新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

サンカ生活体験記 第五章

2019-10-21 12:47:27 | 新日本意外史 古代から現代まで
サンカ生活体験記 第五章

私自身が彼らの許へ行っていたのは大正十二年頃だが、それにしても数が納得できないのである。五張か十張の違いなら別だが、その当時でも明治年間の数よりもまだまだ多かった。
だから、せっかく克明には出ているが、これは実際に調査したのではなくて、報告されたのを記帳して、役所仕事として分布表に作り上げたものではないかと体験から思うのである。
サンカより普通にトケコミ、ツナガリは隠している白バケが四万八千となっているのも仲間を庇うためで、昭和になってからでもこの十倍。明治からなら御一新のどさくさにトケコミしたのまで入れたら五十倍以上で、二百万セブリが今はトケコミして
しまっている事になる。最低一セブリ六人とみても、今の人口一億一千万の一割五分はそういう事になる。
小学生の五、六年生の学級委員選挙で、男の子はマンガの本やボールペンを配って歩き、投票を頼むが、女の子は吝なのか慎ましいのか倹約家で、金の掛かることはせず自分にあるもので間に合わせて、クラスの男の子を逆さオンマの上向きにして、ハイハイドウドウとやる。「ギリと人情をハカリにかけりゃ」という高倉健の唄があるが、別な方が器量よしで、人情としては良いと思っても、自分のあすこを栓にしてもらったギリにかけてはならぬと投票をする。
女上位といい、自分のものを分け隔てなく親切に振舞うというのも、セブリの美徳である。
 箱根の湯本のホテルの伜が、親密だった土産物店の娘を学級委員選挙に立候補したため、片っ端から皆に貸したと、ジェラシーから小学生殺人事件を起したのは昭和52年か53年の有名な話である。小田急線の湯本の一つか二つ先の風祭駅のあたりが、サンカの屯り場ゆえトケコミの少女だったらしい。それなのに知らず早まった事をしてしまった少年こそ憐れである。

歴史の中のサンカ
 なにしろ、私が祖母の手で、普通なら養子にやられる恰好で、サンカでいうサボつまり小さな客分の一人となって、セブリを次々と歩いたのは少年期の事なので、その体験記を事細かに書くのは、まだ肌で感じただけのただびっくりした想い出が、今でも苦い百合の根団子の味と共に残っているだけだから、後まわしにして、尾張の一(はじめ)とよばれるハジメサアーの昔話や、三重で矢田河原テンジンのオッチャンたちの、口から口への伝わり言を後になって思い出して頭の中で綴って、アイヌみたいに文字でなく耳から耳へ伝え、他には絶対に口外せぬ純粋日本人の彼らの歴史を、まず整理してみたい。なにしろ三角寛の研究では、焙りだしのサンカ文字とよぶのを写真入りで出しているが、神代文字とし伝わっているのとも違い、「鈴」や「本」に似たのや、「木」の字は契丹二千字文に入っている。
以下に、日本におけるサンカの発生順を記しておく。
   第一 発生期(武内宿弥時代)西暦二世紀
 西暦二世紀。つまりヤマトタケルが伊吹山中にて毒害され、武内宿弥が、日本歴史では「棟梁之臣」つまり今でいう首相という事になっているが、西暦95年に東国を巡察した結果、新植民地を開発せんとして住民刈り。西暦126年八月に、彦狭島王の子の御所別王が、武内宿弥の命令により中国大陸より鉄製武器にて武装して、縄文日本原住民系を捕虜奴隷にする。
この時、脱走して第二帝国ならぬ自由地区をと、山中で逃げ隠れて散らばった彼らの時代。

  第二 平群真鳥父子討伐期(武烈時代)西暦五世紀
 騎馬民族の末裔や残党は討ったが、今のマレーシア経由で日本に漂着し、各所に黒潮暖流に乗って日本列島に接岸、上陸したアマの民は雨水と生魚をかじって漂着してきて、雲南経由の水田耕作の民と共に、漁、製塩、農耕の民として奴隷課役させられていたが、食糧確保のアマジリ(塩尻)の者らは、雄略帝が前帝を殺した西暦456年に、残された一族を滅ぼされた後に、西南よりの古代海人族の後にいう「博士・太夫」とか「アー元」[網元]にあたる平群の真鳥を登用して使い、食糧の確保を約束させた。
ところが、次の武烈王の代になると、各地の平群の庶民の蓄えていた乾魚や雑穀をみな強制的に没収した。
次いで、また囲い地に入れて強制課役奴隷に戻し、邪魔になる真鳥とその子の鮪を、大伴金村の軍勢を遣って、主だった一族と共に誅殺。大臣邸の掠奪が終わると、彼らは放火して引上げた。
この時、武烈王の容赦ない苛酷さに縮み上がって、従順な奴隷に逆戻りして限定地へ放りこまれた者も多かったが、全部ではなかった。脱走を計って平の真鳥や伜の鮪の仇を討とうとした連中も、かなり相当にいたらしく、彼らは素直に武烈王の命令に従わず山へ海へと逃げた。サンカ言葉にバビロニア語が多いのも、こうした理由から考えていくと、よく納得できる。

   第三 蘇我氏追放(釜足時代)西暦645=七世紀
 かつては武内宿弥がヤマトタケルノミコトを毒害したまいて、皇位継承者をなしにしたという事は、本当の帝位は彼が継ぎ、その子孫が後に続いたからで、雄略や武烈までの時代を、「倭の五王」と中国大陸からは呼び、珍、讃といったような呼び名を向こうでつけるのは、それなりのわけが明白だったせいだろう。つまり、弥生時代にと日本列島は、武内宿弥から変わっていた。
 が、改めて釜足が「防主」とよぶ大陸人を率いて日本列島へ入ってくると、僅かな鉄を分け合って棒の先につけて戈とよばず槍といっていた騎馬民族系の蘇我氏などは、青竜刀や金剛戈の一撃で叩き倒せて勝ったから、彼らは百済系の中大兄
を立てて、進攻という恰好にはさせず内乱として蘇我王朝を滅ぼして、うまい具合にとって換わってしまった。これを学校歴史では「大化の改新」と、さもうまい舞台設定をして教えているが、日本書記には、誅殺のあった板ぶき宮は、その後は焼失と明
記されているが、最近の発掘では焼けた痕は何処にもなかったとす。
「六踏三略」を初めて持ち込んできた鎌足が率いて多武峯に山砦を作り、そこへ最新武器を持ち込んできた防の兵らを指揮し、それで蘇我の一族郎党つまり後に源氏となって蘇生してくる新羅や高麗系の一掃を企てて、貧弱な武器の騎馬民族の子孫の皆殺しを謀った。もちろん女だけは捕虜にして今の生駒を、当時は「夷駒」とよんで収容した。「イコマは悲しきオンナまち」と現代でも演歌で謡われるような伝統を、二十世紀までも残すようになっている。
 降参して捕虜となった男の者共も農耕も漁業もやらぬ遊牧民族ゆえ、牧場の牧童にさせ、「飼戸(シコ)」と呼んで馬の世話をさせ、まぐさ刈りをさせるなどし、もし馬が死にでもすれば飼戸は罰として殺されたり生皮をはがされたりしたから、彼らも次々と脱走して山中へ逃げ隠れ住んだ。

 サンカのテンジンとよぶ幕張りが、蒙古や沿海州、北鮮での昔の包(パオ)そっくりなのをみても、当初のサンカは平群が討伐された時に、真鳥や鮪の復旧を誓って逃げ込んだ名残りがサンカの娘の茜色、女房らの赤ネル腰巻だとすれば、そのサンカが寝るセブリつまり幕は蘇民系の民族で『蘇民将来之子孫也』という木札は現代でも京都祇園社で配っている。
平場では後には源平合戦など起きるが、逃げ廻る日本のジプシーみたいなサンカ社会は、この時から白の蘇我の、逃げてきた連中が入りこんできて一緒に共同生活を始めたのである。
古代海人族のところへ日本海を渡って騎馬民族がバラバラと入ってきて、崇神王は八ヨリ姫と婚礼され、その生れた子で孫にあたる景行帝も、アマの八坂姫にヤマトタケルらをも産ませた。
だから両者が一つになって山から山へセブリをはって逃げ廻っていたとしてもおかしくはないし、共に武内宿弥、藤原鎌足といった鉄製武器を持った大陸連中に潰された敗残者どうし。追われる者として一緒にテンジンを吊って、彼らがセブリを張って夫婦になったとしても当然。

  第四 日本原住反抗期(桓武帝)西暦780=八世紀
 アメリカの西部劇を例にひくと、同じ様だから判りやすい。
つまり日本では、リオグランデ砦みたいな多賀城が占領軍の東北の拠点にな当たる。ブラボー砦みたいな伊治城を、奴隷使役で築いたが、後年のような城廓ではなく、矢を防ぐ鹿(ろく)さいなどで四方を囲んだだ
けで、中には宿舎があった程度のもので、飼戸の奴隷が馬の手入れをして黄色のひれをつけた防、つまり西部劇の騎兵隊が屯所として詰めていた。
「蜂起(宝亀)十一年三月二十ニ日、陸奥上治郡大領伊治麿呂が、もともと原住民ゆえ治安維持のため、大領の官につけてもらっていたのを、百済系の按察使紀広純が、面と向かってとか人外もんと蔑んだのに事は始まる」
と日本後紀では説明している。
が、それまで奴隷課役の監督を無理矢理させられて憤懣やる方のなかった伊治麿呂は、もはや堪忍なりがたくなって、「隠忍」つまり鬼とよばれて酷使されていた連中を集めて、もうこれ以上は無理と決意を洩らした。
「我らとて、もはや妻や娘は伊治城へつれてゆかれて騎兵隊の慰みもので、我らは死ぬまで単身でこき使われてきたものの、お頭様さえも面と向かって人外者と侮られ、クダラにあらざれば人間にあらず、「クダラナイ、クダラヌ」と言われ続けの我ら一同も、こうなったら生きて生涯こき使われているよりは、死んだがマシでござりまする。お供しまする」
 出羽の国つまり今の秋田の者らが先頭になって胆沢、宇賀、江刺、雄勝の面々が、角石を棒にくくりつけ、青竹で弓を作り、太竹の矢を削って火焼きをして竹槍にかため、紀広純が入った伊治城へ攻め込み、慰安婦にされていた妻や娘を救出。城内にあった中国渡来の鉄剣を三つ四つに折って柄をつけ槍の穂先とし、鉄楯をあるだけ分捕って、次は多賀城を攻め落とした。
スー族がカスター将軍の部隊を全滅させたよりはるかに快勝進撃で、岩手のアテルイも何千もの日本原住民を率いて駆けつけ集ってくるし、青森や山形からも次々と応援が駆けつけてきた。
 飼戸の連中は箱根を越えて馬で食糧や占領した鉄武器を輸送。古代海人族も、かつての「富士王朝」を復活させて、クダラや弁髪進駐軍を追い払おうと、富士の裾野へ海岸に沿って今の田子浦まで進撃し、清水港の今の江尻が富士川を挟んでの決戦場となった。

奪った鉄棒が鍋になったために、河内にあったゲットーから高野新笠の子を迎えて帝位に立て、自分らはこれまで蓄えてきた金目の物を牛車にのせて、高梁川を渡って中ツ国、つまり現在の岡山へ避難をした。
 インディアンは全部が終結できずアルコールで買収されたりしたが、日本インディオは箱根以東の者はみな一致団結してイ・アル・サン・スウの十進法でなく、アイウエオが数字の五進法で、片手の指を折っての計算だが、なにしろ弁髪人が岡山へ逃げた情報も入っているし、クダラ人の敵方の中にはカネやオンナで鉄製武器の横流しをしてくる者もあって大いに気勢が上がった。

西の方でも、因幡ではのち「水上のおん坊」とされてしまう川継らが東国の原住民と一つになって岡山を挟み討ちにしようと、出雲方面のゲットーから収容されていた日本原住民を集めた。しかし、頭数は揃っても肝心な鉄製武器がなく、竹の弓矢と縄文式の投石か石斧しかない。そこで西暦782年初頭には、岡山よりの防と呼ばれる青竜刀部隊によって鎮圧された。
現代の日本人には考えられぬ話だが、当時の事ゆえ一千万ぐらいの人口と見られる日本原住民が、これことごとく反体制集団となって、昔の富士王朝を立て直して、搾取や酷使がなく、女をみな慰安婦とする外来者を一斉に叩き潰してしまおうと、一致団結して戦った。中ツ国へ避難した藤原氏は、周囲のゲットーがみな叛乱を始めたので、少しでもその血を引く者は危険だというので、三方王や妃の弓削女王は九州の日向へ配流。山上船主は水軍を握っていて剣呑だからと、騙して捕えて隠岐の島の土牢へ閉じこめて守りを固めるのに苦労。

「向こう(大陸)より鉄武器はどんどん取り寄せ送ってやる」と約束はしたものの、岡山一帯さえ危なっかしいので、帝の方には救援武器は届かない。
そこで堪りかねて、西暦784年5月16日に、小黒麿や種継に命じて、攻め込まれても安全と思われる場所を探させ、山背国乙訓郡長岡の山奥に六月から十一月までの五ヶ月間で、万一に備えた宮を突貫工事で作らせて、帝はそちらへ避難された。
昭和五十六年になっても、ワラビ採りに行った土地の女性が二人揃って暴行され殺害され、事件は迷宮入りという難所である。当時としても絶対安全なところだった。

が、中ツ国の岡山の蔵人共は、せっかく身代わりに立てて、クダラ人でも兵となる者はみな「大宝律令」の「良」「賎」の二大別の中から、良に格上げしたのに、富士川を渡って攻め込まれ、長岡の山深いところへ避難されては何ともならぬから、そこで狼狽。急ぎ北北東の風が吹くようになると、中国大陸へ各種の鉄武器やコーリャンの補給を頼み、西南西の風の吹く延暦四年の夏には、戦略物資の輸送船団が岡山に近いエッタ(江田)島へ次々来航した。
クダラ系に持たせては危ない石火弓のような最新兵器は岡山へ運んだが、鉄楯や鉄戈や青流刀は銅羅と共に補給させて送りつけ、船で来た中国僧のために平安京を坊都とし、比叡山上に、捕虜となって送られてきた叛乱軍の原住民どもを使役して延暦寺を建立させた。

このため、古代海人族の捕虜三千が険しい山頂へ用材を運ぶ苦役で大半が転落死をした。後、古代海人族の血を引く八田(織田)信長が、この延暦寺を焼き討ちにして僧俗三千を皆殺にしてのけたのは、この時の仕返しみたいなものである。
さて、唐船は唐布や反物を持ってきたので、これを前線に送り届け、進攻してきた日本原住民の女将達に次々と贈物にした。
「まぁ仲良くやりましょう。これはプレゼントです」と、言葉巧みに巧く機嫌をとったらしい。
せっかく全部まではいってないが、日本原住民の殆どが反権力反体制となって、みんなサンカみたいになっていた時に、藤づるや樹の皮のよったのしか身につけた事のない女将達は、美しい唐反、唐布でコロリと買収されてしまった。沢山貰って満足して、せっかく渡った富士川をとって返し戻してしまった白山島(新潟)方面)の部隊すらも出てきた。

こうなっては、せっかくアイウエオと番号をつけて快進撃を続けてきた日本原住民も仲間割れみたいになって撤退する者が続出した。
 かつて紀古差美将軍が五万の兵をもって進撃したのに、東北の女達に男の一物をみな斬られ、道祖神の御神体とされ総崩れした実績もあるのに、赤青黄の美しい唐布や呉服に目がくらんで軟化してしまった欲の深い女将たちは、男衆はあくまで徹底抗戦を叫び、もう一息で京まで迫ろうとするのを止めさせにかかったのである。
この混乱に目をつけて、補給武器を渡されたクダラ軍は一斉に反撃に出た。これを、「女賢しうして牛を売りそこなう」と私どもの先祖は言い伝える。
 牛とは岡山から牛車で来た連中。つまりダイヤモンドに目がくらんだのは、金色夜叉のお宮だが、唐絹に目がくらんだばっかりに、捕らえた牛まで取り戻され弁髪人追い落としに失敗。彼女らもみな捕虜にされて開戸へ送られた。この時の脱走者が第四のサンカとなってしまったのである。どうも女性という生き物は困ったものである。

         唱門(将門)伝説
「勝って兜の緒をしめよ」というが、クダラ人の坂上田村麻呂らの軍勢が、敗走する日本原住民軍を追いかけていき、原住民は「根」であるから「根蓋」をしてしまえと、谷底へ追い込んで生き埋め。
しかし昭和の今となると、かつて根蓋にされるのを怖れて従順な奴隷となった者の子孫である現代の庶民どもが、東北三大祭の一つとして土を踏みかためる型の踊りを皆して「ネブタ祭り」とし、クダラ人の田村麻呂の山車などを曳いて廻って楽しんでいる。こんなバカげた話しは歴史屋が悪いのか万邦無比。
もしマッカーサー時代にレジスタンスをやって、日本人愛国者がネブタにされたら、千年後にはマッカーサーのパイプ姿の山車がくりだされ、その頃の日本人もまた土を踏み固める踊りをするだろう。実に歴史的に珍しいお国柄である。
ヨーロッパ諸国が宣教師を先に送り込んで住民をキリスト教にして植民地化を完全にしたごとく、最澄を送り込んできて天台宗。翌年には空海を派遣してきて、これが今の高野山。

かつて郭ムソウこと藤原鎌足によって漢字使用が全国に布令されたが、守られていないので西暦821年には勤学院が作られ、今でいうチャイナスクールが次々と各地に建立された。
というのは桓武帝のクダラ王朝は五代まで続いたが、もはや治安が回復したので、九世紀初頭からは牛車部隊がまた戻ってきだし、帝位が代替わりしてしまっていた事になるのだろう。
だから西暦884年になると藤原基経は時の陽成帝を、「我が意に反する」とクビにする。

 殺されるらしいと、帝の一族は丹波山中へ逃げ込まれたので、サンカの始まりはこの時からだと決めつける歴史屋もいる。木地師となってロクロを用い木椀や盆、コケシまで、日本全国にわたって作っているから、その当時としては二千人ぐらいが藤原氏ににらまれたゆえ、山中へ姿を消したのだろうが、次々とセブリを移動させるサンカは決してロクロなどの道具は使わない。
 また現存の木地師は、尊い身分の出身だと、おかしな話しだが、敵姓の藤原氏をみな名乗っている。だから、山者というのがこの子孫らしい。サンカと誤っては困りものである。

 第五 唐滅亡契丹建国(醍醐帝)西暦897=九世紀

サンカがサンカらしくなったのは、この第五期からである。というのは唐を滅ぼした契丹は日本海沿岸まで勢力を伸ばしたゆえ、半日から一日かかって裏日本へ、契丹に滅ぼされた国の者も契丹人もウラジオストックの布設機雷が能登半島へ十時間で漂着している程ゆえ、当時は人間の方が先にどんどんと入ってきた。つまり唐やクダラは表日本からだが、契丹からは裏日本へ夥しく流入してきたようである。則天文字(唐字)になくて契丹字の方に入っている「鈴」「鬼」「木」などの苗字を上に持つ日本人が東北や北陸に多いのはこれを物語っている。

 随は唐が滅ぼした国ゆえ「桃」とは区別したが、藤原氏は進駐当時は通弁に用いたりして重宝がって、やがては藤原一門の従四位下に組み込んだ。しかし藤原氏の祖国を滅ぼしてとって替わった契丹からの人間は、同じ中国人とはいえ不倶戴天の敵というしかない。よって、「契丹」の二文字を日本歴史では一切載せていない。しかし泡沫国家ではない。今も接しているインド、アラブ、アフガニスタンはキタイと呼ぶし、ソ連でもキタイスキーナである。
 歴代の中国の中で非常に文化的に優れていたようであるが、唐を滅ぼされた藤原氏にとっては絶対に許せぬ相手である。よって日本海を渡ってきた彼らを坂東八ヶ国へ、とりあえず追い払って、同じ大陸人ゆえと、荒地ではあったが土地を与えて、それぞれにみな開墾させた。
 それまで焼畑耕作をしても水田耕作に変えても何ともならぬ今の関東平野である。
小噴火ではあるが、信州の浅間と富士の降火山灰が長年にわたって積み重なっていて、耕すのには無理な土地であった。が、契丹から渡ってきた頭の良い連中の事ゆえ、酸性土で火山灰を中和させる試みをして、次々と荒蕪地を田畑にかえてゆき、やがて収穫物が採り入れられるようにした。
 西部劇でインディアンを居留地へ収容。コーンを一握りずつ渡し、河から水桶で運ばせた潅漑水で、やがて緑のコーン畑になってトウモロコシがとれだすと、白人の政商が目をつけ、「金になる土地に変わった」と、そこでワシントン筋へ顔をきかせ、彼らインディアンを監督している砦の軍隊に対し、ワシントンより彼らの追放命令書を送らせる。
そこで騎馬隊は黄色いネッカチーフを首に巻いて、せっかく生活できるようになったインディアン部落を襲撃し、反抗する者は殺し、降参した連中を次の荒蕪地へと追い込み、コーン畑となった土地は政商によって耕地として転売され、その売り上げの何割かが砦の隊長へボーナスとして手渡される。
 つまり坂東八ヶ国も、せっかく積もりに積もった火山灰をとり除き、青々とした田になりかけた頃、多賀城から黄色い布を頭にまいたクダラ兵が契丹人を追い出しにかかったのである。
 もちろん、この危急は契丹本国へ出された。すぐさま救援武器を積んだ船が瀬戸内海の、来島、塩あくの船乗りにわたされた。彼らの頭目の純友は、いま娘道成寺で名高い和歌山海岸まで進出し、何度も京へ攻め込んだ。そこで公家は「従五位下」の官位と「藤原」の姓を与えてなんとか純友を懐柔しようと試みたが、とことん純友に拒まれた。
 しかし、坂東方面へまで輸送するのにはディーゼル機関が発明される前だし、蒸気で進む時代でもなく、東々北に風の吹く春しか、純友としては、焦ったが東へ出船させられなかった。
 
そこで契丹からは日本海の白山島つまり今の新潟に軍用品を陸上げ、これを飼戸の民は馬の背に荷駄として運び、後には連雀とよばれる背負い板にくくりつけ、富士山の山梨方面から茨木の潮来へ持ち込み、小舟で運び入れた。
 どうにか鉄製武器を入手する事ができた契丹坂東人は、土地を取り上げて東北へ追い出そうとする多賀城の兵と正面きって戦をし続けた。

 しかし輸送路が判ってくると、京軍はこれを途中で遮断して没収してしまった。だからして、せっかく一斉に蜂起したものの、西暦938年の末に始まって初めは勝ち戦で各地の(中)華城を占領したものの、補給がきかぬため二年後の正月にはついに平定されてしまった。公家側では契丹系の反乱とはしたくないので、平将門なる者の妻になる筈の娘が、伯父の平国香に奪われたのに、坂東八ヶ国の百姓が同情して一揆を起したものとしてしまっている。

 しかし、蜂起するには大量の武器が絶対に必要である。いくら人情味があつくても、一人の女を救出するために坂東八ヶ国の全住民が一斉に戦うとは、あまりに話が荒唐無稽にできすぎである。
 結局は、勝てば官軍、負ければ賊軍で、せっかく苦労して耕地とした土地を奪われ、彼らは東北に追われていった。あらゆる公家の日記にみな平将門の乱として出ているので史実とみなされている。が、難波大助の子孫とか幸徳秋水の子孫と称する者は皆無なのに、千葉氏相馬氏は堂々と将門の子孫と名乗っている。と言う事は、実際は将門に似た実戦指揮者は何人もいたろうが、将門自身の存在などは全く架空で、いなかった事の裏書だったとみられる。
 新羅系の猿女が小野姓を名乗って関所を通り、語部としていろんな話をする時に、決まって「オノ」と自称して語ったから、今でも「オノの小町」とか「オノの道風」といった名前が残っているのと同様に、契丹系の門づけは「唱門」とよばれ、自分でも「しょうもん」と自称して話して廻ったのが今の「唱門[将門]伝説」なのである。

それゆえ、東北に「しょうもん」とよぶ地区が多く、カマド荒神をススで固めた盛岡考古館の陳列品や、「ペルシャ工芸の粋である」と人間国宝松田権六が激賞した中尊寺金色堂の説明をなすために、何故にかくも誤られたかと、目下裁判係訴公訴中の私の「古代史料集平将門記」2900円[日本シェル出版]に詳しく出ている。
 確定史料とされている当時の公家の日記や、名古屋の真福寺に昔から蔵本とされているが、尾張藩天野信景の<塩尻百巻>に、彼が同寺を何度も訪れて蔵書一覧表を書いていて、それには出てこない「真福寺将門記」を、五柳亭の黄表紙本と並べて、これがやがて、「比えい山上で純友が、われは関白とならん‥‥将門どのは新皇となられよ」と頼山陽によって芝居にされ、一犬嘘を吠え万犬それにならって嘘を伝える日本史の構造を、「日本歴史集大成」の別巻として事前連絡をし、刊行をした途端に、G[ここからは生前の八切氏と某氏との裁判に関する記述で、八切氏亡き今、何もお相手個人名を出す必要もないと判断し、伏せ字とします]代思潮社K.I.から電話の一度もなく、突然に強制執行をかけられてきたので、ゆむなく和議に応じて本の回収を行い原本フィルムも渡した。
 するとK学院大学Hによって損害賠償の提訴がなされ、八年たち、こちらでは将門伝説が尤もらしく出来上がるまでの経緯として、弟子にでもやらせたらしい句読点を読み違え、間違いだらけのものだが、架空の将門が誕生する例の一つと併載。



 すると刊行もしていないのに、二版刊行の妨げとなったと損害賠償の請求。当方は実質的には千万以上の欠損。税務署提出の申告も証拠に出した。ただIやH側のK弁護士が旧検察OBなので、かつての部下だった検事に、断裁屋の調べを厳重にしたから、断裁屋が、残りは恐いからと中止して戻してきた所もある。



 オカミも偽造史の側につくのであろうか。まさか刑事事件にはできずで、IやKの計算違いである。が、こうした「頼まれ事件」というのは多くて、検察畑のOBは他へ天下りせずとも、かつての地位を利用して罪なき者に有罪起訴の手伝いを、見返りするというか、教唆依頼し犯罪製造人の感さえがある。司法試験を合格しても検事畑を進まぬ弁護士は刑事事件は官選弁護ぐらいで「ヤメ検」と俗に云われる彼らの暗躍は日本法曹界の嘆かわしい存在だが、上場の大会社の顧問弁護士は都合上、彼らが殆ど占めているのが現代の実状である。
 句読点や返り点さえろくに判らず誤っている個所が七十七個所もあるものが、「三十年の学識」によって三年の心血を注いだものとの慰藉料と、検事から裁判官となった方の判決主文である。

          天神信仰
 寛平三年(891)正月十三日に、陽成前々帝および御一族を位からおろし、山中へ追放した権力者太政大臣藤原基経が死んだので、ほっとした宇多帝は日本海を渡ってきた者の中から蔵人頭にした者へ昇殿を許した。名筆の評判が高かったからである。
菅原と姓を賜った。
 翌年九月二十五日までに、「新撰万葉集」を編纂して参議に任官した菅原道真は翌年九月、
「もはや唐国は名ばかりにて、既に契丹の支配下に入っていますゆえ」と最新大陸情報を伝えて、遣唐船の仕度を中止させるように進言。そこで宇多帝も「唐人ならぬ大陸人が多く都海してくるのは、そのせいなりしか」と頷かれた。
 が、唐を祖国と思い込んでいる公卿達は、まさかとは半信半疑でみな面食らってしまい、大いに吃驚してしまい、
「あの者らは最近こっちへ来たばっかしやよって、事によったら本当の事かもしれへんな」
「そやったら、わてらの御先祖の鎌足公が郭ムソウ将軍として進駐してこられたみたいに、契丹から軍勢がやってきやはって、今度は麿達が『随々、ズッコロバシ糠味噌ズイ』になるんやおへんか」
と寄り合っては心配していた。

 だから西暦897年に醍醐帝が即位された途端に、「左大将藤原時平」の対抗馬に「右大将菅原道真」と、思い切った登用をされる事ができた。
 すっかり定着したみたいに、御所の実態をがっちり押さえている藤原体制の桎梏から何とかして逃れようとの大御心からであろう。
 しかし、二百五十年もずっと藤原体制でがっちり固められてきた宮廷内の事である。
そのため僅か四年で、寄ってたかって宮中の公卿どもは、「ぎょうさん海を渡って人間が来ますよって、もし契丹の軍隊が進駐してきた時の事を心配し、麿らは菅原が豪うなるのを見過してきましたんが、どうも向こうから攻め
てこうへんみたいやさかい、そやったら遠慮して小そうなっとらんかて、麿達はかまやしないやおへんか」となったので、延喜元年(901)正月二十五日に菅原道真を九州へ配流するごとく太宰権師として筑紫に左遷させ、すぐではまずいから二年後の正月に地元の者に命じ
て暗殺してのけた。しかし、藤原氏は政治的に本当の発表はできないからして、「罪なくして配所の月をみる。恩賜の御衣ここにあり」といった美談になって、文部省教科書に載っていたのも、まだ藤原勢力の続いている
オカミの指示によっての恰好づけらしい。

つまり、契丹の、藤原鎌足にもあたる、派遣されてきた第一人者の唐の残存勢力によって、真っ先に血祭りに上げられてしまったのである。が、ほっとしたのも束の間で次々と落雷。都は暴風雨が次々と見舞って各所に落雷。公卿邸も次々と雷火で焼け
たからして、「こりゃ、あの道真めの怨霊が天界に彷徨。そして麿らの邸を狙い雷を落すんでおしゃろ」
「あれは頭の良い男やったから、雷どもを指揮して太鼓をドンドン打たせ落雷さすよやろ」
 慌てて藤原系の公卿達は、北原の原っぱに道真怨霊封じ込めの為の天満宮を建立。
亡国した唐より亡命してくる連中を迎えて、最新大陸文化を採り入れ、「延喜格式」と新法を作ったりして、唐よりの亡命者の力を借りて、ますますもって御所の藤原体制をかため、
「契丹人が続々と日本海を渡って渡航してきているのは、遠征してくる前の尖兵らしから、早めに掃討するが先決問題です」
と帝に進言したが、藤原体制嫌いの帝は承知しなかったのである。
 そこでやむなく坂東八ヶ国や紀ノ川の流域を彼らのコロニーとなし、ついに朱雀元年に帝に退位していただき、六日後に死んでいただき、八歳の新帝をいただく事によって強力軍備を拡張しだした。
「被差別歴史発生史」の私の本には詳述してあるが、日本では天皇の謚名に「後」を上につける御方は、前の帝と同じ境遇の方に限られての命名である。これさえのみこめば判りやすい。
 契丹系の菅原と旧唐系の藤原氏の双方を天秤にかけられた醍醐帝に後の冠称をつけられた南北朝の後醍醐帝にしても、建武の中興では足利高氏に尊氏の名を賜り、新田義貞や楠木正成と共に左右に並べて功を讃えられ、つまり双方を天秤にかけられて最
後は共に御不運。
 さて、八歳の朱雀帝をいただき、すべて思うが侭に藤原忠平はした。鉄武器を、日本列島に当時ごろごろしていた山金と交換で入手。契丹に追われてきた亡国唐人をみな亡命させ軍幹部にした。そこで七年たって完全に武備が備わると、もはや契丹より直接に来攻はないものとみて、
「彼らに賜田されし土地を返上し、新たに指示する地へ移るべし」と、ようやく収穫が順調になってきた坂東八ヶ国や、紀ノ川流域の契丹人や原住民に対して俄かに厳重な達しとなった。
 菅原道真の天界よりの怨念込めで、その部族を滅ぼし得たというので、天よりの刑罰の年となし、当初は938年は天刑元年だったが四年がかりで勝ったので「天慶」と年号も遡って変える。
 俗に、大和民族は単一民族なりと称しても、源、平、藤、橘の四姓。つまり四大部族とす。
「八切裏返え史」に初め公表した時は半信半疑みたいだったらしいが、その後の十四年間では今では反論を正面きっては言えずヤメ検で裁判沙汰の係争を八年も繰り返しているだけである。

豊臣秀吉は猿でない

2019-10-18 10:59:33 | 新日本意外史 古代から現代まで
豊臣秀吉は猿でない

「うん、うぬは猿そっくりじゃな。まこと珍妙なつらじゃ。よし、今日よりは、猿めとよんでつかわそうかい」
「はい、はい、召し使うてさえ頂けるものなら、てまえは猿でもなんでも、結構にござります」と信長に奉公の初めから、いと気軽に、
「さるめ、さるめ」といわれた事に、あらゆる書にも『太閤記』にもされている。しかし、
『両朝平壌録』という朝鮮の役のときに向こうから交渉にきた者の、帰国後の見聞録ともいうべき報告書には、
「つらつら関白秀吉を、間近かに観察するに、左頬に黒あざのごとき汚点(しみ)が数点浮きでており、口が尖っていて、その顔つきは一見、犬に相似していた」とでている。
 日本の講談では、猿だとか猿面冠者とあるが、実際に面会した人間は、はっきりと秀吉を、「犬に似ている」といい切っているのである。
 はたして、どちらが本当だろうか?
 また秀吉を、土百姓の子とか、鉄砲足軽の子であったなどというが、その頃、日本へ宣教師としてきていたシュタインシェンの、『キリシタン大名』には「樵夫」とあるし、
『日本西教史』にも「秀吉は若年の頃は木こり、たきつけ火付け用に柴の束を担ぎて、売りひさぎ歩きし」とでている。また、
「講談」では「相当豪かった丹羽長秀や柴田勝家にあやかろうと、羽柴と姓をつけた」というが、『古語辞典』では、
「はしば=枯柴の尖端で点火用にした端柴のこと。形状より羽柴ともいう」とあるが、どちらが本当だろうか‥‥この方が論理的だと思われるが、
これまでそうした説は全然といってよい程とりあげられていない。まあ、講談とか、それに類する読物ではそこまでの詮索は、煩わしくなるだけで必要がないのかも知れない。
 
しかし徳川の世が終って明治になった途端に持てはやされ、西郷隆盛ら征韓論者らによって、「豊太閤に続け」と叫ばれて以来、やがて日清日露と続く大陸進出作戦に際しては、
かつての先覚者、国民的大英雄として、小学校読本や絵本の主人公にされてしまいには一大人気者にさえのし上がってしまった彼には、
「これ藤吉、いやさ猿め」といったようなそんないわれ方でないと、一般の親しみが得られなかったというのでもあろうか。
 そうなると、秀吉という存在も、明治軍部が担ぎあげたジンギスカン義経と同じように、大陸開拓先進者という国民指導用の偶像だったにすぎない存在だったとも考えられるのである。
つまり明治以降、ある時代ごとに秀吉が、猿だ猿だと面白可笑しく脚光を浴びさせられるのは、なにも木下藤吉郎の出世功名譚が世人から求められ、
それで引張り出されるのではなく、朝鮮とか中国を国民に身近かに感じさせねばならぬような状態のときに、それはチンドンヤのごとく真先に、
引張り出される道化ではなかろうかと勘ぐりたくもなる。まったくそんな感じさえもするのである。
 というのは徳川時代には秀吉の研究などされておらず幕末の、『真書太閤記』や『絵本太閤記』ぐらいの、いわば講談本のはしりしか出ていない。
だから乃木大将程の人でさえ、『真田十五代記』といった講談本の類しか読まなかったそうだから、それよりも年かさの明治の元勲などが読んでいた本は、それ以下のものとしか考えられぬ。
 だから秀吉を大陸進攻のパイオニアとして、小学校教科書などでおおいに取り上げたはよいが、朝鮮史料や当時のイエズス派の書簡などはみていなかったろう。
だからして、その内に、秀吉が正親町帝を追って自分が帝位につかんとしたとか、それに反対した山科、四条卿らの大坂落ちといた新事態が明るみにでてくると、
「勤皇精神」を国民指導要領にしていた軍部も困ったのであろう。

 そこで、秀吉の新事実は一切みな伏せてしまい江戸末期のままの秀吉像を凍結させたのである。
 このため秀吉伝説は、文化文政の頃の版本から、すこしも解明されぬままに大手をふって今も、まかり通っているのだろう。
 後述する大和興福寺多聞院英俊の当時の日記から、史家の中には、秀吉というのは歴史知らずの明治政府が、正一位を贈りあがめ奉ってしまったが、
実際は日本人にもあるまじき思い上りの不届き者だった‥‥位は知っていた者もいたであろう。
 
だが、明治大正昭和の間ですっかり金字塔のように出来上がってしまった秀吉の虚像に、正面から突き掛かるような勇気は誰も持ち合せていなかったのか、それとも、
もはや定説となってしまった伝説をぶち破っても、誰からも賞められはしなかろうと、そんなばかげた徒労をあえて、強引にするような愚かしさはしないのであろう。
 だが敢えてそれを改めて推理し直してみるとこうなるのである。
また、加藤清正を有名にしたのは、なんといっても日蓮宗である。
 それと同様に、塚原卜伝を世にひろめたのも、常陸鹿島神社が幕末の剣術流行時代に、当社こそ武の神と宣伝し、
「参篭した卜伝は、神のご庇護で剣の名人となった。剣を志す者は当社へ参詣すれば、ご利益できっと上達すること間違いなし」
 と弘めさせたせいだというが、秀吉もまた、「山王権現さま」とよばれる日吉神社の信者獲得用にPRされていたものらしい。つまり日吉さまに願って生まれた子だか
ら、「日吉丸」であって、お稲荷さんの使いが狐なのに対し、「日吉さまのつかわしめは、猿だったから日吉丸は猿とよばれた」
 という論法なのである。もともと猿というのは、「馬屋神」といわれ、信長や秀吉の頃は、馬が病気した時には、
厩へ猿にきて貰って小さな御幣を振らせれば直るとされていた。
 つまり獣医というより、神聖な神の使いとみられ、猿飼部族は、「神人」の扱いをされていた。という事は、今のようにモンキーセンターや、動物園、それに家畜商もなかった時代では、
「猿は深山にすむ霊長類の動物」として、猟師でもなければ、実物は滅多に見られるわけのものでもなく、一般の人間は薄気味悪がって、拝まんばかりにしていたのだろう。

 処が天保の飢饉からの米価の値上がりで、非農耕の猿飼部族は食してゆけなくなり、猿を伴って門付けして歩くようになったので、かつては恐れ敬われていた神人が、
今度はあべこべに、「猿廻し」と軽蔑され、猿の方も、昔は、馬屋の神であったのが、多くの人目にさらされた結果が、価値を安っぽくさせ、
「テレツクテンのエテ公」となってしまったのである。
 だからこそ『真書太閤記』や『絵本太閤記」の類も、初めは発禁版本没収の憂目を秀吉ものを、そうした、「サルメ」「サル」の扱いにしたため、
後には大目にみられて、どんどん売りまくられたのではなかろうか。
 
しかし異説もある。その頃、将軍家茂に、恐れ多くも京から和宮が御降嫁になっていた。そこで一般庶民は蔭へ廻って、「将軍さまも天朝さまから嫁とりされては、頭が上がるまい」
 下世話にいうカカア天下を想像し愉しんでいた気味があるので、この「サルメ」というのは広まったのだとする説である。これは、
『続日本紀』にある古い昔話だが、小野の姓を名のる一族の長(おさ)が、「わが部族の男共が、前から住んでおりまする女尊系の部族の女に引っかけられ、
次々と連れ去られてしまい、今や小野族は滅びかけようとしています。どうか異種の民でありまする猿女族を、この際討伐して下さって、わが氏族をお守り下さい」と願いでたゆえ、
「よし、女ごに引っかけられ、しぼられ苛められておるとは不憫である」と、時の帝は憐れみたまい、すぐ猿女を急襲させた。
 処が猿女たちは「小野」の姓を自らにつけ、関所の眼をくらまし、もはや早いとこ散らばって逃げてしまった。
 そして旅にでた彼女らは、自分という一人称を、やがて、「おの」といったいい廻しをなし、「おのが姿を影とみて‥‥」といったようなのを唄って、旅芸人の元祖となり、
「語り部」になったというが、追捕に後から行った男たちも、ウスクダラではないが、逆に捕虜(とりこ)となって、「夫」という名の奴隷にされた。
 もちろん一部の女は捕らえられてきて、御所の中で、力仕事をする賎業につかされ、これは「猿女」の名を伝え幕末まで続いているが、
「さるめ」というのは江戸時代にあっては、「強い女」「かかあ天下」の意味だった。
 そこで藤吉郎も、おねねに頭の上がらぬサルメだったろうという受け取り方で、将軍家への当てこすりみたいに、「サルメ、サルメ」といったのが当たったものらしい。
処が明治になって、もう猿女の本当の意味が判らなくなり、「小男であった」といわれる秀吉に、その猿自体を押しつけ、
「猿面冠者」にしてしまったものと思われる。そして、なにしろ明治新政府というのは、有能な士は幕末のテロで大かた倒され、
生き残れたのは、たいした事もない連中ばかりだったので、「王政復古」が成ると、直ちに、
「豊国神社復興」の命令をだして勅使を派遣して正一位を贈った。
 これは、織豊両氏の統一事業が、近代国家前期工作であったことが認められた結果だと、故白柳秀湖はとくが、真相は、
(豊臣は徳川に滅ぼされているから、諸政一新のため)といった早とちりだったのだろう。処が歴史家はそれを裏づけなければならぬから、
故黒板勝美のごときは、その『国史概観』『国史研究』といった旧制高校、専門学校の教科書用にかいたものでも、
「秀吉は京都内野の地を相して邸宅を造営。聚楽第と名づけ宏大壮麗目もさめるばかりで、翌年四月に後陽成帝の行幸を仰ぎ、盛儀古今に比なしといわれる位に、
勤王のまことを示したものである」と、なっているが、彼は歴史屋のくせしてその当時の、『奈良興福寺多聞院英俊の日記』をみた事がなかったのだろうか。
 その日記によると秀吉は、自分は先帝と持萩中納言の娘との間にできた子種であるからと、時の正親町帝を脅かし奉り、女御をみな裸にむいて磔にかけるとまで、
紫宸殿で喚きたて、あげくのはては皇太子誠仁(ことひと)親王のお命を縮めまいらせている。
 御所に向かいあった下立売通りから十町四方の民家を取払い、そこへ万博なみの規模で造営したという聚楽第は、これは取りも直さず秀吉が自分が帝位につくための新御所に他ならない。
 そして、誠仁親王の亡霊にとり殺されると脅かされた結果が、親王の遺児をもって帝となし、その御方を招いて聚楽第を自慢して見せたことが、
「秀吉の勤皇」とは、なんたる無智であろうか。その帝の謚号(おくりな)が、かつて廃帝の陽成さまの御名に「後」がつけてあるのをみても、
歴史家なら判りそうなものを、教科書にまでするとは情けない。

 さて、秀吉の幼児には、まだ鉄砲は尾張まで入っておらず、「鉄砲足軽木下弥右衛門の子」となすのも間違いだが、
「太閤検地」によって、二公一民つまり六割六分まで年貢にとるという重税をかけ、百姓に同情も理解もなく、ただ憎悪しか示さなかった秀吉は農耕階級出身者ではなく、
木こり、つまり山がつの子という素性の者だった方が正しかろう。
 が、だからといって、それが秀吉の価値を損なう程のことでもない。
 食うやくわずの木こりの伜が関白になれたという男のシンデレラ物語は、彼が野卑であり傲慢であればある程、それは魅力的であり男性的でもあるのである。
 つまり責められるのは、秀吉その人ではなく、彼を勝手に自分らに都合よくでっちあげ、歴史というものをまったく歪めてしまう、利用者の側の方であるだろう。

イロハ歌留多から見える日本史の真実『五木ひろしが売れた訳』『五木の子守歌』の謎

2019-10-14 12:23:17 | 新日本意外史 古代から現代まで


イロハ歌留多から見える日本史の真実
『芋の煮えたの御存じなく』
『鰯の頭も信心柄(からではなく、がらが正しい)』
『五木ひろしが売れた訳』
『五木の子守歌』の謎

芋の煮えたの・・・・・この唄は、
八代将軍吉宗が、芋学者と呼ばれる青木昆陽に命じ、小石川薬園で栽培した種芋を関八州に栽培させ、ついで東北から西国ににも広めさせた。
 処が享保十七年夏から、関西から九州へかけて、イナゴの大群が発生して、収穫前の稲穂を殆んど食い荒し大凶作となったことがあった。
だから、江戸表にも西国より回送米は送られてこず、米価は、うなぎ昇りになって、町民は一升買いしたくも、辛うじて十分の一の一合しか人手できぬ有様となった。
「唐芋」つまりカライモと呼ばれた今の薩摩芋は、稲と違って地下根ゆえ、イナゴに地上の葉は食われても助かったので、どっと江戸へも出荷されてきた。
処が、まだ十八世紀には「焼芋」は考案されていなくて、米の購えぬ庶民は、芋を蒸かすことも知らず、これを鍋で煮て食事にした。
 つまり大身の侍とか、オカミ御用達の政商や町役、町おとなの表通りに住む富裕な者たちはコメが買えて芋など食さなかったが、
貧乏人共は仕方なく食した。だから自分たちは「好んで食うわけではないが、これしか口に入れて腹のたしにするものはない」と言うので、
自嘲気味に米飯をくえる人間へ負け惜しみに口にしたのがこの唄なのである。
もちろん侍といっても下級武士は町人と同じように貧乏だったから芋を食した。だから、普段は侍だというだけで威張っていた彼らへの当てつけで、
「イモ侍」といった蔑称もこれから生まれたし、黄表紙本にも、繊維質の芋を食したため、腸内にガスがたまり、「放庇」がよく出るようにもなったのである。

   関西では、「鰯の頭も、信心柄(がら)」というのがある。
何で生臭い魚の鰯の頭と仏教信心が関係あるのかと、首を傾げたくなる。
しかし、考えれば、あらゆる仏教の御本山は殆んど関西だし、神道とよばれる韓神(カラガミ)さまの御本社も、京阪大和の奈良から近畿四国にかたまっている。
それゆえ西の筋からなのかとも考えられる。
 「有難やの有難や」とか「みたまに恐れ謹しみ、かしこみかしこみ」と拝む御神体やご本尊がある。
 この勿体ながって祈る対象物が、何処でも秘宝とされていて絶対に他見はさせぬものである。
 「寺」では、仏像というのを御本堂に安置して拝ませているから、まあ眼にみえて合掌することができる
だが、韓神さまの方は祭殿とよぶ御本堂にあたる建物正面には、何処も御簾がたれ下っていて、
「何ものが、おわしますかは知らねども、ただ有難さに涙ぞ流れる」とは、有名な歌である。
 つまり信心というのは、心から信仰するのゆえ、好奇心をもってステッキの先で御簾にふれたりしては、薩摩人の文部大臣森有礼でさえ、不敬なりと壮士に暗殺の口実を与えてしまう。
 処が、金目のものなら頂いてしまおうと、不心得者が忍びこんで御簾の裹へ入りこめば、殆んどが物置なみに箱が積まれているだけで、
恭々しく拝む御神体は、石ころ位でしか有りえなかったのが実態だった。
 さて東は銚子沖が黒潮で流されてくる鰯の本場だが、西でも阿字浦あたりでも肥料にする程に鰯はとれる。
だから生乾しの乾鰯にしても、沢山とれて安価ゆえ、誰も頭などは食さない。
 これが鰺なら頭でも猫が食するが。固くなった乾鰯の頭では猫も敬遠しがちで棄てられてしまう。
つまり塵芥箱に放られるような何の値もない物でも、御簾の後ろに置かれておれば、お賽銭をあげて三拝九拝して、家内安全とか、合格祈願を拝礼するのであると、きわめてシニカルなものであり、
「知らぬが仏」というのと同義語みたいな、まあ無神論者の言であろう。
といっても「一民族は一宗教」というのが世界の通説なのに、日本では、中国からの仏教、韓国よりの神道、西南海洋波来の四方拝があり、
今では拝火教と誤るものもいて、これが火祭りの密教にも変化している。
大和民族は「単一民族」だと、学校歴史では教えてくれるが、幕末までの日本は「日本六十余州」と呼ばれたくらいゆえ、
一州が一宗教とみれば、六十余の宗派があっても可笑しくはないのである。処が明治になる迄は土地というものは、総て公儀のものだったが、
住民は限定居住させられていたゆえ、各土地ごとの信仰に親代々どっぷりと漬かって居られたのである。
処が明治維新となって、人間も明治オカミの所有となった代りに、国内なら何処へでも移れるようになった。
そして新たに戸籍を作り「戸籍簿」に「本籍地」として記入されるだけで済むようになった。が、国中どこへでも自由に居住地が選択できるということは、
先祖代々の宗教から離れてしまうことになる。
 こうなると、もはや何を信心し、何を拝んだら良いのか、わけが判からなくなって無信仰となってしまう者も多かった。
つまり結果的に、やむを得ずというか、無神論者になり、どうしようもなくての無宗教者が多くなる結果になった。
 投げやりみたいな言い方だが、鰯の頭でもなんでも、信じたいものには信じさせたらよいと言うのである。
だから、世界でも類を見ないほどの、数えきれぬくらいな宗教法人が今の日本には乱立されているのである。
一方、サンカ側では「五木は勧進、ほいとしゅう」となるのである。
五木はイッキ(漢字で書けば居付き)であり、サンカの事である。
関西では、騎馬民族で四ツ足の獣を扱うという意味から、大和の柳生などを、ことさらに、「四ツ足の里」と差別するが、
他に「五」の「夷」の意味で、片手の指を揃えて払う真似をして区別する地区や「五箇庄」と地名につけている上地も、五のつくのはサンカ部族の居付地なのである。
これの意味するところは、サンカの問では「五きりは六月、盆の前きり」と変ってくるのであって、これは難しくて少し説明がいる。
「五は、六を一つ切る数で、六月は盆である」という意味合いから、「盆切り」と袮するのは、四ツを三越しというのと同じで、四越しというわけか「ヨツコシ(エ)」ともいう。
 「五木の子守唄」で「オドマぼんぎり、ぼんぎり」の唄い初めは、前述の「盆切り」なのである。

五木の子守歌の、「おどま勧進、勧進」のカンジンも、銭集め、銭貰いのことで、昔は大きな寺などが寄付を乞い勧進帳に記入していた。
江戸期になると門付して物を乞うのは、正規の坊さんではなく、原住民(賤系)ゆえ髪を剃ることは許されず、有髪たったカンジン坊主で、当て宇は、
「願人坊主」だった。つまり、原住民は賤しい存在だから、人間ではない存在で、仏教に縋って人問となれるように願うものとされたのである。
そして、五木の子守唄は、赤ちゃんをあやす唄ではなく、子守娘の気持ちを唄った「守り子唄」なのである。
 1950年(昭和25)から10年間、作曲家・古関裕而が編曲した「五木の子守歌」は、NHKのおやすみ番組の電波にのり、独特のハモンドオルガンの演奏とともに、
地元・五木村が知らない間に、一躍、民謡の花形となり日本の代表的な子守唄として、全国に知れわたっていきました。
サンカの娘が奴隷として売られ、ご主人の子をあやすが、泣き止まない子はどうしようもなく、子守の仕方が悪いと叱られる。
という哀しく、淋しい、そして厳しい己の境遇を唄った、「黒人霊歌」のようなものなのである。

相撲(角力)の由来
日本相撲協会のHPでは、次のように紹介している。
『相撲は人間の闘争本能の発露である力くらべや取っ組み合いから発生した伝統あるスポーツである。これによく似た形態のスポーツは古来世界各地で行われた。
我が国の相撲の起源としては、古事記(712年)や日本書紀(720年)の中にある力くらべの神話や、宿禰(すくね)・蹶速(けはや)の天覧勝負の伝説があげられる。
相撲はその年の農作物の収穫を占う祭りの儀式として、毎年行われてきた。これが後に宮廷の行事となり300年続くことなる。』
国技として権威付けられている相撲協会の説明は全くの理解不足か間違いである。

そもそも角力は、もともと紀元前はササンエ伺のペルシャ体技で、王朝が分かれた後は、アラブ各国では紀元後も格闘技として伝わったものである。
 この相撲士が、ガレリーナとアレキサンダー大王時代から名づけられていた、今のベトナムやマレーシア経由で日本列島へ流れてきて這い上って住みつき先住民族となったので、
同じ種族どうしでは勝負に身が入らぬから、中国渡来の格闘士である「当麻の蹴速」のような今の香港の「ジャッキー・チェン」みたいなのと闘わされたのである。
当時、文化の高い中国から見れば、日本列島は開発途上国並みで化け物の住み着く土地か、下等な人間の住む未開の地と見られていた。
だから、今は「夏至」というが、夏の季節風でしか日本へは来れないので「夏至」と書くが本来は「下等な人間の住む所へ至る」から
「下至」と侮蔑していたのである。
だから日本へやってきた中国人とは、本国で一流の人間は来る筈もなく、向こうでは身分の低い者か食い詰め者が多かった。
しかし、此方へ来てしまえば、をつかうエライさまになれるのである。 
 だから相撲取は、勝負してもエライさまに賤の者が勝っては申訳けなくて叱られるから故意に負けて見せる。
現在も時々やっている、八百長相撲の原点はここからきているのである。
だが相撲もボクシングと同じで、裸一貫のハングリースポーツだから、出場さえすればいくらかの銭を頂ける。
だから彼らは彼らなりの組合をつくり銭集めをして、相撲興行は大隆盛をなした。その名残りが、「国技」として特別に庇護されて谷町の御蔭で、今では立派な新国技館まで建ててのけた。
だから、歴史始まって以来の大繁栄で慶賀の至りで誠に結構と皮肉を込めて申し上げる。
元大関の朝潮太郎にしても、サラリーマンだったら望めえぬ高嶺の花の美女を妻にすることが出来た。
大関はどう見ても美男とは言えないのに、お世辞か、よいしょかしれぬが「近くでみるとハンサムで可愛い」とまで言われ、
結婚式場で大関は己れを知るだけに、女の子で私に似た顔の子がうまれたらと……冗談めかして神妙にいう好漢であった。
 同じハングリースポーツとはいえ、ボクシングの世界チャンピオンクラスが廃業後は、不運にも次々と警察の御厄介になっているのに比べれば、
花龍部屋解散ぐらいしか、角界では揉め事はない。
これは相互補助の精神で引退する者には年寄り株の世話をし、髷を落しても生計がなりたち暮してゆけるように、配慮せねばならぬから、
金を稼ぐため、場所が増え、巡業も多いが力士にとっては温情あふれる社会である。だから「土俵には金が埋まっている」と、ある面美味しい職業でもある。
 以前、大相撲のテレビ中継をみていたイタリヤ系の男だが、しみじみと、「あれは格闘士だ」といっていた。
 ネロ皇帝臨席のローマスタジアムで、武器を振って相手を殺すまで闘いあう被征服民の子孫である。謂われてみれば力士は素手のままだが、
真剣そのもので勝負がつく迄は二コリともせず闘う。控えに坐っている時でも絶対に白い歯はみせぬ。ユーモアなどは微塵もなくて圧倒される。
 昭和六十一年春場所優勝の小結保志にしても、狭いい通路まで出てきて、付け人を相手に丹念に最後の最後まで飽くことなく稽古を、入念に涙ぐましいまでに必死になって繰り返していた。
 悲壮とか努力と言ってしまえば、それまでかも知れぬが、現代の浮わついた人種ではなく、「原日本人」の幻影が、どうも瞼に蘇ってくるのである。
我々日本人というのは、相撲では、「稽古」という言葉で当てはめるが、一般的に言えば「精進」とか「粉骨砕心」とかの語句でしか言いようのない、悲壮どころか、
ぎりぎりの必死の生き方をしたのが吾々の親であったし、先祖伝来のものではなかったろうか。
つまり日本列島という土俵の中で押し流されまいと寄りきられず、なんとか俵から足を滑らせぬよう、懸命に生きとし生きていたのが如実にみえる。
 吾々が土俵に魅せられいまだに人気が衰えぬのも、がっての祖先の必死猛志な生きざまが体内の熱き血潮をよぶのだろう。
かつてアラブ連邦の外相が来日して相撲を見物して、すっかり度肝を拔かれたかのように、
「これは古来のアラブ競技だ」と感歎したのが、写真入りで新聞に大きく報道された事があった。
が、「日本の国技である」とみなす真剣さが一般では常識ゆえ、「相撲の原点はアラブだったのか」とはならず、まるで問題にもされずだった。
 が日本列島の太平洋沿岸より三〇キロ沖合を黒潮暖流は南シナ海沿岸まで洗っている。中近東よりアラビア海、インド洋を回遊性海流で漂着してきたミイコトとよばれる逃亡避難民が、
黒潮に乗って流されてきて安房や津島や伊良湖岬の、黒潮が陸に近よってきた所から這い上って、
それが先住日本人になったのは人類学上では証明されている。これは本当だろう。
そして中国の豪いさまの前で、「必死に角力をとらされてきたのだろう」ことは誰も想像にかたくない。
そして彼らが居付きサンカに、十世紀からはなってゆくのである。
だから興行は今でも「勧進」とよばれているのであろう。
「日本人にはユーモアがない」とか「ユーモアを解さない」などと言われるが、これは無責任である。
何故なら、先住日本人には、そんなゆとりや余裕は許されなかったのである。
眉を釣りあげ四股を踏むように精一杯に努めて働かねば、大御宝(おおみたから)としては、とても生かしておいては頂けなかったのである。
里や村にひっそりと居付き暮らしのイツキサンカが敗戦後には殺されなくなったので、次々と子供を作るゆえその人口は増えた。
五木ひろしが人気の訳
 「松山まさる」の名でデビューした歌手が、唄は巧いのだがレコードがてんで売れなかったので、次々に芸名を変えも変攴たり三十七回。
本人も努力したが次々にいくら改名しても無駄で、レコードはさっばり売れなかった。
以前、日本橋の料亭「平山」で徳聞書店の忘年会のあった時。ハードボイル作家の大藪春彦が酔って暴れたことがあった。
気分直しに、話題を変えて「さて、皆さん、新人歌手で売り出そうとしている男の芸名で、何か良い名はないだろうか?」と、
徳聞書店で当時レコードに手を出した矢先なので、徳間康快社長が流行作家たちに、お知恵拝借のように話題にした。
「五木」がいいと誰かが答えたが、言下に皆が「五木寛之からクレームがつくぞ」と同席していた当人を指さしたので、話はポシャつた。
だがその後、徳間音工から発売のレコードに、本人が承諾したのか明白ではないが、「五木ひろし」と命名された途端に、それまでウダツのあがらぬ埋もれ木歌手に花が咲いた。
レコードが滅茶片茶に売れて、瞬く問に徳間のドル箱となって、今や演歌の王様となってしまった。
歌も良いが、イツキの名でレコードを買う人口が、夥しく増加している例証ともいえる。現在でもこのイツキ人口はも少子高齢化なのに増えに増えている。
余談だが、五木ひろしのデビューしたのは、1973年から1975年に放映された、歌合戦形式で行われていた視聴者参加型のオーディション番組である。
アマチュア出場者とプロの歌手が合同参加する方式で、ヒット曲に恵まれない歌手にとっては再起を賭ける登竜門的番組となっていた。
この番組に出場してグランドチャンピオンを達成し、スターの座を掴んだのが「三谷謙」時代の五木ひろしなのである。
その他現在でも活躍している、中条きよし、天童よしみ、八代亜紀、山本譲二などが居る。
審査員もそうそうたるメンバーで、銀座「姫」のオーナーママの山口洋子や淡谷のり子、船村徹、鈴木淳、竹中労、平尾昌晃らが居た。

現在、サンカ部族の出身で起業し、一部上場の大企業に発展させた会社が何社もある。これはサンカ伝統の掟である「統治されず統治せず、相互扶助」の精神で、
デジタル社会を反映して、新しいフラットな体制の企業システムが効を奏したものだろう。
だが、かっての徳川体制でオドマボンギリボンギリと限定収容されて過酷に扱われ「あんひとたちは良か衆」と羨望していた者からの後裔が、
今では逆に昔のエライさまを社員に使っている有様となっている。だから、故田中角栄首相の時代には昭和下剋上の世になったとまで言われていた程である。
又、故池田勇人首相がアメリカの公害企業の下請けをして、高度経済成長に変わった頃、文部省の指示で、「集団就職」とよぶ人間狩りがあった。
この時に、関西から東北地方に多く住み着いていたサンカ部族の子供たちは「企業戦士」という美名で、大阪や東京に出てきてブルーカラーとして工場で必死に働いた。
やがて、その子供たちの世代になると、親が何も判っていないゆえ、その子らへ、どうにも教えようがないから出自が判らなくなってしまい、
「イッキ」「イッキ」とわけも判らずに皆で集まってはただ騒いでいた。
 それに、もともと日本列島原住民は、大古の女性は太陽だったという程に、女性がつよいのだから仕方がないのだが、
女がキャバクラやソープランドなどの風俗で稼いで、嫁人資金まで作っている時代である。また、その預金目当てに、片翼の天使へ歓んで求婚する、
サンカの子孫らしい若者もかなり多いという。
以前にも書いたことだが、サンカの血を引く日本人は「多産」という大きな特徴がある。
現在の少子化の世でも、子供は四人から七人ぐらいは平気で産んでいる。「貧乏人の子沢山」という馬鹿にしたような言葉が在るが、
これは貧しい人も裕福な人もあまり関係がない現象である。
テレビにもよく出る、名前を挙げれば誰でも知っている有名人から、市井に棲む名もなき庶民にも沢山いる。
これはセックス好きだとか、避妊もせず無計画な性交の結果等と言う卑近な事ではない。千数百年の長きにわたって、差別され、虐げられ、見つかれば即殺されるような、
厳しい境遇に耐え、民族の純潔と子孫を残すという崇高な行為であり、血を繋げる自然現象なのである。
少子化解消のため、政府は「移民政策」も「人口増加奨励策」のどちらも全く採っていない現在、サンカがいくら頑張っても焼け石に水。
五十年後の日本の人口は現在の半分になるという統計数字が出ている。
この国の将来に暗澹となるのは私だけだろうか。


 サンカ生活体験記  第四章  太平洋戦争とサンカ

2019-10-12 18:43:15 | 新日本意外史 古代から現代まで
 サンカ生活体験記  第四章
 
  太平洋戦争とサンカ

 戸籍のある者は村役場の兵事係が次々と赤紙を割当て数だけ出していたが、今日はここ明日は何処か判らぬ戸籍を持たぬ者には召集礼状の出しようはない。しかし、昭和十八年十九年になって老人と子供ばかりしか男は残っていない時世になると、壮年の男はどうしても目につく。もちろん憲兵隊が駐在巡査や消防団員を使って山狩りをするが捕えられるものではない。
 もちろん旧軍部も、満州事変がひろがりだした昭和九年十月六日に、栃木県下において、当時の関東代表者の大山(ダイセン)五郎と武蔵一の両名に色んなおいしい事を言って、各セブリの統合を命令というより懇願したが、なにしろ千何百年にわたって反権力反体制の者らが、今さらオカミの言うことをきく筈はない。情報部の大尉や中尉が彼らに反感を持たれぬよう私服、できれば着物で軍の羊羹などを持っていった。
しかし月に一回ぐらい通っても約束の場所や日時をすっぽかされる事も珍しくなく、ようやく二年後の昭和十一年には十名程と懇談できたが、あまり喋らずにものわかれになった。
 もちろん翌年も毎月の如く軍用の女をつれていったが、掟ゆえうまくいかず、ただ黙々と持っていった品物を各テンジンへ置き帰るだけだった。
「国家の非常時である」と、たまりかねて佐官級が行って怒鳴りつければ、反国家の彼らは逆に反感をもって、かえって失敗に終わった事もある。
よって内務省警保局の力を借り、下部団体の「民族融和事業会」に加わっている牒者というか、かつてはサンカに近いザボだが、今はトケコミしている者らを各県から集めてきて、始めだして七年目の昭和十六年の一月三日になって、「関東箕作り製作者組合」なるものを、官憲は絶対に干渉しないからという絶対条件つきで、どうにか結成させるところまでこぎつけた。そして、人手がなくて困っている農家がいたら、食糧がとれなくては皆飢え死にしてしまうから、手伝ってほしいといったような頼み
ともなった。
 「一億一心火の玉だ」という国家総動員令下の時代である。戸籍のない彼らに徴用令も出せぬから、係官は平身叩頭して助力を乞うた。もし出征してくれるものなら、その場で当人の戸籍を出し、出征金という仕度金を残る家族へとわたし、後では気が変るからとその場から伴ったのが各地で三百八十名だという綜合的な話も伝わっているとさえ云われているそうである。
しかし、農家の手伝いを強制された者は、なにしろ耕作どころか草むしりもした事のないサンカ連中ゆえ、せっかく留守出征家族の許へ赴かされても、足手まといで役立たずだった。
が、そのかわり今まで自然食として自分らが採取していたワラビやクズ、ユリの球根を掘り出したり、山芋を掘って粉にしたり飴にして飴屋横丁に進出したり団子屋などもし、食糧不足の時代に自然食で一般の飢えを救った。
 全国箕製作者組合は、これに参加したのは男子3258名で女子は2679名に及ぶと、大いに貢献したと、オカミでは発表をなしている。
 その時の発表では、明治四十三年二月一日の全国セブリ数23、383だから、貢献したとされる1991張は0.085で一割にもあたらない。まさか半世紀たらずで一割以下に、いくら相次ぐ戦火を受けたとはいえ、山の中で暮している彼らがそん
なに激減する筈はない。

なにしろセブリの女に後家はいない。女が一人でいては子供ができぬから人口が減ってしまう。そのための「鞘」とか「ハバキ」と呼ばれる押しかけ女房になってしまうからなのである。
日本では夫が出征する際は、死んで還れと励まして見送り、戦死の公報が入ると表口に「靖国の妻」という表札が、愛国婦人会の手によって張りつけられ、他へ押しかけ女房に行けるどころか、そのまま出征軍人の妻として貞操を守って棺桶まで直行せねばならぬのが世相の時代である。
 つまり山本周五郎の小説みたいに、女とは性欲など全くなく、結婚して求められるとそれに対しては法律では拒めないからやむなく夫の鞘になるだけで、そうでない場合は、「あわや落花狼籍」と、女には性欲などないものだと、いつでも被害者。舌を
むいてキスしてカッキリ半分喰い切られた男性が裏日本には現存するが、女はデリケートにできているのか、
「操を汚したからには舌噛み切って死にまする」と、ティッシュペーパーで後始末もせず、漏らし濡れっぱなしで、花の生命を断ってしまうのが山周さんだけでなく一般的な小説であった。
 アメリカのように夫人連の性処理に、船で夫の許へ集団輸送などせず、日本軍は男の兵士には突撃一番と印刷された紙袋をわたし、慰安婦の許へ一列で並ばせて用を足させていたが、留守家族に対しては、反対に私服憲兵が「出征軍人の家」と在郷軍人会で一軒ずつ標札に並んで打ちつけられた家を看視して廻り、出入りの魚屋までが、夫の代用にされていないかと不審訊問して廻るぐらい厳しかった。だからサンカの女性のごとく好色で自分の方から男に跨りにゆくようなのはいない事になっていた。
 が、敗戦まではそれで表向きはよかったが、純日本人の女性というのは性的にはきわめて有感性ゆえ、現代となってはイタリアやフランスへ行っても、「愛さえあれば‥‥」とヒヤリングもスピーキングもろくに通ぜぬのにすぐ寝てしまう。しかも1フ
ラン1リラもとらない。だから、只より安いものはないと彼女らはもてる。
なにしろグアムやサイパンへ行っても、カナカの島民の男を、外人さんだからと何処でもワンカットは済ましてくるパック旅行のOLが多く、日本では中世期に魔女狩りをろくにせず僅かに三百人程を織田信長が焼き殺しただけゆえ、そのせいで手のつけられぬ連中が多いといわれる。
なにしろ、イロハ覚えてイロばかりと、近頃は小学生の女の子でさえ、昔は「お医者さまごっこ」といったのを「お勉強」と称し、まじめに予習や復習しているのが五、六年生には多いという。
これは終戦後、日系アメリカ兵の説得で、セブリから都市へ流れ込むトケコミが多いせいではなかろうか。なにしろ「トケコミ」は三代までといって、セブリから抜けても孫までは、かつてのクズシリとは連絡がつけられ、ウラがさんと親類づき合いが
続く。別にウミノコ、ヤカカラ、ハラカラとも称するが、三代たっても直接には繋がりはなくなるが、出世、吉凶はクズシリに通報。毎年暮れや旧正月にはクズシリ直属ツナギであるツナガリさんが各戸を廻って歩き、昔みたいに箕一つという事はなく、
その家の経済状態に応じて応分の義理を包んで差し出す。
「本家(ほんげ)」とこの金は呼ばれて、人頭税ではなく、トケコミした者の交通遺児の奨学金制度になったり、サラ金で困っている人間に貸し与えたりして面倒をみるが、カラとよばれる三代以上たったセブリ出身者は、義理でツナガリに民族の立場
でわたすが、関係は隠したがる。有名な製菓会社の社長は今でも毎年決まって別名で五百万円ずつ送金しているという。
 さて、民族事業会の官制の発表である。はたして何を意図してのものか信用できぬが当時の集計したものがある。
一、東海道(極秘条項 以下同じ)
伊賀国 108戸
(昭和24・9・6のセブリ数の36倍 明治43・2・1のセブリ数の3.2倍)
伊勢国 407戸 (同 21.4倍  同 2.6倍)
志摩国   7戸 (〃  ?     〃 3.5倍)
尾張国1709戸 (〃  9.7倍  〃 3  倍)
三河国1493戸 (〃 46.6倍  〃 3  倍)
遠江国1701戸 (〃 46  倍  〃 3  倍)
駿河国1093戸 (〃 39  倍  〃 3  倍)
甲斐国 811戸 (〃 19.3倍  〃 3  倍)
伊豆国 720戸 (〃 24.8倍  〃 3  倍)
相模国1411戸 (〃 45.5倍  〃 3  倍)
武蔵国5913戸 (〃 76.7倍  〃 3  倍)
安房国 113戸 (〃 37.6倍  〃 3.4倍)
上総国1113戸 (〃 58  倍  〃 3  倍)
下総国 898戸 (〃 43.8倍  〃 3  倍)
常陸国 747戸 (〃 27.7倍  〃 3  倍)
以上で合計18244戸。その家族数は、91727で、一戸あたり5人強である。
東海道全体としてみると、セブリ数411張に比し、その戸数は44.6強にあたる
(昭和29年9月7日の数なりとの公式の発表である)
ニ、北陸道
若狭国 235戸
(昭和24・8・7のセブリ数の58.5倍。明治3・2・1のセブリ数の4.2倍)
越前国 299戸 (同 42.7倍  同 4  倍)
加賀国 591戸 (〃 49.3倍  〃 4  倍)
能登国  37戸 (〃 18.5倍  〃 4  倍)
越中国 121戸 (〃 24.2倍  〃 2.5倍)
越後国 267戸 (〃 26.7倍  〃 4.1倍)
佐渡国  21戸 (同   ?    〃 5.3倍)
合計 1571戸
家族総合人口8640。一戸あたりは5人半。この地方は戸籍に入ったトケコミの倍
率が高くて、セブリ現在数の31張に対し、その戸数は僅か50倍強にすぎぬとの発
表。
三、東山道
近江国1755戸
(昭和24・9・7のセブリ数の42.8倍 明治3・2・1のセブリの3倍)
美濃国1517戸 (同 35.3倍  同 3.1倍)
飛騨国1351戸 (〃 34.6倍  〃 3  倍)
信濃国1407戸 (〃 25.6倍  〃 3.2倍)
上野国 503戸 (〃 26.5倍  〃 3.7倍)
下野国1001戸 (〃 31.3倍  〃 2.1倍)
合計 7534戸なりとの発表数字である。
総人口は推定で36670人、一戸が平均で5人くらいである。
セブリ229張に対して36倍強にあたるとされているのである。
四、畿内
摂津国2741戸
(昭和24・9・7のセブリ数の29.5倍 明治43・2・1のセブリ数の2.2
倍)
山城国 926  (同 22.6倍  同 2  倍)
河内国1072戸 (〃 18.8倍  〃 1.9倍)
和泉国 397戸 (〃  8.1倍  〃 0.9倍)
大和国1136戸 (〃 21.4倍  〃 2.3倍)
合計 6272戸なりと発表はされている。
 現在セブリ数293張に対して21倍強。その倍率は比較的低い。総人口2320
6人で、一戸3.7人平均で家族数も非常に少ない。その原因は今のところ不明であ
るとしている。
五、山陽道
長門国 718戸
(昭和24・9・7のセブリ数の15.6倍 明治43・2・1のセブリ数の1.5
倍)
周防国 507戸 (同 13.7倍  同 1.3倍)
安芸国 619戸 (〃 19  倍  〃 1.1倍)
備後国 404戸 (〃 17.5倍  〃 1.4倍)
備中国 285戸 (〃 16.7倍  〃 1.6倍)
備前国 278戸 (〃 15.4倍  〃 1.3倍)
美作国 550戸 (〃 12.2倍  〃 1.2倍)
播磨国1363戸 (〃 21.3倍  〃 2.1倍)
合計 4724戸なりと発表。
現在セブリ総数311張に対し、23.1倍強。家族総数20313で、一戸あたり
4.2人であると計算しているのである。
六、山陰道
石見国 443戸
(昭和24・9・7のセブリ数の13倍 明治43・2・1のセブリ数の1.2倍)
出雲国 436戸 (同 11.7倍  同 1.1倍)
隠岐国   5戸 (〃  2.5倍  〃 1  倍)
伯耆国 358戸 (〃 14.3倍  〃 1.4倍)
因幡国 562戸 (〃 20  倍  〃 1.2倍)
但馬国 250戸 (〃 17.8倍  〃 1.6倍)
丹波国 818戸 (〃 14.3倍  〃 1.4倍)
丹後国 150戸 (〃 21  倍  〃 1.7倍)
合計3022戸との数字は如何だろうか。
 現在セブリ総数204張に対し、14.8倍強。総人口16017人。一戸あたり
5.3強である。この地方はセブリの本拠地であるにもかかわらず、そのさびれ方は
激しいとなす。
七、南海道
淡路国  19戸
(昭和24・9・7のセブリ数の6倍強 明治3・2・1のセブリ数の三分の一)
紀伊国 235戸 (同  5.2倍  同   半減)
阿波国 634戸 (〃 12.9倍  〃 1.3倍)
讃岐国  62戸 (〃 10.9倍  〃 1.1倍)
伊予国 508戸 (〃  9  倍  〃 0.9倍)
土佐国 362戸 (〃 14.5倍  〃 1.5倍)
合計2372戸なりとの発表。
 現在のセブリの233張に対し10倍強。総人口11386人。一戸あたり4.8
人で、この地方もトケコミの数は少ない。それはトケコミが京阪地方に移動している
からであるという。
八、西海道
薩摩国 466戸
(昭和24・9・7のセブリ数の14倍 明治43・2・1のセブリ数の1.3倍)
大隅国    119戸 (同  5.4倍  同 0.5倍)
日向国    179戸 (〃  9.9倍  〃 0.9倍)
肥後国    549戸 (〃 11.7倍  〃 1.1倍)
肥前国    774戸 (〃 15  倍  〃 1.5倍)
壱岐国      5戸 (〃  5  倍  〃 2.5倍)
対馬国      7戸 (〃  3.5倍  〃 2.3倍)
豊前豊後二国 433戸 (〃 12  倍  〃 1.2倍)
筑後国    634戸 (〃 13.5倍  〃 1.3倍)
筑前国    674戸 (〃 15.6倍  〃 1.5倍)
合計3840戸となっている。
 現在のセブリ数299張に対して12.8倍強である。家族総数17280人、一戸あたり4人半であるとして発表されている。
 昭和二十四年の統計にしろ、その前の明治四十三年のものにしても、何といっても根っからの反権力体制の彼らが、いくらオカミの命令だからと脅かされ、金品を与えられて懐柔されても、まさか手許の実数などバカ正直に、民族融和事業会の旧特高の連中に渡している筈などはない。
 おそらく各地方別のセブリ数は十分の一ぐらいしか報告されていないとみるが妥当だろう。
 三角寛はその著「サンカの社会」の170Pから173Pにかけて、日本六十余州を八地区に分けて、セブリの人口と性別を明細にしているから、敬意を表しそのまま下へ転記はしてみるが、だいたい明治か大正か昭和か、それも定かではないのでは、
何故に勿体ぶって事業会のコピーを詳しくしたのか、何かわけがあったのだろうか?
 一セブリは男女の夫婦が基数になるのでバスコントロールしていない彼らの増加ぶりだけは判るが、ただそれだけである。
 全国のセブリの人口や性別を完全に調査する事は、過去では至難の事であったが、
関東箕製作者組合の協力によって、その実態を把握する事ができたのは人類学上においても、民族学、考古学の上からいっても、セブリ社会の研究上、一つの貴重な資料ではある。