難病、中咽頭癌の死3からの続き
リハビリ病院に着いてから、すぐにリハビリ計画が立てられ、これから長くて5ヶ月はここでリハビリとなる。
5ヶ月が過ぎた頃には、両杖をついてサポート付きで歩くことができるようになっていた。
でも、4ヶ月を過ぎた頃から、リハビリペースが落ち、たかちゃんは精神的にしずむことが多くなった。からだが思うように動かすことがつらいようであった。
大学病院の難病科では、この病気のせいであるとの話だった。
リハビリ病院での入院は5ヶ月のところを、家のお風呂やトイレのリフォームで、1ヶ月延びだ6ヶ月の入院となった。
こんな大変な時でも、夕食後のリハビリ仲間とお茶をする友人6人もできていた。
誰でもすぐにとけ込むことができる、たかちゃんならではのことでした。
その方たちとは、今も私に電話がかかってくる間柄である。
9月に退院となり、大学病院からリハビリ病院への8ヶ月に及ぶ入院は終わった。
たかちゃんも私もどんなに待ちわびたことか、、
仕事は息子とともに自営業をしていたので、息子がどうにか耐えて頑張ってくれた。
この先は、自宅でできる仕事のみで、
すっかり変わってしまった状況でやっていくしかない。
それでも家族でやっと落ち着いてやっていけると思っていた。
退院して2ヶ月経った頃、いつもの大学病院の通院で、喉の調子が悪い、体調が悪いということを訴えた。
また耳鼻咽喉科に行き、内視鏡で見るがなんともないと言われた。
用心して消化器科でも診てもらおうと胃カメラをすると、その消化器科の医者が
扁桃腺になにかあると言う。
再び耳鼻咽喉科に行き、やっと見えるくらいの小さな腫瘍があるということで、細胞の検査をするために取って、2週間後に結果がわかるとのことだった。
2週間を待たずに、その耳鼻咽喉科の医者から自宅に電話がきた。
癌であることが告げられ、それから全身の炎症をみるPET検査、CT.MRIの検査。
たかちゃんは自宅での移動は、車イス。トイレや入浴は一人で行えていた。
いつも、私が運転をして大学病院の一時間弱の道のりは、車イスを車に積んで、いつも一緒だった。
検査結果を聞きにいくと、
腫瘍マーカーはそれほどではないが、中咽頭の4センチ癌が見つかり、肝臓、骨3ヵ所に転移している末期であることが告げられた。
それに対して、たかちゃんは顔色を変えずに、どのくらい生きられるかを聞いていた。
医者からは余命は数ヶ月単位との返答があった。飲み薬の抗がん剤のみが唯一のものとも。
たかちゃんは、放っておくとどうなるかと聞くと、腫瘍が大きくなり腫瘍が開いて血まみれになり痛みがあると。
たかちゃんは、飲み薬の分子標的の抗がん剤を飲むことをお願いするが、それも三回飲んで体調が悪くなりやめてしまった。
体調が悪いと、難病のせいで日常生活ができなくなるのをとても嫌っていた。
抗がん剤を飲んでも完治することはないなら、穏やかに生活したいこと最優先したい気持ちは、私にもよくわかった。
長く辛い8ヶ月に及ぶ入院がなかったら積極的な治療をしたのかもしれない。
抗がん剤を飲んで辛い日常で長く生きられるかもしれないが、それよりも、短くなるかもしれないが穏やかな生活をたかちゃんは選んだ。
これからが私にとって、夫の死を待っているような辛い日々の始まりであった。