堺人はどこから来たのか
NHKの大河ドラマ「黄金の日々」では、堺が出てきて、近代的自由都市として放映していた。
しかしこれは間違いである。
実際は、明治になるまでここは、摂津、河内、泉州を含む地域で徳川幕府の直轄領だった。
しかし堺だけはエビス島と呼ばれ、隔離されていた特殊な町だったのである。
織田信長の頃は、ここに宮内卿法印の官位を持つ信長の家臣、松井有閑が奉行を務めていた。
堺は西南からの黒潮が突き当たるために、マカオから、年に一回、硝石を輸入をしていたものである。
だから有閑は織田軍団の鉄砲の弾丸を飛ばす、大切な硝石(火薬)輸入長官でもあった。
ここに住む納屋衆は、火薬の輸入もしていて、わび、の茶を広めていたため、信長は彼らを取り込むため、
茶筅髷まで結って、彼らを懐柔していて、自分の息子にまで「茶筅丸」の名さえつけている。
しかしこれは間違いである。
実際は、明治になるまでここは、摂津、河内、泉州を含む地域で徳川幕府の直轄領だった。
しかし堺だけはエビス島と呼ばれ、隔離されていた特殊な町だったのである。
織田信長の頃は、ここに宮内卿法印の官位を持つ信長の家臣、松井有閑が奉行を務めていた。
堺は西南からの黒潮が突き当たるために、マカオから、年に一回、硝石を輸入をしていたものである。
だから有閑は織田軍団の鉄砲の弾丸を飛ばす、大切な硝石(火薬)輸入長官でもあった。
ここに住む納屋衆は、火薬の輸入もしていて、わび、の茶を広めていたため、信長は彼らを取り込むため、
茶筅髷まで結って、彼らを懐柔していて、自分の息子にまで「茶筅丸」の名さえつけている。
のち、豊臣秀吉は、ここに住む千利休一派の反乱を恐れ、全国的に刀狩という武器の没収令を出している。
その後、秀吉は大陸渡海後の後顧の憂いを取るため、結局利休とその妻の恩まで、張り付けにして殺すことになる。
その後、秀吉は大陸渡海後の後顧の憂いを取るため、結局利休とその妻の恩まで、張り付けにして殺すことになる。
ついでに月代についての考察も以下にしておきます。
月 代(さかやき)
〈玉葉〉仁安2年7月8囗の条に、平時忠が出陣を思い止まって剃ったとする。
<太平記>には、大塔宮が熊野から脱走の際に、親王以下が頭の前額を剃って変装したと書かれている。
しかし、武士が兜を被るのに、前の毛をすっては痛くて冠れないから、さかやきを思いきり剃るのは武器をもたぬ身分証のようなものだったが、
織田信長が前額がはげあがってきたので月代を剃ってしまった。
このため武人はこれにならって、みんな剃ってしまい、額が痛くないように、下に太鉢巻をなし、兜をかむる武土習俗にもなった。
〈玉葉〉仁安2年7月8囗の条に、平時忠が出陣を思い止まって剃ったとする。
<太平記>には、大塔宮が熊野から脱走の際に、親王以下が頭の前額を剃って変装したと書かれている。
しかし、武士が兜を被るのに、前の毛をすっては痛くて冠れないから、さかやきを思いきり剃るのは武器をもたぬ身分証のようなものだったが、
織田信長が前額がはげあがってきたので月代を剃ってしまった。
このため武人はこれにならって、みんな剃ってしまい、額が痛くないように、下に太鉢巻をなし、兜をかむる武土習俗にもなった。
さて、テレビでは、市川染五郎の呂宋助左衛門も美丈夫だった。
これはマレーシア北部のベラク、ケランタン、バハンから南方ジョホールにまでに住まっていてた人種が、
海流によって各地へ移動したので彼らは「サカイ」と自称し、美男が多かったからである。
これはマレーシア北部のベラク、ケランタン、バハンから南方ジョホールにまでに住まっていてた人種が、
海流によって各地へ移動したので彼らは「サカイ」と自称し、美男が多かったからである。
彼らの中で、フイリッピンに渡ったのがアタエ族となった。アンダマン諸島へ住みついたのがミンコビ族になる。
インドへ行ったのがヴワダ族。人種学上では総称して、これらを「ベラク、ケランタンのセンマンダ族」という。
インドへ行ったのがヴワダ族。人種学上では総称して、これらを「ベラク、ケランタンのセンマンダ族」という。
これらの部族は海を恐れずTeAを好む人種だが、排他的でもあった。
そしてそれぞれの住居に堀をこしらえて通行を拒む風習があったという。
1850年代の堺の地図を見れば、港口からぐるりと町を囲んだ堀割に囲まれているのが判る。
だからこの堺人を日本に住んでいたから日本人とみるより、サカイ人なる存在を視野をもっと広げて見るべきかも知れない。
そしてそれぞれの住居に堀をこしらえて通行を拒む風習があったという。
1850年代の堺の地図を見れば、港口からぐるりと町を囲んだ堀割に囲まれているのが判る。
だからこの堺人を日本に住んでいたから日本人とみるより、サカイ人なる存在を視野をもっと広げて見るべきかも知れない。