新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

手形の元祖 天王寺屋五兵衛

2021-01-16 11:49:51 | 新日本意外史 古代から現代まで

まるで浪花遊侠伝の一人のようだが、彼は侠客でも何でもない。『日本商業経済史』の中でも「我が国における手形振替による為替制度の創始者、西国浪人にして
旧姓を大眉氏(大眉蔵人)と云い、大阪表へ移って天王寺屋を名乗る」とある。『戦国人名辞典』にも同じように出ている。
しかし、残念ながらその深い内容にまでは触れられていないので、ここでそれを解明してみたい。

そして、手形決済とか、為替振込といういうと、今の人は最初は大阪江戸の間で行われだしたように考えている。
が、実際はそうではなく手形決済の起源は、山陰道と山陽道間が、史実の上でも間違いのない事実のようである。云うなればこの始まりは、山陽道を押さえていた毛利元就方と
山陰地方の尼子晴久との間での、双方決済がこの為替制度の起こりである。
といって、毛利と尼子は明け暮れ戦をしていたのだから、山陽地方の物産を山陰へ送って代銀決済を為替でしたとか、出雲商人が瀬戸内海沿岸の海産物を手形で購入していたと
いうのとでもない。
そもそも手形というと今日では、銀行から分けてもらう手形用紙を考え、約束手形といったものをすぐ考えたがるが、昔は銀行もなかったし、あんな定まったコクヨの物もなかった。
よく小料理屋の壁面に掛かっている相撲取りの、べったり墨や朱で押した手形の紙を、あれを原型とみれば間違いない。
というのは、講談などで、戦国時代というのは「遠からん者は音にも聞けね近くば寄って目にもみよ」と明け暮れ殺し合いばかりしていたようだが、何の恨みつらみの無い者どうしが顔を突き合わせても、そうそう殺傷沙汰など出来はしないものである。
 「やあ、やあ」と矢声だけあげて脅しあっても、なるべく流血沙汰は避けていたらしい。
と書くと、まさかと思われる人も居るだろうが、人口が僅かしか居なかった戦国時代に、本当にそんな酷い殺し合いをしていたら、何処も彼処も無人になってしまう。
では突き合いをした時に、どちらかが優勢で片方が劣勢の場合は、どうしたかといえば、この場合は負けそうな方が手を挙げて、
「頼む」「頼みます」「頼まれてくれ」「頼まあ」と云い方はいろいろだが、略して「たんま」と叫びあげる。そこで「談合」しあう段取りとなる。そして首を落とされる前の話し合いゆえ、
 「落とし前をつける」とこれは言うのである。
昭和の敗戦後になっても、子供たちの遊びでは、鬼ごっこなどで都合が悪くなると、このたんまが訛って「タイム、タイム」とやっていたものである。
落とし前だとて、現在もヤクザは勿論、カタギの人間さえ「お前さん、俺の女となんして、ただで済むとは思っちゃおるめえ、この落とし前はきっちりつけて貰うぜ」等と
 タンカをきり、金で解決しているほどのものである。
 武士に二言はない 武士の一言金鉄のごとし
結局、負けた方が「いくら金を出すか」という事である。勿論持っているだけの「死に金」、「命金」と称されるものは、その場で首をはねられても、強い方には入手できるのだから、
これより多額でなくては話し合いはつかない。しかし持ち合わせていないのだから、こうなると貸しという事になる。
だから矢立でも携帯しているのなら、それで証文でも書く処だが、現在のように誰もが文字を書けるような時代ではなかった。
そこで泥か何かを掌につけて、これを紙にべったりくっつけた。「掌文」「指紋」などは知られていなかったろうが、手の形は後で合わせるとぴったりするから、
「約束手形(てぎょう)」と当時は呼んでいた。
この名残が江戸時代になっても武士が外出する際には、必ず懐紙を二つ折りにして懐中に入れたのも、斬りあいをした後で刀を拭う為に持ち歩いたのではない。
よく映画やテレビ時代劇で、チャンバラをし、何人か斬り殺した後、大刀を鞘に納める前に、刀の血のりを懐から出した懐紙で拭うという、カッコいい見せ場があるが、
あんなのは大嘘。戦場で襲われた時に命が助かるように、手形を押す料紙の名残がいつの間にか習慣となったものである。
何しろ人命、ましてや自分の命は貴重だったせいによるのだろう。
よく武士の言葉に二言はない、武士の一言金鉄のごとしなどと云うのも、紙を持ち合わせぬ時は口約束しかなかったから、助かりたい一心で、良い加減なことを放言し、
 後になって知らぬ存ぜぬでは困るから戒め合って、これがやがて「士道とは、嘘を言ってはならぬ」という鉄則になって出来上がったものらしい。
  相互決済のアイデアを考案する
さて、これだけ命がけの厳しい掟があって、掌を押した手形や固い口約束をしても、咽喉元過ぎれば熱さを忘れるというごとく、助命され国許へ戻れば約束の、
「落し前」を送らぬ者も出てくる。しかし後に天王寺屋五兵衛になる大眉蔵人のような尼子方の武者が居ても、
「あれだけ約束したのに、首代を送って来らんとは怪しからん」と敵方の毛利の領国へ、まさか集金しに行けるものではない。
それに蔵人の場合は毛利方の武者に貸しがあるが、尼子方の武者の中には、毛利方に見逃して貰って、その借りがその儘の者も居る。
「・・・・うん。俺の分を此方の毛利方に負い目のある者と相殺勘定にしたらどうだろう。そうすれば互いに集金せんでも済むし、当座勘定の帳尻も合おう」
 鎌槍をよく使う大眉蔵人は、頭の回転もよかったから、早速尼子家の武者で、毛利方の武者に落とし前をつけて貸しのあるのを調べ上げた。
勿論ついでに逆の方も調べられたら、決済に都合が良かったのだが、実際は「わしはやられかけて、つい手形を渡したのだが・・・」とか、
 「実は助かりたい一心で苦し紛れに法外な額を云ってしまったが、とても払えんので」と、打ち明ける者もあって、いろいろ云われては逆の貸方勘定は出来なかったかもしれぬ。
だから毛利方にも大眉蔵人のようなのがいて、貸方の帳面をちゃんとつけて来て、国境ででも双方の付け合わせでもしたら、今日の手形交換所のような恰好になって、
バランスシートが巧くゆくのだがそうは問屋が卸さない。
それにあらゆる武者が、毛利方への貸しを大眉蔵人に話してくれたら纏まりもよいのだが、山中鹿之介などは尼子家きっての勇士で合戦のたびに、何枚も掌を押し付けた約束手形を
取ってくるのだが、それでも「あんなのはどうでも良いわい」と大眉蔵人が訪ねて行っても見せようともしない。そこで、
「放っておくと不渡りになり申す」と、取り立て方を任せるように言っても、山中鹿之介ときたら平然たるもので、
「気違いや殺人鬼でもない限り、何の恨みもない奴を殺せるものではないわえ、向こうが勝手に落とし前の証文を押し付け口約束してきても、わしは金儲けに戦に行くのではなく、
 尼子家のために働きに行くだけだから・・・・」からから笑って取り立てる気など全くない有様だった。
こんな強いばかりで無欲恬淡ななのが大口債権者にいては、尼子方では堪らない。なにしろ毛利方では個別に尼子武者から、落とし前の掛け取りをしてくるのに、大眉が躍起になっても
尼子武者は山中鹿之介の真似をして、「武士は金のことなど、どうでもよかろう」と、痩せ我慢ばかり張っているから、どうしても尼子方の所有銀は、少しずつ毛利方に吸い取られていく傾向になるのである。
つまり今日で云えば赤字である。だから尼子方の勢力は次第に衰えてきた。
そこで、天文九年九月には安芸吉田の郡山城を包囲し、毛利元就を攻め立てたこともあった尼子晴久だが、永禄三年十二月に亡くなった後は、その子の義久が跡目を継ぎ、
出雲富田城主となったところ。同年七月には先代の頃とは逆に、毛利方に攻められるような結果になった。そこで大眉蔵人は心配して、
 「毛利勢が御城の真近に迫っております。この際一斉に各自お手持ちの手形証文を出されよ」と城内をふれ廻って歩いた。
攻囲軍から一斉に債権の取り立てをすれば、
「必ずや毛利方は、ひとまず退却することは間違いなし」と見たからである。そして、極力大いに説いてみたのだが、山中鹿之介を初め尼子十勇士の面々は、
「城が命旦夕となった際に、取りはぐれてはならぬと攻囲軍側から、手形や証文を持った者が、わいわいいってくるのを、取り付け騒ぎというのは聞いたことがあるが、城内に居る吾々が
敵を追い払うのに、命代の手形や証文を振りかざして見せるのは如何てあろうか。どうも苦しまぎれのようで格好悪い・・・・・!」
といいあって粋がって承知しない。そこで日増しに形勢悪く、その内に城内の食料も心細くなってきた。
だかせ背に腹は換えられぬと、てんでにかって敵から取っておいた約束手形をこれ見よがしに竿先につけて櫓に出て、
「この決済をせい。米でも粟でも届けてくれ、武者の約束は反故にせぬものぞ」と呼ばわる者も出てきたが、それを見た毛利方はせせら笑い、
「そんなのは一時の融通手形じゃ」もう落城寸前と見て取って情け容赦もあらばこそ、「構わぬ。あの証文ごと吹っ飛ばしてしまえ」とばかり、
武士道を守るどころの騒ぎではなく、鉄砲や弓矢で狙撃してくる有様だった。
そこて、やがて永禄九年十一月二十一日、力尽きて出雲富田城は落城し、尼子義久は毛利方に捕らえられる羽目となった。
水島家文書による裏付け
さて、戦国時代は、武者どうしが戦った末に勝敗がつきかけ、命を取られかけの方が、あやまって首の落し前に話をつけ、今で云う信販制度で首代の延払いをしたという事実は、
手形を渡すとはいわずに「切る」といった動詞や頭を割るといった首切り用語からして「手形を割る」と今も使われるが、これは今日の常識では判らなくても、
「月賦」の賦なる和製の漢字が、金を意味する貝篇に武がついているのをみても判る。
そしてこの確定資料の裏付けとしては、明治十四年刊の『史籍雑纂』第三巻中の家伝史料「水島文書」をまずあげておきたい。
これは国書刊行会発行の活字本で、古本屋や図書館でも見られるものだが、その中には、はっきりと、
「水島家の先祖が元和の役に大阪方に加わっていて、落城の時に取り巻かれて、すんでの処で首にされかかった際、命代として銀三百匁をだすからと助命方を申し出た。
寄せ手の徳川方の軍勢の中に、親類も居る事ゆえ信用されて、当座は持参していた銀だけを出し、縛られてその親戚の許へ連れていかれた。
しかし親戚の者も、国許へ帰れば金策はつくが、こうして攻めてきた陣旅では何かと入費が掛かってとてもそれだけは都合できぬ。よって銀二百匁にまけて貰えぬかと交渉したが、
縄尻をもって引っ立ててきた者は、いくら徳川方に組する味方どうしであっても、銀三百匁をこの者が払うといったから助けたのであって、武士の言葉に二言はないというゆえ、
この命代はまけられぬし許せぬと承知せず、止む無く先に二百匁の銀を渡し縄を解かせ、残銀は月賦にして貰ったのである」と、
 礼儀作法水島流の家元が、如何に命拾いしたかの経緯が詳細に出ているのである。
つまり講談的な素養では、読んでびっくりされたであろうが、この方が真実であり、本当だったようである。
 


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