![]() | 太陽の帝国 特別版ワーナー・ホーム・ビデオこのアイテムの詳細を見る |
![](https://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/fine_sim.gif)
この映画については、2年前にもこの記事でちょっと感想を書きましたが、主演俳優クリスチャン・ベイルにはまってしまった現在、改めて感じたことを書き連ねてみます。
まず、クリスチャン・ベイルという俳優を語る上で、この映画は外せません。
と言うより、『太陽の帝国』を抜きにして彼は語れません。
主人公ジェイミーは、11、2歳にして親から離れ、それから約3年間を一人で生き抜いて行きます。その年齢にして、彼は全てを見てしまいました。
そしてそれは、演じるクリスチャン・ベイルも同じだったのではないでしょうか。
彼はナガタ軍曹(伊武雅人)言うところの「difficult boy」です。あの頃も、そして今も。
13歳にして、彼は既に名優でした。
「達者な子役」なのでも「子役としては巧い」のでもなく、また「動物と子役には敵わない」という意味で、大人の共演者たちに勝っているのでもありません。
稀代の演技者が、その時たまたま13歳という年齢だった。そういうことです。
クリスチャン・ベイルの演技からは、その時の実年齢が何歳であれ、遥か未来から(たとえば60歳くらいの彼)の視点でその役を演じているような感じを受けることがあります。
役に対する彼の独特な距離の取り方は、この映画に於いて既に現れていて、ここでのクリスチャンは、自分が「少年」であることさえ客観視し、突き放しているように見えます。
それは、自分が可愛いこと、愛されるべき存在であることを自覚して、「望まれる子供像」を提示する子役演技とは一線を画するものです。
それでも、映画の前半部分で何不自由ない生活を送るジェイミーや、収容所の大人たちの間をはしっこく抜け目なく駆け回るジムの演技には、微妙な感情の揺れや、そこに「その子」が生きて存在していることが余す所なく表現されてはいますが、まだ「達者な子役」の範疇であるかも知れません。
しかし、例の「空のキャデラック」=ムスタングによる爆撃を見ての爆発的な狂喜の表現や、それ以降の南島への移送(「わたしは愛された、君は愛された……」の呟き)、魂が天に召される不思議な「光」との遭遇、ほのかな友情を感じ合っていた日本の少年兵との別れ、ベイシー(ジョン・マルコヴィッチ)との訣別、そしてあのラストに到るまでの一連の演技の凄みはどうでしょう。
特典ディスクのメイキングを観ると、ムスタングのシーン撮影に当たって監督は、「役者がちゃんと演技してくれれば一回で撮り終えられる」と語っています。
もちろんその「役者」とはクリスチャン・ベイルに他なりません。
その時この少年をを取り巻いていたのは、セットをフルに使い、飛行機を飛ばし、大量の火薬を使い、大勢の出演者やエキストラ、そしてスタッフを動かすシーンの成否が、彼ひとりの演技にかかっているという身震いするような状況です。
さすがに最初のテイクでOKは出なかったようですが、この状況で監督の演技指導に応えるクリスチャンは、やはりすごい役者です。
肉体的なことを言うと、この年齢この作品からして、彼は乏しい食糧を貪り食ったり、泥水の中を這い回ったりさせられていたんですね。
そりゃ、『Rescue Dawn』で(以下ちょっと気持ち悪い話なので伏せます)虫食ったりヘビ食ったりしても驚くには当たらないよ……と思ってしまいます。
ジェイミー=ジムの「相棒」として面倒を見つつも、いいように彼を利用したり騙したりする「食えない大人」であるアメリカ人ベイシー。
ジョン・マルコヴィッチにしては淡白な演技に見えますが、それは年若い主演俳優を、一人の役者としてちゃんと立ててくれているからかも知れません。「怪優」と見なされがちですが、基本的にはきちんとアンサンブル演技のできる人ですから。
その他の大人たちとしては、ドクターが『炎のランナー』のリンゼイ卿の人だと今更気づいたり、ベン・スティラーが出ているらしいとか(ベイシーの仲間?)、ミランダ・リチャードソン、二十年前から全く見た目が変わってないなぁと思ったりとか。
「演技派」としての評価が確立した現在のクリスチャンを、スティーブン・スピルバーグ監督が再び自らの作品に出演させてはくれないだろうか、という声もよく聞きます。
それが実現するなら、私も是非観てみたいと思います。が、その反面、そういうことはあり得ないだろうという気もするのです。
なぜなら、この作品に於いて、スピルバーグはクリスチャン・ベイルという俳優の全てを既に引き出しているのだから。クリスチャン・ベイルという俳優によって描けることは、全て描き尽くしてしまったから。
スピルバーグ作品に於ける「自転車」の象徴性は、よく指摘されることですが、この映画のそれは、宇宙から来た友達を乗せて、天高く飛び上がったりはしません。
誰もいない屋敷の中、また無人となった収容所の中を、ジェイミー=ジムはたった一人で自転車を乗り回します。
それはとても自由で、全能感に充ちて、でもとても寂しいことです。
そしてそれは、どこかクリスチャン・ベイルという人を象徴しているようにも思えるのです。