新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

論考 竹内文書、宮下文書

2020-10-06 17:15:49 | 新日本意外史 古代から現代まで

論考 竹内文書、宮下文書

現在見られる、日本書紀を始めとする六国史などは、御所内に散逸してたものを、徳川家に幽閉された後西帝が、皇室を蔑ろにする徳川幕府に対して、
京こそ体制側なのだと、閉じ込められた怨念で、書き纏められたものである。これらは勿論漢字で書かれている。しかし、漢字で書かれたものだけの通史が正史ではないのである。
 富士浅間神社所蔵のものを「宮下文書」といい、茨城大神宮伝承を「竹内文書」と云います。
 〈旧事本紀〉と〈旧事紀〉は筆写で伝わっている間に、時の体制への遠慮で内容が逆になったり、あべこべに入れ換えられていますゆえ、現在の覆刻本をその儘で読んでは真実を誤るものです。ご用心下さい。
 その点、茨城の皇祖皇太神宮の竹内文書は、大和王朝成立以前の古代史研究には貴重なもので、宮下文書の底本の感がして貴重である。
故田中勝己も、ベトナム、マレーシアつまり往古は海岸まで版図だった、雲南の水田耕作移入前の、焼畑耕作時代の先住民族だった、エの民の頃の伝承なりとしている程です。
 かつて物部王国が追われて東北へと移り、神仏混合令によって「唐松寺」とされている秋田の物部氏末孫が秘蔵している処の、阿比留(アヒル)文字文書を、当主物部長照氏はモノノベ文字と主張しますが、
インドのサンスクリットに似ている点が、浜田秀雄の日本人インドールーツ説の一証明にもなっています。

八母音はクダラ王朝まで続いた古代日本語で、唐より漢字が輸入される迄の日本文字です。
 又これからして、王朝時代以降、日本原住民たちは俗称ですが、「八の者」と言われもします。
 中国式発音で五母音になる迄はずっと八母音ゆえ、だから東北や九州の方言には母音が多いのです。
 さて竹内文書で、白人根国と黒人根国をだしているのも、浜田説ではアーリア族とドラヴィダ族をさすとします。
今の新潟や秋田の十和田湖辺には現実には白色人種も漂着していた。だから、新潟美人や秋田美人の生まれる先祖ともなるのでしょう。
大国主尊の国譲り神話というのも、実態は原住土着民の敗北譚でしょう。
 つまり大国主が海中へ入る神事を、今でも出雲ではしてますが、根の国(死の国)へゆかれたとする神話と同じ、追われた話なのである。
物部文字を神代文字の一つとするならば、インドーマレーシアのサカ族と見なせば、
<山窩伝承記〉にある「仁徳陵工事に貢エタチを使役」とあるエタチは、捕えし新羅系三千人、高麗系二千人が生命を失ったとし、逃がれた者らが、後の山窩の先祖とします。
だが、9世紀から10世紀にかけ唐を滅ぼして取って代わった契丹の版図が、日本海まで広がってきた時点から、ベーリング寒流にのって続々と契丹はその人間を裏日本へ送りこんできました。
 その中の一人が蔵人頭に登用され、唐勢力が御所にはびこるのを忌まれていた時の醍醐帝は、藤原道長の伜時平を左近大将に任じ、菅原道真を右近大将に昇進させ、対抗馬になして秤にかけました。
 しかし数世紀に及んで御所に張りめぐらされていたトウ勢力は強く、彼は九州へ配流され刑死してしまう。
だから、罪なくして刑死した道真の怨霊を恐れて建てたのが、大宰府の天満宮なのである。
 狩りこみと言う言葉があるが、契丹からの菅原一派の、その数多い同類は捕われとされました。多くの人間が山中へ逃げこんで、
彼らは母国、契丹(日本史では宋)の国章である梅花のことを「天神」といって、彼らが持つ鋼鉄製の山刀に焼印を五つ押して、梅鉢紋としました。
だから、その刀をガイとよび、これが有名なサンカが持つ鋭利なウメガイになりました。日本刀は付け焼刃で、すぐ折れたり曲がるが、ウメガイは全鋼鉄製で頑丈で切味鋭い。
前代サンカ集団の中に、契丹系が入りこんできてから、優秀で文化度が高い彼らは、サンカの頭目や各地の幹部になって降参せず頑張ったのだと、竹内文書では遠まわしだがでてはいます。
契丹秘史
唐を滅ぼした文化の高い契丹

日本史では「北宋」「南宋」を「宋王朝」とする
インドやアラブ、ベトナムでは中国を今でもキタイとよぶ地域さえある。ソ連でもキタイスキーである。勿論、国連用語ではチャイナだが、石原慎太郎氏は「シナ」と呼んでいる。
この契丹(宋は)西暦618から1127年まで、一大文化国として尊敬されていた為であるが、何故か日本では匿しこまれている。
さて、「日韓同祖遡源」を大正十五年に発表して、日本と満州族それに韓国人は祖先を一つとすると発表したのが、当時陸軍経理将校だった浜田秀雄で、
かつてシベリヤで逮捕処刑されかけた時に、随行した韓国人通訳が身代りとなって銃殺され助かったのを徳としての刊行と、表向きには伝わります。
 大正十二年の関東大震災で朝鮮人虐殺をしたのが裏目にでて、併合(植民地ではない)した韓国各地で反日運動が起き、軍部内としては満州進出の為には有効適切とみとめまして刊行させた本で、
後になりますと、「五族協和」をモットーに建国された満州国の根本理念となります。
さて浜名寛祐が今は瀋陽とよぶ奉天城内で〈契丹古代史二千文字〉をみつけ、日露戦争が終ると帰国して、その当時歴史学界の第一人者とみられていた金田一京助の許へ、
これが「幻の遼の正史です」とみせるため川原衛門に伴われて、現物をもってゆき見せた処、当時の歴史学者共の大権威はパラパラ拾い読みしただけで、
「学究でもない非専門家の素人が何を言う」と笑いとばしてのけた。今日になると、彼はアイヌモシリに甘言をもってユーカラの邦訳をやらせ、都合のよい物だけを自分の名で発表し大学者とされていた男で、
北海道小樽宮の絵文字さえ判らず神主の偽作だとと発表した。後にフゴッペで同じ物が発見されてからは、馬脚を現わした人物だが、大学教授がえらかった明治時代ゆえ、浜名寛祐は断念してしまった。
 しかし浜田秀雄が譲りうけた契丹二千文字を改めて考究し、それから二十余年かけ、「地名と契丹古伝よりみた日本の紀元」全四巻を発表しました。
天文学で素人や少年が新星を発見したりしますが、歴史も非専門家の方が真実を探究しています。梅原猛や江上波夫とても歴史専攻ではありません。
 明治二十一年五月七日に学位令が施行されるに先だって、日本でも歴史学博士の称号を出そうとした時、ドイツから招聘されていたリースが頑として、
日本人には歴史学博士などの称号は無理。文字が読め学べる程度だからと主張して、文学博士しか認めなかった。
ゆえに今でも歴史学博士は日本には存在しばしない。これがせめてものルードウィヒーリースの、日本へ残した功績かも知れないと言えましょう。
 紺屋の白袴みたいな文字を読めるだけしか能のない教授は、なんの苦労や勉強もしていないが、契丹二千文字は、忌字とされていたもので、解明の苦労たるや歴史屋あたりにやれる事ではない。
 そもそも日本史で隣国の中国大陸の一大文化国だった契丹を、故意に匿してしまうのは訳があります。
大陸で唐を滅ぼし取って代わった契丹は日本海沿岸まで勢力をのばし、寒流にのって次々と人間を移してきました。時の醍醐帝が、唐から来ていた藤原時平に対抗させるため、
契丹から来ていた、その中の一人の菅原道真を蔵人に登用。
 しかし大陸の唐はなくなっても天武帝以来、平安京の御所にくいこんだ唐勢力は堅固なもので、道真は九州へ配罪とされて死なされてしまい、数多くの契丹人も唐よりの藤原氏と同じ中国人なのに、
貴種から庶民に格下げされてしまいます。「わが母国唐を滅ぼしくさった憎っくき奴ら」だからなのです。
浜田秀雄の二十余年の結晶で判りやすくなった契丹二千文字の中には鈴、鬼、木といった、今も一般に使われている当用漢字も入っていて、
鈴木、鬼沢、鬼頭、木村、木下各姓の上につきます。現代でもこの「SU」とか「KI」と発音される苗字は多く、須藤、杉田、杉村、砂田、菅原、菅、須賀、菊池、木下、菊田、木沢、北沢、清田など多く見られる。
 はっきり言って、この契丹系の人間は、頭の回転の早い、よい男や美女がこの文字のつく家に生まれでてくるのは必然の事で、そうでない者は藤原氏の王朝時代に百済系に挟まれて、
生き残れなかったからでもありましょうか。故に藤原王朝史では共に天を頂かずと、契丹のキの字も避けて通史には何も残していないのを浜田は解明したのです。
つまり奉天城内とよばれていた中国人だけの旧城内町で「契丹秘史」を彼が見つけ出したからこそ、
京大グループが伊藤博文の命令で、御国の為にとみな集めて燃してしまいました古史料が今になって、日本の起源を明瞭にするための、欠くべからざる資料として、
今や不滅の白鳥のごとく蘇ってきて、どうにか朧気ながらでも日本史のアウトラインを吾々に提示してくれるのです。
ちなみに、新総理大臣の菅氏も、れっきとした契丹系で、なったばかりの氏を批判する勢力は多い。しかし頭脳明晰な彼を「なめては」いけない。
お手並み拝見というところだろう。