新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

サンカ生活体験記 序章

2019-09-26 20:17:47 | 新日本意外史 古代から現代まで
サンカ生活体験記 
   序章

晩年の八切先生は情けないマスコミに黙殺され続け、完全に干されておりました。がしかし、市井に引きこもってからも自著の出版活動に専心し、八切史観にかける情熱は少しも衰えることなく、萎えた右手に鉛筆を縛って執筆でした。
「サンカの歴史」の”生きざま死にざま”にはこの間の苦労が書かれてますが、先生の人生は波乱万丈でした。日本開闢以来の「日本原住民史」の確立を成し遂げた先生でしたが、
その晩年は世に入れられず悲惨なもので、ある意味では破滅型の物書きと言えるでしょう。お亡くなりになる最後まで、先生の後に続く研究者の出現を切望しておりましたが、それもならず、志半ばで夭折されました。(合掌)
このブログは先生の無念の遺志を継いで、八切史観の紹介をする部屋です。
この『サンカ生活体験記』は故八切止夫先生の、日本純血民族であるサンカ集団と生活した、その体験記である。
先生は全著作三百余冊の著作権の放棄をしています。
そしてこの本の巻頭に「何処からでもお好きなように誤植を直し復刻版を刊行して下さっても生前なら一部寄贈くだされば印税や謝礼など不要。
但し初版刊行後四年以上のものに限る。」と仰っておられる。
 先生の没後三十二年になるが、ここに400ページの大冊になるこの本をUPするものである。尚、ブログの字数の関係で、一章から十章の分割掲載になる予定である。

散家がサンカか 

己が家系の事を書くと私小説になってしまう。だから山口氏でも血族を書くのに母方の脇屋を女郎屋だったとしか秘密めかして書いてもいない。やはり書きにくいのだろう。私でも、これを書くのには渋った。できうる事なら誤解されぬよう書きたくは
なかった。私の母はフサと万葉仮名で書く名を持った女性だった。昔の女学校を出た年に、今は亡き矢留節夫、それから何年かたって私を産み、その亡兄の名を冠せていたが、二人も子を産んだ女とは見えぬくらい若々しく、いつも着飾って外出ばかりしていた。
だから、私は祖母といつも一緒で、「バアサン子は三文安‥‥」などと、いつも近所の子供にからかわれていたものだ。
 祖母は世間並な桃太郎の話などはしてくれなかった。桃太郎の絵本を友達から借りてきて眺めていると祖母は怖い顔をして、「わしらの頭に角が生えているか‥‥」
と怒って取り上げてしまい、自分で借りた家へ返しに持っていき、「変なもん、子供に見せんでちょう」と大声で文句を言って帰ってきた事がある。
詳しくは教えてくれなかったが、善玉と悪玉が逆になっとるとだけはぶつぶつ言っていた。
「中ツ国」と呼ばれるのは今の中国地方の岡山。隋を滅ぼした中国の唐が白村江、朝鮮半島で日本よりの派遣軍を大敗させて九州からの進駐。そして「唐」を「藤」と替字してからは、滅ぼした隋の人間には「桃」の字をばあてて区別していたと、<野史辞典>に書くまでは、桃(藤)から生れた桃太郎は凛々しい貴公子で、当時の事ゆえコウリャン団子だったのを、新羅系のサル、高麗のイヌ、百済系の戦士のキージーに食糧を給して、隠忍とよばれていた原住民討伐に行き、彼らが耕していた穀物や干魚や荒塩を宝物として掠奪してきただけの話だと納得できるようになったのは、私としては祖母の亡くなる後年の話だった。当時は、(まさか幼時から一般庶民の洗脳教育に、そんな童話の絵本が広まっている)
とは知る筈もないから、祖母は臍曲がりだと思っていた。
当時、祖父は名古屋市中区神楽坂町という目ぬき通りに、不動貯蓄銀行というのをやっていて、岐阜の芸妓上がりのおツルさんと、南呉服町で「ひさご」を経営していたオクニさんの外妾が二人いて滅多に夜は戻ってこなかった。
といって、祖母より彼女達の方が綺麗とか愛らしいという事はなかった。これが不思議で、
「おじいちゃんは、どうして帰ってこんのやろ」と、中働きの婆にきいた事がある。すると、「ここの大奥様は上に跨りゃあすから、重とうて身体の自由がきかんとぼやいとるぎゃあ」と教えてくれた。
つまり、顔はまずくても芸妓上がりの二人は、今いう正常位か下に横たわって相手の思うままなのに、祖母は反対に上から取っ組んでゆくので祖父は厭がって戻ってこない。

だから祖母は、一人寝でなかなか眠れぬせいか、私を側へ寝かせては色々と話をしてくれたのだ。言い伝えの伝承話だろうが、彼女の口にかかると豊臣秀吉もサンカの一人だった。
「秀吉の弟の弾正たらいうのが薮塚にいて、その伜の虎之助が安土城を拵えた岡部又左の許へ弟子入りしたというのは、居付き(今では五木)サンカとなって暮していた証拠。
また秀吉の妹の子の福島市松だって、後には正則とかいう大名になりゃあたが、親父様が桶のタガ作り、つまり今言やあす箕直しだで、やっぱし居付きサンカ。となると、秀吉のお婆様は気が強いも道理、サンカ女だぎゃあ‥‥近頃はオカミが変わってサーベルが追っかけやぁすが、秀吉かてサンカで、あん頃は大名というか殿様は、みんなそうだったんじゃがなも」
誇りをもってというか、自信慢々とした寝物語を欲望発散のためにくり返し聞かされたものである。私は幼くて判らなくなって途中でいつも寝ついていた。

サンカが屯しているところを「ヤワタの薮知らず」というくらいだから、薮塚の弾正の伜の加藤清正がその出身で、今も熊本に残っている清正堤などはサンカ工事で堅固なのは有名である。
福島正則がササラ衆の箕作りや竹のタガを編んでいたのは「宿六列伝」にも詳しく書いたが、清正も他の本に書いてある。彼が長い兜をかぶっていたのは、サンカは夫婦で一セブリとなって分離しているが、何か集会があって多く集まるようになった時には、全体の長にあたる者が、「八方めぐり」と呼ぶ、地面に突き刺す自在鉤を外側から竹で編んだ筒で包み、頭上に乗せ、遠くからでも識別するためで、五セブリを一天人とよぶ団体が、それを中心に拡がる風習がある。

 現在加藤清正公愛用の長兜といって、藤の編んだのに黒塗りしたのが遺品として残っているが、好事家の後年の作り物で、本物は弓なりに曲げた四本の青竹を籠のような物でかぶせ、軽くて長かったものであったらしい。と、それに九州へ行くと地帯で「豊臣松園」といったように、豊臣を上につけた地区が多いのも、九州ではサンカを特に嫌っていたせいであろう。
 また、これから「秀頼薩摩落ち」の講釈が大坂以西では大正から昭和初期まで流行した。<天の古代史研究>で「世良田事件」の項目に詳述しておいたが、上州世良田庄徳川が、幕末までは神君発祥の地というので畏敬され、近郷八十ヶ村より納米させ、
の頭目の岩佐満次郎がやがて新田男爵になったのに、徳川公爵家では華族会長様の出身が地区では困ると、明治三十年刊にして青山の青山堂より「家康は松平元康の改名が正しい」とする「松平記」を刊行配布。東大をはじめ各大学の教授で組織されていた学士院会は、直ちにこれを確定史料と認定した。

そこで近郷の村々では学士様や文学博士が[世良田と徳川家は無関係と]いうのに、これまでよくも村々より飯米をとりあげくさった、と世良田の庄を取り巻いた。新田男爵はロンドンへ留学という恰好で家族もろとも不在だったが、世良田に残っていた三十四名のところへ近村の三千人が石を投げつけ、鍬や鋤をもって押しかけた。そこで近在の鬼石などのへ応援を求め一致団結して戦った。
これが後の運動の始まりだが、村岡素一郎の「史疑徳川家康」によれば、秀吉がサンカなら、世良田二郎三郎、後の家康とても、出自はどっちもどっちでかわりはない事になる。
    (補記)『世良田事件とは』以下に記す。
 幕末徳川幕府瓦解後、初めての反徳川騒動だが、明治三十年に<松平記>なる創作を配布したり、<史疑徳川家康>を買い占め、発行停止にした徳川公爵家では知らぬ顔。よって故に今では匿され忘れ去られている。
群馬県つまり上州新田庄世良田郷というのは、今も『徳川』の地名が残っている特殊である。
権現様はここが出身地ゆえ、前名は世良田二郎三郎を名乗り、新田の岩佐家の系図をば、「お借り上げ」と称して召し上げ、その代わりに岩佐をとして認められ、新田郷の人頭税をとらせた。
この土地は、農耕を世良田徳川ではしないから、裕福ではないが、近村から上納米を神君の御威力によって徴収。幕末まで徹底的に搾取してきた。
 さてである。特殊出身の成功者ほど、その出身を隠したがると言われる元祖は、徳川前公爵かもしれぬ。もちろん権現様の血統の尾張の継友、その弟宗春の子供も一人残らず始末、すっかり根絶やしにして、全羅南道系の徳川将軍の血脈になっていたせいもあるが、臆面もなく堂々と、『徳川家康は松平蔵人の改名姓名』とするような徳川神話を、皇室の藩屏たる華族会長の祖先が特殊出身をごまかすために発表した。
故山岡荘八が、その現代語訳のような大河小説『徳川家康』を、そっくりそのままで書いているが、さて明治時代まで近郊の者は遠慮し、
『世良田徳川は、権化様の由緒ある地』と、別扱いしていたのが、大正になると徳川公爵様が否定なさったのが一般にも広まった。
となると、これまで四百年の、つもりにつもっていた恨みが爆発して、
『二千の近在の者が、僅か二十四人しか住まっていない処へ乱暴して仕返しをした』のが、この世良田事件である。
つまり、楠木正成の銅像と一対に建てる筈の新田義貞の銅像が沙汰やみになったのも、徳川公爵家の圧力であって、世良田事件でも、見舞いどころか、まったく我関せずとして頬かむりした侭なのが、後の差別問題にも大きな影響を与える結果ともなったのである。
そこで、世良田徳川の者は鬼石その他近くのに応援を求めて竹槍隊を組織し、これが全国水平運動の始まりといわれている。
 ここで留意したい事は、特殊から出て世間で立身した者は前身を匿したがるのか、出身者を嫌うということである。世界的に有名な輸出陶器会社も、新入社員は興信所で身許調査を徹底的にさせてるが、他の同じ出身の社長のところも会社側が(出身者を)極度に嫌っている。
 徳川家も、家光以降はこの傾向の先駆であって、臭いものには蓋をしたがるゆえに有名な『三河風土記』は、沢田源内の偽作だし、大久保彦左とて、(原住民系の多い)渥美半島出身だが、『三河物語』は家康神話に合わせる為に子孫が加筆した偽作。

なにしろ、『人の一生は重き荷を背負いて、‥‥』の遺訓が、明治になってから勝海舟ら旧幕臣グループによって偽造されたのを尾張徳川家がバラしているが、みな出身を匿したがるからの、徳川家の御為の最後の御奉公だったろう。
小田原合戦後に、それまでの三河・遠江・駿河を取り上げられた家康は、上州世良田徳川の出ゆえ、己れから原住系の彼らも討伐せず、みな召し抱えた。領地が三倍に増え人手不足もあったろう。尾張の三河は一向宗一揆の名目にはしたが、国中で家康を目の敵にしたから生涯半月も岡崎城には居らず、浜松城にいたほどの家康であるから、三河島衆を譜代として片っ端から召し使った。
『野史辞典』に、尾張三河出身の旗本は一家のみと出ているのはこのためで、旗本八万騎はみな三河島の地侍。が、現地採用の彼らに箔をつけるために尾張三河出身と変えたのか、講談で誤られたか広められて、武鑑すらも間違えている。
 が、三河岡崎が家康の出身なら、徳川家とても家来の水野を五万石の城にずっとする筈はないのである。
 <天の古代民族の研究>に出てくるような、きわめて温順な奴隷にされてしまった一般庶民は、「親方日の丸」というか、自民党に投票をすればどうなるか判っていても、今のオカミが自民党なら揃って投票場へ行き勝たせてしまう。
サンカなれば秀吉は京を押さえ天下をとり、家康も徳川十五代の祖になれたのだろう。つまり純血の強みがこういうところに出てくるらしい。

 日本列島の原住民というのは、紀元前何世紀も前から漂着して住みつき、海流が日本を起点としてはどこへも流れていかないので、仕方なく暮していた人々のもとへ、今日いうところの「古代海人族」、天地水火を拝むアブダビ海方面よりの者が戦火に追われれ入ってきて飛鳥人。
その後に裏日本から、大きくても木曽駒くらいな馬を筏や小舟に乗せて入ってきた騎馬民族。彼らの中に後に白系ロシア人と呼ばれる沿海州からの白人も混じっていたので、今も秋田美人、新潟美人というように、肌の白い人も多く見かけられる。が、
どっちも集団で攻め込んできたわけではない。

共存共栄というか、牧草地の多いところを騎馬系は遊牧して廻り、マレーシアのヤバアンや、当時の雲南はベトナムまで延びていたが、そこからの古代海人族は漁や塩も作ったが、今日のベトナム方式の水田耕作もし、騎馬民族から鹿や兎の肉を貰えばお返しに穀物を出して、一緒に相互扶助しあい、それゆえ「豊芦原瑞穂の国」ということになる。
 騎馬系は主として新羅高麗[系]と沿海州の粛慎と呼ばれる後の白系ロシア人ゆえ、彼らが白頭山信仰を持ち込んできて加賀の白山を祖神とし、民族カラーを白とするのが源氏になるのだが、それに対して民族カラーを赤とする後の平氏になる飛鳥人は、生魚を手掴みで食べて日本へ来た海洋族。
さて、サンカの女は決まって赤ネルの腰巻姿である。という事は、三角寛先生の説く「単一民族の日本人とは全く民族を別にする種族」という解明にはならないのである。
壱岐対馬から大陸よりの、鉄製武器をもって集団進攻してきた全羅南道の百済人によって討伐された時に、捕虜になってゲットーへ入れられ、騎馬系は飼戸(しこ)として馬飼いの牧夫。海洋系は食物作りの課役奴隷にされた時に、あくまで縄文武器で
戦って逃亡した両方のレジスタンス連中が、やがて一つになって、夫婦単位のセブリを営んだものとみるのが至当ではなかろうか。
 サンカの発生について、三角寛先生は、その著の「サンカの定義」の名義考の中では、まず、
「サンカの表語は、過去三十三年間における私の随筆ならびに小説等三百余篇の発表で、山窩の概念が既定されている。しかし、これは活字面の構成上、「山の窩(あな)」という表示に美的な響きがあるので、ことさらにこれを使用してきた。山の窩の発音はサンクワである。ところが、当のサンカは穴居生活者ではない。また山中深く隠れ住む生活者でもないので、山を冠する事も窩を当て字する事も実のところは不適当なのである。
 それではサンカとはどういう意味か?
この言葉の追求には、私自身、三十三年間苦しんできた。それは、サンカは口が堅く、絶対にその実態について語ろうとしないからである。また、彼らの一味のうち、徒渉漂雨泊のセブリ生活者は、自分達の事を、殊更にサンカとは絶対に口外せず、何も言わないからである。しかしながら、彼らの事をサンカまたはサンクワと客観的にこの名称をつけられている事には、何かの理由がある筈である」
と序文で述べてから、三角寛先生説では、
「彼らにその理由を訊ねると、まことに不機嫌で、『それは何の事だ?』と横を向いて答えようともしない。そもそも山の窩とは、彼らの真の生態を知らず、想像で深山の山窟にでも棲んでいる生活者であろうと断定して呼称したものだからであろう」
とする。また、明治八年二月の島根県令井関盛良時代の羅卒文書に、「山家(さんか)の徒、山窩、浮浪の徒」などとあり、
「山窩(山家)は雲伯石三国辺偶の深山幽谷を占居する」とも記載されてある。おそらく、これが文字に書かれた山窩の、そもそも最初であると思われる。
この山窩が、明治から大正にかけて特殊な犯罪捜査家達によって研究され、雄弁会発行の「明治大正犯罪実話」上下二巻となり、彼らはこれを特殊犯罪者の流浪群と誤断した。しかも、彼らはこの研究を絶対秘密にして、直属の上司にすら報告せず、隠密や、一般犯罪捜査の手先に「諜者(てふじゃ)」として山に入り込んだのを利用し、彼らの仲間を犯罪者として検挙していた。
 三角寛先生は、
「私がはじめてサンクワの言葉を耳にしたのは、昭和初年の例の『説教強盗』が、夜の帝都北郊の住宅街に出没して、東京市の内外が恐怖に襲われていた頃である。『あの説教強盗はサンカじゃあるまいか?』という風評が立った。『説教強盗』の命名者である私は、その風説を聞き捨てにはできなかった。私はその風評の火元を追求するのに十一日間を費やし、ようやくつきとめた火元は、下谷区萬年町に住んでいた警視廳捜査課勤務の巡査部長大塚大索氏であった。大塚氏は窃盗係の老刑事であったので、
直接、強力犯の説教強盗の捜査には当たっていなかったが、その出没自在な行動から推理して、『あるいはサンカじゃあるまいか』と口走ったのが事の起りだ」と、当時サツ廻りの新聞記者の三角先生には判明した。
 大塚巡査部長は、この萬年町がサンカの居附(ゐつき)地であったので、ここに居を定め、ここを探索の巣として、この特異な、社会に寄生する浮浪者群の中から多くの犯罪者を検挙していたが、この里で捕らえてしまうと来なくなるので、ここを立ち
去って次の場所に移ったところで捕らえる事にし、それらの犯罪者をサンカの諜者に密告させていたのである。

 この特異な社会は内側と外側に分かれ、内側がサンカで、寄生浮浪者群はその外側であることを知っていた。(大塚氏は後に警部補になって退職した)
 では、その内側のサンカの実態は、はたしてどんなものであったか?(つまり内側が本物で、密告者や密偵は寄生虫のような贋者)という事になる。
 大塚老刑事の話によると、
「サンクワといっても、あれは当て推量の名稱で、深く研究して呼稱された訳でもない。また彼らを訊ねてみても満足な返事は誰もしないから知る由もない。彼らは岩洞や穴の中に住んではいないのだから、山窩でない事だけは事実である。あの連中は、
箕づくりが生業で、大体が村里や町はずれの林の中や、川べりにと住んでいる。だから、山河者(さんがもの)とでもいう方が適当かも知れない。どうしてあれをサンクワというのか自分でさえも納得していないから、報告書にサンクワという文字を使っ
た事は一度もない」
と、三角先生が、はじめて知ったサンクワという名称の知識はこの程度のものであったという。掴んだのは、「その正体が箕つくりである事の事実」だけであったのである。

 農村に生れた者なら、箕つくり、箕直しを知らない者は少ない筈である。三角の生れた大分県竹田地方では、これらの連中をと呼んでいる。彼の母などは非民(ひみん)と言っていた。なぜなら、昔から農耕の民を百姓(おおみたから)(世襲私有財産の大遺宝)といった歴史があるが、あの連中は耕作をしないから非民だというのだと聞かされて、なるほどと先生も思った事がある。
この箕つくりの非民あるいはのことを、地方によっては、川徒(かはと)、山徒、またはオゲとかポンズなど、さまざまの方言で呼称されている。地方々々での解釈があるのだが、いずれも、その正体を掴んではいない観念的、客観呼称にすぎない
のである。サンクワとは、ただ何となくそんな気がするので、あて推量で、山の穴居者と誤認しているのである。
 また、サンクワは、多くが川の畔(ほとり)の林の中に棲むので、サンカ(散家)と呼ぶのが正しいと思うのではあるが、これとて観察概念からする呼称にすぎない。
 「かのごとく、サンクワとかサンカについて、何かありそうだと考え、色々追求を重ねているうちに、昭和十九年になって、彼らの中に、『ミツのケチの掟』といった厳然たる差別のあることを発見した。これはこの研究の決定的な意義をもつ事になっ
た。この『ケチ』というコトバは、世間でよく云われている処の、『あいつにケチをつけられた』
などという、あのケチの事だ。
    ミツクリの一(かみ) フキタカの一 エラギの一
この三つの系統の差別(ケチ)がそれである。
 そのミツのケチとは、三つの差別、即ち三つの區分(ケチ)ということである。
(ミツクリの一とは、箕つくり系統の統領の事で、家元とか本家などの意味で総元ともいえる。つまり『夷元』なのに、金とり主義に代わったゆえ刃物をふるって花柳玄舟が抗議をしている。)
 フキタカの一とは、笛つくりの系統の統領のことだ。この一味は、太古には笛や琴を竹で作っていたのだが、今では竹製の楽器や茶筅などを作っている。また竹三味線も作った。(『四つ』のササラ衆も同じ事をしている)
 エラギの一とは、遊芸者系統の統領の事で、出雲阿国などがその出であった。今も川原芝居や門附けなどが残され、現存する『俵ころばし』『猿廻し』などが、この系統に属する。(弾左衛門支配の四ツの猿飼族も入る)
 このエラギの語は、嗤楽(わらいたのしみ)の事で、笛を吹竹(ふきたか)という古語と併せ考察すると妙味が深い。サンカの語源かもしれない。
以上の三區分は、その一(かみ)が世襲的に専承されてきたのであるが、大正以後は、その一(かみ)味の上達者が、次代の一を継承している。このミツのケチのカミを彼らはきわめて尊び、セブリのミケ、またはミカと呼んでいる。それが三差(さん
け)、三一(さんか)などと呼ばれ、また三家(みさん)、三家(けさんか)などとも呼ばれたりするが、理解し合う相手なら、どう呼ぼうと咎めだてはされないのである。
 
   さらに彼らの中には、その上に、
クズシリ一(かみ) クズコ一 ムレコ一
という三種のカミがいる。
 クズシリは国知り、クズコは国子(くにこ)、つまり都とか郷のこと。ムレコは群子(むれこ)で、村の事である。それぞれに一人ずつの長がいるので、それを第一人者の一をカミと呼ぶのである。この他に、さらに統率者として、
アヤタチの一(かみ) ミスカシの一 ツキサシの一の三つの段階の頭領の身分(ケチ)がある。これは、権力の最高者であると三角寛先生は、その著書で説明する。
 アヤタチのアヤとは亂、即ち秩序の亂(みだ)れのあやの事で、タチは断(たち)または裁(たち)を意味する。
 ミスカシは透視を意味し、亂を破る意味が含まれている。
また、ツキサシは突き破る事で、亂脈を引き裂き、突き破る行為を意味する。これが戦国時代に到って利用され、アヤタチを亂破、ミスカシを透破、ツキサシを突破などと漢譯され、忍びの者の組織に利用されているという説すらも伝わっている。
 現存の彼らが數を讀むのに、いち、にい、さん、しい、ごう、と我々と同じ數え方をするにはするが、他人のいない身内同士の時や、何かあらたまった時には、一(かみ)、ニ(つぎ)、三(さん)、四(しい)
と讀むのである。
 この一(かみ)という表意記號を、頭(かみ)と意味する彼らは、この数字に、物の肇(はじ)まりと統一を、また指示と統御を信念としていた。ここに特殊さがある。
ここから出發して、三つの差別(ケチ)、三つの一(かみ)を、サンケ、またはサンカと意発発音してきたのが、いつはなしに外部に漏れて、サンケまたはサンカが山河と解され、山窩と誤られたのである。音表と意表の合意を誤解された結果が山窩であ
り、山河であると理解されたい。

 結論としてサンカは三一(さんかみ)であり、三區別(さんケチ)であり、強いて漢字で書くとすれば、三家である。過去三十三年に亘って、三百餘篇の著述の中で山窩の熟語を故意に社会に押しつけてきた三角寛としては、ここに謹んで、その罪を詫
びて、その不正を正しくしておく次第である」と、昭和四十年十一月三十日朝日新聞社刊の「サンカの社会」の28-33頁では述べているのである。これは正しい訂正である。立派なことである。
 しかし、漢字というものは、西暦663年、白村江敗戦の時に進駐軍によって「則天(漢)唐字使用令」とよぶ強制使用が命令された時から、みな何でも当てはめるだけの文字ゆえ、「三」にこだわるのはおかしい。おそらく本当のところは足利中期過
ぎに明国から印度のカースト制度が入り[もっと前からという八切説もある]、日本列島でも制度を確立した際、「まず前体制の北条一族をゲットーに入れ、次いで足利創業の際に南朝方として邪魔をした新田、楠木、湯浅、菊池、足助といった連中の子孫が、東西に設けられた室町御所の新設した奉行の役人によって、山とか川の真ん中の州。つまり橋のない川の中へ、居つき限定収容させられた。これをとよぶ。地方によっては、別所、院(囲)地、界外と色々の名称があるけれど、これが全て語源である。
つまり、はゲットーでタウンになっているのに、セブリは一世帯ごとゆえ、これを「散家」というのが正しいとも考えられる。足利後期の公卿の「夷詠朗詠集」の
中にさえも、「奥山にかくれ住むちょう散家ども、人とはみえで隠鬼ならむ」とまで明白に出ている。この朗詠集は、毎年五月五日、奴隷百姓となっている連中が、
橋のない川の連中へ投石をしにゆき、州の中の鯉を分捕って竿にさしてきて勝ち誇って帰ってくる「院地打ち」の石合戦の歌が数多く詠みこまれていて、夷をもって夷を制する藤原体制の実体を明らかにするために、菊池山哉の「日本の特殊」にも引用されているものである。

ウメガイの実相
「サンカの生態には、陰陽ニ態がある」
と三角寛先生の説ではいう。そして、
「陽態がセブリ・サンカ」であり、「陰態は居附サンカである」とする。この居附は、我々の生活に極めて接近し、そ知らぬ顔で一般に中和している。中和とは、サンカが一般人の中に入り、正しく節度にかなった生活をしていることをいう。彼らは元来が
セブリモノであることを一般人に知られ嫌われるような事は絶対にしないのである、と説明をしてから、その形態を分けて分類し、中和しているトケコミサンカについて、
「陽態の、セブリ・サンカとはどんな生活者なのであろうか?」と先生の考えを発表する。
 彼らのコトツ(「言告(ことつけ)」の詰り語で、「つてごと」の意‥‥昭和十八年、丹波にて採集)によると、セブリとは、アナイヌケということである。太古の我々の祖先が穴居生活であった事は論争の余地もなく、明治大正になっても地方の農
家はまだ穴居生活が多かった。これには異論のないところだが、このセブリの始まりはほぼ、その穴居から地上に出た頃からと、彼らの間では傳承しているのである。
 それまで私は、コトツという言葉は、コットと聞いていた。「コットによりますと」とか、「コットでは」というふうに聞いていたのである。その意味も、「私どもの一族では」とか、「我々のセブリでは」という意味に解していた。
 ところが、昭和十八年の夏、戦争たけなわの頃、三角先生は郷里の大分に歸郷した折り、飯笊(めしざる)を売りに来たセブリの女の口から、「セブリのはじまりは、タニバのオヤマミという人に聞くと、よくわかります。その
人はコトツの一(かみ)だから」と、意外な事実を聞いたのである。それは先生にとっては、まことに思いがけない大収穫であった。
「あんた、いまコトツと云ったが、コットのことですか?」ときくと、
「他人様と話をする時には、はぐらかしを言うことになっているから、コトツのことをコットと言うのです」
と、これまた意外な発覚である。それゆえ言葉を次いで、「コトツとはどんな事でしょうか?」ときくと、
「セブリのできた、そもそもの始まりの事から何から、先祖からの言い伝えをコトツというんです」と、教えてくれた。
 タニバとは丹波の古名であるが、鞍馬の山裾にあるというオヤマミのセブリの場所をきいて、東京に戻る途中、京都から北に入ってタニバのセブリ場を先生は訪ねた。
 セブリは、桂川の水上の大堰川の川縁(かわべり)にあった。セブリの主は、大山見一(おおやまみはじめ)といって、その時五十九歳で、職業は箕作りであった。ここで、コトツの語意について確かめてみると、その意味は「言告(ことつげ)」の語
り語で、「つてごと」という事であるのが判った。これも貴重な一語である。今いう伝言だからである。更に、この大山見さんが、セブリの歴史を一切伝承していることを知って先生は狂喜した。



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