あちらはいかがですか、たかちゃん?

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回想:息子 1

2021-09-30 07:16:36 | 日記
娘が結婚して家を出ていくと
息子が
◯◯(娘の名前)がいなくなって、俺はどうすればいいんだよ。」

私は、たかちゃんが亡くなってから息子の気持ち
を真剣に考えたことはなかったように思う。




息子は、4年位、家出をしていた時期があった。

息子は家族に内緒で専門学校をやめた。

「俺は料理をしたいんだ、今の学校はいやなんだ。」
この時、息子は医療系の専門学校に行っていた。

私とたかちゃんは、その学校で人の細胞、とりわけガン細胞の細胞検査士の資格をとることになるかと思っていた。



息子は14才の時、悪性縦隔胚細胞腫瘍という癌になっていた。

肺や食道、気管があるところにできた癌で、抗がん剤治療をして小さくしてから手術をして、その後も抗がん剤治療、6ヶ月の入院だった。
主治医からは、入院したばかりの時、命の保証はないと言われた。
癌は1.5キロ程の巨大癌であった。

抗がん剤治療は、一番吐き気の強いもので、動くのも食事のにおいをかぐのも嫌なほど、大変さを身近にみてきた。

息子の癌は、膜に包まれて転移がなかったことが幸いであった。

親心としては病院勤務していれば、再発があったときに、また自分の身体を知る機会にもなると思っていた。


娘からも、せっかく学校に入ったんだから、資格をとってからでもいいんじゃないのと何度も言ったが、聞かなかった。


何度も話し合いをしようとしても息子は応じず、

最後に息子は
こんな家、出てってやる。自分で生活するからもういいよ。自分のことは自分でするよ。」
と1ヶ月分だけ生活費を渡し、家を出ていった。
と言っても、生活は一人でやっていたのだから。
息子19才のときだった。


それまでにも、専門学校に通学するのに自宅からでも十分通えるのに、一人暮らしがしたいとわがままを言い、それを通していた。
息子は決まった仕送りでは足りず、毎月お金を借りに来る始末であった。

そんな中での、学校の自主退学問題。
ほとほと、育て方を間違ったのかと頭を悩ませていた。


でも、あの時、息子の一度の挫折で喧嘩をしないで、親としてもっと忍耐強く見守っていたら、もっと違っていたのかもしれない。


たかちゃんとは、息子のことで度々口論になった。
私が息子が家出をして連絡を取らないことで、たかちゃんは、
たかちゃん「母親なんだろう。」
私「たかちゃんが連絡すればいいでしょ。」
私「何かあったら、警察から連絡が来るでしょ」
とこんな調子だった。


もうすぐ20才になる息子に、自分で発した言葉に責任を持ってほしかった。


それでも心配になり、娘に愚痴っていた。
私「もうお母さんをやめたいよ。
お兄ちゃんのお母さんをやめたい。」
そう言うと、娘は
いいよ、私がお兄ちゃんのお母さんになってあげる。」

娘は時々息子と連絡をとり、息子のところに泊まりに行ったり、メールをしていた。
息子は23才までには、飲食店の店長になり、一人でアパートを借りて自活していた。


この家出から息子が帰って来るまで、たかちゃんと私と娘の生活は、とても平和で穏やかだった。
息子の事は忘れることはなかったが、このままこの生活でいいと思っていた。



そんなある日、たかちゃんが歯が痛いと歯医者に行ったが、市立病院の口腔外科に行くようにと紹介状を持って帰って来た。
すぐに、口腔外科に受診して、歯肉にできている腫瘍の検査になった。

検査結果は、早く手術をするようにとのことで、
私が「癌なの?」
とたかちゃんに聞くと
たかちゃん「癌になる前の細胞だって言ってる
その時のたかちゃんの症状は、歯の痛みと、口を開けるのが1.5センチくらいしかできなくなっていた。
だから、大きなものが食べられず、みな小さく刻んだ食事だった。

はっきりさせるため2度目の細胞検査が行われるが、2回目は私も同行した。
歯切れの悪い
「そのうち、癌になる細胞」
と言っていた。
市立病院で診てくれたドクターは
癌とはっきり言われてないのに手術はいやですよね。」


手術決定をしたのは、このドクターの上司的存在の医師で、早い段階で手術しないとあとあと大変になると、返事を急がせる。

本当に手術が必要なのかと、たかちゃんと他でも診てもらおうよということになった。

セカンドオピニオンとして、歯肉癌の第一人者のドクターに診てもらうため、ここの口腔外科で紹介状をお願いした。
ドクター「どちらで診てもらうのだすか?」
たかちゃん「◯◯大学の◯◯先生です。」
ドクター「◯◯先生ですか、、」

ちょっと変わった名字の◯◯先生を知っているんだ、そう思った。
セカンドオピニオンのドクターは、大学歯学部の口腔外科、とりわけ口の中の癌の第一人者だった。
有名なんだな、、

市立病院のドクターは、
信頼できないドクターではなかったが、手術をするのはこの先生の上司的なドクターで、

どのような手術になるのですかと聞くと、まるでブラックジャックというアニメの主人公のように、顔半分を切ってめくり、腫瘍を取るもので、、、あとあと神経障害や感覚麻痺などを考えるいやだなと思った。

それとここの病院の夜間体制は、夜間は口腔外科のドクターが常にいるわけでもなく、他の科のドクターがなんでも引き受けて診るというもの。

たかちゃんに
日本で一番っていう医者に診てもらおう。
と言った。

大学歯学部の◯◯ドクターは、
見るからに癌の様相であるというような、たかちゃんの歯肉の腫瘍を
こちらでも検査しますと、
1度目は、市立病院から持ってきた、そこで取った細胞の標本の検査
癌ではない
それから、3回の細胞採取、検査
→癌ではない

最後は隣接する医学部の耳鼻咽喉科、血液内科、
頭頚部癌科他、に細胞を診てくれと依頼してみてもらったが癌ではないという結果になり、何も治療することなく終わった。
この間、3ヶ月にも及んだ。




この検査をしている期間に、たかちゃんは息子に
一生に一度のお願いだから、家に戻って一緒に仕事をしてくれないか。」

検査を何度もしていた時のことだった。
私は、後でそれを聞いた。



✳️最後まで読んでいただき、ありがとうございます。
つたない文章、誤字脱字だらけで日本語もおかしいとは思いますが、そこは察していただけたらと思います。


















谷川岳 ロープウェイで上がって

2021-09-29 06:37:49 | 日記
2021,9,28


3時半に目が覚めたというより、もう眠れない。
天気予報を見ると、30日から天気は下り坂。
山に行こうか、、

水上ICで降りて、谷川岳ロープウェイへ。
ロープウェイで天神平へ、(天神平からリフトもあり)


緊急事態宣言解除まで数日あるのに、
申し訳ありません。





今日もワンコと一緒に。
ワンコがロープウェイに乗れることは、ずっと前に調査済み。
クレートに入れることを条件に乗れる。
ワンコ料金も支払う。

ロープウェイは空いていたし、コロナで窓は開いている。



紅葉はまだまだ、標高が高くなると所々色づいているが、10月が本格的かと。

天神平から谷川岳へ向かって、出発。
気温17度。




道はぬかるんでいた。
時々木道が整備されていたが、それでも道は平坦ではなく、転ばないように滑らないように、、





平日の火曜日。
夫婦連れよりも、女性一人や男性一人が多い。
仲間連れもちらほら。
ワンコ連れも二人いたが、シェルポ君は、好き嫌いがあるから、あまり会わないように。

シェルポ君、
山に行くと、野生の血がさわぐのか、
初めは
もう好き放題歩きたがって引っ張る引っ張る。
そのうち、私が自分について来ないのを知って、後ろを振り向き待っててくれる。


夏の終わり~秋の始まりの草木。







谷川岳は標高1977mだか中級~上級向きかな、、
頂上を目指すには、数ヵ所の岩場があって、とても危険と書いてあった

ぬかるみが多く、木道でさえ、つるつる。

時々、シェルポ君が上がれない岩場もあり、抱っこして登る。
そのうち、もっと大きな岩場。上りはいいが下りはどうする?と思ったら断念。

転ばないうちに戻ろう。
ほんと根性なしの山登りとなったけど、ケガもできない一人と一匹暮らし。


森を歩くだけの森林浴と風景と風で、十分。











谷川岳の頂上には、雲がかかっていた。
たまに見える頂上付近は、黄色がかっていたから、山頂付近は色づいているのかも、、


ワンコと一緒だと、時々話しかけられる。
今の私は、そんな会話くらいがちょうどいい。




帰りのロープウェイは、誰もいなくて貸し切り。

汗を流しに、町営温泉の谷川温泉湯テルメ谷川へ


単純アルカリの湯
露天風呂もあって、川の流れる音を聞き、緑の木々に囲まれて気持ち良かった。
時間は16時半まで。
一般は630円、町民はもっと安い。



今日の買い物
道の駅みなかみ水紀行館にて



一人分なので、丁度いい。




帰りのサービスエリアで、九州物産展をしていた。
ちょっと寄ると、


太宰府天満宮の梅ヶ枝餅。
でも、かさのやのとは違う。
地元ではこちらが人気とか、、
ブログを書いていて、また食べたいなと思っていたら、こんなところで、、



自宅には誰かが待っているわけでもないから、サービスエリアで夕食になるようなものを買ってと。



運転に疲れたら横になって一眠り、
シェルポ君も疲れたようで、帰りの車でよく寝てる。


私も、今日はグッスリ寝られるかな、、


2021,9,28
走行距離
367㎞



回想:娘の結婚 2

2021-09-28 07:20:40 | 日記
(娘の結婚1からの続き)


N君から結婚式の前に、
お母さんと一緒に同居をしたい」
と言われた。

私は、まだそんな年じゃないからと断った。
と言うよりも、たかちゃんと描いていた生活を早々に切り替えることなんかできなかったし、
N君の通勤距離が1時間半以上というのもかわいそうに思った。



N君は、高校の時、お兄さんとお父さんを亡くしていた。
N君はお兄さんと妹さんとの三人きょうだいだったが、N君のお兄さんは、N君が高校の時、交通事故で亡くなっていた。
家族皆が悲しんだが、とりわけお父さんは悲しんでだんだん元気がなくなり、家で自ら命を断ってしまったと聞いた

無口なN君は、
「高校の時は、自分は暗黒時代でしたから
と、何かの機会に話していた。
口数の少ないN君は、この時ばかりは感情をあらわにして早口に話した。
N君のお母さんは、息子を亡くして夫までも亡くして、、
どんなにか辛くて悲しくて、、
私は、夫を亡くしてまだ数ヶ月で、日々涙に明け暮れていた時期であった。

誰かの詩で、

雨が降っても悲しくて
風が吹いても悲しくて

その詩がその時の私であると思っていただけに、N君とN君のお母さんを想った。

この話を聞いた私は、N君に

「お父さんは精神の病気だったんだね、そうでもなけれはそんなことはできなかったと思うよ。」
と話した。

そうは言ったものの、私は夫のところへいきたい、そう思うことが時々あり、
娘の結婚というお祝い事があってもたかちゃんへの想いは募るばかりで。

車を運転していて、あのカーブでアクセルを踏み続けたら、たかちゃんのもとにいけるかなと思ったこともあった。


たかちゃんが亡くなって初めての彼岸の時だったか、、
姉夫婦と30年来の友人夫婦が来られた時に、どんなシチュエーションだったか忘れたが、私は、

「今まで他人を羨ましいと思ったことはなかったけど、たかちゃんが死んでしまってから、夫婦で買い物をしている人や一緒に散歩してる人を見ると、羨ましくて仕方ない」
話しているうちに泣いてしまった。

素直な気持ちを話すと
「それは無い物ねだりだよ」
と。
それは十分わかっていることだけど、その言葉を聞いてまた落ち込んでしまった。
姉はとても困った顔をしていた。

これ以来、配偶者を亡くした経験のない人に本心を話すものではないと固く思った。

日々、不安定な精神状態であった。

ただ、
残された者はこんなにも長く悲しむ日々を送ることになるのかと、N君の言葉の端々に感じ、
たかちゃんのもとへいきたいと思う度に、N君の言葉を思い出した。



N君のお母さんとは、
結納として結婚式をするホテルの和食のお店で顔合わせをした。
結納の形式は一切無しにしようということで、食事を兼ねての顔合わせとなった。

N君のお母さんは、九州弁で気さくな人であった。
いろいろ話しているうちに、
「10年経って、法事は、もう誰も呼ばなくていいかと思うとっとよ。」
と。

娘の話だと、
N君の家から歩いてすぐにN君のお父さんのお父さん、お祖父さんが住んでいるそうだ。
娘は、結納前にお祖父さんに会ってきた。
とても元気で何でもできて、お祖母さんの面倒を看てると聞いた。
N君のお母さんは、娘とN君とでお祖父さんの家に行く時、お母さんも一緒にと言ったが、強く断られたと聞いた。

お父さんが自ら命を断ったことについて、何かしら言われたことは想像がつく。
大変な思いをみんなしてきたんだと思った。

それと、

うちの孫にはじーじはいないんだなと
そう遠くない未来を思った。



娘は、自分の会社とN君の会社の中間地点に住むことを考えていたが、結局N君の会社の近くに住んだ。
大阪転勤で関連会社から、その時の年収に上乗せアップを条件に引き抜きがあったが、仕事での全国転勤を嫌い、妊娠8ヶ月まで働いて退社した。

仕事より家庭を選択した。
「大丈夫だよ。またそのうち働くから」
あっけらかんと話す娘であった。



娘が結婚をして、家をでることになると、


息子が

「◯◯(娘の名前)がいなくなって、俺はどうすればいいんだよ。」

何を言ってるの?

息子の言葉だった。









回想:娘の結婚 1

2021-09-27 06:48:30 | 日記
たかちゃんが、緩和病棟のある病院から自宅に戻って、自宅療養をしていた頃、娘から電話で、

「お母さん、今から帰るけど、◯◯さん(お付き合いをしている人)を連れて帰るね。」

ええっー、今何時よー、夜の10時過ぎだよー
娘とN君は、酔っぱらって一緒に帰って来た
酔っぱらっていたのはN君で、娘はいくら飲んでも酔うことを知らない。

家に上がるなり、娘が、
「N君、今日うちに泊まるって、全然歩けないんだものー
2階の空いている部屋に布団を敷いて、N君は挨拶もそこそこで寝てしまった。

翌日、N君は日曜日ということもあり、朝風呂に入って、うちで朝食を食べていった。
初対面が酔っぱらっている時で、一緒に朝食というのは何を話してよいものか、N君は困ったような顔をしていた。
娘の話だと、N君は無口だけど、娘の話をよく聞いてくれるらしい。
でも、N君がいるにも関わらず、私とたかちゃんと娘で、いつものガヤガヤ世間話を延々としていた。
N君が帰るときに
今度は酔ってないとき来ます。ごちそうさまでした。
と言って、N君は帰っていった。

2回目に来た時には、N君の実家の、九州の大宰府天満宮の梅ヶ枝餅を持って、また酔っぱらって娘と来た。
たかちゃんと私は、またなのー、、
と思ったけど、そのお土産を食べると、
なんておいしいのと私と二人でニコニコしてしまった。
もちの部分が、もち米100%で多分余計なものは入ってない。
母が正月に作って送ってくれた、餅のなかにあんこが入ったあんこもちの小型版の一口サイズといったところ。
たかちゃんは、N君が酔っぱらって来たことなんか忘れて、
またこのもちを頼むよ」

すっかり、N君の梅が枝餅に買収されてしまった。
約束通り、それを持ってN君はまた来た。

たかちゃんは、亡くなってから聞いたのだが、
なかなかいい人じゃないか」
と娘に話していたらしい


N君は、たかちゃんの葬儀にも来てくれた。
娘とN君は、できちゃった結婚、いや今は授かり婚と言うらしく、たかちゃんの喪が明けるのを待たずに結婚した。
たかちゃんの喪が明けることよりも、結婚式の日取りは、母が亡くなった同じ月の月末で、どうしようかと姉にも相談したが
「お母ちゃんはそんなことを気にする人じゃないし、結婚式は予定通りしていいと思うよ。」



結婚式は、
娘の陽気さで笑いあり、和やかに行われた。
まず、
娘は、誓いますかと聞かれて、まるで小学校1年生のように大声で
「はい」
そこで皆、爆笑。
おいおい、少しはしとやかにやってくれよ、、

誓いのキスでは、
「誓いのキスを」と言われて、娘は上唇をなめて待ってる姿に、みな爆笑。
あなたはペコちゃんですか?、、やっぱり、娘には厳かにというのは、ないんだな、、

娘は
「バージンロードは、ともじいちゃんにお願いする。
と言って、私の叔父に頼んだ。




たかちゃん、

一緒にバージンロードを歩きたかったね、
でも、安心して。
叔父さんが一緒に歩いてくれたよ。
たかにゃんもここにいるのかな?

娘の結婚式に、たかちゃんの写真を持って、心の中で語りかけた。











実家の墓参りと海

2021-09-26 07:54:40 | 日記
2021,9,25

たかちゃんの墓参りは、彼岸入りの20日に行った。

磯原海岸に来て、あと数十キロで私の生まれ故郷。

花園渓谷に行ってから、実家の墓参りをしよう。

私の旅は、いつも思い立って行き当たりばったり。
実家の墓参りは、いつも父と母の命日だけ。
きっと、ブログを書いたから、母を思い出して行こうと思った。



花園渓谷は、免許を取ったばかりだから、もう40年も昔に訪ねたところ。




もう少し行くと、花園神社がある。
でも、神社には興味がないのでスルー。


ここの神社の駐車場から滝を目指してワンコと散策をしようと来た。





登山口から40分で滝に着く予定。




花園神社の由来が薬師教から来ている
ことが書かれているが、、
宗教には、興味がないので、またスルー


一組、家族で来られたグループの後を、ワンコと歩いた。
ワンコと私は、山が好きだが、わたしもワンコも体力は落ちる一方なので、軽めのものしか歩けない。

登山口から15分した頃、小雨が降りだした。
山の天候は変わりやすいから、帰ろうとすると、ワンコはもっと行きたいよといやがるのを制して、下山。
一人と一匹なんだから無理は禁物。


天気予報は、雨ではなかったはずなのになー、、

仕方ない、仕切り直して、実家の墓参りに行こうか、、


お墓までは、雨がザーザー降っていて、これで墓参りはいやだなーと思って、多分兄がお花を供えているから、お花は少しだけ買って向かった。
墓に着くと、雨はやんで、
私が来たから雨をやませてくれたのかな、、
なんて都合のいいことを思った。


お母ちゃん、お父ちゃん、
あちらでたかちゃんとたまに会ってますか。
たかちゃんは寂しがり屋だから、仲良くしてね。
心のなかで、そう言った。


墓参りが済むと、
姉から梨が届いたので、お礼の電話をしていたとき、美味しい安いうにイクラ丼のお店があると聞いたから、そこでお昼を。
お店に着くまで、また雨が、、でも、お店に着くとまた雨は上がり、、

食後は、少し歩かなければ、、



ここは美空ひばりの縁のある灯台。




美空ひばりの復帰作、乱れ髪という曲はここの塩屋埼をテーマに作られた。
記念碑の前に立つと曲が流れた。

目的は灯台を登るはずだったが


コロナで閉鎖。
仕方ない、砂浜を歩いた。




思わぬところで記念碑が。

ああー、この曲知ってる。
と、誰もいないことをいいことに、一人で歌った。

俺ら岬の灯台守は
妻と二人で
沖行く船の
無事を祈って
灯りをかざす灯りをかざす

この記念碑は、

海を守る灯台守の妻として幾多苦難の道のりを乗り越えた、田中きよさん(小名浜在住)の手記が、昭和31年の婦人雑誌に載った「海を守る夫と共に20年」に。
心うたれた木下恵介監督により

「喜びも悲しみも幾く歳月」

と題して映画化されたものを記念して建立されたもの。

古い映画で、私もテレビで見たことがあるが、内容ははっきり覚えていない、
あとで調べてみようと思った。

夫婦の数がある分、夫婦のドラマがあるんだな、、

また雨が降りだした。
道が混む前に帰ろうね、シェルポ君。


2021,9,24~2021,9,25の走行距離
447㎞


今回の自分へのお土産
帰りのサービスエリアの野菜売り場で買ったもの


生の落花生、これを茹でて食べるとおいしい、
栗は今が旬だね。