新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

鈴木一郎と菅官房長官 鈴木、菅の「ス」姓の考察

2019-05-08 11:03:30 | 古代から現代史まで
鈴木一郎と菅官房長官 鈴木、菅の「ス」姓の考察
 
 
 
 
先ごろ、野球の鈴木一郎選手が引退した。国民栄誉賞を二回も辞退した立派な男で、努力型の天才である。 この、ウクスツヌフムユル横列の「ス」のつく姓を考察してみたい。
現在有名で馴染みの深い人では、鈴木一郎と官房長官の菅 義偉氏であろう。 二人とも努力型で、我が道を行くという、マイペース型で、傲慢な処も見える。 スのつく苗字は鈴木を筆頭に数的にもきわめて多い。しかしその割に、あまりパッとしません。つまり世に抜きん出て出世している人は上の二人は別格として、意外と少ないのです。 鈴木一郎の経歴はあまりにも有名だから割愛するが、菅官房長官は地味な努力家であり、叩上げの苦労人だという事がその経歴から窺える。 秋田の農家の長男に生まれ、高卒後集団就職で上京。段ボール工場で働きながら法政大学を卒業し、衆議院議員秘書から横浜市会議員、そして国会議員になっている。 「令和」元号発表で国民に広く知られ、次期総理の候補に浮上してきたという。しかし、彼は良くも悪くも安倍総理を陰から支え、決して出しゃばらず黒子に徹してきたから、 安倍総理の信頼は絶大である。次期総理としての呼び声も聞こえてきた。日和見主義者の岸田や石破よりはよほど適任かもしれない。
 
 
当時「キタイ」「キタン」とよばれていた中国の王朝を、日本史ではこの契丹を「宋」としているが、漢民族の唐を滅ぼした強大な国だったゆえ、昔はロシア人は中国をキタイとよびインド語でもキイタイと呼んでいた。 トルコはなまってカタイと称し、ドイツやフランスでもチャイナと呼ぶ前は、キタイ、カタイと称していた。 この裏づけは、東大教授で、昭和天皇の教育係だった、白鳥庫吉の考証が明治時代にすでにある。 契丹の耶律阿保機が皇帝になったのは九百十六年だが、その勢力は日本海まで版図を広げたのは、日本では平安時代で天慶の乱の頃のことである。 だから菅原道真一派が九百一年に旧唐体制の藤原体制に追われても、契丹系はすでに相当数が日本へ入っていたろう。
 
さて大化の改新で騎馬民族系の蘇我親子が殺されると、曾我と当て字を作り、その一族の末裔の弾左ヱ門家が、江戸時代になると、芝居興業のすべてを司っていたから、各地の初春狂言はどこの土地でも、「寿・曾我の仇討」といったものをやっていたし、蘇の民の守護神の松下神社が各地にある。さて、「遼史」によると、漢字のレイ書体を変えて契丹字数千を新しく作っている。が、金編に令をかく鈴は、その一つである。つまり日本人に多い鈴木姓は、藤原体制に組みこまれてしまっているものの、唐系ではなく菅原系の契丹の血をひくものとみるしかないようである。
 
「神社の木に鈴をひっかけたから………鈴木姓ができた」といったバカげた説をとくのは契丹文字を知らぬ徒の言い草である。つまり、「吾妻鏡」の貞応三年の条にある異様な字も契丹書体なのである。  つまり鈴や須、菅、杉、薄といった人たちがウク横列に入る発音なのに、あまり重用されず嫡民ではない庶民扱いをされて今日に到り、 「す」のつく人は今でも祖神として天人神さま信仰が多いのもここからきているのである。
 
童歌の「通りゃんせ通りゃんせ、ここは何処の細道じゃ、天神様の細道じゃ、どうか通してくださんしぇ、御用の無い者通しゃせぬ、行きはよいよい帰りは恐い、 恐いながらも通りゃんせ、通りゃんせ~」というこの唄の意味は、 藤原体制に虐げられながらも、隠れて天神様を信仰していた契丹系の人間が、草深い祠を拝みに行った際、行きはばらばらと人目につかぬようにしても、 かたまって帰る際は、役人に見つからぬよう用心せよ、という意味で、子供の時から言い聞かせていたのが唄になったのである。
そして契丹系は文字も達筆だし頭の良い人が多いけれど、戦国時代でも多くはなかった。
 
 秀吉の馬廻りで、鈴木正之助、鈴木与三右衛門、家臣で杉原家次らが居た。大内義隆の臣で陶晴賢。 さらに、薄田源太郎、薄田清左衛門、薄田千十郎、薄田伝右衛門、前名が講談の豪傑で有名な岩見重太郎と謂われる、薄田兼相、 江戸初期の朱印船の角倉了意ぐらいしか、あまり有名な人がいないのはアウトサイダー的な存在だ由来による。だから善良でマイホーム型の人間が多い。 この契丹系は頭脳明晰で働き者のため、火山灰が多く、酸性の富士の裾野のを開墾させて農作物の栽培をさせた。
 
 しかし、土壌改良して良い土地になると、藤原体制はそこを取り上げ、寒冷な東北地方へと追いやったという歴史が在って、為に現在でも鈴木、菅原などの姓が多いのである。 勿論大東亜戦争敗戦後は、集団就職で東京へ出てきた者も多く、東京にもこれらの姓は多く、そして自民党支持者が多いのも特色です。
 
何しろウ姓列かイ姓列の二つの姓列の中に挟まれ、事業を伸ばしたり、人間関係を円滑にしていかなければならないので、やむなく他姓と交じり合ったりしてますから、それで去勢され、 まず駄目人間になる結果を引き起こすからでしょう。それに、もう一つ、このスのつく姓が、ウ姓列に入っていながら振るわない理由は、八七九年つまり九世紀の終わりの醍醐帝の御即位のとき、それまでの藤原氏の専横に堪りかねられた新帝は、 菅原道真をば藤原時平の対抗馬とし左大臣とし、右大臣の藤原時平と競り合わさせたためです。
 
 
 いくら菅原氏が有能であっても、大化の改新以来、高松塚古墳の壁画にあるごとき唐美人を、本国より続々と輸入してきては、 「呑ませる、握らせる、抱かせる」の三代方針によって、勢力を張りめぐらしていた藤原氏には道真とてかなうはずはなかったようです。四年目には、首になって九州へ流され、その二年後の延喜三年二月二十五日には、罪なくして彼は配所で死んでいます。 彼が祟って雷となって復讐しないようにと建てたのが九州の太宰府天満宮なのである。のち、その罪は許されたものの、菅原の名を遠慮して、鈴木とか杉村といったように、上にスの発音をつけたこの部族は、「負け犬」のごとくなって、もはや先人に懲りて栄達はのぞまず、 ひっそり暮らして、他に打ち込むこともありませんでしたから、子作りばかりに励みました。   それゆえ子孫はどんどん増え、おかげで今や日本中津々浦々に至るまで、スのつく人は多くなり、みちあふれているといえます。  しかし藤原系に疎外された歴史をもつため、せっかく王朝側近派に一度はなっても、後は中途半端なことになって、正嫡な民とは認められぬ「庶民」の立場で今日に到っているのです。
 

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