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おれたちみんなのジム・トンプスン

2005-12-29 13:17:02 | 本・マンガ・雑誌
ジム・トンプスン最強読本

扶桑社

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12/17付エントリーで、ミステリ系の小説の中でも、いわゆる「ノワール」系は苦手だと書きました。
元々が推理主体の本格ミステリファンだし、もっと好きなのはリッチーに代表されるような「軽み」と「切れ」のある短編なので、とにかくやたらと描写がエグイだけだったり、登場人物たちの鬼畜な行為のみを以て、人間のダークさを押し付けて来るような作風には辟易します。

その中で唯一の例外がこの人、ジム・トンプスン(1906~77)。
現代においてこそ「安物雑貨店(ダイムストア)のドストエフスキー」なる呼称で再評価され、代表作『内なる殺人者』(河出文庫)もしくは『おれの中の殺し屋』(扶桑社ミステリー)は、メルヴィルやポーやフォークナー、スタインベックの代表作にも比肩すべき、アメリカ文学史上の傑作とまで言われていますが、執筆発表当時としては、その殆どの作品は、読み捨てペーパーバックでしかなかったものです。
それらの本の中には、当時の読者層に合わせたかのように、現代の目で見ても十分下品で乱暴な文章による暴力描写や、セックスに関するあからさまな表現もふんだんに出て来ますが、同時に、読者に対する悪意からかジョークなのか、「おまえらにこれが読み解けるものか」と言わんばかりに、さまざまな仕掛けや作者自身の教養も、ひそかに盛り込まれています。
当たり前の犯罪小説やノワールのつもりで読んでいると、いつしか読者は足元をすくわれ、とんでもない所に着地させられる、もしくはどこにも着地できない、という事態に陥ることでしょう。

実は、私が初めて彼の作品を目にしたのは、『内なる…』と並ぶ傑作と言われる(もちろん当時はそんなことは知らず)『ポップ1280』だったのですが、ミステリマガジンに分載されたそれの最終回を読み終えた時の、「いったい自分が読んでいたものは何だったのか」と思わず問いたくなる、呆然と立ちすくむような感覚は忘れられません。
これや『内なる…』は、サイコ小説の文脈で語られることも多いのですが、サイコパスの視点、もしくは一人称で語られて行く小説というもの自体がめったにない上(しかも途中まではそれと気づかれることなく)、その文章の内的緊張を維持して行く筆力も、凡百の作家には真似できないものです。

行為のエグさ、残酷さではなく、人間の精神の暗黒面を極限まで描き尽くし、破滅の中、からっぽの空間に悲痛な祈りが立ち上って行く-----
トンプスン作品のラストは、そこに展開しているのがどれほど狂躁的な状況であっても、いつも悲しいほどに静謐であり、そして読者を突き放して断ち切られるかのようです。

「おれたちみんな」とは、『内なる…』のあまりに有名な最後の一文です。
二度繰り返されるこの言葉。
悪意のように。絶望のように。祈りのように。

おれたち、みんな。

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