(母の交通事故 2からの続き)
母は、姉のリハビリ病院併設老人施設に入ってから、
「家に帰りたい」
と何度も訴えていた。
しかし、家がどこなのかわからなくなっていた。
自分の実家の地名を言ったり、結婚当初の地名を言ったりと明らかに認知症になってしまった。
これには、事故で頭を強く打ったことが関係していた。
私とたかちゃんは、たかちゃんがリハビリ病院から退院して少し落ち着いた頃、車イスを車に積んで、母の施設に面会に行った。
母はたかちゃんに会うと、
「◯◯さん(夫の名前)とは違う。」
と、たかちゃんを怪しげな人を見るような目つきだった。
私が、(難病の免疫抑制剤とステロイドで)薬のせいで顔がちょっと変わっただけだよと説明するが、
母はずっと疑いの眼差しだった。
まるで知らない人に会って困ったような顔だった。
たかちゃんも気にしていたから、とても変な空気だった。
たかちゃんは久しぶりの外出だったが、どんな気持ちだったのかと今、思う。
帰りに誰も住んでいない実家に寄り、たかちゃんはトイレに行こうとするが、まず玄関の上がりぶちをどうやって上がるかがとても大変だった。
自宅はそういう一つ一つの動作をリハビリ病院で考えてくれて、手すりを付けたり、お風呂を床面と段差を無くすため変えたりと家をリフォームした。
この外出によって、たかちゃんの外出は制限されるようになった。
車イスでトイレに行かれるところ限定になってしまった。
車イスになって初めて、道路のちょっとした段差でも大変であることを実感した。
母が老人施設での生活が長くなると
問題になったのは、母の睡眠障害であった。
夜に眠らない日が1日おきにあり、睡眠導入剤を飲まされても眠れない夜は、母は職員エリアにいつも車イスに乗せられていた。
母にはもう相談したり、料理を教えてもらったり、そういうことはできないんだな、、
もう、もとの母ではなくなっていた。
姉は、母の朝食と夕食の時間に間に合うように出勤、退勤して、食事の介助をしたり、洗濯や衣替えなど施設にいる母の世話をしていた。
私も、時々、靴下や上着を買って持っていったり、忙しい姉に代わり、病院受診の付き添いをしていた。
母の認知症は日々、悪化していたが、
私を忘れることはなかった。
そんな月日が流れ、
たかちゃんが亡くなっても、それを母に伝えることはしなかった。
たかちゃんが亡くなってからは、ワンコを連れて、面会に行ったこともあった。
母を外に連れ出して、ワンコと一緒に散歩をした。
母は持病もあったが、だんだん身体が弱っていき、
最期は誤嚥性肺炎で亡くなった。
交通事故からちょうど2年。
たかちゃんが亡くなってから、9ヶ月過ぎのことだった。
この事故がなかったら、母はまだ元気にいたのだろうか、
たかちゃんが病気にならなければ、事故に遭うことなく3人で生活していたのだろうか、
そんなことを考えても仕方ないのに、何度思ったことだろう。
事故で過失100%の女性が謝罪に来ることはなかった。
刑事責任は重大な過失とならず45万円の支払いだった。
この金額は、ぶつかってきた女性に支払われた母の自賠責保険の550万円から、払われたと思うと、やるせなかった。
それについては兄に任せていた。
兄は弁護士を依頼していたが、最後まで謝罪はなく、
反対にその女性に電話を2回かけたら、恐喝になるとまで言われた。
私は、諦めず謝罪を求める手紙を弁護士に託したが、そのときも恐喝になるような文面に気をつけるようにと言われた。
名古屋に住む弟に、手紙に何て書く?と聞くと、
一生恨んでやると書けばいいと言っていたが、
心情はそうでも、それは書かなかった。
弁護士はその女性について教えることはできないと話していた。
探そうと思えば、民放新聞に名前が記載されていたので調べられるが、、
母が亡くなって生き返ることはないのだからと、、
彼岸だから母の写真の前に、買ったおはぎを供えたが、
母の、小豆から煮てこしあんを作り、もち米はつぶさない、あのおはぎが食べたい。
交通事故は行き当たりばったりの人とのことかもしれないが、
その人やその人の周りの人の人生を変えてしまう。
私も運転する以上は、気をつけなければならない。
たかちゃんにもおはぎを供えたが、おはぎを食べないたかちゃんは、
「なんだよ、これー、俺いらないよ。」
と、きっと言ってると思う。
私「そんなこと言わないで、気持ちだけでも受け取ってください。」
心のなかで、たかちゃんとの会話をしていた。