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新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

真説 関東やくざ、天保水滸伝 飯岡の助五郎対笹川の繁蔵 日本では芸人が歴史学会の会員だった

2019-05-17 11:41:36 | 古代から現代史まで
真説 関東やくざ、天保水滸伝
飯岡の助五郎対笹川の繁蔵
近頃、講談師「神田松之丞」の人気が高いという。今まで人気の低かった講談に若いファンが多いとも聞く。 講釈師たちにとっては「虚妄をまき散らし、大衆の暗愚化に協力できて」そのうえ儲かるのだから大慶と、賛辞を進呈して置く。
日本では芸人が歴史学会の会員だった
 
江戸時代、兵法コンサルタントとして甲陽軍鑑などを一席ぶっだのが辻講釈となり、明治に入ると昔の事を話すからと、今の弁護士が三百代言と言われたごとく、用いられた通称を謂う。  落語や色物の芸人からは尊敬を込めて、先生とよばれ羽織袴で威厳を保っていたものである、 だから、郷士や軽輩(本当の武士ではない)あがりの明治新政府の高官の席によばれ重宝された存在だった。
やがて明治史学会ができて高官の口利きでこれに入会する。学会に芸人が入会するのだから全くの話、大したもので、恐れ入るしかない。 それゆえ堪りかねて「いくら昔の事を題材にするからといって、見てきたような出鱈目だけは絶対に慎まれたい」と〈日本歴史資史料集大成・明治22年史学会雑誌〉の巻頭で、 修史局出の東大国史科の重野安繹がおおいに戒めているくらいですから、玉石混淆と申しますか相当にいかがわしいのが、面白おかしく張り扇を叩いていたようである。 それゆえアドルフ、クロード、ついでリースによって指導された官学派が、ドイツ式実証主義というか、証拠主義の学校歴史を作りあげたのであります。
 
日本国は、実際は雑多な人種が混じりあって狭い国土にひしめき合っているのですが、欧米みたいに黒色、黄色、白色と、一見それと判別できる肌の色をしている訳ではありませんから、 ドイツ人が、みな黄色人ゆえ単一民族としてしまったのかも知れません。が明治十九年三月二日の帝国大学令で、歴史教授となったリースは史学会を作らせ、 学校歴史の泰斗となる者らを教育しましたが、2年後の五月七日に学位令が施行のとき、彼は日本には歴史学は存在しないと断固としてそれだけは主張しました。 この為に、欧米には歴史学博士の称号はありますが、日本ではその学位は今もない儘であります。  ですからして、それから一世紀たった現代になりましても、「歴史は俺たちに何をさせようとしているのか」などと堂々たるキャッチフレーズで、 武田騎馬隊に重戦車やヘリコプターをからませるような、漫画タッチの映画も製作されたりするのでしょう。まこと面妖なお国柄です。 だから、西欧と違い大学入試でも歴史は軽視されていて、ただの選択科目でしかないのであります。全く困ったことである。
閑話休題
さて、神田松之丞の持ちネタの中にも「天保水滸伝」はあるが、昔から「講釈師、見てきたような嘘をいい」と云われるぐらい、景気つけの張り扇から、嘘八百の歴史上の物語が叩き出されてきた。 その影響もあって、講談や映画、テレビで演る時代劇という「電子紙芝居」を歴史と思い込んでいる人間が多い昨今である。 しかし、これから書く内容は、通説、俗説とは大きく違う、出来得る限り史実に迫ったものである。どうぞ安心して読んで頂きたい。
天保水滸伝
「利根の川風、袂へ入れて」と、かつてうたわれたように、大利根川から上総・下総にかけ、渡世人が多かったのは、海魚や川魚にしろ生臭いものが多く獲れ、 それに米どころだった所為でもあるらしい。と書くと、今では、漁師や百姓の懐が豊かなので、それを目当てに盆をしく博徒が多かったからだろう、と思われるが、あながちそうでもない。  なにしろ渡世人だからといって、あけくれ博奕をしているわけにはいかない。自分らで賽ころいじりをしていては共食いになってしまう。 開帳するには客を集めて張らせるしかないが、祭礼とか市のたつ日ではなくては、そうそうは銭をもった人間が集ってくるものではない。  それでは渡世人は、盆茣蓙ばかり頼っておられないとすると、いったい何を飯の種にしていたのか……ということになるが、これが意外や興行だったのである。しかし当節のごとく流行歌手 のようなのはなく、旅廻りの講釈師か相撲興行だった。 この伝統は、つい二十年前まで山口組が、「神戸芸能」として、俳優や歌手(鶴田浩二や美空ひばりなど)の全国興行権を一手に握っていたのでも解る。 (現在でも関東では博徒の親睦団体「関東二十日会」と、的屋(テキヤ)の団体、神農会(飯島連合会、姉ヶ崎連合会、極東関口会、)が健在である。
 
ところが、である。あまり知られていない話だが、渡世人の世界は幕末の文久二年をもって一線がひかれる。  講談で有名な大岡越前守忠相が八代将軍吉宗のころの貞享二十年に、街道を流し歩く旅遊芸人達へ、朱鞘の公刀と十手を持たせて五街道を分担させ警察権を与えた。  ところが、やがて彼らは日本各地に定着して住みつくようになり、互いの縄張りを決めあった。そこで、いざという時の下っ引きや捕り方を食させてゆくため、賭場を問いたのが始まりゆえ、  「旅遊芸人」の名残りから「遊び人」ともいうのだが各地の親分衆が揃って文久二年までに、それまでの朱鞘の刀と十手をそっくり公儀へ共に返上してしまい、  「神農さまを神として祀る香具師稼業」へと彼らは戻ってしまったのである。
 とはいえ、それまでは公儀御用を受持たされ、今でいうなら地方警察署長みたいな役割で、ギャンブル資金で人件費や、諸経費を賄っていたのであるから、通説とは逆に、 「二足草鞋」の親分こそ本まもので、まっとうな本可打ちだったわけである。それに香具師は昔から興行をしていたから、彼らが講釈師に一席やらせて儲けても、また相撲の勧進元をつとめ利をあげたとしても、それは稼業柄、いたって当り前の権判だった。なのに、それらの既得権益をば一切を放棄したのだから、文久三年から元治・慶応と各地で強い者勝ちの乱闘沙汰になったのである。 もちろん実際は、文久二年に公刀十手を返納した裹には、天保、弘化、嘉永、安政と30年位の間に、飢饉その他で世相が険悪化して浮浪者が多くなり、それらが徒党をくみ、 抜刀は厳罰とされているのに抜身をもって、各地を荒し暴れ廻り、 「御用だ、御用だ」と向って行っても、神妙にせず、「何をッしゃらくせい」と逆襲してこられてしまい、とても真剣の長脇差に小さな十手や六尺棒では防ぎようもなくなってしまい、 そこで相談しあった結果、「もう御用は危なっかしくて勤まりません」と放り出してしまったのが真相だから、 「天保水滸伝」といわれるごとき、関東の飯岡対笹川の決戦もその時点から始められる。
 
 
 さて、大利根の流れを坂東太郎というが、この水で辺りは五穀豊穣。それに海や川では魚貝も当時はまだ公害もないので沢山とれた。 そこで栄養をたっぷりとるから女子は早熟となり、男子は体格がよくなる。そこで現代の青年にタレント志望者が多いように、助五郎も、  「おらあも裸一貫で何とか立身したい」とあせったが、まだ流行歌手の時代ではなく当時の人気稼業は相撲しがないから、江戸回向院へゆき開運山人五郎へ弟子入りした。しかし運不運もあるだろうが、入門したからといって、誰もが出世して幕内に入れたり三役にまでなれるものではない。その内に助五郎は、 「おめえみたいな見込みのない奴は……」と、親方の大五郎に怒鳴られたのを汐に、「そんなに見込みがねえンなら止めよう」と、下総の飯岡へ行き漁夫となった。しかし回向院で修業してきたのは、大飯をくうことと力まかせに、相手をぶちかまし、張り倒すことぐらい。だから助五郎は漁師になっても、喧嘩の方で名をあげ、近くの、 「銚子の五郎蔵」とよばれる者の子分になったが、親分が網元だから、やっぱり漁夫をして働かなくてはならぬ。そこで手土産に十両の金を作ると江戸へ行き、もとの親方の開運山に頼み、  「近国近在相撲世話人」の鑑札を世話して貰った。
 これは天保11年正月のことで、浦川林右工門以下連盟の証状の写しが現存している。つまり助五郎は賭場よりも先に、相撲興行で売り出し、まあ一本立ちになったのである。
 さて飯岡から六里先の須賀山村に、利根川の荷積み場である笹川河岸があった。  ここの繁蔵というのが助五郎より18歳下だが、やはり江戸相撲を志し、天竜山の稽古部屋にいたことがあった。そこで、やはり手土産代りに金を包んでもってゆき、  「相撲の勧進をやれば木戸銭が儲かる。それに旦那衆に取組みに賭けさせておいて、こっちが逆張りし八百長をやらせりゃ丸儲けだ」  と考え、天竜山のところへ相談に行った。ところが、 「2年前に目と鼻の先の助五郎へ、親方衆が証状を出しておるので、それを引きあげお前にとはゆかんそうだ」と断わりはしたが、「肩を痛め相撲はとれねえが力持ちだよ」と、 勢力の富五郎という前頭までいった大男を、まるで厄介払いのごとく戻る繁蔵につ。けてよこした。  さて、なんとしてでも相撲世話人の株をとりたい繁蔵は、やがて思いきって、天保13年7月27日、28日の両日、須賀山村諏訪明神の境内で「角力道の始祖、野見宿弥の碑を建立」という名目で花会を開いた。これを聞き助五郎は、
「ふん……御願いしますと頼みにくりゃあ、世話人の俺が勧進相撲を江戸から呼んてやるものを、花会の博尖で碑を建てようとは笑わしゃあがる……」  と自分では行かず、子分の州崎の政吉を代りに出してやった。しかし諸国親分衆は、なんといっても相撲興行は最大の収益ゆえ、その始祖の碑を建てる花会とあっては放ってもおかれず、 「上州から、大前田萸五郎親分さんご到着。同じく佐位郡の国定村の忠治親分おなり」 「奥州から遥々と信夫の常吉親分のおいで……」次々と大看板の貸元が集った。 そして、「角力道の御先祖さまの碑を建てる花会だとというに、この下総一国の相撲世話人の助五郎が手助けどころか、顔も出さねえとはなんてこった」といった談義が交わされた。そこで戻ってきた政言が口惜しがって、その模様を話すと、みるみる真っ赤になり、
「畜生ッ繁蔵のやつめ、おかげて此方とらはえれえ恥っかきだ」と助五郎は立腹した。  天保15年甲辰8月6日の夜明け前。飯岡の助五郎は、やはり相撲取り上りの博多川の文吉に四隻の舟を仕立てさせ総員二十三名が笹川へ向った。 そして一番手が州崎の政吉、二番手を堺屋台助以下各五名、三番手に石渡の孫次郎、四番手は野打の熊五郎以下各四名、 「それッ」とばかりに勇しく助五郎は左右に子分を従え、岸につくなり舟から飛び出した。
 
 
 ところが繁蔵方では、留五郎というのが討入りを前もって知らせていたから、倍の五〇名で待ち構えていた。しかも病気で寝ていた平田深喜、講談では(平手造酒)とよぶ浪人者まで、 「こういう時に役立てねば穀潰しだ」とばかり、葦草茂る河原につれだし伏せておいた。これでは、せっかく押しかけたものの飯川方に勝味はない。  昼まで渡り合ったが、助五郎の一の子分の政吉は大小一八ヵ所の打傷をうけて即死。
 永井の利兵術や木の内の金治は、笹川の身内に囲まれて持ってゆかれてなぶり殺しにされた。  その他、怪我した者は野手の熊五郎以下五名におよぶ惨憺たる被害に比べ、繁蔵の方で討死したのは、何処の者とも判らぬ浪人者の平田深喜がただI人きり。 後の者たちは猫に引掻れた程の手傷で済んだから、笹川方は大声で勝鬨をあげた。
 さて助五郎は、この旨を関八州代官手付の桑山盛助に届け、木刀と棒だけで乗り込んだ旨を訴えたが、抜刀した疑いがあるとして、「手鎖り村預け」をいい渡されてしまった。 映画やテレビではすぐに刀を抜き斬り合いを平気でやるが、ご維新までは十手持ちの御上御用の者でも、やたらに抜刀は禁じられ犯せば拘留されたのである。
 
つまり、鯉口三寸抜いたらば御家は断絶身は切腹というが、やたらに刀を抜かれては治安維持上、取り締まれないので、抜刀罪は正式には厳しくて、やがて助五郎は江戸伝馬町牢送りとなった。  しかし遠山左衛門尉が天保11年から、北町奉行をしていたので話の判りが早く、8月9月は牢屋に人れられていたが、3月目の10月には掛りの同心によって身柄を釈放された。
 さて飯岡一家はこれでようやく愁眉をひらいたものの、なにしろ身内が何人も殺されたり、片輪になった上に、親分の助五郎まで臭い飯をくってきたのだから、てんでに一同は、  「笹川一家の野郎共め、たとえ何処へ潜りこんでいやあがっても、きっと捕えるぞ」と固く誓いあった。中でも助五郎の伜の与助は無念のあまり姿を変え、 笹川に殆ど毎日張りこんでいた。このため三年たって、「もうぼつぼつ、ほとぼりもさめたろう」と秘かに旅から戻ってきた繁蔵を、弘化4年7月4日夜、笹川河岸の葭草の茂みの中で刺し殺し、 与助がその首をあげて持ち戻った。  そして、その二年後。
 
勢力富五郎を東城村金比羅山に追いこみ、これを村人まで加勢させ500人で山狩りした。  だから一人では富五郎もなんともならず、嘉永二年閏4月29日。山頂の崖の上で、「てめえら、お上の御威光を借りやあかって、薄汚ねえ真似をしやあがるな」と毒づきつつ、 無念そうに睨みつけつつ、持っていた鉄砲の曳金を足指でひいて己れの頸を旱ち、羊歯が絡んだ崖下へと真っ逆さまに転げ落ちた。
 ついで翌月。十手持ちどうしは連絡があるから、成田に近い佐倉の新八からの伝達で、「それッ」と草鞋をはいて出かけて行った飯岡一家は、亡き繁蔵の片腕といわれた清滝の佐吉が、成田不動を参拝して出てくるところを、「この野郎ッ」と寄ってたかって取り押えた。しかし首を叩っ新ってしまっては、教えてくれた佐倉の新八への仁義を欠くから、 「手柄にしておくんなせえやし」と縄つきで渡した。罪状はどうでも、でっちあげが出来るから新八は重罪人に仕立てられて江戸へ送られた。 このため清滝の佐古は5月23日に江戸小塚原で磔にされ首を獄門にさらされた。助五郎は関八州出役関畦四郎より、「その方儀、身銭を切って、悪党共を捕らえたは神妙なり」と青さし銭五貫文の褒美を頂いた。  そこで…… おかみから賞められた郷土のえらい人というのか、昭和四年八月に飯岡の人々は、土地の小学校の校長の撰文で大きな助五郎の石碑を、玉前神社境内に建てて、今では名所になっている。  しかし講談や浪花節をそのままに信ずる人が多いから、殺された繁蔵側の方が同情をひくのか、あまり訪れる人はいない。  つまり二足わらじは悪いやつだという誤りからきているらしい。全く気の毒な話である。
 
 
 

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