桶狭間後の丹羽長秀 第三部
信長、美濃で敗戦する
火皿が濡れて、撃てぬ鉄砲


「それッ、進めや進めッ」と信長は、単騎に小姓の佐脇藤八ら五人だけを率いて桶狭間へうちこみ、それで勝をしめてからというもの、戦は自分一人でゃるものと考えているらしく、 河州を渡って一望千里の軽海ヶ原(各務原)へ、このたびも又まっしぐらに突入した。
林佐渡守を初め重臣の連中も、一年前の埋め合せをしようと、やはり勇んで渡河したものの、肝心な総大将の信長が、自分から真っ先に馬の尻を叩いて、遙か平原の彼方へ、「パカ、パカ、パアン」と突進していってしまって、もはや影も形もない。だから指揮系統がはっきりせず、思い思いに手勢を率いて進んでゆくと、妙な話だが、左右の木立や林が動くような気がする。 だが早く信長に追いつかぬことには、「お前らは何をしとった……居てもおらんでも同じではないか」すぐ厭なことを頭ごなしに云われるのが、目にみえているから、 「脇目をせんと、急げや、急け」ただ前方へと進んでゆく。すると現在の名鉄各務原線の六軒駅と、平行した国鉄高山本線に挟まった柿沢の森で、「ざあ」「ざあ」やにわに雨に降られた。 というと、一天俄かにかき曇ってという事になるのだが、仰いでみると樹々の梢から眩しい陽ざしが突き剌ってくる。空も青く覗いている。 「……はあ、日照り雨じやろか」と鉄砲奉行の木下勘平が、小手をかぎして上を仰ぐとその開いた口許へ、「びしゃあッ」とまた雨が掛ってくる。
「……なんじゃ薩っぱり判らんが、鉄砲の火皿や火縄を濡らすでない……革袋をかけえ」と泡をくって声をかけて廻ったころは、「もはや手遅れで、びっしょりでござりまするが……」と部下の鉄砲足軽共が、びしょ濡れの顔をこすりながら悲鳴をあげていた。 ……馴れんという事は弱ったものじゃ。鉄砲を何年と扱うている者なら、火をつける皿には、すぐ蓋をして仕舞いこみ、火縄も濡らさんように肌につけるか胴乱の革袋へ蔵いこむものなのに、 うぬらは弓衆や長柄衆から廻されてきたばかりの新編成の者共で、ちいとも鉄砲が判っとらん、無知とは困ったもんじゃ」と、鉄砲奉行の勘平が天を仰いで嘆息すると、又しても、そのすこし開けた口許へ、 ばしゃっと雨が浴びせかけられる。「……面妖じゃ。雨というのは細いにしろ太いにしろ、竹薮のように降ってくるから『篠つく雨』ともいうぐらいじゃ。
こんな女ごの尿みたいに、 どさっと降ってくる雨があるもんか」と、鬱蒼と茂った木立を見上げると、「あッ、木の梢に、桶をかかえた人間が視えまする」と目ざとい者が見つけだした。そこではっとして、「おのれ謀られたか」と勘平は地団駄を踏んで口惜しがったが、濡れた鉄砲では、いくら狙いをつけても発射できない。そこで、 「えいくそったれめ、降りてこい」と騷いでいるところへ、天狗面の旗指物をなびかせた木下雅楽助が、馬を走らせてきて、「森の中で日照りをよけて休んどる鉄砲隊の者ども。早ようにこいとの御諚でござるぞ」と呼ばわってきた。しかし、ぐっしょり濡れていては、どうしようもない。だから、「御使番ご苦労である」と云ってから、「これ弟……たんとか殿様にうまく取りなしてくれ……火縄に着火させるのに吹きっ曝ししの草っ原では、すぐ立ち消えしてしまう故、 やむなくここの森へ入ったところが運のつき……まんまと猿のように木々の天っぺんで待ち伏せしとった敵共に、散々に上から水をかけられた」 勘平は、木の梢から梢へ縄を渡して桶を運びあっている敵兵を、忌々しそうに睨みすえ窮状を訴えた。
そこで雅楽助も驚いて、「まさか敵の人工降雨にやられたとは云えぬで、川の中で両岸から伏兵に砠われて苦戦中とでも、しまするで、兄じゃ早よ乾かして追うてきなされ。信長さま御本陣は、申子の丘じゃ」 と、そこは兄弟の情で互いに頷きあって、そのまま使番の弟は戻っていったが、その後がいけなかった。 鉄砲の木下隊が何百という水桶を次々と浴びせられ、濡れ鼠になって動けぬと見てとると、動いていた叢や灌木の蔭から、俄かに弓鳴りがし、矢が束になって、「ビュン」「ビュン」と飛来してきた。 せっかく乾かそうと外へ勢揃いしだした木下隊も、こうなると切羽詰って、また、もとの森へ逃げこむしかなかった。
そして又、改めてザアザア洗礼をうけた。「濡れぬ内こそ露をもいとえ……」うなったら仕様がない。流れ矢に当たるより増しぞ」と鉄砲隊は、そこだけ。雨降りでびしょぬれの柿沢の森に閉じこめられた。
散々な敗戦であった。こちらは隠密に出動したつもりだったが、斎藤龍興の方では、かねて清洲に探りの者を入れていたとみえ、向うは用意万端整え、こちらの進攻を待ち構えていたのである。 せっかく一年かけて整備させた自慢の鉄砲隊が、まんまと敵の罠に落ちて一発も撃てずじまいだったから、後に続くを信じて長駆した信長は、すっかり敵に包囲されてしまい、 辛うじて死地を突き抜け戻ってきたものの、小姓組の大半を失ってしまった。「面白うない」と、この永禄四年五月の第一回の美濃攻めの敗戦は、これまで得意満面だった信長に自信を失わせ、 重臣共には、「やはり先代さま同様に、われらを頼みになさらぬと、こないな事になりまする……」これからは、もそっとよく相談をなされませ」 と、それ見たことかといった顔をされてしまう結果になった。
そこで日々反目が続いた。だから余計に信長の癪に障ったようである。 そこで、老臣共への面当てか信長は、「これ五郎左……家柄か良いによって、われを家老にして遣わす」といきなり呼びつけ頭ごなしに命令した。なんぼなんでもこれには、五郎左も仰天し、 「お戯れにござりましょう」と本気にしないと、信長は、むきになって、「まことぞ」と睨みつけ「励めや」といい、「その代り、うちの鉄砲に、これからは雨が掛っても撃てるように、なんぞ功く勘考を致せ」 とも、つけたしに注文を付けられた。しかし、このたびの美濃合戦でも、いつもの愚図が祟って、ろくに戦功も立てられなかった自分が、思いもかけぬ家老職になれたとは、五郎左には夢でもみている心地である。 すぐさま家へ戻るなり父の十郎左に、「いよいよ丹羽家にも運が巡って参りました」と急に取り立てられた話を報告すると、 「鉄砲も舶来、火薬も舶来の世の中じゃ。人間の舶来種が、家老になる位は当り前じゃ」と内心は喜んでいてくれるらしいのに、負け惜しみするみたいな口をきいた。
だが嫁の花は、手放しで嬉しがって、「おみゃあは、本当に出世する男じゃな」と感嘆これ久しゅうしてくれたが、「して、お禄は、なんぼにして下されたね」と聞いてきた。 当り前の事かも知れないが、これには弱った。なにしろ五郎左は唐突に家老になどと云われたので、初めは冗談位に思っていたから、加増して貰える役扶持の事まで聞いてこなかった。だから黙っていると、
丹羽長秀、家老に出世する
「肝心なことじゃ。何も隠すことなかろ」と花は、家老の嫁としては、すこし情けないが詰めよってきた。 「待て……おれ藤吉郎の長屋へ行って、ねね殿に聞いてくるわ」と、仕方なく五郎左が立ち上ると、花は、きっとして、 「……自分のお禄が如何なったか、他家の嫁さまに聞きに行くことやある」と今度は貫録をつけた口調でせめた。 「というて……」このたびの破格のお取立ては俺にも見当がつかん……しいて有れば、この前、俺の代りに藤吉郎を薪炭とは申せ奉行役に推挙したゆえ、その時の義理のうめ合せに、 ねね殿が、口をきいて下されたものと思う、よって聞きに行かすと云うとるのだ」対抗上、五郎左も、そこで重々しくいった。
すると、「口惜しい」と云いざま、花は爪をたて五郎左に武者ぶりついてくると、 「ふたことめには、ねね殿、ねね殿……となんじゃい。お前ら二人は乳くりあっとる仲じゃろが……そないな事が判らんでどうする。この浮気者めが」と泣き喚いて両手の爪で五郎左の顔をかきむしってきた。 「いて、て、いてて」と肘で顔を隠しながら五郎左は、納戸の方を振り返った。そして父の十郎左に、助けてくれろと云わんばかりに、「これでは話が違う、夫婦喧嘩で組打ちする瞼、小柄な方が良いと推挙なされたが、御覧じませ……このように引っ掻き申す」 と叫んだが、十郎左はどっちつかずで、
「……女夫喧嘩は犬も食うまい」などと逃げをうった。だから五郎左は、それならばと、「こないに爪をたてるは犬ではのうて、猫じゃ」と、我慢しかねて拳固で花を殴った。 それでも花は、まだ鉾を納めず、「いやらっさ……おねねと怪しいんじゃろ」と喚き散らし、止めようとしなかった。
さて、ここまで面白く書いたが、このことの真偽は判らない。 だが信長在世中は、家老といっても、琵琶湖での大船作りとか、安土城の建築とか、もっぱら作事方が専門で、これといった武功もなく、近江佐和山十五万石止りにしか出世できなかった丹羽長秀だが、 天正十年の本能寺の変で信長が死ぬと、いきなり秀吉には重用されだした。
山崎合戦では昔の木下藤吉郎の秀吉に加勢して、若狭と近江の高島、志賀二郡を貰い、近江大溝三十万石の城主になり、翌年の賤ケ岳合戦では秀吉側にたって味方し、その手柄に対して、 越前一国の他に加賀の能美、江沼の二郡を合せ百二十三万石の大守になった。つまり花との約束通りに、百万石になり、「丹羽越前守」とも名のっていたが、天正十三年四月十六日に、この五郎左は死んだ。
すると可笑しな話だが、秀吉は、五郎左の跡目の丹羽長重が跡目をつぐ時に、まず近江二郡を削り、ついで加賀の二郡も減らした。 そして五郎左が死んで二年目の天正十五年七月には、百二十三万石から、加賀松任城の僅か四万石と減知してしまった。驚くなかれ三十分の一の削減である。丹羽五郎左の伜ゆへ親譲りで愚図だったかも知れないが、それにしても、まるで次々と難癖をつけ減らしてゆく秀吉のやり口はどう見ても計画的である。
五郎左の妻花と同様に秀吉も、当人の生きている間は、それとなく、ねねと彼の仲を疑っていたものらしい。しかし、天下取りのためには利用だけはした。 女の嫉妬は恐ろしいというが、男も陰にこもって執念深く、決して女だけの特殊な感情ではない。 しかし敏捷な藤吉郎は豊臣二代で終ったが、愚図の丹羽家は幕末までゆっくり十代丹羽長国まで東北に続き、維新の時には、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加して新政府軍と戦ったが敗戦し、今では「二本松少年隊」で知られている。
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