

真田幸村を討ったのは誰か?
真田家と徳川家発祥の地
週間ポスト 1月30日号に、NHK大河ドラマ『真田丸』の好調を受け
松代真田家14代当主真田幸俊氏と徳川宗家19代徳川家広氏との 対談記事が載っていた。
文中、徳川家発祥の地は何処か?という質問に対して、 徳川家広氏は次のように答えていた。
「三河(愛知県)の奥の奥の方。実はウチは(なんちゃつて源氏)でして、後に(源氏の氏族だけがなれると言われていた)征夷大将軍の座には就いたものの、
どうも最初は源氏というか、由緒正しい武士ではなかったらしい。」以下略。
この発言は大変興味深い。何故なら明治維新後、徳川家は三河の名門松平元康が改名して徳川家康になったというのが通説だから、本家本元の子孫が由緒正しくない出身というのだから驚きである。
維新後に出された「松平記」を正しいものとしてきた歴史屋達は、この説に対してどんな反応をするのか見ものだが、おそらく得意の「無視」が想像される。
誰か一人でも「徳川史観の見直しを」の声を上げる者が出て欲しいものだが。
真田氏の発祥の地は「上田(長野県)あたりの真田庄ですね」とこれは正しい。
次項で真田昌幸、幸村については詳細に記す予定だが、この徳川氏の発言が真実なら、「松平記」を下敷きにした現在の徳川史観が崩壊する。
なお、家康、秀忠までは、サンカの血脈だったが、三代家光からは朝鮮の血を引く仏教系になって、ここに混沌の徳川史となるわけだが、ポストでは発祥地のみで、
こうしたことは触れられていない。
松代真田家14代当主真田幸俊氏と徳川宗家19代徳川家広氏との 対談記事が載っていた。
文中、徳川家発祥の地は何処か?という質問に対して、 徳川家広氏は次のように答えていた。
「三河(愛知県)の奥の奥の方。実はウチは(なんちゃつて源氏)でして、後に(源氏の氏族だけがなれると言われていた)征夷大将軍の座には就いたものの、
どうも最初は源氏というか、由緒正しい武士ではなかったらしい。」以下略。
この発言は大変興味深い。何故なら明治維新後、徳川家は三河の名門松平元康が改名して徳川家康になったというのが通説だから、本家本元の子孫が由緒正しくない出身というのだから驚きである。
維新後に出された「松平記」を正しいものとしてきた歴史屋達は、この説に対してどんな反応をするのか見ものだが、おそらく得意の「無視」が想像される。
誰か一人でも「徳川史観の見直しを」の声を上げる者が出て欲しいものだが。
真田氏の発祥の地は「上田(長野県)あたりの真田庄ですね」とこれは正しい。
次項で真田昌幸、幸村については詳細に記す予定だが、この徳川氏の発言が真実なら、「松平記」を下敷きにした現在の徳川史観が崩壊する。
なお、家康、秀忠までは、サンカの血脈だったが、三代家光からは朝鮮の血を引く仏教系になって、ここに混沌の徳川史となるわけだが、ポストでは発祥地のみで、
こうしたことは触れられていない。
真田幸村を討ったのは誰か?
「てまえが、真田幸村の首をとってござる」
大阪夏の陣のとき西尾久作が、徳川家康の本陣へ届けに行ったところ。
その日、元和元年五月七日。
さながら赤い躑躅の花盛りのごとく、茶臼山に赤旗をひけらかして陣取った真田勢が、決戦を挑んで三度まで徳川方の本陣へ突入。
大阪夏の陣のとき西尾久作が、徳川家康の本陣へ届けに行ったところ。
その日、元和元年五月七日。
さながら赤い躑躅の花盛りのごとく、茶臼山に赤旗をひけらかして陣取った真田勢が、決戦を挑んで三度まで徳川方の本陣へ突入。
そのため家康の旗本は追い散らされ、戦場から八キロも離れた久宝山寺へまで
逃げた者さえ出る有様で、流石の家康も、
「もはやこれまでか」と何度も覚悟をさせられる程だったから、そうと聞くと、
「幸村めの首を取って、真田隊を潰滅させたは手柄、ようやった」
と、喜んですぐさま目通りを許した。しかし西尾久作に対して、
「其方は越前の忠直の家来じゃそうなが、何役を勤め居るか」と下門し、
「はい、鉄砲頭を仰せつかって居りまする」
と答えられると、家康は急に不機嫌になって吐き出すように、
逃げた者さえ出る有様で、流石の家康も、
「もはやこれまでか」と何度も覚悟をさせられる程だったから、そうと聞くと、
「幸村めの首を取って、真田隊を潰滅させたは手柄、ようやった」
と、喜んですぐさま目通りを許した。しかし西尾久作に対して、
「其方は越前の忠直の家来じゃそうなが、何役を勤め居るか」と下門し、
「はい、鉄砲頭を仰せつかって居りまする」
と答えられると、家康は急に不機嫌になって吐き出すように、
「鉄砲大将ずれに、真田幸村程の者が討てるものかよ。おおかた物陰より隙を狙って撃ち取ったか又は拾い首じゃろうに・・・・・・」
そしてすっくと立ち上がり、
「うぬがような者に、幸村の首を届けさせるは慮外。又そない口上をさせるも情けない。今は亡き結城秀康の長男ゆえ、忠直はわしの孫に当たるがとろいやつではある」と、ぷりぷりして引っ込んでしまった。
そしてすっくと立ち上がり、
「うぬがような者に、幸村の首を届けさせるは慮外。又そない口上をさせるも情けない。今は亡き結城秀康の長男ゆえ、忠直はわしの孫に当たるがとろいやつではある」と、ぷりぷりして引っ込んでしまった。
この為、越前福井六十七万石の松平忠直には、真田幸村の赤備えを撃滅したのに、その論功行賞がついになく、忠直はぐれて不平分子となり、八年後には豊後の国の萩原へ、領地を没収されて配流された。
西尾久作は申し訳ないと咽喉を鉄砲で撃って死んで詫びたという話しがある。
つまり、真田幸村の首級をあげても、鉄砲大将という身分では足軽大将なみ以下で、(この嘘つきめ・・・・・)と家康程の老巧な武将さえ、本当にしなかったというこれは例だが、それにはそれなりの理由がある。
西尾久作は申し訳ないと咽喉を鉄砲で撃って死んで詫びたという話しがある。
つまり、真田幸村の首級をあげても、鉄砲大将という身分では足軽大将なみ以下で、(この嘘つきめ・・・・・)と家康程の老巧な武将さえ、本当にしなかったというこれは例だが、それにはそれなりの理由がある。
今日でこそ、当時の新兵器である鉄砲隊の隊長などというと、さだめしその頃も、
(格好良くて、威張っていただろう)と思いたくもなるが、それはどうも幻想らしい。
しかし、当時はてんで違っていた模様である。
何故かと言うと鉄砲の入ってきた天文年間は、戦国時代で何処も彼処も城取りだった。
こうなると攻めるほうはよいが、守る側は女子供とはいえ、石を投げてでも敵を防がねばならぬ。
伝説では、アマゾンの女は、戦をする時に邪魔になるからと乳房を切り取ったといういうが、日本でもつい戦前までは(乳房の大きいのは、百姓女)と蔑まれ、旧士族の家では、現今のように大きく見せるブラジャーではなく、反対にペッチャンコにと晒し木綿を胸に巻きつけていたものである。
これは一旦有事の際には、
(格好良くて、威張っていただろう)と思いたくもなるが、それはどうも幻想らしい。
しかし、当時はてんで違っていた模様である。
何故かと言うと鉄砲の入ってきた天文年間は、戦国時代で何処も彼処も城取りだった。
こうなると攻めるほうはよいが、守る側は女子供とはいえ、石を投げてでも敵を防がねばならぬ。
伝説では、アマゾンの女は、戦をする時に邪魔になるからと乳房を切り取ったといういうが、日本でもつい戦前までは(乳房の大きいのは、百姓女)と蔑まれ、旧士族の家では、現今のように大きく見せるブラジャーではなく、反対にペッチャンコにと晒し木綿を胸に巻きつけていたものである。
これは一旦有事の際には、
「女ながらも武士の妻、まさかの時にはしめ襷、神功皇后様の雄々しき姿が鑑じゃないか、おーしゃりしゃり」
と、幕末の長州征伐の時にも、長州人の婦人部隊が編成されて勇敢に戦ったように、戦国時代でも女は遠くから弓を引いて寄せ手を悩ませた。
処が、いくら晒し木綿で締め上げても生まれつきの巨乳も居る。こういう女になると胸につかえて矢が引けない。
と、幕末の長州征伐の時にも、長州人の婦人部隊が編成されて勇敢に戦ったように、戦国時代でも女は遠くから弓を引いて寄せ手を悩ませた。
処が、いくら晒し木綿で締め上げても生まれつきの巨乳も居る。こういう女になると胸につかえて矢が引けない。
ところが鉄砲は引っ張るのではなく、前え突き出して狙い打つのだから、これなら女も男並に扱えて遜色がない。そこで九州では立花道雪の一人娘が鉄砲隊をまず組織した。
これが開戦に先立って戦場に現れて、一斉射撃で敵の鋭鋒を削いだ。
だから九州の方言て゛(最初をはな)というところから、「はなは立花」と謳われ、
娘子軍の勢揃いの枕言葉にさえなった。
今でもこれは残って伝わり、茶つみ女達の、
「はなは立花、茶の香り、ちゃつきりちゃつきりちゃつきりな」として唄われている位である。
これが開戦に先立って戦場に現れて、一斉射撃で敵の鋭鋒を削いだ。
だから九州の方言て゛(最初をはな)というところから、「はなは立花」と謳われ、
娘子軍の勢揃いの枕言葉にさえなった。
今でもこれは残って伝わり、茶つみ女達の、
「はなは立花、茶の香り、ちゃつきりちゃつきりちゃつきりな」として唄われている位である。
武士の表道具はあくまでも槍であって「槍一筋の家柄」とはいうが「鉄砲一筋の家柄」とは言わない。幕末になっても、もう刀や槍の時代でもないのに新撰組などは
偶数日は槍の稽古で、奇数日は刀の稽古となっていたが、実際には槍の稽古ばかりしていたという
から、本物の武士ではなかった彼らは、武士に憧れて近代兵器の鉄砲を莫迦にしていたため、
潰滅を早めてしまったのである。
偶数日は槍の稽古で、奇数日は刀の稽古となっていたが、実際には槍の稽古ばかりしていたという
から、本物の武士ではなかった彼らは、武士に憧れて近代兵器の鉄砲を莫迦にしていたため、
潰滅を早めてしまったのである。
さて、こうした事を考えれば、真田幸村を討ち取った人物の名は不明で、諸説あるものの本当に西尾久作なのかも知れないし、忠直隊の別の誰かかもしれない。
いずれにしろ、幸村は、激闘につぐ激闘に生も根も尽き果て、誰かに討たれたのは間違いないところだろうから、
義と信に殉じた幸村の死に一掬の花をたむけるものである。
いずれにしろ、幸村は、激闘につぐ激闘に生も根も尽き果て、誰かに討たれたのは間違いないところだろうから、
義と信に殉じた幸村の死に一掬の花をたむけるものである。