新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

「カ」の付く女の結婚事情

2019-12-12 11:57:01 | 新日本意外史 古代から現代まで

「カ」の付く女の結婚事情

「どうしても夫婦別れをしたい」という女性が訪れてきた。知人の奥さんである。
なにしろ数年前の統計では七分十七秒に一組の離婚と聞いているが、今や無届け結婚の離婚を入れるならば、
それは届け出結婚より、はるかに離婚数が上回るそうだから驚きである。
「旧姓は」と聴くと「川崎です」と答えた。
それで言いにくかったが思い切ってはっきりと言った。
「あんまり結婚には向きませんね・・・・」と。
「何故です?」途端に顔色を変えた。
離婚する、と言いに来たくせに憤然として気色ばんだ。
「カのつく姓は、古いところでは、政治家の河崎なつ女史、神近市子、画家の桂ユキ子、女優の加賀まりこ(本名加賀雅子)、美空ひばり(本名加藤和枝)、
みんな御立派すぎて独身者ばかりですよ」と私は教えた。
その他にも、東国原と別れたかとうかず子、関西漫才界のドンと云われる上沼恵美子がいる。
更に「お金大好き」を公言して話題の加藤沙里や、政治家で舛添要一とさっさと別れた片山さつきがいる。
彼女は再婚したがその夫の姓を名乗らず、自分の片山姓を名乗らせている女傑でもある。
松田聖子(本名蒲池法子<かまちのりこ>)は神田正輝を完全に尻に敷いている。

並べた名前が良かったせいか、彼女はやや穏やかになって、犠牲者のようなつつましやかさで、暫くしてから「どうして、でしょう?」
と唇を開いた。「あなた、謡曲を知っていますか」と聞いた。
「里の父が、ずうっとしてます」と言った。
「なら<義経記>の中で・・・・安宅の渡しを越え、根上り松につきたもう、ここは白山権現に布施をたむけるところなり、
いざや白山を拝まんと・・・・とでてくるのを知ってますか。古い鎌倉時代の<元享釈書>に、
 霊亀二年に天女が紫雲から先ず姿を現し、ついで養老元年四月に天女が、われこそは天照大神の母なりと、厳かに立ったと出ています。
だから加賀の白山信仰が、昔から原住日本人には根強くて、この神の御子として、
 今日でもこの種族の女の人には”女性優位”という先入観が、宿命的にとても強いようなんです」と、怒らせないように相手の顔をみいみい話をした。
「だけど、そんな古い話と今の私と、何の関係がありますの」やはり彼女はむくれた。「いやあるんです。
千年前の犬の性格と、今の犬の性格が一緒のように、あなただって、昔の女神だった頃の御先祖の血を引いていて、
変わらないのですよ」と慌てて慰撫したところ、
「・・・・・自由の女神が立っているのは、アメリカだけじゃないんですか 」ときた。そこで、
「米国には、女神は港外に一人だけポツンと立っていますが、この日本では八百万(やおよろず)の神、
つまり昔の人口が少なかった時代では、そのパーセンテージからしても、あなたらのような純日本女性は、
たとえ器量が良くなく二号、三号の口はなくとも、みんなカミさんにはなれたのです」と、やってしまったところ、
 「皮肉なんですか・・・・・失礼な」彼女は怒って帰えってしまった。
 
すると翌日その夫が血相を変えてきた。これは面倒になったと思った。そこで、
 「君は久野と言う姓だろう。カのつく女は加藤でも河崎でも鹿島、川畑でも絶対にいかんよ」と高飛車にいうと、
「何故です。カのつく女が合わない証拠でも有るんですか?」と絡むように言う。
仕方がないから書庫から<雲陽実記>という古史料を出してきた。これには有名な尼子十勇士の先々代の尼子経久が、富田城を攻めた時、
それに協力した出雲広瀬の原住民の鉢屋掃部(かもん)一族に出した感謝状が、ずらりと掲載されている。
つまり、河本左京亮を筆頭に、賀茂氏、蒲生氏、河原氏、皮屋氏、貝塚氏と、ことごとくカ印が並んで、しかも女武者ばかりなのである。
 年代は永禄六年(1563)三月、川中島合戦の二年後の頃のものである。
だいたい戦国時代には、原住民系の女が非常に勇猛果敢だったことは、徳川四天王の本田平八郎忠勝が、
「俺が幼少の頃の女どもは、みな強くて、顔の眉毛は剃っていた。出陣する際は太い書き眉を付けたり、
妖怪のように目の周りに墨の輪を書き込んで、槍をふるって戦場を駆けめぐったり、よき男と見れば股を押し開き犯す者さえいた。
だから城攻めの時などは、手剛い城内の女を人質に取って、これを張り付け柱にかけた。質屋でも値打ちのないものは担保にとらぬように、
合戦でも女の方が強く価値があったから人質に取ったまでである。しかるに天下太平となるや、武家の女房は古式通りに眉はすり落とすが、
おとこはからっきし意気地がなくて話しにならん」
と1769年に末孫の本田忠顕が書き写したものが家伝史料の本に残っている。それを見せたところ、あまりショックが強すぎたのか、
かび臭い古書から目をさけ、げっそりしていた。そして、「姓とはこんな先天的な運命があるものですか」と、彼は驚嘆して呟いた。
 「名前の方は吉永小百合にあやかって同名の小百合と付けても、そうはゆかんが、姓だけは決定的だね」と、先ず教えてやってから、
「君の姓の”ク”というのは<とじこめ字列>の姓なんだ。つまり五、六世紀頃から次第に日本列島に、
その数を増してきた大陸系の混血勢力に対して、西暦781年の天応は(辛酉)という年号の時、原住民の純日本系がこれに決戦を挑んだのだ。
その時点、女将をもって指揮系統にした女神を奉ずる方は、軍団編成に当たって、
 秋田(ア)、加賀(カ)、佐渡(サ)、但馬(タ)、那古野(ナ)といったような郷土師団の分列隊制を取ったらしいんだ。
そして、秋田部隊の第一大隊は青森(ア)隊、第二大隊は岩手(イ)隊といったように組織したときに、必勝の信念を持っていたから、
 外来の大陸系を捕虜にして、これを二個大隊の中間に挟み込むように、逃亡を妨げるため、ウクスツヌフムユルと中間の横一列を空けておいたんだ」
「・・・・すると私の祖先は、大陸流れ者で、捕虜にされたんですか」奇妙な声をだした。
「いや進駐軍が勝ったから、捕虜は原住民系さ。しかしウクスツの字列の姓は、すでに六世紀当たりから、
外来人の姓として決まっていたらしく、当時の言葉で言うと、 ”今来漢人(いまきあやひと)”だが、天武帝の八色姓(やくさのかばね)から、
ウは宇佐、クは曲玉(くがたま)、スは菅原、ツは津連(つむらじ)、ヌは沼連(ぬまむらじ)、
フは葛井(ふじい)、船連(ふなむらじ)、藤原、ムは向井、ユは<日本書紀>に出てくる、
弓月君百二十県の人民を従えて来朝の弓月(ゆづき)、湯
葉と、大陸渡航者の姓氏になっていたから、ウクスツヌの発音が以前にあって、それをサンドイッチにして、
 原住日本系の当今のアイウエオは、それから出来たのかもしれんのですよ」
「すると僕は今度は何姓と結婚すればいいんですか。又離婚は嫌ですから」といったそこで、
「姓の上のウクスツヌなら同系だから最高です。それでなけれはその前列のイ行の女の人がいいでしょう。
だいたい君は女を奴隷にして裸にして売るような、大陸渡来の血を持つ<男尊女卑系の亭主関白型>だろう。
奥さんはこれぞ女神の生まれ変わりの<カカア殿下型>だから、これじゃ両雄並び立たずで、何かと意見が合わず、
いつか離婚になるのは当然なんだよ。まあスタイルや顔に惚れるより、この次は姓をよく確かめるんだな」と私は帰してやった。
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それではカのつく男はどうかといえば、故人で代表的人物は物書きでは「梶山季之」であろうか。
この他、加賀乙彦、開高健、柏原兵三、川口松太郎、川端康成、川上宗薫と並べてみれば、
カのつくのは男もその方では相当なものであることが判る。当代では政治家で梶山、加藤、管、なども居る。
タレントや俳優では桂 三枝(本姓河村)、長門裕之(本姓加藤晃夫)江守 徹(本姓加藤徹夫)なども居る。
これがやくざともなれば、山口組関係でも、貝本会、勝浦会、勝野組、加茂田組、加藤連合会、金町一家、金原組、可部組、
紙谷一家、河合組、河内組、川崎二代目、川下組、川村組、と数え上げたらきりがないほど多い。
ということは、カのつく姓の男は極めて精力型であるともいえる。そうしたバイタリティは陶芸の加藤唐九郎や、
「」と呼ばれたかっての名残を、「河原崎長十郎」として今に伝える前進座のボスや、加藤大介(故人)にもいえる事
で、この一族は芸名といえど、アカサの沢村貞子、タナの長門裕之、ハマの牧野ミツオと、このア横列を襲名しているし、
 河竹黙阿弥の流れをくむ座付作者や演芸評論家にもこの姓は多い。
こうした根強さは、やはり室町時代の<一条兼良日記>で、「乞食のごとし」と蔑まれた能にもいえ、
「観世元正」のようにそのまま姓に用い今に伝えている人達もある。つまり、「執念」というのもこの姓を持つ人の最大な特色なのである。
とくに江戸初期までは「かわた」といった集落が在ったので、河田、川田を名乗る「カ」の付く人は、男は反骨的で、女も気性がが烈しいのが特徴。



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