新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

足利時代に見る日本と中国の深い関係 天台真言宗の開祖は中国人 禅問答とは

2019-05-06 12:14:20 | 古代から現代史まで
足利時代に見る日本と中国の深い関係
天台真言宗の開祖は中国人
禅問答とは
 
 
平安時代が終わり、鎌倉時代の源平の後の室町時代とよばれる足利期ほど近世で中国と交流の多かった時期はなかろうと想う。  当時、安徽省からたった朱元璋が燕京を落し、蒙古族を滅して新たに明国をたてた。  そして半島では高麗の恭順王を倒した李成桂が、都を漢陽(京城)に移し明の封冊をうけ、国号を朝鮮とした。だから、これまでの歴史家は、ともすれば簡単に、  「新興の明国と朝鮮が、その勢力を東洋海上へ延し、そこに日本列島か在り足利政権が、たまたま有ったから通商交易をしたもの」  といった解釈をしているのが、日本と朝鮮と明国の三つ巴の関係である。だが、そんな、  (そこに海があったからヨッ卜で渡った。すると太平洋をのりこえてしまった)とするごとき帰納法で通るものだろうか。  なにしろ明国ができた後でも、林賢の反革命反明運動は日本を基地としその援助をうけ、蹶起する企てがあった程だから、 「朝鮮ができ、明国ができた時点て、同じように足利政権かできたのは、どうしても関連性がある」  といった推理もできようと言うものである。だが、それは、 (日本から応援に行った連中が、元の順帝を朱元璋の為に倒した)とか、(高麗王が、僧遍昭を重用しその暗示によって帝位を遍昭の子へ譲ろうとしたのに対し、わが日本人が、 天に二つの陽のないごとく、この世に秩序がなくてはならぬと、李成桂へ義によって助太刀し、新しい国家建設の手伝いをした……)というのではない。 ここで指摘したいのはその反対である。が、だからといって、 「高麗や元が、日本を狙って失敗した文永・弘安の役の結果、北条氏も足利氏に取って代られたのである」とか、又は、 「その両役の失敗が、やがて高麗や元の国をして疲弊させてしまい、為にそれぞれ滅されるに到ってしまったのゆえ、遠因として日本が存在するのである」といったような、廻りくどい話ではなく、
京の五山の存在意義
 「足利幕府の開祖である尊氏は、南朝方を討ち払うのに、明や朝鮮と何らかの形で結びっいていたのではあるまいか」とする疑問なのである。つまり言い替えれば、  「通商・国交」といった友誼的な国際関係のあり方ではなくて、足利氏は室町御所を作る初めにおいて、向うに何らかの負債があったのではないかとする見方である。  というのは、余りにも足利氏が明国に対し軟弱外交すぎるため、どうしてもその疑いが浮ぶのである。しかし、それを解明するに先立ち、まず問題にしたいのは、「宗教」つまり当時の五山である。  もともとこれは南宋の官寺制度であって、その体制権力者が住持を任命する最高位の禅寺五寺のことで、建武中興の際、足利尊氏は、  「南禅、東福、建仁、建長、円覚」の五寺をもってしたが、この住持がすべて日本人ならば、体制権力を握っていたのは足利氏と認められもするが、そうでないらしいからして疑惑が湧く。  つまり、それらの住持の中に明国系が居たとすれば、当時の体制を蔭で支配していたのは、海外勢力ではなかったかとの謎である。  そんな馬鹿げた事はなかろうと思うが常識的に考えてみて変なのである。
 なにしろ足利政権は、さながらキリスト教国の王が洗礼をうけ、ローマ法王の僕(しもべ)であったごとく、 「大統」という宗号を五山の住持からうけ、施政の指図までされていたのは可笑しい。足利尊氏が、夢窓国師に師事していたのはよく知られているか、足利義満も、義堂禅師の『空華日工集』康歴三年 (天授五年)十一月の条をみれば、「府君(義満)孟子の中の伯夷につき問う」とか同年十二月三日の条には、原文のまま引用すれば、しきりに 「府君問以文武治天下、余日修徳為文正」と説法している記載がある。さて、(空華日)なるその日記体文集の冠句だが、これは現代語で訳すと、「世界における中華民国と日本国」といった意味合いになるからして、どうしても義堂その人もやはり昔の中国人つまり明国人という事になろうかと考えざるを得ないのである。
 
 しかるに、徳川時代の御用学者が漢詩を日本人でもよく作り得るのだと誇示するために、義堂ら五山の僧侶を、みな日本人にしてしまったような嫌いもあるのである。つまり、  「禅僧は求法のため多く中華に遊べり、これは元代における補陀僧如智、子曇、寧一山らが本邦に遊ぶに当り、宋元性理の学を伝え、もって吾が邦人の禅僧みな遊学し、絶海が明に留学するや、 真寂山の竹菴禅師らと詩の交換をなし、曲流幽遠の妙を讃えられ、汝霖妙佐も明に留学し学士宋漉と文を交え賞せられ、共に『本朝通鑑』に収めあり」  と、林羅山の『本朝編年史』を書き改めた林鷲峯も誌している。
 さて、こうしたものが徳川家で林家に委嘱し書かせた神代から慶長十六年迄の漢文の編年史となり、新井白石の『読史余論』の底本ともなったため、明治大正昭和の現代でも、 「正史」とよばれるものの正体たるや実はこれなのである。
 
 徳川初期の林大学頭の史観が、堂々と今もまかり通っているのは可笑しいが、「歴史の解明」などは余り銭儲けにならぬからして、一銭の得にもならぬ事を誰がやるかといった吾が国民性によって、 いまも昔の優に、「有り合せのもの」で間にあわされ、それが、日本歴史として通用しているのだろうと想われる。
 天台、真言宗の開祖は中国人
 だからして、足利時代の五山の名僧達ばかりでなく、遡った時点でも可笑しなことが、極めて多すぎるのである。その、『本朝通鑑』の桓武帝の御代をみると、 「延暦八年つまり七八八年」に比叡山の頂上に延暦寺を創建した僧最澄が、その十六年後になってから、辻つまの合わぬ話であるが、せっかく山頂に大きな寺を建立したか、何を祀って何宗にしてよいか判らぬから、 その選択をしにゆく為などとは書いてないが、 「延暦二十三年三月二十八日、遣唐使派遣。僧最澄、並びに空海これに従う」とあり、「翌二十四年(八〇五)八月九日、唐より帰朝せる僧最澄は勉学してきたる悔過読経を誦し、唐国の仏像を殿上へ献じ、 許しをえて天台宗の布教を始め、その開祖となる」とある。そして、「翌々年の大同元年(八〇六)八月に、二年の留学をおえし僧空海も唐より帰国し、真言宗を初め高野山を開き、金剛峰寺をその六年後に落成さす」 と、いう事になっている。これが比叡山と高野山の起源だが、今のようなジエッ卜機の時代ではなく、貿易風が春には大陸へ吹き、夏には日本へ吹き寄せてくるのを利用しての海上航行である。  だから此方の港から向うの港迄でも三十余日掛っている。そしてそこから徳宗皇帝や憲宗皇帝のいた長安の都は、現在の陜西省の西安だから、港から陸路一月では行けなかったろう。
 
 つまり往復するとなると、風待ちをみれば早くても半年は要する。なのに最澄はその期間を引けば正味一年。空海の場合でも僅か二年たらずで向うで言葉を覚え、勉強して各宗派の奥儀をきわめてきた事になって居る。だが、常識で考えて、はたしてどんなものだろう。 昔の人は頭が良かったのだろうが、現在ではアメリカへ留学しても、最初の三年はまずミドルか、ハイースクールで言葉や生活に馴れ、それから志望方面に進むので最低五年はかかるといわれるが、 それでもその途の奥儀などきわめて戻ってくる人はあまりいないようだ。
 だからして金達寿氏のような人は、「彼らは、みな朝鮮の人間であったのだ」とするが、いくら昔の彼らが頭脳明晰であったにしろ、日本へ来ていて又、唐へ行きそして覚えてきたのだといっても、 それはあまりにも早業にすぎはしまいか。それゆえ彼らは初めから向う生れの唐人の布教使で、日本の遣唐使が戻るとき一緒についてきて、そして日本で教えを広めたのではあるまいかと想われる。 でないと、僅か一年や二年たらずで異国へ修業に行き、そこで開祖になって戻ってこれるのはあまりに変だからである。
 
 さて、足利時代の五山の名僧達も、「叢林の四絶」と袮される得厳や龍派の作った詩と、いわゆる文人墨客たちの和製漢詩と比して、余りにもその出来が違いすぎるのは周知のことである。 それに日本では用いない南宋型の平仄の合せ方などにも首を傾けたくなる。 何しろ建仁寺の僧であった龍派などの仕事は、 「唐宋金元の四代にわたって知られざる絶句千余首を集めて一冊とし、これを新撰集と名づく」といった有様である。これでは、とても日本人のやれる事ではない。つまり彼らは何も残して置かなければ、 日本人か明国人か判らないのが、一見それと判る証拠を余りにも残しすぎて居る。しかし、関白にもなった一条兼良喞の、三男尋尊僧正の書き残したものでは前述のごとく、  「海外から渡ってきた者らは、堀川から三条にかけてあった囲地の中に一応は収容された。そして彼らはそこで日本の言葉や風俗習慣を習ってから、洛中洛外の有名な寺の貫主や門跡に迎えられて行った……」  とあるのは前述したが、つまり明国人の坊さんで向うであぶれたのも、ドサ廻りで日本へきて、天晴れ名僧智識になったのも多かったらしいが、それよりも当時もてはやされたのは、 一見それと判る異邦人、つまり色黒なインド人や、わし鼻のアラビヤ人だったようであるといえる。
「禅問答」とは……
 しかし誰もが難しい日本語をすぐ覚えたわけではなかったろう。  達磨大師の面壁九年というのも、何も悟りを開くために壁に九年も向っていたのではなく、インド人であった彼は、なかなか日本語が覚えられず、やむなく黙りこくって気の毒にも睨めっこをしていたのだろう。 がこれではタレントには使えない。そこで執事や役僧が大げさに手振り身ぷりで、善男善女を集めて、パントマイムを演じてみせ胡麻化したのだろう。  つまり「禅問答」なるものが変に聞えたり、手真似で済まされていたのも、達磨大師程でなくとも日本語をすらすら喋舌れる者が、極めて僅かだったので、ぼろを出さず、「有難味」をつけるため、 そうした演出がなされたものだろう。さて、とはいうものの、
 
「明国人はもとよりそうだろうが、眼色毛色の変った人間が、彼ら自身の冒険心や出世欲で、わざわざ日本へきて五山の住持や僧侶になった」とばかりも考えられない。  当時は船賃も高かったろうし、民間人の勝手な渡航も禁止されていただろうから、そうした日本向けの者を発送してよこした先とは、やはり明国の官憲か、その取締下の向うの本山ということになるだろう。
 また受入れ側が、堀川あたりへ今でいうコロニーを設けたのも、これまた民間のタレント呼び屋の 仕事ではなく、室町御所直営かその保護下の五山となれば、これはどうしても双方ともに、 国家最高機関どうしのやりとりという事になる。  のち鎌倉五山ができ、五寺が十寺になったりしたが、その住持の任命権が、どうも日本の足利氏だけの独占でなく、明国にも容嘴権があったらしい点において、
茶博打で女を賭ける
 「室町時代の日本は表むきは独立国であっても、蔭へ廻ると紐付きだったのでは……」との疑いが、まず生じてくるのである。  が、それより面喰らわされるのは、裸になって蒸し風呂で女に垢をこすらせ、果物などむしって口ヘ入れさせる男の極楽は、映画のローマ時代物の一場面ぐらいと想っていた処、 それが足利尊氏からの南北朝や室町期の日本でも、大流行をしていたという事実である。やはり前にのべたが、「花よりも軍書に悲し吉野山」  などという歌に引っ掛かってしまい、南北朝というのは、血まみれで戦にあけくれしていた悲壮な時代のように想われ勝ちである。
 
 だが、なにもそうそう連日弓で矢を放ち長柄や槍を振って、双方共に闘っていたわけではなかったようである。というのは、前にも男性史でふれたごとく、 「淋汗の茶湯」と、それは呼ばれるから、「林間学校」の林間なみの受取り方をし、(林の中で落葉を集めて燃やし湯をわかして行う、佗びすきの風流な茶の会)などと説明する歴史家の人もいるか、 実の処は汗をだらだら垂らす蒸し風呂の茶であった。  今日のように身体ごと浸られるようなものは風呂釜を鋳工する技術はまだできなくて戦国末期に初めて、一人用の釜が美濃の関の奥で作られ、斎藤道三が初めて用いたという。  
それから道三は、釜風呂など知らぬ者たちに誤られてしまい、「人間を釜ゆでにする鬼のような……まむしの道三」などといわれ、今も大衆作家でそうした扱いをしている人すらもある。  が、さて、この一人用の釜でも珍しいため、  「鋳物師」の地名は今も関市の先に残っているが、これが江戸時代に小田原以西では、五右衛門風呂の名で広まった。  江戸者の弥次喜多が上方へ旅に出て、風呂の入り方が判らず、浮いている敷板をとったり、熱いため下駄ばきで湯に入るのも、そうした五右衛門風呂が江戸にはなかった事を意味する。  つまり幕末になってから、 「水風呂」とよばれ、複数の人間が浸かることのできるようなものが出来る迄は、江戸時代でも、柘榴口の名が伝わっているように、みな蒸し風呂で、狭い入口から潜って今のサウナのようなのへ入って いたものである。  だから足利尊氏の頃も同様で、男も女も、「湯具」「湯もじ」とよぷのを腰に巻いただけで、蒸されて汗だくになりつつ、こすった垢を笹の葉で払い落させながら、  「それなる女ごは胸のあたりの膨みが、野鳩のようで愛らしい。どうじや貸さぬか」
 「いや、これなる女は、てまえ秘蔵の門外不出のもの、いくら尊氏さまとて、また貸しはかないませぬ、御免さっしゃりませ」  「うむ、ならぬと中すか……ならば此方は銀一貫匁だす。其方はそれなる女ごを賭け、男らしゅう勝負をつけては如何」  「銀一貫匁……てまえが勝てば頂けまするのか。ならば南無弓矢八幡も御照覧あれ」といった具合に、勝負を茶の飲み当てで決めていったものらしいのである。  
 
 建武の中興とは                                       茶博打による右往左往が実態
 もちろん風流やみやびごとの茶ではなく、「宋国闘茶」とも呼ばれた「賭け茶」で、前にも援用したが、『太平記』第三十三巻にも、  「大名執事以下異国本朝の重宝を集め、曲録椅子に腰かけ卓をかこみて」とあるように、茶柱の有無や、またその茶の産地が中国産か、国産かと賭ける本非当ての茶博奕である。  それを腰掛けてやらず蒸し風呂の中で、腹ばった儘の恰好で、「一茶遣可」と書かれてあるのは、伏見宮貞成親王さまの『看聞御記』だが、 「建武の中興」の折りに発布された新法の、「建武式目第二条」にも、「茶寄合と袮し莫大な賭けに及ぶは、曲事ゆえ厳罰に処す」  とある位だから、楠木正成や新田義貞も、足利尊氏らと共に裸になって、「いっちょうやるか」と賭け、匂当内侍といったような美女を、「勝った方の物だぞよ」と張り合ったらしい。  だから『茶経補記』の類には、ヌードの時代でもないのにはっきりと、  「一篠行房の妹と尊卑分脈に記入ある匂当内侍の素状は正しからず、されど裸体になれど一点の黒子もない絶世の美女なり、直義これを勝負(闘茶)にて左中将(新田義貞)に奪わる。 よって兄尊氏を突っつき叛するに到る」と、建武の中興が瓦解したのは、この茶博奕で女を奪われた恨みからだとまで説いている。
 
 のち楠木正成の子の正儀が南朝から、北朝方へ走りまた南朝へ戻ったりするのを、皇国史観の歴史家は前にもふれたが、  「大楠公の遺児にして小楠公の弟にあたる身が、まことに歎かわしい極みである」と、きめっけているが、これも真相は、茶博奕にまけて足利方にはしったり、勝って吉野の山へ引揚げてきた位が本当の処で、 そう目くじらをたてて責めることでもない。  なにしろ日本の男は、案外に慎しやかで、それ迄は、豪い身分の者でも中国式の、「酒池肉林」の宴などはやって居ないのである。これは王朝ものの、『源氏物語』や『枕草子』をみて判ることだし、 『大江山酒天童子物語』でも、唯さらってきた美しい娘たちをはべらせ、酒の酌をさせて居るにすぎない。
 
 浦島太郎が行った竜宮城などは、海中にあるのに誰も背中の垢すりなどせず、ヒラメやカレイが大きな団扇で左右から煽いで居る程度である。つまりどう考察してみても、 「酒池肉林」たるや日本的発想のものではあり得ない。はっきりした話が中国からの輸入ムードである。  とはいえ、足利尊氏のような大将株ではない、雑兵と呼ばれるようなクラスの男共でも、蒸し風呂のサウナへ入って、そこでのんびりと汗をだし、戦塵の垢を流させ、 「捕えてきた女の中から、若くて眉目よきのを選んで連れてこいや」と、数珠つなぎにしたのを引張りこんで、 「どれどれ、どれにしようかな」と、やに下りながら、それら掠奪してきた姫御前たちへ仲間とほくそ笑みっつ、 「これ女ども、うぬらは丸裸になって並べ。わしが勝ったら、いっち良いのを抱いたる」「待て、選ぶは勝負で決めようぞ」 「ならば、いっちょうこい」と賭け茶をしていたのだから、いまの吾々からみればまったく羨ましいようなものであるといえよう。
 さて唐人陸羽の書によれば、そうした茶博奕は、中国では八世紀頃から流行していたそうである。だから日本へ持ちこまれ、各寺院がカジノになって、御開張と称し、 「来る何日から何日まで開催」と貼り札して勝負させ、あがりのいくらかを寺銭となし、坊主丸儲けにしてしまった。  そこで、門前の小僧習わぬ経を読むの譬で、真似た近隣の者が寺の門前に、「こっちでもやれまっせ、賭けなはれ、賭けなはれ」と、場外馬券売場のごとく葭張りの小屋を作ったのが、賭け茶屋の原点で、 腰掛けをおいたから、「掛け茶屋」というようになったのは、それは後の江戸中期からとされている。つまり江戸初期まではそういう形式ではなかったようである。
 
 
 つまり仏閣の傍にあるからして、参詣人が帰りしなにそこで一服し腰をおろして団子をくい茶を飲むような処が、昔からあった茶店だと考えるのは誤解も甚しいものである。  どこの寺でも、良き参詣人なら方丈へ通し、そこで茶菓をだしたり、おときと袮する食事もだす。お布施をより多くせしめる為である。  それなのに、お寺の商売の邪魔をするような茶店など門前でやらせておく筈がない。  つまり前掲のごとく、あれは初めが賭け茶屋で割り戻しを寺へしていたものだったのである。  だから芝居などで、赤毛せんを腰掛にかけて、赤旗を突き出しているのと、青黒い旗をだしている茶店との二通りが出るが、  「赤」の方は「唐茶勝負」といって、蓋つきの茶碗の中に、茶柱が立っているか、否かを賭ける赤っぽい茶の一発勝負。  「青」の方は、呑み分け勝負とか、「本非の沙汰」とも言われるように、国内産と明国産とを舌先で味わってみてから海外よりのものと思えば、その茶を、  「ぽん」と呼び、国内のものと鑑別すれば、「ぴい」といって賭ける勝負なのである。
 
 京あたりでは大きな寺の近くの茶店は、この本非の茶博奕に客を引張りこむため、キャッチする人間を町の辻へだし、通行人を誘わせたからして、前にものべたが今でもいわれる、  「ぽん引き」とは、この本非ぴきが訛ったものとされて居る。  つまり、そうした言葉が現代までも通用しているということは、如何に当時、その茶博奕が流行していたかの傍証にもなろう。  が、間題は、そうした茶店の故事来歴や、ぽん引きの語源よりも、「どうして中国風俗である明の闘茶が、それ程までに日本へ輸入され、そんなに足利期に大流行していたか」の謎である。  五山の住持やタレント僧を向うから送りこんできた位では、まさか今日のパチンコなみの勢いで、そうそう賭け茶が普及するわけなどなかろう。どうもこれが第二に引掛るのである。
 足利尊氏を助けたのは誰なのか
 戦後日本に麻雀が一斉に広まったのは、満州や中国からの復員兵や引揚げ者が、一度にどっと戻ってきたせいとされるが、では尊氏の頃にも復員軍人や引揚者が、中国からあったかと不思議になる。  もしこれか豊太閤の朝鮮の役の頃ならまだ判るが、尊氏の頃では納得しにくい。  そこで著者は不明だが、足利尊氏側近の武将によって書かれたとされている処の、『梅松論』を仔細に検討してみると、尊氏は延元元年(匸三六)正月二十七日に九州へ逃げ、 三月に大軍を催し四月には戻ってくるがこれは変である。  この時は、太宰府から長門の府中へ尊氏が移った後で、宮方の菊池党が兵をあげたが、これを倒し海路備前の児島へ着き、そこから京へ攻め上ってくるのだが、その後も尊氏は形勢が悪くなると西国へ逃げてしまい、 そこでまたすぐ大軍を催し捲土重来と攻め上ってくるのである。  だから九州は尊氏のホームーグラウソドの感さえある。なのに、『梅松論』では、「九州は宮方多く勢強く思うにまかせず」と、南朝方が多いとはっきり書いている。
 
だったら、どうして西国へすぐ退き、正味一月位で形勢を挽回し、多くの兵をつれて来られるのか不思議である。  それに負けたといっても、三百余艘の軍用船がいっも尊氏を迎えにきているのである。そして、『梅松論』では、その際の情況を、 「一方の大将と仰がれし者ら七、八人、京へ降参しに戻るとて旗をまき胄をとり、これまでの杉枝つけたる笠印を、敵(南朝)方の笹の葉につけ、すごすご戻りゆくも憐れなり。 みな去年より今まで忠勤を尽せし輩、その勲功もすくながらず、敵方にくだりても如何なりはべるやと、その心中まこと哀れなり」とある。  その儘読み過してしまえば、何ともないが、よく読み返してみると、これは可笑しい。
 足利方に味方して忠義を尽した侍大将が、なぜ尊氏と共に、三百余隻も軍用船が来ているというのに、それに乗らなかったのか?  敵方に降参した処で足利方の侍大将達ならば、当の『梅松論』の筆者でさえ、「如何なりはべるや」と心配して居る位だから、無事に命が助かるかどうかも不明である。  なのにそれを覚悟で、とぼとぼ引き揚げてゆくとは、これは、どうしてもそれらの軍用船に乗りたくなかったから、拒んだとみるしかないのである。
 
 さて、この時代の水軍であるが、四国の伊予海域を押える河野氏や土居氏は、新田義貞方についていたし、宗氏の対馬水軍も宮方の菊池武敏や阿蘇齒直の手に属していた。 となると、尊氏を助けたその三百余もの軍船は、一体どこに所属し、何処から廻されてきたのか。そして何故に、足利方の武将達に忌避されたのかと怪しみたくなる。奇怪な話である。 しかし可笑しくてもそれが事実であるとなると何だろうか?
 もちろん、これは推理であるが、その軍船にはキムチやニンニクの匂いが充満していた……のではあるまいか。  というのは伊予水軍や九州水軍か宮方に加担していた当時にあって、とてもそれだけの軍船を整えられる程強力なのは他にいなかったからである。  それと、もう一つ。  三百隻という同数の隻数で引っ掛かってくるのだが、『高麗紀』に、「慶尚道海師元帥朴蔵、水師営金宗衍、壱岐対馬占領のため水軍三百を率い東征、歴戦吾軍勝利を得」という向うの記載がある。  もちろん日本側は南北合戦で慌しかったのだろうが、『東国通鑑』五十四に数行しか出ていない。  しかし、尊氏が死んだ三十三年後に高麗国は李成桂に滅ぼされ、朝鮮国となるのだが、その漢陽(京城)の『史記』に、  「慶尚道艦隊行方知れず」とあり、向うの李政権は、旧高麗系の艦隊が消えてしまったのを探させる為に、山口の大内氏へ国書をもたせ、使節を送ってきている。  これは琳聖太子が日本へ渡航してきたのが大内系の祖、といわれて漢民族との結びつきが前からあり、朱元璋が元を滅し明国を建ててからも行ききがあり、それで、 (消息不明の慶尚道艦隊は、足利水軍に組みこまれて居るのではないか)と調べさせる為のものではなかったかと思惟される。
 
 となると、これまで日本歴史で、何故に大内義弘がその領国山口で反乱せず泉州堺などで旗上げしたのかと、解明されぬ儘の足利初期の、「応永の乱」の謎ときも、できるというものである。 当時、明国よりの船は堺港が舟付き場になっていた。そこで、堺を確保し、旧慶尚道艦隊を捕捉しにくる朝鮮と明の連合艦隊を味方に迎えるべく地許ではない不利を承知の上で、 彼は堺に於て五千の兵で蹶起したのであろう。しかし計画はくい違って海よりの援軍来たらず、十二月二十一目に北風に付けられた火が広がり、無念や大内義弘は討死した。  そこで、この葬い合戦が応永二十六年六月二十日には、李従茂の率いる大陸軍が来攻した。  一万七千二百八十五人の彼らが押しかけてきて、壱岐対馬や南九州を荒し廻ったのである。しかし宗貞茂らが敵将軍朴松の首級をあげたので、七月一日に敵軍は撤退した。  彼らはだから、慶尚道艦隊を見つけ、連れ戻る迄には到らなかったらしい。
亡命した「元」の残党
 さて、慶尚道艦隊にのりこんでいたのが、「高麗王恭愍王の臣下」ばかりならば、李成桂の朝鮮軍だけ単独に来攻してくればよい。それなのに、 明国軍が廃帝である元の順帝の降参兵であるダッタン人を五千も混ぜてきたという事実は、行方不明のその艦隊にはトハン(吐蕃)チムール系の中国人も混っていた事になる。  そして、それら三百隻の足利尊氏を守った艦隊が、行方知れずになったという事は沈没してない限り、彼ら乗組員が陸へ上って落着き、足利方の武将になってしまった事になるかも知れぬ。
 
 となると、それらの中国人達が、もはや元の国は滅び明国になっているから、祖国へは戻るに戻れず、そこで望郷の念に駆られて、「一茶遣可」と茶博奕を初め、やがて淋汗の湯まで敵味方に広めた事となる。  そして、こうした元の残党が居たからこそ、彼らの中でも雄志押えがたき者達が、茶博奕にうっつを抜かして居る徒輩とは別行動に、その艦艇をもって三月の季節風にのって、明国沿岸を荒し廻ることにもなるのである。
 
 「洪武元年(正平二十三年)朱元璋皇帝その国内を統一するや即座に、四夷八蛮はみな競うてその命を奉ぜんことを乞い忠誠を醫う。(よって吾国へも)屡々書を遣わしきたり賊徒鎮圧せんと求む。 されど吾が征西将軍は鎮西(九州)にあり、その明使を同地に止めおき東上する事なからしむ」とある『梅松論』の一節は、その賊徒なる海賊軍が実は、元の時の慶尚道艦隊のなれのはてゆえ、 足利氏としては後難を恐れてその使者をうやむやに扱って帰してしまったのだろう。  そして胡唯庸が反明革命を企て、寧波の都督であった林賢を九州へよこした時、足利氏の鎮西府が元僧如瑤をもって、  「入貢使」の名目で明国へやった時に、足利氏が随行させた精兵四百人というのも、日本兵ではなく元の残党の向うの兵達だったのだろう。  この謀略が露見して、胡帽庸は斬首されたが、如瑤以下随行の四百の兵も一人残らず誅殺されたが、それが倭人であると記録されていないのも、それが所為ではなかろうか。  しかし四百名からの決死隊が入貢使節の供に化けて、明国へおもむいたという事は、茶博奕に身をやっしていた連中を共に算えたら、日本へ亡命していた元人の数は二千から三千も居たであろう。
 
 という事は明国になる前の元も、相当な圧力を日本へ加えていたものと見るべきかも知れぬ。そうなると、ここで、これまた変な話だが、  (もちろん日本歴史では、足利氏は源氏の流れとして居るが……)それならば、「足利氏が何故に、源氏を名のっていたのかその必要性のあり方」についての謎ときも、できようというものである。
 
 というのは、源氏と称せられる部族は、今では騎馬民族といわれるダッタン蒙古系のツングースだからである。  この部族で、崇神帝の騎馬軍団として、日本列島へ渡ってきた遊牧民族が、やがて、今も朝鮮の人が愛用する白衣白旗をたてて、  「われこそはミナモトの民なり」と、朝鮮語のマイホームを意味するカマクラを地名として付け、鎌倉幕府を開くのだが、これが事志と違って、北条一族にのっとられる。
 
 さて大陸に残留したダッタンツングース系の民の中から、ジンギスカンが現れて、「元」という新しい国を作った。さて、  「源と元とでは発音が同じだし、紋所も似ているから、衣川の館で死んだ事になっている源九郎義経が、大陸へ渡ってジンギスカンになったのだ」という説が明治時代に現れた。
 
すると、大陸進出を意図していた軍部の肩入れで、大正時代に小谷圭一郎が焼き直して書き、有名になった。  しかし相似点があっても当然で、これは今迄まだ歴史家もいっていないが、もともと同一民族なのである。
 それゆえこの元は、かつて同族の源氏を滅された報復に、のち北条政権を倒さんとして押し寄せてきた。これがあの執拗な元寇の真相なのである。  だが、だからといって、その北条氏を裏切って己が取って換り、やがて、「室町御所」をもうけ足利十五代の基をひらいた尊氏が、源氏だという事はないだろう。  もちろん足利十五代に亘り、体制を保っている間に、いまの歴史本にあるような、「源義家=義国=足利義康=(中略)=尊氏」といった系図は作ってしまっている。  しかし日本では今でも故品売買業者、つまり盗んできた物を巧く買い叩いて利用する商売人を「けいず屋」と呼び慣しているのは前述してある。                学校の教科書などでは、教えやすい利便さから、系図をもっともらしく扱うが、これ位眉つば物もないのは常識である。
 
 さて系図はどのように作られていても、足利基氏のとき、その子へ三河吉良氏を名のらせた際に、「これは源家の由緒正しき白旗なり、京にては不用なれば汝にさずくべし」と渡してしまい、 のち、この白旗を奪い合いの形で、吉良氏は東条と西条に分れ、内輪揉めをして衰微し、駿河の今川や松平党にその位置を取って換られてしまうのだが、もし室町御所が本当に源氏系ならば、 八幡太郎伝来の白旗をそんなに軽々しく手放すわけはなかろうと想う。  また足利時代、源氏系は眼の敵にされていて、室町御所の正式の公文書にも、「白旗党余類」の文字をあてて彼らをまったくの暴徒扱いしている。いやしくも、  「源の何某」と名のる足利将軍家で、その同族をこういった具合に扱うのはどうも可笑しい。だからして私も初めの内は、  (北条氏に追われ山問僻地に匿れたとはいうものの源氏の残党は多い、それゆえ、そこで足利氏は国内の治安を守ってゆくために政治上の配慮より故意に源氏を詐称していたものかも……)  と考えていたが、実際はそうではなく、「元」の時代には、元寇をされぬ為の免罪符として、元と同系統の民なりとして源氏を名のり、「明」の時代には、 (かつては源の者ですが、今では忠良なる臣であります)と、相手の歓心をかう為の便宜上に、源の何某と明国への上書には書いていたものらしい。
日本国王足利義満
 屈辱外交などという言葉が最近、目につくが足利時代はもっと徹底していた。  「明国の使者を迎えるに当って、此方の将軍家が階下から膝で伺伺する恰好で進みでて、次に天書つまり明国王上りの書面を受けとる時に、最敬礼して何度も拝ませられるのは困るから、 なんとかならぬものであろうか」と管領細川持之に命じられた赤松満祐が、時の足利将軍義教の意のある処を、明国使の春義教に対し、如何でござろうかと伺いをたてた処、  「不信」駄目だと、てんで相手にされなかった。そこでやむなく将軍義教は従来通りにし、敬意を表するために香をたいてから二拝し、それから明国王宣宗宣徳の国書を拝受した。  といった模様が、足利三代将軍の猶子となり三宝院門跡となった藤原師冬の子の満済の日記に残されている。
 なにしろ足利義満の頃には、明国から 「?爾(なんじ)日本国王源道義は心をわが王室にむけ、わが明国の主君を懐愛するの至誠に溢れたる忠義の者にてあれば……」  といった国書を貰っている程なのである。そして、この向うの来書に対し、義満もまた、源姓を巧妙に使い、「日本国王にして(明国王の)臣源道義」  といった肩書つきで返書を出して居る。もちろん、これに関して愛国主義者は、「天子さまが居なさるのに、自分から国王とは何事か、まして明国に対し臣と自称するのは国辱ものではないか」と批難をする。  処が、『読史余論』を書き、徳川家が天下を治めるのは正しいとした新井白石は、「将軍が日本国王というのは、それは武家時代の慣習である。 (外交とか国際問題では一歩誤れば国交断絶し、武事にもなり戦争にもなりかねないからして、それゆえ)武を統御する将軍家が、国王と袮するは最も当たる事なり」  とまで、はっきり江戸時代には言い切って居る。
処がここで引っ掛るのは『満済准后日記』に現れる将軍義教と明国使との対面よりヽ三十二年前の応永九年のことだが、『翰林胡慮集』によれば、 「九年八月に大明国の船の来たるを迎えた。九月五日に明国使元倫禅師を足利義満は、北山の別邸に儀仗兵を並べ招じて面会した。その時に大明老帝より、足利義満は王者の称号をもって、 日本国王に封ぜられたのである」という事になっている。そして翌年十一月には、建文帝に代って国王になった成祖帝が、その即位を告げる国書をよこし、 日本王としての足利義満の忠誠をその使者に誓わせて居るのである。これでは行きすぎという他はない。単なる外交辞令とはとてもうけとれぬ。  それでも日本歴史では、足利義満が明との交易に利を得んとして、心ならずも、臣と名のったのであるとし、明国へ臣属した見返りとして、 「鵝銭」(がぜに)とよばれた鉄の鐚銭(びたせん)が、「応永十五年に十万緡、同十八年には新鋳の永楽通宝が五十万緡(さし)、永享六年にはそれが三十万緡(さし)も送られてきた」としている。
 
 つまり名よりも実をとれで、これぞ本当に銭儲け。つまり、それ以降もどんどん輸入され、日本の小額貨幣は一切これで賄われていたのだからとも説明されて居る。  いわれてみれば足利時代だけでこの銭は入らなくなったが、江戸時代にも流通し今でさえこの時の永楽通宝の銭は見られるのだから、実に莫大な数量だったのだろう。  明国から足利氏が目本国王に任命されていたにしても、こうした実質的な経済援助かあったのなら仕方ないような気がするし、この為の明国の負担は大変だったろうと想える。だが、  『宣徳算表』という明国の書には意外や、「倭との交益の利きわめて莫大なり」とある。これか引っ掛る。   交益は交易の事だから、さすればなにも足利氏が日本国王になったり向うの臣下になって、鉄銭を只でお貰い申したのではなく、何かやはり形のある物と交換していたのらしいからである。  では何を輸出して鉄の鐚銭(びたせん)を見返り物資として輸入していたのかとなる。  歴史家も、足利氏は明国との通商に利をあげてとは説明しているか、何を輸出していたのかは判らぬから伏せている。  もちろん知ったかぶりをして、綿布や漆器と書く歴史本もある。しかし、そうした物が日本から輸出できたのは遥か後世である。  三河木綿として国産ができるようになったのは、徳川家康の頃からであり、漆器が工芸として完成したのも安土桃山時代である。  だから輸出できたものは、まだ加工品ではない。原料そのものとみるべきだろう。  が、日本には昔から資源はすくなく、他にこれといって、価値あるような輸出物はありえない。なのに明国書には、あえて利潤莫大とでている。  一体何を送って、そんなに明国を喜ばせていたのか……これは興味ある問題だが、日本のことをよく書きこんである『籌海図編』にもその記載はなく、なにも日本側の資料もない。  もちろん明国側のものにも何を輸入したのか、その内訳や品名はまったく出ていない。だから、これは推理するしかないらしい。
金(きん)を捨てた日本                                        強国とそれに追従する国との貿易は、相互においていくら「互恵」などという文字を使っても、きわめて一方的に強国の利益のみを計るものである事は論をまたぬ。  かって日本では故吉田首相の頃、食糧不足救済のためアメリカから家畜飼料が緊急輸入された事がある。仕方なく国民は配給で貰ったそれを食し働いた。 処が何年かたって経済的余裕ができると、その代金の請求をされた。ガレリオ難民救済資金によるもの、とばかり思っていた日本国民や政府は狼狽した。  思い出してもそれは、金を出して買わされるような食品ではなかったからである。  しかし強国は頑として、かっては寄贈の形で送りっけた古い飼料代金を、インフレ下の時価相場での代金決済を強硬に求めた。  「泣く子と地頭には勝てぬ」というか、強国はもっとそれより怖ろしいものである。やむなく日本は値叨れも廿ず全額払わされた。これは敗戦後の歴史的事実である。  が、こうした事をかくのは、その国を批難する為ではなく、がっての明国もそうであったろうと言いたいからに過ぎぬ。  つまり、鉄の鐚銭を、日本で通貨として流通させられる程に夥しく、どんどん貰っていたのは、今でいう後進国援助のようなそんな生やさしいものではなく、もっと苛酷な扱いで、 相当以上の見返り物資が持ってゆかれた筈だったと指摘したいのである。  しかし裏書できる資料が見つがらぬから、前述のような解釈しかなく今も歴史家は、「足利義満あたりが、臣源義満として明国をたてたので、向うは旦那のように振舞い施しをくれたのであろう。 だから義満を国威を落したと糾弾する向きもあるか、名を棄て実をとったものと解釈すべきではなかろうか」と、極めて単純な見解を堂々と発表している。
しかし国民性から考えても、当時の明国人、いまの中国人が、そんなに甘ったるい人種であったろうかと、私はいいたいのである。  では、夥しい鉄銭の見返りに日本は一体何を持って行かれていたのか、という疑問に対し、私が提起したいのは何かといえば、  「大陸を去る四千マイルの洋中に大なる島かある。住民は色白く風采は美しく整い、彼らは独立の政府を有す。そして、この島国へ他より渡来するは困難を極め、よって荒される事すくなきをもって、 その産出する山金は無限に放置せられ、その島の宮殿は、わが寺院が鉛板にて屋根をふくごとく、黄金にて上層部は覆い包まれ、その内部のフロアは指二本程の厚みのある黄金の延べ板にて、 すべて敷きつめられ窓もみな眩いばかりの純金なり」とするマルコポーロの見聞記である。
マルコポーロの見聞記のヒント
 もちろん彼は実地に日本へ見にきたわけでなく、元の世宗に仕えていたから、元の朝廷での耳学問をこれは誌したものだろう。  つまり季節風や貿易風は知らずだったらしいが、これは彼の筆によってヨーロで紹介されたからして、今でも有名であるか、ということは、その当時の元の国では、 「倭国それ黄金の国である」とされていたのか、外人の彼の耳へも入る宮廷諸官の常識や日常の話題だったともいえよう。だから元を倒した明国にあっても、 「日本それ黄金産出国」といった認識が、そのまま伝わっていたものと思われる。  となると明国は、鉄の鐚銭をどんどん呉れはしたが代償として、それに倍する処か何千倍、何万倍の価格の黄金を持ち去っていたもの、との解釈もそこで成立つわけなのである。  と言うのも、それしか当時の日本には見返りとしてはなかったからである。なにしろ日本歴史というのは、徳川家が貨幣に金本位制をとりだした江戸時代に編さんした『本朝通鑑』が基礎となっているから、 古代より黄金に価値がさもあったように説くが、『万葉集』などにでてくる処の、「キガネ、コガネ」は黄銅の事なのである。  金時計や金指環もなかった実用本位の貧しい時代にあっては、剣になったりして役立つ銅は貴金属扱いだったが、ピカピカ光るだけで柔くて、強火の上へ直接のせれば融けてしまうような、 装飾品にしか使用できない黄金は、いわば無用の長物扱いだったらしい。足利初期より僅か百七十年前の源平の頃でさえ、陸奥の国から、 「ええ、金を召しませ。召しませ金を……叩いて延して道具に貼りっけますれば、光り輝き盗賊の目をくらませ退散させるという御利益のある・・・・」といったふれこみで、 馬の荷駄に黄金を積載し売り歩いていた処の、「金売り吉次」といった商売人さえ有ったのである。  奢侈品として消費都市の京の町へ、売りに来なければならなかった程、まだ黄金は価値を有していなかったとみえる。  これは傍証にもなるし、又、その反面、今日と違って当時は、山金砂金とよばれる自然金の産出が物凄く多かったことを意味している。
 

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