新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

考察 明智光秀 「明智光秀は金持ちだった」

2019-07-01 10:00:21 | 新日本意外史 古代から現代まで
光秀の実体は知られていない。講談では、「明智十兵衛は浪々の生活をしていたから、ある日客を招いたが、そのもてなしに、はたと困った。ところが手拭いを姐さん冠りした妻女が、いそいそと酒や肴をみつくろって出してくれて、それで客に対し十兵衛は恥をかかずにすんだ。が、さて、客の帰ったあとで、『今日の食事にも事欠く吾が家の暮らしに、よくも銭の調達ができたものよな』と十兵衛が不審がれば、妻女は、無言のまま畏って、かぶっていた手拭いをぱらりと取った。それを見た途端、十兵衛は思わず『ウウン』と唸り、『そちゃ、己が黒髪を、女ごの命と知っていて切ったのか。それを売って銭に換え、この十兵衛のため、客のもてなしをしてくれたのか‥‥』と泪ぐめば、
『いとしきお前さまが為ならば、髪の毛など切り売りするも、いとやすきこと‥‥夫婦の仲じゃありませぬかいな』と妻女は首をふり、にっこり笑ってみせた。
『済まぬ。きっと立身して、そなたを仕合せにしてみよう。なあ、それまで待ちや』と十兵衛は、己の妻の手をとって感謝する」という、仕組みになっている。つまり人
間の感情の中の底辺ともいうべき人情話で、ホロリとするものを意識的にかきたてようとする俗受けを狙った趣向で、そして、「かく貧窮の中にて浪々していました十兵衛をば、織田信長が召し出され、とりあえず五百貫にて奉公させましたところ、妻女がよくできました方ですから、貧しいながらも、こざっぱりとした身仕度で登城させますし、朋輩衆が家へきても、これも快く接待する。だから、段々出世して、ついには近江坂本二十万石から、丹波亀山五十万石にまで立身しましたなれど、時に天魔に魅入られましたか。その大恩ある信長公を討ち奉り、これが世に言う『明智の三日天下』たちまち日ならずして、太閤様に攻め滅ぼされ、自分は、小栗栖村の百姓長兵衛に首をとられてしまう羽目になるという、因果応報。天は正しきを助け悪は必ず滅びるという物語」となるのである。
この講談が、今日の光秀に対する常識になっている。もちろん、虚像である。
実際には、信長と光秀が初めに正式に逢っているのは永禄十一年七月二十七日であるが、<細川家記>によって、すこし詳しく引用すれば、
「明智光秀は、その臣の溝尾庄兵衛、三宅藤兵衛ら二十余騎をもって七月十六日に、朝倉の一乗谷から出てきた足利義昭に供奉させ、穴間の谷から若子橋を越え仏ヶ原のところでは、明智光秀は自分から五百余の私兵を率いて待ち、ここから美濃の立政寺へ二十五日に赴き、二十七日に信長と対面」とある。
 いくら妻女がロングロング・ヘアーであったとしても、又、女の髪の毛は象をも繋ぐといったところでアラジンの魔法のランプであるまいし、六百名に近い家来が、毛髪の切り売りぐらいで、賄えるものではないと想う。
 一人平均少なく見積もって十万円給与とみても、六百名では現在なら、人件費として六千万円の計上である。年間三億六千万の棒給を出すためには、企業ならば、その収益は年間三十億は必要である。
そうなると、当今なら五百億ぐらいの売上げのある会社でないと、このバランス・シ
ートは保てない。まぁ話半分とみて、光秀の率いている私兵の半分が、寄せ集めの臨時雇いか、野次馬的な者とみて、これを除外したとしても、江戸期においては十万石。(一万石で百人出兵の定法だった豊臣時代でも、これは五万石以上の実力であり、格式である)しかも当時、牢人の光秀には所領というべきものはない。つまり土地からの「作毛」である収穫物の米麦で、これは賄っていたのではないということになる。
   細川家記は謎だらけ

 そこで、この記述によると、光秀は貨幣で給与を払っていた事になる。だから牢人とはいえ、えらい金満家だったということになる。しかしである。<細川家記>では、なお、この時代たるや、「明智光秀は大砲の妙術を心得え、朝倉家にて、五百貫の禄を得ていたが、細川藤孝が越前に滞在していたとき、足利将軍家の衰徴をなげき、深く交り互いに談合した。その後、義昭から直接に、光秀に対して、織田へ頼れるようにと依頼した。ところが、鞍谷某に密告されて、光秀は牢人させられた」という時点が、これに当たる。つまり、「一貫一石」という換算でゆけば、五百石どりから、光秀は扶持離れした状態である。それでは全然計算が合わない。まったく矛盾しきっている。
それに当時の五百貫取りというのは、鎧冑をつけ馬にのり、左右に護衛の為の脇武者をはべらせて出撃する一人前の将校の最下位のことである。家来が二人と六百人とでは違いが甚しいと思う。
 それに(山内一豊の講談)で、間違って伝えられているが、この時代は、女房が臍くりで金を払ったからといって、馬に乗れたり、勝手に旗指物などつけられるものではない。身分によって、初めて馬乗りになれたり、許可があって旗指物は背に立てられたのである。これは戦前、九段の軍装店へ行けば、銭さえ出せば将校の肩章でも軍帽でも売っていたが、それを買ってつけたからといって、自分勝手に兵士が将校に昇進できなかったのと全く同じ事で、これでは光秀の話も辻つまが合わない。
 さらに<細川家記>では、あくまでも、
「永禄十一年十月九日。光秀は岐阜城へ赴き信長に逢う。信長喜んで、これに朝倉家同様に、五百貫の扶持を与えて召抱う」とある。しかし、これに対して、(それでは光秀の当時の勢力からみて、なんぼなんでも、五百貫では安かろう)というのでもあろうか。悪書とよばれている、<明智軍記>というのは、禄高を修正して、約十倍にして、
「猪子兵助の推挙により、美濃安八郡で、四千二百貫の闕所の地を与えられた」とする。
だが、この本は、当時の講談本以外の何物でもないから、あまり信用できない。
もっとひどいのに、この他、古書では、<校合(こうごう)雑記>というのがある。
これでは、「光秀は、もと細川藤孝の徒歩(かち)武者で、のち細川家より出て信長公に仕え、その当座も徒歩武者の身分であったが、やがて信長の気に入られ、知行を増やされ、疲れ馬一疋にも乗れる身分と出世し、信長が近江を手に入れると、坂本城を築いて、これを光秀に預けた」
 となっている。ところが坂本城というのは信長が築いたものではない。
これは森蘭丸の父の三左が篭城して討死した近江宇佐山の志賀城の北東四キロの戸津ヶ浜に、光秀が自力で建築したものである。
 志賀城を信長から貰って一時居住した事は、<元亀二年記>という史料に出ているそうだが、その翌年の正月には、つまり、
<兼見卿記>の元亀三年正月六日の条に、「明十於坂本、而普請也」と出ている。
<年代記抄節>によると、「前年十二月より起工」とも出ている。そして、<兼見卿記>の元亀三年十二月二十四日に、「坂本城の天主作事工事以外は、あらかた落成し、その結構壮美なるには眼を愕かす」と出ている。もし信長が建ててやるのなら、戦時目的であるから、きっと実用一点ばりの筈である。しかも悠長に一年余もかけるわけはない。これは志賀城の古い石畳も利用しただろうが、明智光秀が自腹をきって身銭で建てたものである。こんな判り切った事でさえ、現代になると、すっかり間違えられてしまい、「信長から坂本城を貰った」と言われている。
 まあ時日の隔りが遠いから、これはやむを得ないが、その当時の<校合雑記>が誤記しているのは、あきらかに作為である。(明智を細川家の下風にあったもの)として世に宣伝したい為の、これは意識的にばらまかれた(ある種の目的)を明確に、露骨に提示した、当時の、今いうところの「怪文書」に他ならないと考えられもする。
 さて、このすでに二年前の時点において、<言継卿記>によると、
 元亀元年二月三十日(太陰暦)の条に、
「信長、岐阜城より上洛し、明智光秀邸を宿所となして泊り、三月一日に禁裏へ伺候」とある。
姉川合戦の後でも、七月四日に上洛し、七日まで、信長は近臣数百名と共に、当時はホテルはなかったから、ゆっくりと明智邸に滞在している。
五百貫どりや四千九百貫取りの身分で、まさか、何百人も収容できる大邸宅を、いくら当時はギルト制で大工の手間代が安かったにしろ建てられるものではない。それに、泊めるのに、貸し布団屋は当時なかったろうと想像される。つまり光秀は豪勢だったのである。そして、「信用とは、金である」と今でも言うが、当時とて、それは同じだったのだろう。
      光秀は秀吉より出世が早かった
光秀が初めから金持ちで、京では大邸宅を構え、私兵も相当に抱えていて、信用ができたからこそ、信長は彼と交際し、やがて自分の幕下へ引き込んだのではあるまいか。
それが立証できるのは、<原本信長記>によれば、秀吉が、五万貫の江州長浜城主に登用されるより、既に一年有半前に、
「(滋賀郡の内にて扶持を与う地侍の進藤らは、光秀の寄騎たるべきこと)と、佐久間信盛への信長さまの朱印状の中に記載これあり」と、それらの資料にはある。つまり滋賀郡一帯は既に光秀領となっている。明智光秀は、秀吉よりも先に、もう一国一城の主だったのである。
つまり講談本や俗説では、貧窮しきっていたか。又は、せいぜい五百貫ぐらいの乗馬将校の最低、旧陸軍なら、せいぜい中尉どまりであったといわれ、それゆえ出世したいばかりに努力をしたはよいが、ついに慾を出しすぎ信長殺しをしたのだと、その謀叛説を説明する。
 しかし事実は、全く違うようである。
 彼は信長に逢う前から、極めて裕福だったからこそ、永禄十三年つまり元亀元年正月二十三日に、織田信長と十五代将軍の足利義昭の間に取換された文書が現存して、この内容は、きわめて重要なもので、
「一、諸国へ将軍家として内書を出す時は、信長に仰せ聞かされ相談してくれたら、信長も、それに添状をつけて出すから、むやみに勝手に内書の乱発はしないでほしい。
一、公儀である足利義昭に対し忠義を尽くした輩に、褒美や恩賞を与えるのに、しかるべき土地がなければ、言ってさえ下さったら信長の領分から、差上げも致しまする。
一、天下の政治を信長に一任されたからには、誰彼の区別はせず、また一々将軍家の意向を聞かなくとも、信長が、これを成敗する。つまり思い通りにやらせて頂たいものである。
一、天下を安穏にするためには、禁中の諸公卿の動きに対して油断され、これに乗じられたり煽動されるような事があってはならないと、御留意下されたい」
というものであるが、その書面に光秀の地位は明白にされている。
この五ヶ条の通達にあたって、足利義昭の墨印が頭書にあって、末文に「天下布武」の信長の朱印があるが、双方の代理人として、
織田信長方は、日乗となっていて、足利義昭側代理人は光秀となっている。
しかも実物は、<成簣堂文庫>にあるが、信長の朱印の上部において、「明智十兵衛光秀尉、殿」と、敬語がついている。
つまり形式的であったとしても、この時点においては、光秀は信長から公文書においては、敬称をつけて扱われる上位、または対等の地位にあったことの例証である。なにしろ(地位)とは、力であり、そして金である。
しかし美濃の明智城を出てから流浪した光秀が、一時にせよ朝倉義景に仕えていた事は、日本歴史学会会長だった<故高柳光寿著・明智光秀>の十四頁にも、「光秀が朝倉に仕えたと思える良質の史料は、五十嵐氏所蔵の『古案』のいう古文書集の中にある」と出ている。だが名の通った家来としては、他の史料には、現れていないという。そんな、名もなく貧しき一武者にすぎなかった明智光秀が、なぜ一躍、そんな大金持になってしまったのか、この不可思議さえ解明できない侭に、他の史家は見ぬふりをして逃げてしまい、高柳氏のみが摘出して引例しているが、その謎は解けていない。
しかし、これが後の「信長殺し」の決め手にもされる理由で問題である。一つの鍵なのである。
 さて牢人した途端に何百と召し抱えた家来の中の溝尾庄兵衛や三宅藤兵衛は、小栗栖村で光秀が倒れるまで、陰日向なくつき従っている。彼らは世にも得がたき人材で、これは決して虚妄の幻の軍隊などではなかったという証拠でもある。
現在確定史料として信頼されている「細川家記」だが、これが如何に欺瞞に満ちているかは、
謎の細川忠興 本能寺の変にも関連 として以下を参照されたい。
https://blogs.yahoo.co.jp/yagiriannai/36151856.html





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