秀吉の家臣が書いた「天正記」による本能寺の描写
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(主君の秀吉を喜ばせたい為書かれたのが「天正記」なのである)
なにしろ、この六月二日というのは目が眩みそうな暑熱厳しい日で、みな、それでなくても、蒸し暑い京の町で、うだるように悶え喘いだにしても、まだ夜明け前の午前四時では、太陽も出ていない。
前日の大雨で、本能寺のさいかちの森も、まだぐっしょり濡れた侭だったろうし、本能寺の周囲の濠も、溢れるように水が湛えられていた。
だから、本能寺の便殿も客殿も、本堂も、厩小屋の屋根も、まだ、雫をたらし、しっとりと湿った侭だったろう。
ところが<信長公記>では、
「既に御殿に火をかけ、焼け来たり候」としか、出ていないが、<天正記>では、「御殿に、お手ずから火をかけ」となる。
当時の事なので、ガソリンをまいたり灯油をかけて放火したのでもなかろう。
それなのに雨で濡れていた本能寺の各種の建物が、カチカチ叩く火打ち石で、すぐ燃えつき、たちまち堀割を越して、さいかちの濡れた生木の林を燃やし、本能寺の森を火焔に包み、四条の民家にまで飛び火して羅焼という、
そんな強度な大火に、どうしてなるだろう。これも不自然すぎはしないだろうか。
こうなると、これまでの俗説のように、
「信長が、もはや最期と思召され、本能寺に火をつけ、お腹を召された」という話は、全くのデフォルメになってしまう。
しいて自害とみたいなら、また、<当代記>にある「終(つ)いに、御死骸見え給わず」という答えに合わせるためには、硫酸の水槽へとびこんで、身体を融かしてしまうか、その屍体の始末方法はないはずである。しかし、
この時代に硫酸は、まだ日本にはない。
すると、信長は、「弓も引かず、槍も突かず、火もつけず、腹も切らず」という事になる。
だが、秀吉に対して、その家臣の大村由己が、どういうふうに書いて満足させたかという参考に、彼の<天正記>の内から<惟任謀叛説>の「本能寺」と「二条御所」を原文の侭で採録してみる。
そのデフォルメぶりを参考にと思うのは、この程度のものが、「信長殺しは光秀」の証言であるという情けない真相の解明でもある。
天正記
「本能寺の変」
惟任公儀を奉じて、二万余騎の人数を揃へ、備中に下らずして、密に謀反をたくむ。
併しながら、当座の存念に非ず。年来の逆意、識察する所なり。さて、五月廿八日、愛宕山に登り、一座連歌を催す。光秀、発句に云はく、「時は今あめが下しる五月かな」
今、これを思惟すれば、則ち、誠に謀反の先兆なり。何人か兼ねてこれを悟らんや。
然るに、天正十年六月朔日夜半より、かの二万余騎の人数をひきい、丹波の国亀山を打ち立ち、四条西の洞院本能寺相府の御所に押寄す。将軍、此の事夢にも知り召されず、宵には信忠を近づけ、
例より親しく語らい、吾が壮年の昔、唯今残る所なき果報を喜び、兼ねて万代長久の栄輝をたくみ、村井入道・近習・小姓以下に至るまで、御憐愍(ごれんびん)の詞を加へ、深更に及ぶ間、信忠は暇乞ひありて、
妙覚寺屋形に帰り入り、将軍は深閨に入りて、佳妃・好嬪を召し集め、鴛鴦(えんおう)の衾(ふすま)、連理の枕、夜半の私語、誠に世間の夢の限りに非ずや。
惟任は途中にひかえ、明智弥平次光遠、同勝兵衛、同治右衛門、同孫十郎、斉藤内蔵助利三をかしらとなし、其の外の諸卒四方に人数を分けて、御所の廻りを取り卷く。夜の昧爽(あけぐれ)時分に、
合壁を引き壊(やぶ)り門木戸を切り破り、一度に颯と乱れ入る。将軍の御運尽きるところ、頃(このごろ)天下静謚の条、御用心無し。国々の諸侍、或は西国の出張と云ひ、或は東国の警固として残し置く、
又、織田三七信忠は、四国に至りて渡海あるべき調儀のため、惟住(これずみ)五郎左衛門尉長秀、蜂屋伯耆守頼隆相添へ、泉堺の津に至りて在陣。其の外の諸侍、西国御動座御供の用意のため、在国せしめ、
無人の御在京なり。偶々(たまたま)御供の人々も、洛中所々に打ち散り、思ひ思ひの遊興をなす。御番所に慚く小姓習百人に過ぎざるものなり。
将軍、夜討ちの由を聞し召され、森蘭丸を召して、これを問へば、則ち、惟任が謀反の由を申し上げる。怨みを以て恩に報ずるの謂はれ、ためしなきに非ず。生ある者は必ず滅す、是れ亦、定まれる道なり。今更に何驚くべけんや。
弓をおつ取り、広縁を差して打ち出で、向かふ兵五、六人、これを射伏せ後、十文字の鎌倉を持ち、数輩の敵を懸け倒し、門外におよびて追ひ散らし、数箇所の御疵を蒙り、茲を差して引き入り賜ふ。
森蘭丸を始め、高橋虎松・大塚又一郎・菅谷角蔵・蒲田余五郎・落合小八郎等、御傍を離れざる面々なり。これに依つて、一番に取り合くちせ、同じ如くに名乗り出で、一足も去らず、枕をならべて打死す。
続いて進人々は、中尾源太郎め狩野又九郎・湯浅甚助・馬乗勝介・針阿弥、此の外、兵七、八十人、思ひ思ひの働きをなし、一旦防戦すと雖も、多勢に攻め立てられ、悉くこれを討ち果たす。
将軍此頃、春の花か秋の月かと、翫び給ふ紅紫粉黛(こうしふんたい)悉く、皆さし殺し、御殿に手自ら火を懸け、御腹を召されおはんぬ。
「二条御所の陥落」
村井入道春長軒、御門外に家あり。御所の震動を聞きて、初め喧嘩かと心得、物の具も取敢へず走り出でて、相鎮めんと欲して、これを見れば、惟任が人数二万余騎囲みをなす。
かけ入るべき術計を尽くすと雖も、叶はず、これに依つて、信忠の御陣所の妙覚寺に馳せ参じて、此の旨を言上す。
信忠は、是非、本能寺に懸け入り、諸共に腹切るべき由、僉議ありと雖も、敵軍重々堅固の囲ひ、天を翔る翼に非ざれば、通路をなし難し、寔(まこと)にこれ咫尺(しせき)千里の歎き、なほ余りあり。
然るに、妙覚寺は浅間敷(あさましき)陣取りなり。近辺において何方(いずかた)か腹る切るべきの館、これあるべしと、御尋ねありしに、春長軒承つて、忝くも、親王の御座、二条の御所然るべき由言上仕り、二条の御所へ案内申す。
忝くも、春宮(とうぐう)は、輦(てぐるま)に召し、内裡(だいり)に移し奉り、信忠僅かに五百ばかり、二条の御所に入る。将軍の御馬廻、惟任が残党に隔てられ、二条の御所に馳せ加わる者一千余騎。
御前にこれある人々、御舎弟御坊織田又十郎長則・村井春長父子三人・団平八景春・菅屋九右衛門父子・福住平左衛門・猪子兵助・下右(おろし)彦右衛門・野々村三十郎幸久・走沢七郎右衛門・斉藤新五・津田九郎
次郎元秀・佐々川兵庫・毛利新介・塙伝三郎・桑原吉蔵・水野九蔵・桜木伝七・伊丹新三・小山田弥太郎・小胯与吉・春日源八、此の外、歴々の諸侍、思ひ切つて、惟任が寄せ来たれるを待ち懸けたり。
惟任は、将軍御腹を召し、御殿に火焔の上るを見て、安堵の思ひをなし、信忠の御陣所を尋ぬれば、二条の御所に楯篭(たてこも)らるる由、これを聞きて、武士(もののふ)の息を続(つ)がせず、二条の御所に押寄す。
御所には、勿論、覚悟の前、大手の門戸を開き置き、弓・鉄砲前に立て、内にひかえる軍兵は思ひ思ひの得道具を持ち、前後を鎮め居たりけり。魁の兵、面もふらず、懸かりたり。
前に立てる弓・鉄砲、差し取り引き取り射退け、たじろぐところについて出で、追払ひ推し込み、数剋防ぎ戦ふ。敵は六具をしめ固め、荒手を入れ替え入れ替え、攻め来たる。味方は素膚に帷一重(かたびらひとえ)、心は剛(たけ)く勇むと雖も、長太刀・大打物、刃を
揃へて攻め入れば、此には五十人、彼には百余、残り少なに打ちなされ、御殿間近く詰め寄せたり。信忠御兄弟、御腹巻を召され、御傍にこれある面々百人許り具足を着け、信忠一番に切つて出で、面(おもて)に進む兵十七、
八人これを切り伏す。御傍の人人、われ劣らじと、火花を散らし相戦ひ、四方に颯と追ひ散らす。其の時、明智孫十郎・松生三右衛門・可成(かなり)清次、其の外、究竟の兵数百人、名乗り、取つて返し、切つて懸かる。信忠御覧じて、
真中に切つて入り、此頃稽古仕給ふ兵法の古流、当流秘伝の術、英傑の一太刀(ひとつたち)の奥義を尽くし、切つて廻り、薙ぎ伏す。
孫十郎清次・三右衛門、首丁々と打ち落とす。御近衆の面々、力の限り切り合い、内に攻め入る敵の人数、悉くこれを討ち果たす。最後の合戦、残る所なく、将軍の御伴を申すべしと、御殿の四方に火を懸け、真中に取り篭め、
腹を十文字に切り給へば、其の外の精兵、敷皮をならべ、腹を切り、「一度に焔となりぬ」将軍御歳四十九、信忠御歳二十六、悼むべく、惜しむべし。
上下万民に至るまで、皆、愁涙を滴らしけり。
さて、云わずもがなの事であるが、「兵法の古流、当流秘伝の術」「一太刀の奥義」というのは、幕末天保十四年に<新選武術流祖録>という硬派本が出てから、
弘化・嘉永の木版刷の「剣客伝」にきまって出てくる「当時の流行語」である。
従って、ここに転載した原文も、天正十年の作とは伝わるが、これまた、やはり幕末の二百七十年後のリライトもののようである。