新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

日本人のルーツはインドか? 浜中寛祐はその著書「契丹古伝」

2019-07-13 15:37:39 | 新日本意外史 古代から現代まで

日本人のルーツはインドか?

 

 

浜中寛祐はその著書「契丹古伝」で、日本人のルーツは大陸渡来の朝鮮や満州人だとしたのに対して、、浜田秀雄も初めは同調していたが、大正時代になると、 インド諸州の難民こそ祖先なりと主張した。その内容は、 「縄文時代初期のまだ土器石器時代の三韓植民地だった日本列島へ進攻してきて、弥生時代に変えたのはインドのモン族とクメール族で、アヴマンテイ朝のインド人が、 今の飛鳥に立てた天の王朝なのだ」とするのが浜田秀雄の提唱する説である。 やがて朝鮮からアソカ王に追われたカリンガ種族がきて、南朝鮮に百済国を作り九州から日本へ渡ってこられた武神天皇の「建御雷神」とし、今は祀られていますのが、

実はインドのピラスプール部族なのであるといい、土佐へ上陸し四国を平定してから、難波に入って物部王国を築いたのも、インドーマウリア王朝滅亡の際の、難民団の軍人たちが姶祖だったというのです。  「シュガン王朝が亡びた時に逃げてきたのが朝鮮では新羅を建国した。それが日本では熊襲となって、やがて応神王朝をたてるようになり、 アヨーダ、ヤの難民が『阿多隼人』とし九州南西を征服して土着した」と、仏教の釈迦のインドと日本古代史の関わり合いを類似言語をもって例証に次々と証明してます。
 つまり紀元前7世紀のアヴァンティ王朝の滅亡時から流入が始まって、次のマラ王朝の滅亡の際に追われた難民がアヨーダハヤで、彼らが後に日本の隼人族となり肥人となるというのであります。  マガタ王朝が亡びた際にはインドのカースト制度を、その亡命者らが日本列島へ持ちこみ、ナーガ王朝やその次のナング王朝が攻め滅ぼされた時も、 彼らは新天地を求めて東支那海より日本へ渡来したり、東胡となって越族と共に来日したとする説です。 つまり、日本の弥生時代というのは、インドの難民が次々と入ってきて青銅文化や水田耕作を教えて成立したものであると致します。  
 
 
さながらシルクロードでも通ったみたいに、みな陸路からきて朝鮮半島経由で、釜山から九州へといった当時施設された南満州鉄道的な思考ですから、今もこの説の信奉者は多いようであります。 しかし、達磨大師もインド人だったのは有名な事実だから、当時からインド人の日本列島への流入は相当数あったのは事実だろう。 だから、インドの小人族ピグミーが相当に流入してきていて、彼らが八幡国群の部族になっていましたゆえ、親大陸政権の耶馬台国群に討伐され、 五体揃った一メートルあまりの生ける人形の「生口」として、珍奇な生き物として中国へ貢進されていた事は否定しません。 しかし、どうして海路を考えないのでしょうか?
現在〈フロイス日本史〉として邦訳されていますが、イゼズス派の東洋管区の拠点はインドのゴアにあって、そこから島原半島の突端の口之津までは、潮の流れにのれば半月もかからず到達とも出ています。  なにも天山山脈を越え、異民族や群盗の跋扈する危険な陸路をとって、中国大陸へゆき、そこから南満州鉄道もなかった古代に、遥々と歩いてくることはありません。
筏か小舟でも日本までなら半月で楽にこられます。マカオ政庁の古文書では、 信長時代の堺までの航路を九日としています。九竜半島には「九の国」が昔はあったそうです。  〈契丹史〉にも「東大古族は、つまり日本人の祖国」とあるくらいでして、彼らが渡来してきてもみな女上位の民族ゆえ、今では女忍者に間違えられている、 「九のいち、と女のことを山が者がいいますのは、国栖とか土蜘蛛とよばれた日本原住民の中で、女がえらくて一の位置をしめていたからである」とありますから、 日本原住民の一種は間違いなく東大古族かも知れませんが、浜田秀雄説では、なおさらに話のきめてとし、高千穂のある南九州にジンムの日向王朝があった頃、 畿内から東海地区に広がってあったのが、「魏史」で書かれている処の「血奴国」で、これはインドのマウリア王朝が滅びた際に海路、筏によって日本へ漂着した一団を祖としているので、 「物部王朝」と当て字するがモウリヤベ王国とします。
 
 
 
  つまり頭の上にチョン髷を結ぶのはインドの一部と昔の日本だったのはこうした関連性によるものである。そして、 〈東日流外三郡誌〉に出てくる処の「陽茂台(ヤンマタオイ=耶馬台国)」が、このマウリア王国にあたり、ビンロウ樹の実で歯を黒く染める「お歯黒」を明治まで日本の風習に残したとします。  インドのハツシーが群れ、を押える為の原始的シャーマニズムで、その女王がヒミコとします。
ボンベイやカルカッタの繁華街には鉄柱に赤ペンキの矢印があり火縄がまいてある。道行く人はこれでタバコの火をつけていて、路上ライターの感があるものだが、これの意味するところは、 太陽教が回教になった7世紀以降には、火を尊ぶ拝火宗徒がインドへ多量流入したということでしょう。  
浜田秀雄の時代は日清日露シベリヤ出兵と、まさに皇国史観の世を迎える時だったので、神武さまをたてていますが、物部王朝のあった頃には、九州には高麗系の薩摩には隼人王朝ができていました。 また、今の岡山辺りには中国の華夏王朝ともよばれ桃原王朝。河内から淡路にかけては百済王朝。 四国の土佐には雲南系のチャンス王朝(後に四国を征服した「長曾我部」はチャンスガメという)。そして東海地方の今の海部郡から琵琶湖にかけての、淡海王朝が栄えていて、やがて大和の飛鳥に進出。 秋田の八郎潟の周辺から北海道にかけては白色人種のダッタンやユダヤの十を掲げるクルス王朝etcと、日本列島では群雄割拠の有様でした。
だから江戸時代になっても、まだ公然と六十余州と称し、大名の支配する各藩は「わが国」と、みな別個にそれぞれが呼んでいた位ですから、もっと人種別に色んな群小王朝が当時は、 白山王朝を始め各地に六十余もひしめきあっていたのがどうも正しいようであります。
 
 
 
 実は遙かアラブより渡来した者らがインドやマレーシアを中継ぎ地点にし、そこの難民と共に、ばらばらの筏では危ないから、鉄のくさび止めをした大船団で次々と渡ってきてもいたようです。  なにしろ暖流と寒流の吹き溜りの日本列島ですから、打ちよせられるみたいに次々と色んな人種が漂着して住み着いた。そこで船団ごとに入植地とし漁業をやり、 粟などをまいて食っていたのでしょう。戦前のハワイや南洋群島には、乗船してきた船別になって各集団を作っていた日本人の習性は、どうもこの時の名残りと中しますか、 その伝統的な風習の遺伝みたいなものを、しみじみと感じます。  
つまり太平洋岸の各群小王朝は、アラブ系、マレーシア系、インド系、雲南系と色んなグループ別に、まだ石斧や竹の弓矢の先住民族を攻めたてて銅文化によって支配し、 それぞれ奴隷の奪い合いや、食料や女狩りで時には争っていましたが、まあ一応はそれなりには無難でした。処がです。
 裏日本の佐渡や若狭湾から新潟にかけ、突如として狗よりも大きく人間をのせて走る四つ足の怪物が出現。 つまり鉄のくさびで連結した筏や大船にのり渡海してきた、鉄剣の鉄の矛をもった一団が押し寄せてきました。馬に驚かされた訳でもないが、先住民はとても銅の剣や武器では敵対するあたわずでした。 かって旧ソ連と日本海航路が開かれていたころは、新潟からバイカル号で直通でウラジオストックヘゆくのが寒流です。この寒流に乗れば燃料は半分で済んだと云われるほど、 太古も海流は海上交通は多かったことが考えられる。
しかも縄文人は何も日本列島へ来たくて来だのではなく、漂着して仕方なく暮していたにすぎないのに対し、「豊葦原の国」つまり牧草がふんだんにある土地だと、狙いをつけ渡ってきた騎馬民族には、 烏合の衆の日本縄文人達は、生まれて初めてみる馬に驚いた訳でもなかろうが、銅剣を叩っ切る鉄剣の恐しさに、みな仕方なく降伏してしまったのが、〈旧事本紀〉にでてくる処の、景行さまと八坂姫との婚儀でしょう。 江上波夫説の騎馬民族が韓国経由渡来や、浜田秀雄説のシュードラ王朝の難民が越族と共に韓国経由来日説も間違いありませんが、釜山から九州へではなく裏日本へと寒流で渡来したのが正解でしょう。
 
 
 
 現在でも北朝鮮の貧弱なボロ漁船が次々と日本海沿岸に漂着するのがその証拠です。
世界風俗史上、頭ヘチョンマゲをのせた国民はインドのベンガル人と日本人だけしかいないとの、浜田説の日本人のインドールーツ説を全面的に否定する気はありませんが、 昔は南満州鉄道PRの国策宣伝。現代では平山画伯の若い頃の画を沢山もっている新聞社社長や画廊の宣伝で、文化流入を陸路シルクロードにみなしてしまうのは困りものである。 世界地図か地球儀をよくみてから考えて貰いたいものです。  
北方の越の民が入ってきた地方だから、コシの国といい、今も越前・越中・越後というのですし、若狭の神宮寺は今も「北狄修法」をやっています。日本列島には表側と裏側との反対の二面があります。  が、せっかく騎馬民族が平定したものの、豊葦原の牧草だけでなく、高梁や米もとれる瑞穂の国と判ると、今度は改めて朝鮮半島から、中国人や朝鮮人が植民地にするため侵入し、古墳時代となるのです。 つまり片っ端から原住民を捕えて奴隷使役で、大掛りな円型古墳を作らせついでに生き埋めでした。 しかし、人口の少なかった時代だから、粘土の人形即ち人間の代用に埴輪で間に合わせる時代となるのです。


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