新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

昔の殿さまは企業責任者 浅野内匠頭はホモだった 三島由紀夫を苦しませた切腹の嘘 嘘だらけの忠臣蔵 間違いだらけの武士道

2019-07-10 15:20:44 | 新日本意外史 古代から現代まで
 昔の殿さまは企業責任者
 浅野内匠頭はホモだった
浅野内匠頭は経営者失格
切腹作法は芝居から
三島由紀夫を苦しませた切腹の嘘
嘘だらけの忠臣蔵 間違いだらけの武士道
 
 
 
 
 
江戸時代の武士は「鯉口三寸(10センチ)拔いたなら、御家は断絶、身は切腹」と謂われている。  普通の私闘でも刀を抜けば、その身は死罪というのが<武家法度>とよばれる封建時代の治安維持法の定めだった。それに大名ともなれば親代々の城も取り上げられる他に、 家臣団の企部を失業者にせねばならない。娯楽だけの映画やテレビは、「よきに計らえ」と、殿さまはふんぞり返って美しい側室相手に、酒ばかり呑んでいるみたいに扱っている。
 
 だが、(経営者)というのは変だが、昔の殿さまの存在たるや、今の企業家に当っていたのである。  それゆえ戦国時代でも、城攻めにあえば、「戦争手当に酒を鱈腹のませてやる」「敵を撃退し、城を守り抜けば、褒美に米や麦をうんとこ呉れてつかわすぞ」  とおおいに社員であり従業員である家臣団を激励し、死力を尽させたもので、巧くゆけば約束通りに手当を出したものなのである。  が今でいう企業倒産、つまり落城となれば、手当どころかクビの問題になる。 「どうして下されまする?」と家臣団が毆さまへ膝詰談判に集る所謂団体交渉である。  講談や歴史書の類ではきわめて恰好よく、 「てまえが切腹し開城しますゆえ、どうぞ城中の生存者はお助けくだされ、武士の情けでござる」 と城主が申しでてきて、それに、「よろしい、では心おなく生害なさるがよい」と話がつくようなっている。
 
 
備中高松開城の時には、清水宗治が舟をこざ出してきて、検視役の秀吉の義兄杉原十郎左が届けた酒をのみほすと、おもむろに、 「では、よろしゅに……」蛙鼻岬の秀吉の本陣の方ヘー礼し割腹してのけた。  ……といったような美談めいた話が多い。が、実際は水攻めにされて、倒産つまり落城の責任をとらされた城主が、家臣団の突き上げで自害したにすぎないのである。  江戸期に入っても、干姫を救出した功で津和野三万石の城主になった坂崎出羽守が、于姫が本多家へ自分に断りなしに嫁入りするときき、憤慨して、  「邪魔してくれんず」と奪おうとしたときである。しかし、そうした勝手なことを殿様にやられては、津和野の家臣団は失業し迷惑する。  「みんなの暮し向きが掛っております。思い止まって下されませ」と、よってたかって家来どもは意見をした。しかし、「……男の意地である」と聞かない、
 
 
そこで津和野の家臣団は一致団結して、 「われらの生活権擁護のために」と、主君坂崎出羽守をブスブスに突き刺して、「首級にてこざる」と切断して届けた。 そこで、家康によくやったと賞められて、次の新任津和野城主亀井家に、すぐ再就職できるよう公儀よりも口添えされ奉公できた。 これは、家康が「千姫を助けた者には、手柄として嫁にやる」と言ったが、約束を反故にされ、その食言に怒っての行動だった。 つまり、 「斬り取り強盗も武士のならい」というけれど、自分らの生活を守るためには、主君であっても死んで貰うが士道だったのが本当。 「忠だ」「義だ」と、おおまじめに忠義が叫ばれだし、それが武士道のごとく言われだしたのは、忠臣蔵の芝居が広まってからであり、浅野内匠頭の生前は、 忠と孝が人倫の基である」と、いくら将軍綱吉が儒学を説いても、まだ戦国気質の、「一文にもならぬことを誰がする」といった武士道が根強く殘っていた。  それゆえ主君の浅野内匠頭の有様が、どうも変だと気づけば、側近の家臣団が注意するのが当たり前の事。脇差が抜けないようにするとか、何かと防犯的な処置があった筈である。  前にのべた津和野の亀井隠岐守が、元禄十一年に勅使榊原前大納言の一行の接待役をした時、やはり腹をたてて刃傷しかけたことがあるが、家老の多古主水が、  「脇差を作りつけの木刀に、変えておきたるをもって大事に到らず」といった話も、江戸期の、<半日閑話>の本にある。だから通説のごとく吉良上野介に苛め抜かれて、 内匠頭がノイローゼ気味だったものなら、江戸家老や側用人が、
 
 
「何かしでかされたら、われらは浪人せねばならぬ、これは由々しき生活問題なり」 と、なんらかの防止手段を、自分たちのために講じていたとみるが常識であろう。  防腐剤AF2の入った甘口の酒を飲み続けると、突然変異で気か変に々り発作的に凶暴性症状を起こし、殺傷事件を起す者もいる。 しかし元禄時代にAF2は無かった筈である。となると浅野内匠頭は、酒好きであったというが違うようだし、次に、おかしいのは、  「寛永五年(1628)八月十四日」  千代田城刃傷第一号として、大目付豊島明重が上野の不忍池で投石された遺恨をはらすため、老中井上正就を惨殺した際は、その前日までに家臣一同へ分配金を渡し解散させ、 十四寇の長男にも咎がおよぶのを考え、一人前にと元服させておいた。現在、父子の墓が横浜の金沢区富岡町に現存している。
 
 
 刃傷第二号は、貞享元年(1684)八月二十八日に、春日局の第四子正則の子の、若年寄稲葉正休が、ときの大老堀田正俊を刺殺したが、その前日、  「五代将軍さまに春日局のおん血をひく綱吉さまを迎えた功によって、われらは幕閣を左右できる身分になったが、自分はれっきとした直孫なのに、 堀田は外孫を妻に迎えた血脈の者。にも拘らず堀田が春日局さまの遺産を、一人じめとは怪しがらぬゆえ、わしは成敗してくれる」 と、父正則の代からの家老どもを呼んで、頭を下げて言って聞かせ、父正則が小田原十万石時代に溜めこんだ金銀を、 「不公平のないように家中一同に配分して、みなが路頭に迷わぬように致してやれ」
と、家臣団が動揺せぬようにと手配し、後顧の憂いをなくして登城し、遺産を横領された仇討ちに堀田正俊の胸を、一突きにして仕止め自分も寄ってたかって斬り殺されている。  つまり殿さまが危ない時には、家来は身命を賭しても守るが、その代り殿も、「家来が困らぬように責任をもつこと」といったのが、まことの武士道の精神であった。  それなのに刃傷の第三号である浅野内匠頭ときたら、前もって何の手筈も講じていない。
 
 
それゆえ後になると、まったく訳が判らなくなってしまい、 「俗説では吝で短気でどうしようもない男……」となっているが。実際はその道では飛んでもない超一流の男だったのである。 普通は一対一がホモの原則なのに、磯貝十郎左と片岡源五の両名をWで用い、死後は自分の仇討ちまでさせている。が、それは後世での評価で、 「自分は不肖の生れつきで、その上カッとする持病があって、物事を冷静に取り鎮めることができなかった。それゆえ本日も松の廊下で飛んでもないことをしでかした」  と、俗書の類では田村家の者へ話しをしたとか、「風さそう花よりもなお、我はまた、春の名残りをいかにとかせん」
 との辞世の句を切腹の前に書き残したともいう。また、尤もらしく遺言として、  (このたびの吉良上野介との確執は、かねて家来どもへ知らす筈ではあったが、ついに知らすべき機会がなかった。本日のことは実に止むを得ざることで、 さだめし不審に想うであろうが、・・・・) と口でいわれたのを、田村家の者が、遺骸を引き取りに来た磯貝十郎左や片岡源吾に伝えたというけれど、肝心な、「田川村家文書」にはでていない。 田口明良が書いた幕末の写本のみなのである。
 
 
 
 つまり内匠頭の田村家での弁解や辞世の句など、遺言のことが書かれているところの、「多門伝八郎筆記」と袮されるのが、後年の偽書だといわれている由縁である。  が、殿さま々る者は、家臣団の諒承なしには勝手なことはせぬものである……とする立て前からは、こうした弁解や遺言がないことには、どうにも話が墟になる。  それゆえ、偽作といわれつつも、まことしやかに伝承されてきているらしい。
三島由紀夫の切腹も芝居を真似た   つまり浅野内匠白ば実際には何もせず田村家へ施錠された網掛け駕籠のまま、中庭まで担ぎこまれると、つき添ってきた、大老柳沢吉保腹心の、庄田下総守によって、 「早々に……」と駕籠をあけ、顔を出した途端、素早くバッサリ斬首されたきりである。  なのに、芝居では白砂をまいた上に薄黄の畳を敷き、白衣に青い裃姿で、「……由良之助はまだか」と、兵庫県赤穂の大石内蔵介を呼ぶ場面が受けている。 切腹する際、お尻の下へ本当に三宝を入れたなら潰れてしまって、跨倉から飛び出してしまうのは力学の常識である。
だが、芝居では、櫓皮を曲げた三宝を、尾能骨に当てがって血綿を引っ張り出して、前の観客席にサービスしつつ、腹を切って見せてチョンと幕になる。  そして昔から、内匠頭は白塗りの二枚目という歌舞伎役者の儲け役になっている。なにしろ、 「遺骸は大紋直垂のまま、浅野家用人の糟谷勘左衛門の受取書これあり」と、<田村家文書>にあるくらいゆえ、殿中で刃傷したままの服装で、白衣などに着変えもしていないし、 自分で腹に刀を突き刺してもいないのが本当のところだが、それでは困るから、
 
 
 「切腹作法」といった本にかかると、この忠臣蔵の舞合場面が、そっくりそのまま、「まず三宝の上の小刀を拝し受けとり、腹を切りやすいよう腰に廻し挟みこみ、 腹をなでて皮をたるませ左右に切る」とでていて、幕末の神戸事件の滝啓三郎たちも、そっくり芝居の型で実行している。 だが、この場面に立会った英国公使アダネス・サトウの、刊行された記録によれば、  「彼が腰掛にした薄い木の皮の台は、刀をつき当て力んだ瞬間グシヤッと潰れた。彼は狼狽し赤面して、座り直した」と、どうして軽いものに全身の重量をかけたのかと、 切腹作法の本や話は知らないから不審がって疑問符の?の記号をつけている。  「故三島由紀夫氏の介錯を故森田必勝君が何度もやり直したのも、古式にのっとって腰の下へ入れた物が潰れたため」と言われ、腹を切っても死ねず、森田君が首を斬ろうと 何度もやり直し、凄惨な現場だったという。 が、その古式の作法たるや忠臣蔵の芝居からだから、こうなると、
「死ぜる孔明、生ける仲達を走らす」どころか、死せる浅野内匠頭は、気の毒にも三島さんへも苦しい目にあわせていろ。まあ異常スーパーマンといえよう。  また内匠頭の刃傷の理由が、さっぱり判らないものだから、昔は、吉良と浅野の色小姓の奪い合いだとか、上野介が欲深だったためとされ、 尾崎士郎の説から、「製塩技術を浅野が教えなかったせい」と今では一般に広まっている。  が、足利時代の軍用塩は三河吉良のオウバ七郷が生産地だったゆえ、後進国の赤穂へ教えなど乞う訳もない。
 
 
 
あべこべである。 吉良上野介は欲深だというのも墟で、「長男三之助が、上杉十五万石の当主で長女永子が、紀州綱教の義姉」と、紀州五十五万五千石の金蔓も握っていたゆえ困る筈などなかった。  その上、甲州人の萩原重秀を柳沢吉保に世話して勘定奉行役にしてのけ、「これまでの古い小判の流通を禁止し、赤銅や錫を混入の新貨を鋳造するには、江戸表より、 京で増産させるが人目につかず可なり」と、お膳立てして、その礼金として小判をふんだんに受け取っていた上野介が、みみっちいワイロなど貰ったり取る訳もない。  
 
それゆえ、どうして刃傷したかの理由を、仮名手本忠臣蔵では、 「行水を使っている顏世御前美しい裸体を、垣根ごしに覗き見した高の帥直がポオッとしてしまい、せめて一度で結構ゆえ、用いても減る個所でなし、ぜひともお貸しなされえと、 夫の塩谷判官に何度も申しこんだ。しかし判官は、なにも夜ごと用いている個所ではないにしても取り外して貸せるものではないと、あくまで拒んだので、 叶わぬ恋の意趣ばらしに師直は判官に辛く当たり、辛抱できなくなった判官が、そのため抜刀したのである」 といったような、町人にも呑みこみやすいような筋立てになっている。
 
 
だが意地悪されて頭へきて、それで斬りつけたものなら、バッサリやってしまわねば話にならない。ところが、  「刃傷とは必ず相手を仕止めてしまうものなのに、不思議なことに、三十五歳の血気ざかりの内匠頭が、素手の六十歳の老人へ三回も斷りつけているのに、 みな爪で引っ搓いたみたいなカスリ傷ばかり」といった現実なので、前代未聞の、「殺さぬ刃傷」の仕末に困りはて、 「加古川半蔵がすばやく背後から抱きつき、内匠頭が、武士の情けじゃそこ放せと、口惜し涙をこぼしつつ泣訴しても、半蔵は無慈悲にも羽交締したまま、 本望をとげさせなかった」というようにした。 しかし実際は、御台所つきの梶川与惣兵衛が、内匠頭に飛びついたのは、二の太刀から三の太刀にかかった後だった。この松の廊下の未遂から八十三年後。 天明四年(1784)佐野善左衛門が若年寄田沼意知へ刃傷したのは、第四番目にあたるが、 やはり一の太刀で胸の急所を突き即死させている。つまり千代田城での刃傷は、男の花道というか死を飾る最高の舞台だけに、  誰にしろ「一剣必殺」の刃を振るったものである。なのに内匠頭だけは、背、肩、額と目につく箇所だけに浅手を負わせている。
 
 
 
 これでは本当に殺す気であったとは到底信じられない。どうも恰好だけの脅かしか、さもなくば、相手の上野介に抜刀させるための挑発行為としか思えない。 なにしろ、「おのれッ上野介め……」と本当にカッとして刃傷におよんだのなら、甲冑を付けている相手でもないのに、チョイナチョイナと遊びみたいな斬りつけ方は可笑しすぎる。  それなのに結果としては、すぐ誰とも口をきかぬように一人で坊士部星へ入れられてしまい、千代田城内大廊下まで異例にも持ちこまれた駕籠に押しこまれた。 そして田村邸へつかてゆかれ駕籠戸が開けられた時には、抜き討ちに首がコロリと落されたのでは、当人も予期に反し、たまったものではなかろう。 これまでの通史や俗説では、将軍綱吉が激怒して、評定の席上で、即刻死罪を言い渡したために同日処刑という。だが、 「当日は勅使並び院使の最後の饗応の日で、将軍は共にずっと朝より観能していた」と、記録されていて、評定などしていなかったのが事実なのである。
 すべては柳沢吉保の胸三寸で、内匠頭は操られていたとみるしかないようだ。 さて、「念友」「念者」とよばれるホモの間では、「自愛小姓」のゲイボーイでも、「一穴無生」の厳しい掟があった。つまり女人相手なら千人斬りも許されるが、 男どうしの場合は絶対に一穴主義こそ、「衆道」の戒律だったのである。なのに浅野内匠頷け、片岡新六を共寝の相手にすると、貞享三年(1686)四月九日に、 まだ算えの十九歳の彼を倍の二百石に加増、五年後の元禄四年には、「三百石」ついで八年後には三百五十石にまで、源吾と改名し昇進させ、側用人児小姓頭に任命している。 余程、彼の菊花の口が気に入っていたらしくみえるが、「京の愛宕山教学院の雅児上りの門六」とよぶ十四歳の美少年をも、堀部弥兵衛の推挙で枕席に召してから十年。
 
 
 
 
 やはり側用人にして百五十石を与え、「磯貝十郎左衛門」と、名のらせたが年代的にみてゆくと、片岡源吾の三百石加増や三百五十石になったのは、どうも、  「……これさ妬くではないぞ」と慰撫策に昇給させられたものらしい。そして、 「車輛に両輪が有るがごとく、わが臥床にも両紋あり、右を向いても左へ寝返っても、菊紋ありて、われを待つか……」  すっかり内匠頭はやに下がっていた。が、これが一晩や二晩なら別だが、なにしろ、「ダブルでゆこう」と、十年続けたのである。 もし、片岡か磯貝のどちらかだけを偏愛したものなら、元禄十五年十二月に二人が揃って討入りなどしていまい。
 どちらかがグレてしまって仇討ちに先立ち、姿をくらましているべきである。
 
 
 「接して洩さず」が、元禄時代の流行ではあったが、それは女体での話である。  背向拉で菊紋に接して洩さずで、こすってばかりいたら、その頃は今の用語法とは逆で、「下風(げっぷ)」とよばれていた大腸からの圧縮空気が、ブスブス出てくるかもしれぬ。  運が悪ければ、摩擦中にウンが出る。それでは黄全仏に一物がなってくる。  片岡や磯貝の体内からの愛液の固形物や気体を防ぐためには、逆流防止の必要上、内匠頭の側で防ぐにはどうあっても放水するしかない。  ということは、三次(みよし)浅野家の因幡守長治の娘の阿久利(里)が五歳のときに鉄砲州屋敷へきて、十歳の天和三年(1683)三月十一日に式をあげたが、 内匠頭は小栗旬とは違い、阿久利も沢尻エリカのごとき美女では、なかったためらしい。だから結婚して十八年だっても、「栗姫」とあだ名されていた、 あばたが酷かった彼女は洩して貰えず、とうとう子供はできずで弟の浅野大学を、養子にと跡目の届け出をしていたのである。  しかし、女体の方へは無沙汰したとはいえ、臥床の両側に磯貝と片岡の両名をはべらせて、十年一日のごとくに夜ごとに両面作戦をして、双方に放出していた浅野内匠頭は、 色道においては偉大だったとしか言いようがないようでもある。
 
 


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