新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

ことわざから判る日本史 「鉢合せ」 ヤクザの仁義は神祇が正しい

2019-11-04 09:54:36 | 新日本意外史 古代から現代まで
           ことわざから判る日本史

「鉢合せ」

 

この言葉は現在は、ばったり味方や仲間同士が逢ったり、暗闇でばったり突き当たったりする表現に何気なく使われているが、実際の意味は全く違う。

 日本語の漢字は昭和の初め頃までは、当て字は当たり前だったから、
 (夏目漱石さえ、サンマを三馬と書いているぐらいである。秋刀魚と書いてさんまと読ませるなど漢音にも呉音にも無い)

 この鉢の字は「八」の当て字なのである。
日本列島に沿海州から入ってきた騎馬民族は、四ッ足の馬からなぞえて「四ッ」と呼ばれていたが、この騎馬民族同士が顔を付き合わせても「ハチ合わせ」とは謂わない。 また馬の鼻つら合わせともいわない。
遠く西南方面(アラブや印度マレーシア、インドネシア)から黒潮暖流によって流されて来て 日本列島の瀬戸内や太平洋岸に上陸して住み着いたのが縄文日本原住民で、
日本に上陸せずに其の儘太平洋を流されていったのが、ハワイや北米まで行っている。

(何故にこの海洋渡来系を「八」と呼称するのかの意味は後段で解説する。)
だから八の民どうしだけが行き会った時だけに「鉢合せ」というので、何も双方のおでこを ぶつけあうことではない。

  江戸期何故に、貞亨四年に「生類憐れみの令」が出されたのかという理由が現代では間違って解釈されているが、本当の理由は、
この法令が発布される前に、当時全国的に 騎馬系の製皮業者は皮の需要が多くなり大変儲かっていた。だが彼らは反仏教派である。
 だから彼らの勢力を弱めるためと、仏教に転宗させるために「皮を剥ぐな」という代わり(猫を追うより皿を引け)とばかり、
この法律を発布したのである。
江戸市中の番太郎たちでさえ六尺棒で、犬を見つけ次第撲殺して番屋に吊るしていて、製皮業者に売っていたゆえ「イロハ歌留多」にも「犬も歩けば棒に当たる」とある程犬殺しは激しかったのが実情である。
将軍綱吉は四谷と中野に大きな犬の隔離屋敷を構えて、乾しイワシや白米を与えていた。
この当時全国的に飢饉があり江戸でも生き倒れが多かったのに、犬には豪勢な食事をさせて保護していたのは、全く残酷な話である。
現在綱吉を名君として書いている歴史物がある。
しかし、人間と犬を真逆に扱い苦しめた綱吉を果たして名君と言えるだろうか。

 江戸では製革業者と同族騎馬系である旗本も多く居て、水野十郎佐衛門で有名な 「旗本神祇組」や民族の色である「白」を目立つように刀の柄にまいた「白柄組」が市中を闊歩していた。
 一方の仏教系の寺では幡随院長兵衛が寺側のガードマンで水野たちと対立していた。
長兵衛は歌舞伎や講談で町奴、侠客として、出自は武士だったとの説も在り、有名だが、子供の頃から寺に売られた奴隷だったので、市中の各寺の腕っ節の強い連中を集め、幡随院で武闘の稽古をして各寺を護ったに過ぎない。

しかし、綱吉がこれだけ過酷に神信心の民を仏教に転向させようとしても、抵抗が激しく、結局は御目見得各以上の旗本が江戸では二千人以上が各地の囲い地(被差別)に 一斉に追放された。
 これは日本全国に及び、連累する騎馬系の民は十数万人が法令で追放されている。
 ありていは、勝手な所払いと違い、各地の別所とか院内、山所と呼ばれた除地へ強制収容されたのである。
これが幕末になると天保の飢饉で、隔離された彼らの居住地でも食料がなくなってしまい、
 (彼ら騎馬系の民は絶対に農耕はしないため)やむなく餓え果てて山から下りて近くの街道へ下りてきた。

この現象は全国的におきて、日本人は多少色の黒いのや白いのは居ても
基本的には皆黄色人種で見分けが付かないから、「てまえ、生国と発しまするは・・・・・・」と
相手が同族かはたまた仏教徒かの区別をつけるため自己紹介をしたのである。
今ではヤクザの「仁義」と間違っているがジンギとは神祇のことで、当時は強制的に限定居住で、生国が判れば人種がわかるから聞いたのである。

  つまりこれが「神祇を切る」(調べあう)ことであった。
日本人は過去や歴史にロマンを求めたがるので、今では「仁義を切る」と綺麗事にしている。
 だが要は同族同士は争わずの「同門同火の禁止」の掟があり、うっかり同じ宗旨の者どうしが鉢合せしてはいけないから先ず自分から名乗りを上げ、八の者である事を先に伝え、同族どうしであると断って現代やくざの先祖は一宿一飯の厄介になるのである。

  余談だが昭和50年頃まではヤクザの若い者はしきりにこの仁義を切っていた。
街中の路上で筋者どうしが逢ったとき「花仁義」を切るのだが、次のようなものである。
 「かよう大道つまおりまして青天井、見晴らしの仁義、失礼さんに御座います。
 手前生国と発っしますは関東に御座います。関東、関東と申しましてもいささか広うござんす。
 荒川関八州水豊かに流れますところ、金波銀波も波高き東京湾、その名変わりまして大東京。
 手前生まれも育ちも東京です。
手前縁持ちまして従いまするは渋谷、強力会に御座います。
幹部勤めます華岡組 楠木岳臓、手前若い者、姓を立花、名を健二と申します。不束者ですが以後万端宜しくお願い申し上げます」


 尚、現在のヤクザは代紋(組織のバッジ)を見ただけで格が判るし、幹部は名刺で済ませている。

        「八の民」

 日本は中国語のイアルサンスウからとって、学校教育でも数学を「算数」と使っている。
 また八は日本原住民のことを、占領軍である唐の人間は見下し差別し馬鹿にして「パア」だとしてきた。何故なら原住民は自分達の意に沿わぬ漢字や仏教を強制され、烈しく抵抗したからである。 勿論、抵抗虚しく奴隷となった者達も多かった。
だから占領軍の偉い様たちは彼らを「反体制の民、まつろわぬ民」の意味で「鉢屋」とか「ヤ」とも呼び、また「八幡」「ヤ衆」と呼んだ。
 これは原住民でも海洋渡来系の天の王朝の人間である。
 一方、騎馬民族の末裔達のことを、馬が四つ足だから「四つ」と呼んでいた。
これらは江戸時代になると、江戸以北に二千万人から居る、これら原住民の反乱を 防ぐ意味で四つの弾佐衛門を頭に、その下に六人の手代を置いて、相互に牽制しあう 制度を敷いていた。

この弾佐衛門は十万石の格式で毎年八朔と正月には江戸城に登城を許されていた。
 (本名矢野内記で、幕末には薩摩の益満休之助に倒幕の加担を頼まれるが断っている)
  詳細は 此処にある。 

http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/danzaemon.htm

またこの六人の手代といえども四、五万石の格式が在ったのである。

   (六人の手代)

一、山田浅右門(八の部族)首切り専門。
二、石出帯刀(四つの部族)牢屋奉行で三百石の旗本になっている。
三、車善七(八の部族)鈴が森の刑場担当。
四、山谷権兵衛(八の部族)奥州支配。
五、花川戸助六(四つの部族)吉原遊郭支配で、江戸以北の屋根付興行の
   一切を仕切っていた。

六、三河松助(八の部族)俳人として有名で俳号井上石香。
   馬飼と呼ばれる猿回しや辻芸人の取り締まり担当。


しかし拝火教徒である「祇」の者を何故に「八っ」と呼ぶのか今だ定かではない。
だが江戸時代の天野信景はその著作<塩尻百巻>の中で、非農耕系の騎馬系の飼戸(四戸とも書く)の民に比べて、農耕の他に漁業労働も課役されていた天の王朝の末裔は、遊牧民族と違い土地に定着して生活していたため、 その末裔は数多く、四つの倍ぐらい居たのでそれゆえ「八つ」と呼ぶと解明している。
今より4世紀も前に尾張に生まれた彼の解明が正しいと思われる。
現在一般に知られている「八」の記録として「安国寺文書」の中の一文で、豊臣秀吉の事を見下した書き方だが「さりとて秀吉は八の者にて候はば・・・・・・」
 
 とあるのを、紺屋の白袴の歴史屋達はそろいもそろって、意味が全くわからず、
明治以前の文章は、 何々はと言わず、文章に書くときも何々わだったのである。
こんな事も知らず、「さりとて秀吉は はの者」と読み違いをして、
秀吉はその将来を高く買われていたなどと珍解釈しているくらいの処である。
 だから尾張の藩士で、天の王朝の直系の血を引き、その姓も天野を名乗った元禄時代の信景の歴史観の方が、現代の歴史屋より数段正しい。

そもそも「八」は甲骨文字で2本の線で表すもので、五六世紀に岡山方面で使われ、
西暦663年の白村江の戦いの後には、勝った方の唐の勢力に、持ち込んできた仏教と漢字に、強制的に「国の字としろ」と命じられ、そのまま取り入れられている。

だが唐の本国では現在のような数字ではなくこの八は「別、反、片、辺、判」
といった意味で、つまり、左右に二つに別れている字体からして、これは、相反するもの、つまりは大陸の占領軍に対して、朝鮮半島の百済人のように祖国を失って すぐさま降伏し、唐国に帰順帰化した人間と違い、 日本原住民は辺鄙な地に隠れたり、抵抗し戦ったので、素直でない徒輩として、つまり
唐にまつろわぬ連中とか、相容れない反体制の分離抵抗派として「八」文字を充てて、「パア」つまり愚かな人間として奴隷にしたのがどうも「鉢屋」の本当の処であるようである。


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