新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

日本史解説  春の海ひねもすのたりのたりかな

2020-11-30 14:30:50 | 新日本意外史 古代から現代まで

        日本史解説
春の海ひねもすのたりのたりかな


与謝野蕪村の詩で有名な「春の海 ひねもす(一日中)のたり のたりかな」というのがある。
意味として、うららかな春の海で、一日中ゆったりと寄せては返し、寄せては返しする波の様子が詠まれた句です。
穏やかな春の海の情景、そしてそれをぼんやり眺めながらまどろむ心地良さがうまく表現されている。
しかし、蕪村は知らなかったろうが、元々はこんな「ホンワカ」した状態と違って「過酷」なものだったのである。
「ひねもす、のたりのたりかな」の「の」が東北では訛って、「も」となる。
昔は焼畑耕作だったから、燃え残った雑草を一本ずつ引き抜き除く作業は、一見のろのろ見えるせいからである。
「モタツク」と、スローの事をいう語源もこれからであります。現在でも「もたもたするな」と使われている。
他国では雑草がすこし位残っても、田畑の作物の成長に左程の害はない。だが、日本では、土地が痩せて地味のよくない所が多く、特に東北ではそうはゆきません。
植えつける人工的な種ものよりも、野生の雑草の方が生命力が強いのです。
せっかく野火をかけ焼け草を肥料にしても、成分をそちらにみな奪われてしまいます。そこで鈍重にみえる位の丹念さで彼らは残った雑草を一本ずつ見つけては、それを根気よく、丹念にまめに働いて引き拔いていたせいなのです。
 という事は、〈大宝律令〉によって、それ以降わたされた種もみ何束に対し、その何十倍かの出荷という苛酷なノルマ制だったからです。
奴隷使役制で、上納分が不作なら、見せしめに怠けたと刺殺や吊し首にされたので、必死もっしに、もたもたするなと鞭打たれても、一粒でも余計に出来高をあげようと、命をとられたくないので苦労した事を意味していると解釈しなくては、あまりに憐れであります。
以前、「なまはげ」で解明しましたが、奴隷百姓が怠けないよう、役人がやってきて「なむあみだぶつ、はげめよ」と苛斂誅求する。
だから、彼ら体制側の役人は血も涙もない「鬼のようなやつら」だと、その恨みが現在の「なむはげめ」が「なまはげ祭り」となった。
2017年7月にUPした記事があります。興味のある方は併読していただきたい。
https://ameblo.jp/yagiri2312/entry-12491328791.html

 「六国史」の本の現代の解釈では、さも新附の民にお上が食糧でも施したみたいに「稲何千束下賜」とでています。しかし、いつの世でもオカミはそんな甘いものではありません。
与えて下さるより搾取するのが、いつの世であれ国益なのです。菊池山哉の「日本の特殊の研究」でさえも間違って、「何々地方は初めは何千束の下賜があっだのが、
翌年からはなくなっているのは、次からは自活できるようになったせいか」としていますが、食糧としてではなく種もみとしての支給ゆえ、次の年からは新たに捕えられ、ゲットーへ放りこまれてきた人間へ渡すしかもはや不用なので、
苗束の下賜、つまり交付が減ってくるのであります。
  日本歴史 資 料

現在と違い、まだ明治二十二年の東大史学会は、初めて日本列島全部の日本歴史が一つに考究された時で、後世のごとく弟子が先生の説に盲従するのでなく、群雄割拠の感があり、自由闊達な論文発表がなされていた。
久米邦武といえば学校歴史の泰斗でありますが、それ程の大先生にしても〈日本歴史資史料集大成〉の「時代の思想」では、何を誤られたのか知りませんが、
その46頁の論文の中において堂々と、「足利時代までは仏教の崇信はなはだあつく、徳川代に入って性理学の流行につれて廃仏論起る」としていますが、まったくの間違いで、こういう手合いを紺屋の白袴という。
京五山のごときは明国より官僧の恰好で監督が、防とよぶ護衛隊を伴って赴任してきていて、勘合船の積荷を検査したり送荷を押えてまでいました。
 だから足利期は仏教支配下ゆえ、崇信といったものより畏敬であったでしょうが、その前体制の北条政権は違います。
今ではあまり知られていませんが、反仏教の拝火宗の信心の世であったのです。
 「ナムアミダ」を唱えただけで厳罰の時代ゆえ、既存仏教を攻撃した日蓮宗は、初めは許されたものの、門徒の中にはうっかりナムアミを洩す者もいましたからして、役人に聞き咎められぬように、団扇太鼓なるものを考案。
ドンドンと喧かましく叩いて自己防衛をしたが、やはり仏教ではないか、と睨まれ、「滝の口の法難」とか、佐渡が島へ流罪にされました。
また、この時代に生まれた一遍上人の遊行宗も、北条体制からはみ出した源氏系の者らの信心をえたが、やはりキンコンカンと鉦や太鼓をたたき踊りまわって、ナムアミダと誰か洩らしても聴えぬようにしていました。
これが新興仏教なのです。
 信長は弟らの仇討ちみたいに全勢力をあげ一向宗を攻めに攻め、吉備王朝とか華夏王朝と呼ばれた頃から、中国勢力がしみ通っている姫路以西山口までの実力者、毛利攻めに秀吉を進撃させました。
 つまりヨーロッパ人がキリスト教、といってもカトリーコの師父をたてて、開発途上国へ進攻したごとく、日本列島へも墨染めの衣をつけたホトケの師父が入ってきて、麻の葉や茎を粉にした護摩をたき、
原住民をその煙でまいて布教しだしたのは、大化改新以前からですが、仏教がはっきり国教として法律で定められ、興隆に向かったのは、5代将軍徳川綱吉発布の〈神仏混合令〉からです。
 (徳川の代に性理学の思想の流行につれて、廃仏論も起れり)というのは、性理学ではない。白木作りの神社信仰の喜多八のような庶民や、「夷也」を稲荷の当て字にした祇信仰の弥次さんらの反仏教徒らが結集しだし、
彼らの世直し志向が明治維新となった故です。
だから、新政府はそれに報いるために、神祇官を太政官の上にもうけ、〈廃仏毀釈令〉をだし、それまで坊主に占領されていた社堂を解放した事実をいうのでしょうが、
垂加神道は徳川家の御定法の中で、神道を仏教に結びつけた性理学で、別に廃仏などと公儀に楯つくようなものではなく、妥協でしかなかったようでこれは違ってます。
そして、「勤王論は徳川代の末に始まれり」と言いきる久米説もおかしい話です。
何故なら、後水尾帝が参内した徳川家光に対し、和子女御入内持参金一万石をたしても、京は三万石にすぎぬ。せめて山城一国二十万石をくれないかと切望され、家光は承知したのに、幕閣では「とんでもない」と
約束不履行。
天皇が怒って、幕府の違背行為を詰った処が、無理やり、和子のうみ奉った明正帝に譲位させられたので、討幕の院宣を次々とだされてこれが島原の乱となる。
さらに、由比正雪、別木庄左衛門といった勤皇の志をもつ者は江戸初期にもいたのである。
実行に移すより論議だけだというのならばあえて異論なしです。
 学校歴史編纂の大御所となった山県昌蔵の「歴史哲学の大要」にしても、彼は堂々として、「徳川幕府の滅亡の原因は如何と云わば、旗本八万騎に一人の義士なきをもって遂いに士気瓦解というが、
実際は大義名分論が幕末になって起こり、王室の衰微を憂えて、ついに徳川を転覆させ王室中興の基業を開くに到ったのは、徳川氏の政略より変化したるなり」と〈日本歴史資史料集大成〉におくめもなく書いている。
 皇国史観の先鞭みたいな論旨だが、こういう方によって今日の学校歴史の教科書は作られたり、その弟子の孫弟子、又弟子によって検定されているのですから、まったく日本史は嘘ばかりなのです。
従って、幕末になって初めて倒幕運動が起こったというのは嘘。


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