国定忠治はサンカ
日本一の大親分 大前田英五郎
ホステスの源氏名は騎馬民族の専売
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国定忠治がサンカだったという裏づけできる証拠はある。
まず、上州関戸の関所に詰めていた捕り方連中に、捕物術を指南していたのは、馬庭念流の樋口道場である。
この道場で六尺棒で相手を打ちのめす訳だが、棒術の稽古をつけ、捕物の時には出動させていたのが国定村の忠治や子分たちだった。
しかしある時、関所の捕り方と「顔見知り」ということで関所を通り抜けさせてしまった。
これが問題になり「忠治を捕らえろ」となったところ、忠治は子分達と共に赤城山に立て篭もってしまった。これが関所破りだということになり、土地には居られず、
町道場が解禁となっていた江戸へ出てきて「矢留術」を売り物にして有名になった。
このころはもう鉄砲の時代になっていたが、素早く刀を左右に振って、飛んでくる矢を払い落として留める様、弾丸もエイヤッと払い落とせると宣伝して流行した。
この矢留術というのは、戦国時代に発祥したもので、鉄の盾が造られない日本では、竹や、重い大きな木製の盾が主流で、その他は死なせても惜しくないサンカ族を捕らえてきて、
竹の棒を二本持たせ、飛んでくる矢を打ち払っていた、いわば「人間の盾」でもあった。
まず、上州関戸の関所に詰めていた捕り方連中に、捕物術を指南していたのは、馬庭念流の樋口道場である。
この道場で六尺棒で相手を打ちのめす訳だが、棒術の稽古をつけ、捕物の時には出動させていたのが国定村の忠治や子分たちだった。
しかしある時、関所の捕り方と「顔見知り」ということで関所を通り抜けさせてしまった。
これが問題になり「忠治を捕らえろ」となったところ、忠治は子分達と共に赤城山に立て篭もってしまった。これが関所破りだということになり、土地には居られず、
町道場が解禁となっていた江戸へ出てきて「矢留術」を売り物にして有名になった。
このころはもう鉄砲の時代になっていたが、素早く刀を左右に振って、飛んでくる矢を払い落として留める様、弾丸もエイヤッと払い落とせると宣伝して流行した。
この矢留術というのは、戦国時代に発祥したもので、鉄の盾が造られない日本では、竹や、重い大きな木製の盾が主流で、その他は死なせても惜しくないサンカ族を捕らえてきて、
竹の棒を二本持たせ、飛んでくる矢を打ち払っていた、いわば「人間の盾」でもあった。
さて、有名な八木節に「ちょいと出ました三角野郎が、四角四面の櫓の上で・・・・・・」と今は三角四角と幾何学的に唄われ、それがまかり通っているが、八木節の始めの文句は、
「サンカ野朗」だったと「上州小唄集」に残っている。
現代になっても、弱きを助け強きをくじいたと忠治に人気があるのも、日本にはサンカの子孫が多く暮らしていて、庶民に人気があるのだろう。
この国定忠治が殺されてから、その子分の何人かが、日本に居られなくなって、はるばる米国まで渡って活躍した事実もある。
「サンカ野朗」だったと「上州小唄集」に残っている。
現代になっても、弱きを助け強きをくじいたと忠治に人気があるのも、日本にはサンカの子孫が多く暮らしていて、庶民に人気があるのだろう。
この国定忠治が殺されてから、その子分の何人かが、日本に居られなくなって、はるばる米国まで渡って活躍した事実もある。
さて、同じ上州の大前田村に大前田英五郎という親分が居て、全国に何百箇所と賭場を持っていた。
この賭場のカスリ(博打のテラ銭)の集金には、とても一人じゃ手が廻らないから、各地に住むサンカが取り立てて、大前田村へ届けていた。
また、各地で喧嘩が起こると、その仲裁もしたので、礼金としても、盆の上がりの良い賭場を貰いうけ、
そこではその土地の親分が英五郎の代わりに開帳し、儲けをそっくり送っていたという義理堅さは文久二年まで続いたというから、
各地の親分(貸元)はサンカの居付きが頗る多かったことのこれは裏書になるだろう。
さて、貸元とか代貸といっても、ヤクザの親分は金融業ではないから、盆御座の勝負は当然現ナマで、客が借金をすればホシといって、次の日の夕方の星が出る迄が、返済期限の掟だった。
ホシというのは負けの隠語だが、逆に運よく勝ち目が続けば、星の逆だから「月」といい、 「ツキが廻って来た」という。これは今でも使われている。
そして、サンカの「居つき」の「つき」も、本来はこの意味で、運よく追っ手に捕まらずに居付きが出来て、安心して瀬ぶりが張れた(河畔にテントの様な寝泊りの場所)ことを言う。
しかしこれが仏教側にかかると逆にされてしまい、「狐ツキ」だとか「ツキモノがする」と怨霊扱いにされる。
飛騨の「ゴンボ種」と呼ばれる被差別も土地では「ツキ」と呼ばれていたと、「日本の特殊」には書かれている。
ホシというのは負けの隠語だが、逆に運よく勝ち目が続けば、星の逆だから「月」といい、 「ツキが廻って来た」という。これは今でも使われている。
そして、サンカの「居つき」の「つき」も、本来はこの意味で、運よく追っ手に捕まらずに居付きが出来て、安心して瀬ぶりが張れた(河畔にテントの様な寝泊りの場所)ことを言う。
しかしこれが仏教側にかかると逆にされてしまい、「狐ツキ」だとか「ツキモノがする」と怨霊扱いにされる。
飛騨の「ゴンボ種」と呼ばれる被差別も土地では「ツキ」と呼ばれていたと、「日本の特殊」には書かれている。
何故かと言うと、サンカは昔からよってたかって苛められ、石を投げつけられてばかりいて、百姓や一般庶民はサンカの恨みをかっているので、彼らの近くを通って睨みつけられると、
ゴンボウみたいに変身すると恐れられたとある。
このことは、サンカが虐待されっぱなして、抵抗すれば殺されるので、念力で仕返しするしかなかったという悲惨さが滲み出している。
さて貸元、代貸というのは大戸の関所手前の国定村に、関所を通る札を貸す親分の忠治が住んでいて、関所を出た所には代貸として国定一家の日光の円蔵の叔父貴が構えていた。
江戸時代は、幕府の政策で関所では馬匹の通行が厳しく、従って馬にちなんでアオとかカゲ、ハナジロなどの駒札が在った。
馬を厳しく取り締まるのが主眼だから、人間の馬方は問題ではなく、駒札さえ見せれば馬無しでも通したのか実態。
東からの者は忠治親分の処で、その人体で百文とか二百文と値踏みされて、通行手形のない無宿者が駒札を借りて通り抜けていた。
一方西からの者は、日光円蔵親分が忠治親分に代わって、旅人の値踏みをし銭を取り駒札を貸す。
関所は夕方の暮七つ、今の午後五時過ぎには閉ざされた。そして関所ではその時刻までに溜まった駒札を、一枚三十文ぐらいの割合で使いに来た忠治の子分で板割の浅太郎あたりに渡す。
ゴンボウみたいに変身すると恐れられたとある。
このことは、サンカが虐待されっぱなして、抵抗すれば殺されるので、念力で仕返しするしかなかったという悲惨さが滲み出している。
さて貸元、代貸というのは大戸の関所手前の国定村に、関所を通る札を貸す親分の忠治が住んでいて、関所を出た所には代貸として国定一家の日光の円蔵の叔父貴が構えていた。
江戸時代は、幕府の政策で関所では馬匹の通行が厳しく、従って馬にちなんでアオとかカゲ、ハナジロなどの駒札が在った。
馬を厳しく取り締まるのが主眼だから、人間の馬方は問題ではなく、駒札さえ見せれば馬無しでも通したのか実態。
東からの者は忠治親分の処で、その人体で百文とか二百文と値踏みされて、通行手形のない無宿者が駒札を借りて通り抜けていた。
一方西からの者は、日光円蔵親分が忠治親分に代わって、旅人の値踏みをし銭を取り駒札を貸す。
関所は夕方の暮七つ、今の午後五時過ぎには閉ざされた。そして関所ではその時刻までに溜まった駒札を、一枚三十文ぐらいの割合で使いに来た忠治の子分で板割の浅太郎あたりに渡す。
これは翌日また、その駒札を使わせて別途収入を計るためである。
大渡の関所辺りでは日に十枚か二十枚ぐらいのものだったろうが、それでも関所役人の昼飯代ぐらいにはなったらしい。
さて、翌朝まで積んでおく駒札だから、賭場で現金代用の今のチップのように使われたのである。
これは大度の関所だけでなく全国何処でも同じで、箱根の関所を抜ける駒札は富士吉田の長兵衛親分だが、ピンは一貫匁からキリでも五百文と高かったと「富士講宿控」にはある。
徳川幕府の「入り鉄砲に出女」は建前で、箱根の関所は旅人の銀や小判を天下の権力で召し上げる他に、下っ端役人が役得で長兵衛の廻す駒札で旅人を通させるのが黙認されていた。
(箱根の関所について以下に記しておく)
「箱根の山は天下の険」という有名な歌がある。この歌は何のことは無く、箱根に登山鉄道が出来た際のPR用の宣伝唱歌なのである。
江戸時代、本当の所はここ箱根の関所は「天下の権」つまり徳川幕府の 国家権力のことだった。
日本は海外旅行をする際、現在と違って昔は出入国管理所で日本円は一万円以上の持ち出しは禁じられていた。そして余分を持っていれば没収されたものである。
箱根の関所も同じで、現代でこそ「入り鉄砲と出女の禁」とまことしやかに伝わっているものの、これは与太話で、実は徳川体制の出入国管理所であった。
日本は世界にも例の無い、一国二制度製貨幣制度で、西と東では銀本位制と金本位制とに厳然と区分されていたと以前 「手形の由来」に記したが、
此処の関所は東下りしてくる者は手持ちの銀は一貫匁以上は関所でオカミに没収された。
そこで余分の銀を持っている者は、どうせ関所で取り上げられてしまうのなら、旅の恥はかき捨てとばかり、
豪勢に使ってしまえと、箱根にさしかかる三島の宿場で(流連)いつづけして、飯盛り女郎の総揚げをして散財をしたのである。
だから東海道宿場の中では、ここ三島が大いに栄えたのである。
江戸時代、本当の所はここ箱根の関所は「天下の権」つまり徳川幕府の 国家権力のことだった。
日本は海外旅行をする際、現在と違って昔は出入国管理所で日本円は一万円以上の持ち出しは禁じられていた。そして余分を持っていれば没収されたものである。
箱根の関所も同じで、現代でこそ「入り鉄砲と出女の禁」とまことしやかに伝わっているものの、これは与太話で、実は徳川体制の出入国管理所であった。
日本は世界にも例の無い、一国二制度製貨幣制度で、西と東では銀本位制と金本位制とに厳然と区分されていたと以前 「手形の由来」に記したが、
此処の関所は東下りしてくる者は手持ちの銀は一貫匁以上は関所でオカミに没収された。
そこで余分の銀を持っている者は、どうせ関所で取り上げられてしまうのなら、旅の恥はかき捨てとばかり、
豪勢に使ってしまえと、箱根にさしかかる三島の宿場で(流連)いつづけして、飯盛り女郎の総揚げをして散財をしたのである。
だから東海道宿場の中では、ここ三島が大いに栄えたのである。
さてこうした制度のため、東西を旅する人間は小田原藩の支配する箱根の関所で両替をする際、かなりあくどい金銀交換率で、小田原藩は儲かったが、庶民には過酷な制度だった。
だから、東下りしてくると所持の銀を「どうせ箱根の関所で銀は安く叩かれて交換されるんだから皆使ってしまえ」となって、女でもを買って遊んでしまえとばかりの遊客が多く、
従って三島の宿の女郎屋は大繁盛、女も大忙しだった。
それで女達は掛け持ちで忙しく、化粧直しということにして誤魔化したから(これをマワシをとるという)
「三島女郎衆はノーエ、三島女郎衆はノーエ化粧が長い・・・・・・」といった俗謡にまでなってしまった。
そしてこの唄が幕末になると「野毛の山からノーエ」と変わって、幕府歩兵隊の軍歌となってノーエから農衛隊とか菜っ葉隊となるのである。
新撰組の土方歳三が甲陽鎮撫隊に加わって欲しいと説得に行ったが、全く一人も参加しなかったという部隊である。
この部隊はフランス軍の将校達が調練したという、当時としては最優秀部隊であった。
なおこの歌は様々に歌詞は変化したが「富士の白雪ノーエ」など、昭和の初めまで、軍隊や学生の間で広く歌われていたものである。
だから、東下りしてくると所持の銀を「どうせ箱根の関所で銀は安く叩かれて交換されるんだから皆使ってしまえ」となって、女でもを買って遊んでしまえとばかりの遊客が多く、
従って三島の宿の女郎屋は大繁盛、女も大忙しだった。
それで女達は掛け持ちで忙しく、化粧直しということにして誤魔化したから(これをマワシをとるという)
「三島女郎衆はノーエ、三島女郎衆はノーエ化粧が長い・・・・・・」といった俗謡にまでなってしまった。
そしてこの唄が幕末になると「野毛の山からノーエ」と変わって、幕府歩兵隊の軍歌となってノーエから農衛隊とか菜っ葉隊となるのである。
新撰組の土方歳三が甲陽鎮撫隊に加わって欲しいと説得に行ったが、全く一人も参加しなかったという部隊である。
この部隊はフランス軍の将校達が調練したという、当時としては最優秀部隊であった。
なおこの歌は様々に歌詞は変化したが「富士の白雪ノーエ」など、昭和の初めまで、軍隊や学生の間で広く歌われていたものである。
さて余談が長くなったが、
現代、関東博徒系ヤクザの連合体で「国粋会」傘下の、生井一家、落合一家、田甫一家、伊勢紙谷一家、佃政一家、金町一家など、江戸時代から続く名門が生き残っている。
だから秘密裏に賭場は開かれているようだが、親分や総長ともなると一晩に億単位の金を落とすと言う。
さて、「駒をまわす」というのは賭場用語だが、これは馬を曳いて来ることではなく、駒札の流用だった。
江戸期花街で客引きをするのを牛とか牛太郎といい、勘定不足で家まで取り立てについてくるのを馬とか、つけ馬という。
スナックやバーで、懐具合も忘れてつい飲みすぎ、金が足りなくなって、ホステスやバーテンが自宅に取りに来るのを「つけ馬」といい、これは現在でも使われている。
現代、関東博徒系ヤクザの連合体で「国粋会」傘下の、生井一家、落合一家、田甫一家、伊勢紙谷一家、佃政一家、金町一家など、江戸時代から続く名門が生き残っている。
だから秘密裏に賭場は開かれているようだが、親分や総長ともなると一晩に億単位の金を落とすと言う。
さて、「駒をまわす」というのは賭場用語だが、これは馬を曳いて来ることではなく、駒札の流用だった。
江戸期花街で客引きをするのを牛とか牛太郎といい、勘定不足で家まで取り立てについてくるのを馬とか、つけ馬という。
スナックやバーで、懐具合も忘れてつい飲みすぎ、金が足りなくなって、ホステスやバーテンが自宅に取りに来るのを「つけ馬」といい、これは現在でも使われている。
さて、江戸時代の花街では芸妓の名前を本名では呼ばない。(現代でも温泉場の芸者やネオンの巷のホステスも、決して本名は名乗らないのはこの時代からの習慣なのである)
騎馬系民族の限定職だったから「源氏名」とよぶのである。
昭和のキャバレー全盛期には、大箱ともなるとホステスの在籍は500人から1000人も居た。多すぎて源氏名(真由美さん、里香さん、由梨枝さんなど)では間に合わない為「星、月、花」組と分けて、
客の指名が入れば「星の123番、86番テーブルへどうぞ」などとやっていたものである。
騎馬系民族の限定職だったから「源氏名」とよぶのである。
昭和のキャバレー全盛期には、大箱ともなるとホステスの在籍は500人から1000人も居た。多すぎて源氏名(真由美さん、里香さん、由梨枝さんなど)では間に合わない為「星、月、花」組と分けて、
客の指名が入れば「星の123番、86番テーブルへどうぞ」などとやっていたものである。
これは大江匡房の「傀儡記」にも書き残されて伝わっているように、騎馬系は遊牧人種ゆえ、
農耕も漁業も一切しない為、日本列島が大陸人らによって、建国統一され始めた頃には、生産をしないため、国益に結びつかない無駄な人種として捕らえられ、
初めのころは、体制側の豪い様が死ぬとその墓の周りに埋葬の共として生き埋めにされていた。
しかし人口の少ない当時にあって、そうそう殺しても居られないので、ハニワの土器が造られだして代用されるようになる。
そして彼らは殺されない代わりに、守戸、森戸と呼ばれる陵墓の番人にされた。
奈良朝当時の古墳は、奈良朝それ自体が百済人の王朝だから、陵墓も当然朝鮮スタイルの前方後円墳だった。
これは遠くから望見すれば「丸い山」に見えたので、当て字では「円山」とも書く。
さて、狩猟民族だから、墓守として何もしない訳はない。男共は秘かに抜け出して狩に行き、何日も留守にすることになる。
一方の女達は食うためには旅の男を誘っては、今言うセックス産業におおいに励んだ。
この名残から有名なのは、長崎の丸山遊郭や、東京渋谷の円山と、全国的に花街にはこの名前が多い。
この国の建国統一時期から、体制側はお上にまつろわぬ、厄介な者達として、卑賤のなりわい者としてサンカを差別したのである。
農耕も漁業も一切しない為、日本列島が大陸人らによって、建国統一され始めた頃には、生産をしないため、国益に結びつかない無駄な人種として捕らえられ、
初めのころは、体制側の豪い様が死ぬとその墓の周りに埋葬の共として生き埋めにされていた。
しかし人口の少ない当時にあって、そうそう殺しても居られないので、ハニワの土器が造られだして代用されるようになる。
そして彼らは殺されない代わりに、守戸、森戸と呼ばれる陵墓の番人にされた。
奈良朝当時の古墳は、奈良朝それ自体が百済人の王朝だから、陵墓も当然朝鮮スタイルの前方後円墳だった。
これは遠くから望見すれば「丸い山」に見えたので、当て字では「円山」とも書く。
さて、狩猟民族だから、墓守として何もしない訳はない。男共は秘かに抜け出して狩に行き、何日も留守にすることになる。
一方の女達は食うためには旅の男を誘っては、今言うセックス産業におおいに励んだ。
この名残から有名なのは、長崎の丸山遊郭や、東京渋谷の円山と、全国的に花街にはこの名前が多い。
この国の建国統一時期から、体制側はお上にまつろわぬ、厄介な者達として、卑賤のなりわい者としてサンカを差別したのである。