新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

古史古伝考察 日本書紀と古事記は偽造されている

2020-07-01 10:50:58 | 新日本意外史 古代から現代まで

       古史古伝考察   
 日本書紀と古事記は偽造されている

 
「日本書紀」と「古事記」の二つを「紀記」とし、郷土史家だけではなく、一般の歴史屋さんも、古代史を解明するのにこの二つを引用援用して、神典とまで崇め
奉っているのが今の日本史である。何しろこれしかないのだから、それらを唯一の原点としてしまい、歴史の解明とは本来なら「零からの出発」で有るべきなのに、日本では「紀記」を一として、
 「一からの出発」をしている。極めて安易なやり方だがそれしか方法がないという のが今までの釈明である。

しかもゼロックスもなく、木版で刊行されたのも江戸期の松下見林のものからで、それ以前は筆写に筆写されてきただけで、次々に政権が交替する度に、桓武焚書や時宗焚書にされている。
古代史に新しい角度から突入して行こうとする官立大学出でない歴史研究家も居る にはいる。何とかして真実を追求してゆこうとして彼らは、
「紀記」を拠り所としている歴史書を「これは正史に対する日本の偽史である」と勇ましく、従来の古代史 研究家に警告する。しかし、文部省学校歴史に出てくるのは、
西暦712年になった という本居宣長説古事記伝と西暦720年に出来たとされる日本書紀の二つだけで ある。
しかしどちらも今見られ、参考にと引用や援用され利用されているものでは ないのである。
正史など日本にはないのだから、偽史などといったしろものではない。はっきりいえば共に創作されたもので、いわば宮本武蔵なみである。
在野の古代史研究家の鹿島昇氏は次のように言う。「日本書紀が白村江後の、新羅人による日本列島侵略隠し、という歴史偽造を行い それが明治以降、日本人の差別感情を作った元凶である以上、
書記の虚構を暴露し歴史の真相を回復しなければ問題の解決にならない。何故なら日本書紀は百済史の漢字訳にすぎないからである。」
 同じく佐治芳彦氏は言う。
「日本書紀は戦前の皇国史観の聖書だっただけでなく、戦後も古代史アカデミズムの拠り所となっいる。たとえば古代史の最長老とされている東大名誉教授の坂本太郎氏などは、
古代の有る事件について幾つかの史料がそれぞれ異なったことを述べている時は『日本書紀』の記述を基準にする、というようなことを依然として述べている。
そうした点から書記をそのままにしては、学問としての日本史はまず絶対不可能といっていい。つまり、いつまでたっても書記の魔術的な呪縛から逃れることができないからである。
ヨーロッパのある哲学者が言ったように、「魔術からの解放が科学としての学問には不可欠だからである」は正しい。
もともと官製の日本書紀とは違う系列の、いわば反体制の史書ともいうべき古史古伝の研究者の中にも、この紀記を裏付けにしたい、つまりそれらとの符号点、一致点
を見出して、それを以て自分の研究を歴史学的なものだとしたい、と思っている人々が案外多いのも問題である。
それでは古史古伝とは何かということになる。
【古史四書】と呼ばれるものには、
九鬼文書・竹内文書・宮下文書(富士高天原朝史)・物部秘史
【古伝四書】には
上記(うえつふみ)・秀真伝(ほつまつたえ)・三笠(みかさふみ)
 図象神理学の展開(かたかむなのうたひ)がある。
【異録四書】には
但馬故事記・東日流三郡誌・忍日伝天孫記・神道原典
の四書である。
明治に入ってからは「富士宮下文書の研究(原題高天原)」が、工学博士神原信一郎 著で「富士王朝」の実在を科学的に研究したものを出した。
さらに浜名寛裕が偶然に奉天城内で入手した史料で「契丹日本史」を刊行。
これらは古代史を解明する為には見過ごす事の出来ない史料である。 非常に難解でありいきなり読むとUFOかと思ってしまう。しかし是非とも一読しなければならない。
「紀記」しか認めようとしない文部科学省一辺倒の学会では、補助金で義理がけされて いるのか、師弟関係でリース時代から連綿と続く東大閥の権威なのか、
学会では これらの古伝古書と共に、浜名寛裕、神原信一郎のものはタブー視されている。
それにしても、国民の税金で喰わせて貰っている官学の教授が、勝手に学生を「弟子」だとか「門下」として、 私用しているのは大変な思い上がりで、傲慢以外の何物でもない。
 在野の研究家のものを一顧だにしない態度、巨大な象牙の塔でぬくぬくとして重箱の隅を突っつくようなことばかりは止めてもらいたい。
 優秀な人材が揃っているのだから同じテーブルについて合同研究する位の、懐の深さを望みたいものである。
それが彼ら国民の税金で養われている官学学者の義務ではなかろうか。
 以下に、在野の古代史研究家三人の著書を紹介しておきます。 評価の仕方や細部の解釈は違う点も多いのですが、
 彼らが言う「紀記は偽造されたものである」という論は大いに再考するべきである。
【吾郷清彦著】日本超古代秘史資料    (新人物往来社)
ウエツフミ全訳(六巻)  (霞ヶ関書房)
直訳ホツマツタエ     (大見屋)
直訳ミカサフミ      (大見屋)
 九鬼神伝全書       (新国民社)
【佐治芳彦著】邪馬台国抹殺の謎     (新国民社)  
 漂泊の民山窩の謎     (新国民社)

【鹿島昇著】 全訳桓檀古記       (新国民社)
神皇紀・富士宮下文書   (新国民社)
 日本王朝興亡史      (新国民社)
上記御三方の著書は(特に鹿島氏のものは)かなりの数ですが、ここにその代表的なものをピックアップしてみました。
今や古史古伝はそれぞれ覆刻にされていて活字本で読めるので、 我々素人でも勉強することが出来ます。
吾郷先生の「秀真伝」などは大変な力作ですし、立派なご研究だと思います。
「東日流三郡誌」は、難解で読んでも何だか判らない部分も多く閉口します。しかし、イロハニホヘトの鳥形文字の「リ」と言う文字などナスカの地上絵に
 そっくりなので、こうした問題の解明も重要だと思います。
(これが刊行された寛政年間という時代から見て、当時蝦夷奉行が公儀で設けられる事になったため、どうもそれへの就職したさのものであるらしいと、
思われる点があるようだが、こうした点を留意しながら読む必要があるようです)
○史書は多くの真実の中に若干の嘘が混じっている。という前提で取組む人も居れば、
○史書は嘘の中に真実が混じっている。即ち、偽造しきれなかった部分を見抜いてそこを突破口として展開する方もおります。
いずれにしろ現在出尽くしている未整理の史料を分析することが大切です。
次に「甲斐富士文書」「甲斐古蹟考」「高天原富士王朝史」を紹介します。
【甲斐富士文書】

<神皇記>が<富士子文書>の資料を繋ぎ合わせ、山守(守戸)小佐野家の分家 宮下の家に伝わっていた中から三輪義煕が纏めあげ、昭和五年に第三版を出したが
偽書とされている。しかし、 富士川に沿って古代王朝の<富士王朝>の実存を証明したのは、工学博士神原信一郎である。彼は今の東電の前身である東京電灯会社に入社し水力発電の為、
明治 四十四年より富士山の裾野の冬河水流の研究に没頭。
大正五年に三輪の富士史、つまり富士古文書を読んでからその古代文献と富士山麓の比較研究をなし、昭和五年に最初の著作として「富士山の地質と水流」を刊行し
彼は古文書を偽書扱いする無知蒙昧な歴史屋に、その専門地質学から反撃した。しかし黙殺されたので改めて「高天原」が富士なりと発表した。

富士山の活火山だった頃の溶岩によって押し流されて消滅してはいるが、此処に現実に一大王朝の在った事実を、地質学上から完全に実地証明して世に問うた。
しかし日本書紀や古事記には、富士山に木花咲耶媛が祭神として祀られている記載はあるが、大王朝が存在してボンベイの大噴火のごとく一瞬にして消滅したごとき記載は、紀記にはないからと、
 「畑違いの工学博士神原信一郎のごときが何をかいう」と歴史屋はこぞって皆黙殺してのけた。
 長州の御抱え教師のリースが東大の前身開成学校の歴史教授となったが、明治十八 年の博士号設定の際に、世界各国にある歴史学博士の称号をとても日本では認定出来ないと、あくまで反対して認めず、
「彼らは文字が読める程度ゆえ、文学博士ならば可」と妥協したと伝わるが、 「富士王朝」を科学的に立証した神原は工学博士。
流入経路を誤っているが騎馬民族の江上波夫は考古学。
 聖徳太子や大伴に凝っている梅原猛も歴史畑ではない。東大で史学会を作っているが集めた本の復刻版の刊行だけで、日本の歴史屋は全く何も勉強していないようである

【甲斐古蹟考】

<富士王朝>や<神皇記>と共にアカデミックな歴史屋からは、学力や調査能力が無い者の作なので偽書とされている、大正八年刊の須田宇十のもので、
富士王朝の実存を証明した労作である。
東日流三郡誌によれば、荒吐族よりたって日向族の神武帝の次に即位された綏靖帝の御代に、千余の捕虜を率いた向山本毘古王が、甲州の鰍沢から今の富士川の水流を山梨県側へ、
水運と水田用にと堀割りしたという向山家に伝来する古文書を解読して刊行したものである。だが原敬内閣の文部大臣中橋徳五郎の命令で、
床次竹次郎内務大臣の警保局によって発禁処分とされた。そして、 事実無根として葬り去られ偽書と太鼓判を東大史学派によって決めつけられているが、
昭和五十五年に山梨県立の運動広場にするため整地中に、方形周溝群が土中から発見された。今でも昔の儘「大宮山」と呼ばれている現在の中道町の字名宮の上で、
向山王の死後三八一年後に、崇神帝が宮殿を造営。
 王の塚には「佐久神社」の名を贈り、六二九年後の雄略二年に改葬したのが、「天神山古墳」として手つかずに現存しているのを、山梨県立図書館奉仕課長の中島茂氏さえも、
「悲しいことに山梨県内の一部の郷土歴史家が『甲斐古蹟考』を抹殺するために、この古墳をひた隠しにしたがっている。権力によって葬られた日本民族の真実の歴史が、
今日では虚構によって生活を営み地位を保たんとする中央の学者個人の指図によって故意に今もその儘葬られようとしている」と悲憤して書いている。
九州の都城にも甲斐元町の地名がある。これは<日本部落史料>の本の中にも「西暦六六三年以降、日本原住民は橋のない川へ降参せぬ者達は追い込まれ、
やむなくシジミやアサリで飢えをしのぎ、それが今の貝塚で、この食料の貝も尽きた時「カイもなや」と絶望的言葉として今に伝わる」
と出ているのでも判るように、甲斐はカイの唐語の当て字であって、九州のカイ町も山梨の甲斐も日本原住民の居住地なのである。つまり大和朝廷は畿内という定説から、
 そのためずっと黙殺され今日に及んでいるのである。
【高天原富士王朝史】
 今は太平洋側が海蝕で狭くなり日本列島は削られているが、昔は黒潮暖流が怒濤の ごとく奔流する広さだったから神原一郎博士はその実証を富士山に面した海底 噴火岩で立証した。
「紀記」が頭ごなしに徹底的に信じられていた頃。空から舞い降りてこられた日本人の祖先の天の神々は、昼は下を見て降りてこられたろうが、はたして夜間は何を目印に落下してこられたのかと、
若狭藩士あがりの伴信友を初めとしてみんなが民族の誇りというかエゴイズム思想で頭を悩ませたものである。
その結果、まだ富士山が活火山だった頃、燃ゆる火柱を目標にして、降下されてきて山頂は不便ゆえ麓に「天の王朝」ともいわれる高天原を造られたものだろうと推定を下したのである。
それゆえ、 「宮下竹内文書」というのには、富士に王朝があって栄えていた故、滅ぼされた後は先住民族が軒を連ねていた処、という意味で他では千軒と呼ばれるが、
此処では浅間(せんけん)と言うと出ている。なにしろ漢字は皆適当に当てはめ、発音が同じならよかったものだから、文字通り誤って読まれているようである。
しかし「浅間三筋の煙」というように、他ではアサマと呼んでここと区別しているのはその為である。
「天の王朝」というのは菊池山哉説では一つの大きな集団で来たごとくされているが実際は筏や小舟でばらばらに漂着してきているゆえ、富士王朝として清見潟の処に屯していたのもあったし、
東海地方のアマ郡一の江辺りにも天のはあったし、 琵琶湖畔の淡海に有ったのもやはり同じ天ので、それらが連合しあっていたので ある。
「邪馬台国群連合」と戦っていた事になっている「八幡国群連合」というのは この各地の天のの屯集していたのが、互いに連絡しあって戦っていたのを指す のである。
 「天」の高天原は静岡から東海地区そして近江に散在していたのである。
次に史料として明治二十二年から二十五年にかけて刊行され、明治三十七年に纏められた完全復刻版、
【史学会雑誌・日本歴史史資料大成】
を紹介します。これは珍奇本として古書相場で六~八十万円程ですが、 日本シェル出版からA5判箱入りで四千八百円で出たものです。
 明治二十二年より二十五年にかけ、東京帝国大学の前身である開成学校の御傭教師アドルフらによって史学会が設けられ、史学会のゼミに史学会雑誌が刊行された。
 今日の学校歴史の原点はここに始まり、そしてこれより百三十年にわたって「修身」と並んだ「修史」は一歩も出ていないのが現状である。
 故に、拠ってくる処の渡辺世祐や星野恒、久米邦武、田中義成、島田重礼、丸山正彦小倉秀貫らの史観その他を覆刻し、もって日本史が今日の如く通史俗史でしかない問題を、
改めて考究し直す為の原点の書である。

【官武通記、桜田騒動記・幕末確定資史料大成】
を紹介します。
従来の維新史は明治になってから薩長側の人々によって作成された一方的な見方、つまり、自分たちに都合のいい歴史である。だから薩長だけが美化されている。
だがこれは、薩長側でない東北の仙台の頭取玉虫左太夫が、その江戸屋敷、京屋敷 大阪屋敷の情報網によって蒐集したものを、克明に報告書にもとづき状勢判断の
為に書き連ねたもので、これを読まなくては公正な幕末史は把握できないといえる。
巻頭にはアート紙で写真版で原文掲載の「桜田騒動記」が載っているが、 故尾崎久弥氏所蔵の牛の絵の付いた絵図が挿入されていて、伊井大老が桜田門で
殺されたのは、学校歴史では「安政の大獄に憤激した水戸の勤皇の志士たちによって暗殺された」となっているが、全く勤皇などとは無関係だった事も一目瞭然に
判る。奇書として扱うより幕末までの確定史料として見るべきである。
【注】「もうごめん、食い物の恨み恐ろし桜田門」という句が書かれているのだが、この意味は、井伊家では和牛を沢山飼っていて、当時水戸の殿様は「薬喰い」と称して
牛肉を好まれ、毎年のように彦根から牛肉を取り寄せていた。しかし井伊直弼の安政の大獄を水戸斉昭は快く思わず批判した。
この為直弼は仕返しとして、その年から牛肉を送らなくなった。斉昭はこれにいたく憤慨していたので、殿が辱められたという事で、一部の跳ねっ返りの武士たちが、
直弼を襲って殺したのである。
だから、万延元年三月三日。八十三名の公刀所持者が随行しながら、自邸から目と鼻の先で殿様の首をとられたことを反省し、井伊家より、「近江彦根家お取潰し方」を、その江戸詰めの木股清左衛門などは、潔よく申し出ている位である。