日本史解説
ぬま(沼)の考察

このぬまというのは「沼」と当て字されていて、湖が一番大きく池よりも小さなものと軽視されている。
天武帝の八色下姓(やくさのかばね)の際に、大陸渡来の人間は、当時開発途上国だった日本列島の、日本原住民と違って貴種なのであると傲慢にも自尊した。
そして彼らは、渡来人として判りやすいように、ウクスツヌフムユの発音が付く姓を付けたのである。
(上田、宇佐美、工藤、楠、鈴木、菅原、土田、津島、沼田、額田、藤原、福田、村上、武藤、湯川、由良など)
そして彼らは、渡来人として判りやすいように、ウクスツヌフムユの発音が付く姓を付けたのである。
(上田、宇佐美、工藤、楠、鈴木、菅原、土田、津島、沼田、額田、藤原、福田、村上、武藤、湯川、由良など)
<景行記。訓〉には「その拠る所、沼の地なり」と、要害にある官軍の本営を、ヌとしています。<天武記・訓>では「政治の沼は、軍事なり」と、
重点であり、肝心かなめの大切な処なりとされている。
重点であり、肝心かなめの大切な処なりとされている。
発掘される銅鐸にしても<古事記>の下には「もも伝うヌテゆらくも」と「ヌテ」と呼ばれております。
「瓊音」という玉と玉が擦れ合う妙なる音も、やはり古事記では「ヌナトも、もゆらに、鳴り響く」と、尊い言葉になっております。
俗に、「ヌバタマ」と尊い黒色の敬称にも、ヌはつくのです。
つまり「ヌシ」として、「主」とか「旦那さま」という言葉になるのも、こうした訳なのです。
つまりヌにひざまずいて、頭を地面にすりつけることを「ヌかづく」というのもこの為なのです。
「瓊音」という玉と玉が擦れ合う妙なる音も、やはり古事記では「ヌナトも、もゆらに、鳴り響く」と、尊い言葉になっております。
俗に、「ヌバタマ」と尊い黒色の敬称にも、ヌはつくのです。
つまり「ヌシ」として、「主」とか「旦那さま」という言葉になるのも、こうした訳なのです。
つまりヌにひざまずいて、頭を地面にすりつけることを「ヌかづく」というのもこの為なのです。
「更級日記」の中にも「暁にヌカヅク音の聞こゆれば・・・・・・」と、さえもでてくるのであります。
奴隷にされた日本原住民は一日中を働かされていたものだが、大陸から来たエライ方であるヌの方たちは、悠々と寝そべっていた意味から「蜻蛉日記」の中にも「歎きつつひとりヌル夜のあくる間は・・・・」
とヌルを寝るとしているのは、よく知られています。
奴隷にされた日本原住民は一日中を働かされていたものだが、大陸から来たエライ方であるヌの方たちは、悠々と寝そべっていた意味から「蜻蛉日記」の中にも「歎きつつひとりヌル夜のあくる間は・・・・」
とヌルを寝るとしているのは、よく知られています。
しかし苛められた原住民の末裔は庶民と呼ばれるが、庶民の側からでは全く違う意味になります。
(自分らの国土を荒して住む)といった意から「ヌすむ」つまりヌが盗み住み、耕物を奪うからと、「ヌき」と、抜き取りの意味に、ヌの発音はつかわれ、きつく搾られることを「カンヌキ」とします。
しかし君臨していた王朝側では、己れらのにした者らに私有制を意味するヌをつけ「ヌヒ」とよび、彼らは愚鈍なりと罵倒する為に「ぬるい」「ぬるま」といった言葉を用い、これが後に「ノロマ」と転化しました。
庶民は、おかみより何かあれば直ちにデッチアゲで捕われ(冤罪)、べたべたした獄衣を着せられたのを「濡れぎぬ」と言いますから、
当時高価な絹等は庶民は高根の花だったから、絹ではなく、藤やおがらのより合わせた織物のことを指すのでしょう。
(自分らの国土を荒して住む)といった意から「ヌすむ」つまりヌが盗み住み、耕物を奪うからと、「ヌき」と、抜き取りの意味に、ヌの発音はつかわれ、きつく搾られることを「カンヌキ」とします。
しかし君臨していた王朝側では、己れらのにした者らに私有制を意味するヌをつけ「ヌヒ」とよび、彼らは愚鈍なりと罵倒する為に「ぬるい」「ぬるま」といった言葉を用い、これが後に「ノロマ」と転化しました。
庶民は、おかみより何かあれば直ちにデッチアゲで捕われ(冤罪)、べたべたした獄衣を着せられたのを「濡れぎぬ」と言いますから、
当時高価な絹等は庶民は高根の花だったから、絹ではなく、藤やおがらのより合わせた織物のことを指すのでしょう。
戦国時代になっても、木綿や絹は豪いさまの着るもので、秀吉の若い頃、小者から足軽になって、やっと藤おりの紺のお仕着せを貰って喜び、
その名を「藤吉」としたほどなのです。士分になって重しをつけて「藤吉郎」としたのは有名です。
その名を「藤吉」としたほどなのです。士分になって重しをつけて「藤吉郎」としたのは有名です。