公開中の映画『プレステージ』ですが、出演者たちの演技について述べようとすると、どうしても作品の種明かしや謎とされる部分について触れざるを得ません。
それでも、ロバート・アンジャー=ヒュー・ジャックマンに関してはネタバレ回避も可能ですが、アルフレッド・ボーデン=クリスチャン・ベイルの演技に言及するに当たって、設定の根幹に触れずに済ますことはまず不可能です。
という訳で、以下の文章は超ネタバレとなりますので、映画未見の方は、この先絶対お読みにならないで下さい。
そうは言っても、勘のいい方なら、本日のタイトルを見ただけでおわかりになってしまうかも知れませんね。
クリストファー・プリースト原作でボーデンの章を読んだ時、私がまず連想したのが『悪童日記』に始まるアゴタ・クリストフの三部作でした。
「ぼくら」という人称で日記を書き続けた兄弟とその転変の物語もまた、多くの謎や「騙り」を秘めたものでした。
原作や映画をご覧になった方なら、ボーデン双子設定は既にご承知のことと思います。
ファロンがボーデンの替え玉であることには、初見時から気づく方もいるかも知れません。
しかしながら、それが単に舞台上の「プロフェッサー」としてのトリックのみならず、日常生活に於いてまで始終入れ替わっている、本当の二人一役(いや二人二役か?)であったことまでは、なかなか考えが到らないのではないでしょうか。
映画をUS版DVDで観た時には、私の関心は、ストーリイを追うことや原作をどのように脚色しているかの方に向いていました。
それで、映画館での再見時には、もっぱらクリスチャン・ベイルが双子をどのように演じ分けているかに注目したのですが、そのトリックを知った上で観直すと、傲慢で挑発的な方と、彼より温和なもう一人と、それぞれ性格の異なる双子を、クリスチャンがはっきり判別できるように演じていることがよく判りました。なおかつ、一度だけでは見分けられないような細心の注意を払って。
前者をボーデンA、後者をボーデンBと呼ぶなら、オリヴィアを愛したのがA、サラを愛して娘をなしたのがBです。
サラや娘ジェスと家庭生活を営んでいたのは当然「アルフレッド・ボーデン」である筈だし、またボーデンAが、オリヴィアには自らを「フレディ」と呼ばせていたことから、実は「アルフレッド」はBの方だったと推理できます。Aの方は、原作に従えば「フレデリック」が本名ということのようです。
更に言うと、アンジャーの妻ジュリアの死を招いたのがA、葬儀に現れたのはBの方だと思われます。
「ボーデン」がその時のことを「憶えていない」と言うのは、アンジャーと観客には、精神的な動揺のせい、または単なる誤摩化しとしか見えませんが、実は彼には本当に与り知らぬことだった訳です。(このシーンだけでなく、実はボーデン兄弟はどちらも全編通じて「嘘」は言ってないんですよね…)
後に「弾丸掴み」のステージで、アンジャーの問いにまたも「憶えていない」と答え、指を失う羽目になったのはBで、一方、サラの前でその実演をして見せたのは、多分Aの方です。
そういう訳で、アンジャーの憎悪を直接浴びてしまうのは、常におとなしいBの方で、それに対して報復を企てたり、挑発行為に出たりするのがAなんですね。
つまりアンジャーの鳥かごトリックを台無しにしたり、アンジャーの脚に重傷を負わせた上、ルート氏を宙吊りにして恥をかかせたりしたのはAの方です。
こう列挙すると、ひどいヤツだなフレディ。まあアンジャーのやってることも、それに劣らずえげつないですが。
でも、そのシーンのボーデン(クリスチャン)、発声も「舞台」風で、どの場面よりも颯爽としているのが(それがアンジャーのステージのパロディにもなっているところも)、また憎たらしかったです(笑)。
ボーデンB(アルフレッド)としては、自分たちの(偽装をも含めた)生活が守れればそれでいい訳で、「アンジャーにはかまうな」と再三忠告していたようです。
にも関わらず、アンジャーの憎悪をかき立て、ストーカー行為その他の非道な行ないを誘発したのは、常にアンジャーの先を行かなくては気がすまなかったボーデンAだったんですね。
アンジャーがテスラ装置を使った「瞬間移動」を初めて成功させた時、観客に紛れて偵察に行っていたのはボーデンBでしょう。
そう思う根拠は、その舞台を観る彼が涙を浮かべているように見えたからです。それは決して感動の涙などではなく、(装置の秘密は判らないまでも)アンジャーの踏み込んでしまった領域のただならなさ、おぞましさに気づいたがゆえのものだと、私は思います。だから彼は、「あの男にはもう関わらないようにしよう」と言うのです。
が、その言葉を無視し、舞台裏にまで秘密を探りに行って、アンジャーの「死」に遭遇、殺人容疑で収監されることになったのがボーデンAだったという訳です。
彼が兄弟の忠告に従い、余計なことをしなければ……または、ジュリアの葬儀の時に自ら出向いて謝罪するか、いっそアンジャーと正面から大喧嘩でもしていれば、事態はあそこまでこじれなかったろうにと思います。
Bにとっては奥さんと娘と双子の片割れ、彼らと共に過ごす生活(及びもちろんそれらと一体化した仕事)が何より大事だった訳で、アンジャーに執着していたのはAの方です。オリヴィアを愛したのも、彼女がアンジャーのものだったから欲しかったのではないか?と勘繰りたくなるほどですが、ではアンジャーが執着したのはどちらのボーデンだったんでしょうね?
ボーデン(A)の最期の言葉「アブラカダブラ」は、周知の通り奇術師のかけ声であり、彼(ら)の最後の大仕掛けを発動させる呪文でもありましたが、Wikipedia によれば、語源に関する仮説は幾つかあるようです。
彼が口にしたそれは、「私が言うとおりになる」であったか、「この言葉のようにいなくなれ」だったのか……
消失の呪文と共にフレデリックは消え、アンジャーの前にはアルフレッドが出現する。
兄(または弟)の中に彼は消失し、ただひとりの全き「アルフレッド・ボーデン」が残る。
その呪文によって、彼らは本当に同一の存在となった。
──そういうことでしょうか。
話をクリスチャンの演技に戻すと、双子の明確な演じ分けは、もちろん彼らの性格の違いを際立たせるためですが、初見時の観客にも作中人物にとっても、ボーデンが単に「感情の揺れが激しい男」、それでいて「肚に一物ありそうで何を考えているか判らないヤツ」としか見えない、目眩ましとしても働いていました。
最も身近なところでそれに振り回されてしまったのはサラですが、彼女とボーデン(A)の激しい口論を娘ジェスの耳に入れないよう、ファロンがそっと連れ出すシーンは、「本当の父親」であるがゆえの気遣いだったんですね。
(もっともジェスのことは、ボーデンAもちゃんと愛していたみたいですが。「おまえ(B)の娘なら俺の娘も同じ」っていうことだったんでしょうか。結局、無条件で愛せるのは血の繋がった存在だけ、という人たちだったのかも知れません。)
それらに限らず、本当に細かい所やさりげないエピソードに、まだまだ「実は…」が隠されていそうで、あと何回か観て探し出したい欲求に駆られます。
作中に描かれるボーデンの言動はすべてダブルミーニング(文字通り!)で、それを成立させているのは、時系列通りでない脚本や演出の力でもあるでしょう。しかし、本当にちょっとした仕草や僅かな表情の変化に到るまで、クリスチャンの演技は完璧です。
名声と復讐のため、「夜ごとの死」を自らに課すアンジャー。生活そのものまで眩惑となす人生を維持し続けるボーデン。また、あんな装置を作ってしまったテスラに到るまで、作中人物は様々なオブセッション、換言するなら「狂気」を体現していますが、それにもまして、こういう役を完璧に計算し、構築してしまうクリスチャン・ベイルという役者の底知れなさが、私には何より怖ろしいです。
そしてまた、あれだけ細部にわたって緻密な計算をしながらも(ご本人いわく「ジグソーパズルのピースをはめ込んで行くような作業」)理に落ち過ぎず、生きた人間としての描写になっているのが、彼の凄い所で、やはりそんじょそこらの「演技派」とは次元が違うとしか言えません。
そりゃこの人にオーディオコメンタリなんてやらせちゃいかんよなぁ……と思いました。
という訳で、本日も行って来ます。また新たな発見があるといいな。
注意!:この下↓コメント欄に頂いた皆様からのコメント及びお返事もネタバレ満載につき、本編未見の方はうっかり覗いてしまわないよう気をつけて下さい。
私は原作も未読、DVDも買わず、Qさんが予告編に超ネタバレ映像があると
おっしゃってたので予告編も見ないまま、初日初回に観に行ってきました。
映画の途中では、アンジャーとボーデンのえげつない争いぶりに
だんだんつらくなってきて、
「DVDは買わないかもなあ」と思っていたのですが、
最後の、ボーデンが双子だったという種明かしに
「もう一回見たい!」という気持ちになりました。
DVDも間違いなく買います(笑)。
Qさんが↑で解説されているとおり、本当にクリスチャン・ベイル氏の
演技はすばらしかったですね~。
私も種明かしまではアンジャーと同じように、
ボーデンはちょっと二重人格の気があるのかなあと思ってました。
一回見ただけですのでQさんのような解説は私にはとても無理ですが、
ボーデンAとボーデンBの違いに、初見でもうっすらと気づくような、
それでいて完全にそうとは気づかせない、見事な演技だったと思います。
この種明かしがわかったあと、サラの「今日はウソの日」の
セリフの意味がわかって切なくなりました。
この映画の唯一の救いは、穏やかなボーデンBが生き残ったことでしょうか。
げ 映画を一回見ただけではボーデン双子説は全然思いつきませんでした(だってアンジャとルートは赤の他人だけどそっくりという設定だったし)。
それはさておき、「ファロン」も途中から入れ替わってたということですよね?サラ懐妊ニュースのときの「ファロン」はボーデンAのほうで、「いつのまにか替え玉に乗っ取られてた」とルートにぼやいていた前あたりからBが「ファロン」役をあてがわれていたということで。…一緒に生活していたからジェシカもファロンに懐いていたのかなーなどと思っていて、全然わかってませんでした。
そう考えると、修業時代、中国人奇術師にインスパイアされて早くもボーデンBが替え玉作戦に着手していて、当時奇術に関してド素人なAの結び方がへたくそでほどけなかったということなら、あの泥試合のきっかけがすごくよくわかる気が(Aが悪意でほどけない結び方をしたんだったら、さすがに温厚なBも即縁を切るのでは)。
AとBの見分けがついていなかったアンジャ、奇術師 "Professor" に愛はあっても、案外ボーデン個人に愛がないかも。アンジャとボーデンBは奇術バカ(←褒め言葉)で、ボーデンAは基本的にボーデンBストーカー、ボーデンBを凌駕するためにアンジャも凌駕しようとしてアンジャストーカーにもなったという印象になりました。
お久しぶりです。いつもながらお返事が遅くて失礼しました。
ボーデン兄弟が維持しようとする「秘密」に巻き込まれて、アンジャーやサラは人生を狂わされてしまったんですね。早くに見切りをつけたオリヴィアは賢明だったのかも。
温和な方のボーデンも、妻や娘にさえ真実は明かさず、片割れがアンジャーに仕掛けるあれこれを結局は黙認していた訳だから、決して「いい人」ではないと思うし、あの終わり方も全然「ハッピーエンド」ではないけれど、父娘が互いを失わずに済んだこと「だけ」は良かったのかなぁ……とか、いろいろ考えてしまいます。
>だかつ様
コメントありがとうございます。
双子については、アンジャーの台詞にはっきり「Twins!?」とありました。
「アルフレッド」と「ファロン」も固定じゃなくて、何回か(もしかして公演ごとに?)入れ替わっています。
サラに子供が出来たと聞いたのは、その前、彼女に「弾丸つかみ」を実演してみせたボーデンA(フレディ)で、「ファロンに教えてやろう」との台詞から、その時のファロンはB(アル)だったと思われます。
ルートと会っていたのはフレディで、あれは素直な(?)ぼやきと言うより、ルートがアンジャーの意志を外れ、主導権を握ろうとするように焚き付けていたのだと思いますよ。
双子=替え玉トリックについては、少年の頃からそうしていたようで(原作によると、出生届けや写真まで偽造して)、だからこそ、ただ一つのトリックのために人生をも偽装する中国人奇術師の秘密を見抜けたのではないかと。
あの時、アンジャーと一緒にいたのは(あのエラそうな態度から)フレディの方だと思います。
ところで、原作だと「フレデリック」じゃない方は「アルバート」が本名だそうで、二つの名前を合体して「アルフレッド・ボーデン」になったということらしいですが、映画でもそうなのかは判りませんでした。
サラと「鳥かご」トリックを見抜いた甥っ子に小鳥を見せるのは、もちろん「アル」の方ですが、『Bale探検隊日誌』のファルコさんによると、甥っ子が「But, where is his brother ?」と訊ねた時のボーデンの表情に注目すべし、とのこと。
確認すると、「トリックを見抜かれて虚をつかれ、苦笑した」ように見えて、実は一瞬自分たちのことに思いを到らせてしまった、その複雑な感情まで表現していたんですね。
そこまで演じていたのかクリスチャン!と、ますます彼の天才ぶりに感嘆させられました。