新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

日本史から見える「姓」の法則 日本人の姓の不思議

2019-06-08 11:46:28 | 新日本意外史 古代から現代まで

『あなたの名前の一番上についている姓のイニシャルこそ、あなたの体内に流れている先祖からの血の系列を示す記号である・・・・・』 とか 『あなたの性格や,その行動が,目に見えぬ糸で操られているごとくに、姓のイニシャルの記号によって左右されているものである』 『人間不信の時代の今日でも、黙ってその姓さえみれば、記号別で判るみたいに相手の鑑定ができ、そのためいかに生きてゆくことが楽になるか・・・・・自閉症もこれで直るし,これまで不運な人もきっとこれで立身できると保証できる』などといわれたら、なんとあなたは反応しますか。  もちろん、これは易者の姓名判断でもなければ占いのようなミステリーなものでもありません。

 

はっきりした歴史上の事実を並べての、きわめて妥当な真実の史的考察によって明らかにされた姓の方則なのです。これは、高松塚古墳が発見されましたが、ちょうどあの頃、つまり西暦684年の朱雀元年 10月に、時の天武帝が、古墳の壁画に出てくるような下ぶくれした美人のような人種に、五十音のウクスツヌフムユの〝八色の姓〟を賜ったのを基準にしたもので、いうなれば日本列島における民族別をはっきりさせたもので、これは千数百年の歴史に裏づけられた〝血の流れ〟を解明して、もって現代にも応用しうる科学的なものなのであります。

  先祖が伝えてきた「蔭性」
とはいうものの、中には、 「姓といってても、幕末でさえ苗字を有していたのは士分(武士)以上の階級で、百姓町人といった一般庶民には無縁ではなかったか?なのに、その姓を先祖に遡って探究するのは、無理ではないか、おかしいのではないだろうか」との疑問を持つ人もあるかもしれません。
 しかし、〝木枯らし紋次郎〟のように放浪して歩く者の他は百姓町人でも家があり住まっていれば、神棚や仏壇のある場合は必ずそこに「蔭姓」というのが祀ってあったもので、〝姓〟はそれぞれ、いざという際に着用する紋付の紋と同じようにちゃんともっていたものなのです。そして、〝苗字帯刀御免〟というように、町人などが苗字を名乗ることを許されたときなどに、この先祖伝来の「蔭姓」を復活させ公然と名乗ったのが実状です。

 例えば、坂本竜馬にしても、これは土佐藩の手がのびるのを惧れての変名であって、本姓は、「才谷梅太郎」でした。しかし、彼の時代には、造り酒屋の商人であって表向きには苗字はなく、その「才谷」いうのも先祖伝来の「蔭姓」であったわけです。 また、天誅組の吉村寅太郎の場合も,生家は庄屋とはいえ百姓でその、「吉村姓」は先祖伝来の蔭姓で使わずに蔵ってあったものなのです。   もちろん、先祖伝来の姓のない流れ者とか水呑百姓や日雇をしていた者もいましたが、彼らの場合はみなその生まれ在所を上につけ、もって「何処の誰」と姓にしていたものです。  さて、土地というのは、幕末までは許可された旅行者、「道の者」と称される旅芸人や流れ職人の他は、限定居住であって、今日のように勝手に何処かに移り住んでもかまわないなどということはなくて、先祖伝来の決まった土地に住んでいなければならないのが決まりでした。

 例えば、百姓などは、その自分の住んでいる土地から離れれば、これは「逃散の罪」に問われて、捕えられれば、討ち首、獄門とまでされていたのです。ですから、大体その土地柄がどこであるかということが判ると、その住んでいる人間の民族別先祖もまたはっきりしていたのです。  ですから今でも、この姓は何処々々に多いとか、ある地方にかたまっているとされているのも、やはりそれはこの限定地域居住によるからなのです。

 秀吉に取りたてられ淡路島の洲本三万石になり、幕末まで続いた脇坂家の先祖で、賤ヶ岳七本槍の一人とされる脇坂安治にしても、その出身地の小谷東西別所は三千人もが、古来みな同じ脇坂姓だったというのもこのわけであります。

 〝姓〟のイニシャルで明確に判別できる
 明治五年に時の薩長政府が、新しく地租とよぶ税金を取りたてることになったのは、一般にも知られています。しかし、徴税令書を発行し、それを間違いなく送り届ける必要上からして、『庶民に称氏を許可する』といって姓のない者にも新しい姓を与えたのが、今でいえば郵便番号制のような姓の普及化ですが、それでは、先祖伝来の姓ではなく、そのように与えられた姓で判断しても、それはナンセンスではないか?と早呑み込みする向きもありましょう。
 しかし、それは≪壬申戸籍≫とよばれるその当時に作成された台帳にも、はっきりと色々書き込まれ、その由来が判るようなものが残っており証明してくれます。  というのも、住んでいる地名からか、昔からの伝承の姓をつけるにしても、その最初の発音、つまり<姓のイニシャル>で直ぐ耳から入って分類できるようにとの新政府の命令で、役場はそれを守って命姓に協力したからです。

 もともとこれは文献の上でも、きわめて明白なことで「関馬之允の姓は、伊勢の地名からきているが、武者の姓は、これ本貫地の地名を取るが慣わしであるからである」と十六世紀に書かれた北条早雲の<永正三年小笠原定基宛文書>にも明示されているくらいのものであって、なにも明治になってこと新しく始まったことでもないのです。  さて、「上州、国定村の忠次郎」というように、また源平時代の、「武蔵の熊谷在の直実にて候」といっていたのが、その内に、村とか在をやがて省略し江戸期からは、(何の)の〝の〟が縮まってしまったのが、姓と名の直結になるのです。

 例外として、「美濃かとう武者の勢いすさまじく、上等の土岐侍よりも、目ざましい働きをした」と<天文三年朝倉文書>にもありますように、呼び名というか、渾名のような、(美濃かとう武者)が転化して姓となった加藤などと言ったものもあります。(もちろん下等といっても、それは低級の意味ではなく、足利時代には仏徒が、「浄土」を「上等」と当て字していたので、その釣り合いから神徒系は「かとう」と呼ばれたのが始りです)  ですから、従来いわれていたような、 「加賀へ入った藤原氏が加藤の姓になる」といったのは単なるこじつけにすぎません。
部族を明かすイニシャル
 さて、現在と違って、人口が僅かだった往昔においては、きわめて姓もシンプルでした。 「何処々々の誰」といったその所属民族の記号を表すためのものが、とりもなおさず姓の起源であるそのイニシャルの最初の音になってしまったようです。  つまり、かつては、アの太郎とか、カの次郎、サの三郎といったような単純な呼び方だったのが正しく、その後、人口が増えるに従って、アのつぎにイがついたり、キがついたり、シがつくようになったのが、いわゆる姓らしいものの起こりといえましょう。  それゆえ姓とは今日のような漢字の字づらはどうでもよく、日本人としては、その所属部族を現す最初のイニシャルの発音だけが重要なのです。

何故かといえば、人口が次第に増加してゆくにつれ、どうしても判別を判りやすくするために、アキの何々 アイの何々となったのが、またそれからの人口の増えに追われ、そのアキのところに田があれば、アキ田になり、山があればアキ山になったりして、一応今日のような姓というものが形ちづけられてきたものとみられますから、最初の音が主といえましょう。
 それが、前述しましたように、徴兵や召集の令状を間違いなく手渡して、国家命令に従わせる都合上、例えばオ田なら、尾田、小田、織田といった具合に村役場の兵事課や税務課に命じ、同名異人の煩を防いだのが、発音は同じでも、文字違いといった現象の発生となったものです。  なにしろ明治の初めには地方によっては中が同姓の所が多く、しかも平仮名のままの姓も少なくはなく、とてもこれでは判別できませんでしたから、税金を絶対にとろうとしたり、兵隊にして人民を引っ張り出す必要上やむなく役場はしたのでしょう。  ですから、日本では、漢字という当て字のきく文字のおかげで、姓の一番上の発音がはっきり示す記号なのをうまく権力に利用され、かつての背番号制ともいえる今日の姓となったのです。

 5つに区分された日本民族
 さて、なにしろ漢字なるものが一般に普及しだしたのは、江戸期に入って、官版と称する木版印刷の発達から、活字本が一般に出廻ってからのことです。  つまり、昔は耳から入る発音だけの姓で不自由もなかったのですが、これが当て字されるようになったのは、前述のごとく国民皆兵、国民皆税となった後からのことなのです。  したがって、加東も香藤もみなカトウでまるっきり昔は同じ部族だったわけで、初めにカの字がつけば川村や家島でも、みな、その流れのもとは一つなのであります。

「訛は生まれ故郷の手形」という言葉がありますが、誰もが今ではもっていて名の上につけている苗字も、これは、れっきとした先祖伝来のものであって、今日に至るまで脈々と体内に流れる部族の血を受け継ぎそれを現わしてきているものなのです。  それでは、〝姓〟の何があなた自信を、規格の枠にいれたり縛りつけて、運命づけているのかといいますと、 それは、高松塚古墳発見以来きわめて明白になった日本民族の複合形成にまで、これは遡って考えてみなくてはならないでしょう。  そこで、まずその概略を述べてみます。

つまり、日本民族とは、
原住東北系(八幡国群・天<海>の朝系)

原住農耕系(仁 徳 王朝系)

藤原船舶系(公家・継体王朝系)

土着西南系(邪馬台国群・ヒミコ系)

騎馬民族系(崇神王朝・蘇民系)  の五つに区分され、日本は、これら部族の複合集合体であり、厳然として各々の血<姓>を守って、それぞれの部族の末裔は、ずっと現代まで生き続けてきたということになるのです。  あなたの祖先が、また、あなた自信が、これらの部族のどれかに入っていればこそ、日本人であるのですしそれは現にあなたがもっている“姓”のイニシャルによって明確に判別できるのです。
   大和民族は一つではなかった
 しかし、このように書きますと、高松塚古墳の発見によって、すべてが明らかになった今日でも、まだ中には「日本人、つまり大和民族は一つではないのか?」といったかつての戦時目的のための古い教育の影響でやはり戸惑う方もいないとはいえないでしょう。  とはいえ日本のような四方海に囲まれた列島では、季節風と貿易風とが交互に吹き寄せ、暖流と寒流の二つに分かれた潮流が押し寄せてきています。  ですから古来いろいろな人種が、水中のエスカレーターともいうべき時速3~6ノットの潮流に乗って、この日本に漂着し、今日のわれわれ日本民族なるものを形成しているのです。  つまり、沿海州や北鮮からの「北方系」、そしてペルシャ、インド、今のベトナムあたりからの「南方系」、百済からの南鮮人で、韓(カラ)とか漢(あや)とよばれてきた「朝鮮系」。  それに唐を藤の当て字にかえた「中国系」といろいろに分かれています。     さて、「天の朝」というのは「天の何々の命」と神話に出てくる部族ですが、〝アマノ〟は天からではなく海からきたことを意味します。遠くはペルシャ湾、近くは南支那海から流れついてきたのが、それぞ   れにその漂着地点の浜辺で、いわゆる部族国家を形成して百以上に分立していたわけですが、邪馬   台国群とか八幡国群というのがそれで、これらの小さな村みたいな国々のことをいうのです。      ところが、その後、沿州海から満州の扶余族で、後に「元」となる騎馬民族が、朝鮮半島北部から裏日本へ入ってきました。 また、その後を追って南鮮からも新しい文化をたずさえた人たちが九州に入ってきたのです。そして、 高句麗や百済を倒した唐の軍が白村江の戦いで日本兵も打ち破ってこれが日本へ進駐してきたのが、「藤原船舶系」の時代をやがて作ったのです。 「日本」という国は日本列島に万世一系として伝わってきていますが、会社はそのままでも社長の改変があるごとく天の朝の次は崇神王朝、代わって仁徳王朝、また「大化の改新」の後、前述の高松塚古墳の近くの藤原京をたてた継体王朝と変遷があり、私たちの先祖も、そのどれかの帝にははっきりつながってはいますが部族としては同じではないのです。 敵か味方かを調べた〝血統調べ〟
 また「大和民族は一つではない」という例証として、日本の宗教を上げることができます。  つまり今も昔も、どんな国のいかなる民族であっても、宗教は一つと決まっているのに、日本列島だけは、大別しても〝神道〟と“〝仏経〟の二本立てになっています。(詳しくは、大陸渡来の仏経、ツングース系のカラ神である神道、それとインドヒンズーバラモン密教の三つは今でもはっきりと区別ができます)。つまり、日本には相反する二つまたは三つの民族が雑居していたということの、、これも裏書なのでしょう。  また同様に、日本民族が一つではないという例証として、〝お見合い〟と称する日本独特の結婚風習があります。これとても、もともとは被占領側の「原住民系」とそれに対する「外来系」との結婚を避けるためにできた風習とみられます。  これは血の純潔を守るために、旧家では、大東亜戦争までは絶対に守られてきたもので、必ず同一部族内でのみに限って、縁組する仕組みに昔からなっていました。  それゆえ、もし他の地方から嫁取り婿取りする際に生まれたのが、いわゆる「身許調べ」「血統調べ」という日本独特の慣習なのです。つまりこの血統を調べるというのは、決して病気などの遺伝を調べたのではなく前にも述べました通り、  「日本民族の中の原住系の血をひく家系か」それとも、「藤原系とよばれる外来征服者の家系か」の区別、 すなわち判りやすくいうなら、〝敵〟か〝味方〟か、といったことをまっ先に調べることが、それだったのです。

 ◆もう少し詳しく述べてみますと、いわゆる「騎馬民族」を率いて、日本に入ってこられた「ハツクニシラスの天皇」と呼ばれている「崇神王朝系」と、その前から日本列島に住んでいた「天照大神をもって最  後になった天の朝の土着系」との血統別。 そして、やがてその後になって、「崇新王朝系の騎馬民族」を追うような結果になってしまった「百済経   由系の仁徳王朝」との血別。     そして、その「仁徳王朝」をも征圧した唐ぶりの藤原(桃源境のトウゲンをもじって当て字した)氏族の「舶来系の継体王朝」の四つが、大体、日本民族の四大区分となります。 そこで、「崇神王朝系」の場合ですと、俗に「馬には乗ってみろ、人には添ってみろ」というように、同じ騎馬民族系ならば、その男性と女性は一つに添い合ったにしても間違いがないという考えがあったが、 その反面、大陸系の「継体王朝」の場合には、 「どこの馬の骨か判らない」という言葉が、娘や伜が親に断わりなしに相手を探してくると今日でさえ使われています。もちろんこの馬とは〝馬乗の骨〟といった蔑称で騎馬民族を意味し、彼らが異民族との結婚を戒めた言葉であるといえます。
 
 さて、この部族どうしの対立感情といいますか、相違性は大変なもので個人の感情よりも部族の血の組み合わせが封建時代にはすべてを決定するものだったようです。  したがって、〝お見合い〟という形式は、〈同じ部族の者同士なのだから縁組させても、民族の血の流れは同じゆえに差支えないから、心配なしに一緒にしてしまおう〉といったところから、  俗に、騎馬民族系では「馬には乗ってみろ、人には添ってみろ」といい、舶来系の継体王朝では「どこの馬の骨か分からない」という言葉で、異民族との結婚を戒めた。 これは発生したものなのです。ですからよく、七十歳や八十代の高齢者の結婚の話しで、 「見合いといっても、ろくに顔を合わせたわけでなく、祝言の翌朝に初めて顔を見たくらいのものです。しかしこれで五十余年何事もなくうまくやってきました」 などというのを聞かされ、不思議に思われたこともあるでしょうが、その謎がこれなのです。  もしも、このルールを破って、勝手に相手を見つけてくると、昔は、部族のタブーを犯すことになり、そうした結合に対してはかなりひどい制裁が加えられ、石子詰の刑として生きながら石の間に埋めつくされてしまうというひどい刑もあり、
 
《日本書記》などには「異性のものと婚わいたる科により追放」などとも記録されています。 つまりこれは、日本の各地に昔からそれぞれ集落を作って住っている日本原住民たちの間には、ずっと久しく、 〝通婚同火の禁〟というきわめて厳しい慣わしがあったからです。つまり戦前までは他の村里でをなしている者らとは決して結合しなかったものです。それに対して外来系の権力者側も、自分らに従う者が反体制の者と結びついて、革命騒ぎでもされては困りますので自分らの方に裏切り者が出た場合は見せしめのために極刑に処したのです。  つまり、そうした原住系の中には「拝火教徒の末裔」が多く混じっていたので、〝通婚の禁〟はもとより、自分たちの火種を大切にし、他民族には、火を分け与えない〝同火の禁〟なるインドの原始宗教の影響というか名残りみたいなものが、日本にも伝わったのでしょう。
 
 
 
なにしろ、拝火教徒の末裔には、煮焚きをするかまどの火を大事にし、「かまど荒神」と呼んで正月には、しめ飾りをしたり、お供えをするような古い習慣もあり、今でもこの人達は、例えば「タバコの火を貸してください」といわれたときなど、マッチは貸しても、自分が現に吸っているタバコの火は決して貸さいものです。ですから競輪や競馬場などでは、今日でもこれはよく見かける風景です。
 幕末に安濃徳と神戸の長吉が奪い合いをして、吉良の仁吉や法印の大五郎が死んだ荒神山の喧嘩も、このかまど荒神が祀られていた伊勢高砥山の参詣人が多く、祭りの時には胴元に入る寺銭が一日に二千両にも及んだから、その奪い合いに清水一家の大政や田中の啓次までが殴り込みをかけたのです。つまり拝火教の末裔が、現在の三重県だけでも何十万にもいて、そして、その連中がギャンブル好きだったからこそ当時の公認ギャンブルレース場だった高砥山は、別名を荒神山とも呼ばれて東海地方では屈指の稼ぎ場だったのです。今日でも、それゆえ馬券をかったり、賭けマージャンにあけくれする人は、姓を調べれば判りもしますがその末裔といえましょう。  もちろんそうした人々とは違い賭けの嫌いな種族もかなり多くいるにはいます。  さて、このように見てきますと、大和民族はひとつではないことが、納得していただけたと思うのです。そしてその詳しい発生過程は後で述べるとしましても、ここでは民族というものは日本だけでなく何処の国でも、やはり同じように純血の保持を堅持しようとしている例として、外国の場合を引例してみましょう。

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