉を聞いて、私を遣わした方を信じる者は、永遠の命を持ち、裁きに会うことがなく、死から命に移るのです。」、更にヨハネの福音書第3章3節 、「誠に、誠に、貴方がたに告げます。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」と記載されて居るように、イエスを通して神の祝福を信じることで、恵みを得られ、救われるのです。
この「神の恵み」があるお陰で、私達は私達が犯した罪を流れ落としてくれ、新しい人生を送る事が出来るのです。この新しい人生が、人間が何故、何のために生きているのかを知るための、一番重要なことなのです。即ち神の意向にあった生き方をすることで、幸せをつかむ事が出来るのです。
ですので悪くない奴らが成功するためには、新しい人生を受け入れることから始まるのではないのでしょうか。古い自分を捨てること、そしてイエスを受け入れ、義にかなった生き方をすることです。
イエスを受け入れることは簡単です。しかし、神の法廷においては、誰も(金持ちであろうと、貧乏であろうと)同様に裁判されることを知って置いてください。法廷での裁判官は神で、検察官は悪魔=サタン、そして弁護士がイエス・キリストなのです。
ではちょっと法廷をのぞいて見ましょう。
私達が法廷に立たされています。そしてサタンが私達の罪状を神に言い立てます。罪状の根拠は律法です。イエスが私達人間のために無罪を主張、そしてイエス自身が、その罪の身代わりとなってくれているのです。そのことによって人間は、罰を受けなければならなかったのですが、イエスの弁護によって地獄刑から無罪となったのです。
バイブルには、はっきりと私達人間を無罪にしてくれた事を描いています。
ローマ人への手紙第3章23~24節、「全ての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けるには程遠い存在です。しかし、キリスト・イエスを信じるなら、罪の無い者と宣言してくれるのです。このキリスト・イエスが、恵みにより、無償で私達の罪を帳消しにしてくださるからです。」
第2のコリント人への手紙第5章21節、「神は、罪を知らない方を、私達の代わりに罪にされました。それは、私達が、この方にあって、神の義となるためです。」
だといって悪いことをしても良いと言う事ではありません。アダムとエバに与えられた罪が無罪となったのです。勘違いをしてはいけません。
ですので黄金律(ゴールデンルール)に記されている事が、私達が神からの愛を受け入れることであり、「神の恵み」に素直に生きる為の言葉なのです。
マタイの福音書第7章12節、「それで、何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにしなさい。これが律法であり、預言者です。」
ルカの福音書第6章31節、「自分にしてもらいたい望むとおり、人にもそのようにしなさい」
これが悪くない奴らが最後の審判を受けたときに、無罪になるための、人生の生き方なのです。無罪になるように一生懸命神の言葉を実行して、成功してください。
そして神に感謝、感謝、感謝です。