新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

「縁は異なもの味なもの」 江戸の川柳に見る歴史の真実

2019-11-19 19:31:08 | 新日本意外史 古代から現代まで

     
  「縁は異なもの味なもの」

   江戸の川柳に見る歴史の真実

 
現代ではこの言葉は何気なく口にされている。 意味としては

男女の縁はどこでどう結ばれるかわからず、非常に不思議でおもしろいものだということ。
理屈では説明できない縁があるという意。
多く思いもよらない二人が結ばれるようなときに使う。
「縁」とは、人の力を超えたところで、人と人を結びつける力の意。 単に「縁は異なもの」ともいう。

 こういう説明になっており歴史辞典なども同じである。 だがもともとの意味は違って、今言う「放送禁止用語」なのである。
というのは、これは元来、廓言葉から来ている。廓(くるわ)と謂っても若い人は判らないだろうが、江戸時代の幕府公認の売春場所なのである。
因みに現代の日本は「売春禁止法」により売春は禁止されている。が、これは表向きで、管理売春と未成年者の売春が眼目で、実態はざる法である。
その証拠に、大きな都市にはソープがあり、3万円も出せば堂々と本番ができる。
さらに、電話一本でデリヘルはホテルでも自宅にでも来てくれて、これも本番OK。
また、不倫サイトでは人妻から60代の婆さんまで、援助名目で3万円と手軽にできて盛況を博している。
ヨーロッパやアメリカでも売春は盛んで、一大産業にさえなっているのが現状である。
現代でもアムステルダムの「飾り窓の女」は有名だが、体験記を記しておく。


オランダのアムステルダムには、映画でもお馴染みの「飾り窓」がある。
勿論映画はセットだから綺麗に見えたが、実物は古い石造りの家の通路に面した所へ硝子窓をくっつけただけの物が多い。
そして、それが一区画ずつ飛び飛びに繋がっている。水路と言っても五米幅の運河並のが、
その間にここからアムスの町を流れ、また二町おき位に横に細い水路が水を岸すれすれに満たしている。
初めて其処へ行った時、「こりゃあ日本の遊郭だ」と想った。

ただ違うところは、お歯黒溝(どぶ)がいつもすえたように臭かったのに、このアムスは海面より土地が低いせいで
水が速く流れるから、まるで澱んだ臭いがしないだけである。昔日本に遊里の在った頃、決まって入り口に交番があって、
うろん臭そうな眼で人相の悪いお巡りが立っていたものだが、この飾り窓のある一画の入り口にも、
「スコットランド・ヤード」と英国と同名のもののセカンドオフィス、つまり第二分署の建物がある。

そしてレストランみたいなガラスばりになっていて、十五、六人のポリスの勤務状態が、
彼らに給料を払っている納税者の市民から丸見えになっている。さぼって煙草ばかりくゆらしているのでも居ようものなら、
通行人がガラス戸を叩く。すると中からヤアと手を振って、ポリスは何の帳簿か判らないが、真面目くさってそれを拡げたりする。
日本みたいに官僚主義を発揮して、「公務執行妨害で逮捕するぞ」とは脅さない。
さて第二分署の二階はジム・クラブになっている。警官達の武道練習所かと思ったら、
ここは別個の民間経営で、西部劇の補助シェリフみたいに第二分署で人手が足らない時などは、
日当で応援することもあるという。ここのジムに昔私と知り合いだったキムと呼ぶコリアが居て、マネージャーをしている。
だから私はアムスへ行くと決まってここへよく寄る。

するとキムも歓んで迎えてくれるが、もっと歓迎してくれるのは階下のポリス達である。
何しろ日本国内にそうした施設が無くなってからというもの、日本男子は台湾の北投へ往復十万円の飛行機代を払って
一晩五千円のクーニャンを買いに行くし、和蘭へ彼らが来るのも、観光用に市内に保存されている風車を見るためでもなく、
またダイヤを求める為でもない。男性自身をスパークさせるために来るのが多い。

随行員を十名あまりも引き連れ、溝川の鉄柵の所に突っ立っていた超一流会社の社長も見たが、
一晩に集まってくる日本男児は多く、なにしろ百名ではきかない。

ところが和蘭の貨幣はギルダーで計算が判りにくい。そこで日本男児は気前がよいわけでもないが、
勘定が厄介だから「良きに致せ」と財布ごと出してしまう。当人とすれば、相手が適当にその中から掴みだし
お釣りをくれるものと思っての事だろうが、女はレジスターではない。

メルシー・ボウク。フィーレン・ダンケ。モテル・グラツィエ。
ムーチャス・グラシアス。どうもありがと。女は財布ごとの頂きである。

チップと認めて何も返してはくれない。諦めてしまうのもいるが、旅費まで盗られたと第二分署へ泣きこんでくるのも多い。
ところが日本人がオランダ語が苦手のように、アムスのポリスも日本語にはてんて゜弱い。
だからキムの友達の日本人と判るとバッジなど貸してくれて、仲裁役を頼んでくる。ところがこのバッジさえ持っていると役得で、
何処の店へものこのこ入っていける。
さて、アムスの飾り窓の通りに、いつもひしめき合い覗き込んで通るアベックの群を、初めは何の冷やかしかと怪しみ、

(未だものにしていない相手を同伴して、もし要求を受け入れなければ、おれはここの女と寝てしまうぞと脅かすための作為ではあるまいか)とも考えたたが、さてバッジを付けて、
カーテンを閉めたままの店へでも横から入れるようになると、 事の意外に驚かされたものである。

なにしろアベックは男女一組のまま店に入り、そこで店の女から実地教育指導を受けているので、
初めは偶然かと思ったがそうでもないらしい。アベックの殆どは若夫婦か婚前交際中らしく、
カーテンをこした硝子窓の向こうを通るさんざめく群衆ににも頓着無く、熱心に彼らはノートまで取って教示を仰いでいる。

客のアベックを裸体にしてベッドに重ね、店の女が体操教師のように位置を直しているのも見たし、
店の女によって夫が満足してゆく過程を、ぐるぐる周囲を廻って覗きこみ、その途中で交替を申し込んだ妻が、
自分も観察した通りに振舞い、女からフォームを直して貰っている状況も見た。

日本にもセックス・カウンセラーを名乗って物を書く人も居るが、ここでは全てが実技指導である。
だから「夫婦生活の知恵」なんていう本は書店には売っていない訳で、 もっと判りやすく手をとり腰を引っ張って二人に向くような体勢を伝授しているのである。

但し、そうはいっても飾り窓の女が全部そうではなく、
Klove niers河岸のHoogsir 通りに固まっている三十代のベテラン揃いの所に限定されている。
目下修行中の十代ぐらいの若い娘の所では、未だ自分が勉強するのに精一杯らしく、
通りかかる男達にウエスタンのカウボーイ・スタイルまでして「ヘエイ・ユウ」と黄色い声で呼びかける。
こうして訓練してやがては人に教えられるような立派なプロフェッショナルになるのだろう。
日本の吉原の遊女も「職人」と謂われていて、男を喜ばせるためのプロで洋の東西の類似性に関心する。  
 
   江戸時代の吉原遊郭
 江戸時代、明暦年間に大火があって、それまで日本橋の葦(芳)町にあった葦原遊郭(吉原)が隅田川の向こうの新地へ移転することになった。
それで今までと違い、建物を豪華にし、現今の設備投資をふんだんにし、営業形態も変更した。
引き手茶屋とよぶ、待合所を作り、ここでは中間搾取させたのである。これが吉原会所で此処の支配は弾左衛門の六人の手代の一人、花川戸介六にさせた。
この新吉原は先ず大門を入ると、美人ばかりをずらりと並べ顔見世をさせ、器量の良いのを売り物にして茶屋を仲介させた。
処が同じ新吉原の敷地ではあるが、羅生門河岸の方と言えば、奴女郎といって泊まり賃が百文。
 
チョンの間で三十文だった。というのは、夜たかよりも大変に安いということである。
何故ならば、女は女だが、人三化け七と当時は言ったくらい、大門の中へ置いてはおけぬ、まこと見かけの良くない女達がバーゲンしていたのである。
鬼のようなツラをした女ばかり、というので羅生門の名が付いたくらいのものだが、女は顔でもなく、
 心でもなく、女性自身、即ちあそこが問題なのだが、此処の女達は天は二物を与えずで、
御面相は酷いが、「あんまが泣いて喜ぶ羅生門」との江戸期の川柳さえ残っている。

 つまり羅生門河岸には、吉原大門を潜った張り見世には並べて置けないが、床の良い(セックスの上手い)女だけが、薄暗がり置かれていた。

 江戸後期には産婦人科の用語として、大陰唇を大股とか小陰唇を小股とも呼んだから
 (華岡青洲も書いている)「小股の切れ上がった良い女」とは現代も良く使われるが、本来の意味がわかっていない。
何しろミミズ千匹とか潮吹き、タコ、キンチャクなど、掘り出し物の生まれつきの珍品所有者だけを揃え、顔は般若やおかめでも、明かりを暗くして並べておいたから、
酔眼朦朧とした酔っ払いや、冷やかしで「......そんなに安く遊べるなら」と登楼すると、灯油代が高くつくからと真っ暗闇にされたが、「おう、これは凄い、味なもの」とすっかり有頂天にさせられて、
又忘れられずに夜毎に通いだすことを「縁は異なもの羅生門河岸」の川柳すらも 「末摘花」に在るほどで、現今の俗説とは違い、
 真実の語源はこれから来ている。





奴隷日本人秘話 織田信長は奴隷を売らなかった

2019-11-17 11:22:57 | 新日本意外史 古代から現代まで
奴隷日本人秘話
 織田信長は奴隷を売らなかった


 日本人が戦国時代に奴隷に売られて、男は印度から馬来半島方面のポルトガル領の植民地に、容色のよい女は、魔女裁判によって多くの女性を焚殺したヨーロッパへ送られていたことは、あまり知られていない。 しかし、「朕、国王は、この勅令をもって布告す」とし、「従前印度地方における奴隷日本人に関し、朕の得たる報告において正当なる事由なし。よって今後は日本人を奴隷に捕らえたり購入したる者は、 その財産没収となしその一半を朕の国庫に納め、一半を告発する者に下付すべし、1571年3月12日」ポルトガル国王ドン・セバスチャンの勅令も、現存している。この年号は日本の元亀二年、 織田信長が姉川合戦で勝った翌年で、延暦寺の焼討ちをして僧俗数千を殺した年にあたっている。さて従来の日本史は、(ギネア海岸からのアフリカの黒人を、聖ドミニコ派の宣教師が、現在のリスボンを 集散地として、南米へ送りこんでいたが、天文十二年以降は、現在のマカオが、ポルトガル人による日本人奴隷の一大集散地だった)といった事実を隠している。 そして、織田信長坊主どもをが何千人も殺してしまったといった記載などあるが、当時としては、「奴隷に売れば儲かるものを、もったいない事をしたものだ」だから「信長様は豪気なお方」 といった受取り方で記録されているのに、 今の歴史家はそれを知らず、「信長は残忍だった。だから本能寺で殺されたのは因果応報である」などと説明する。あまりに不勉強にすぎないのではなかろうか。 信長は同胞を売らなかったのだから、立派な武将だったといえよう。
 ただ歴史家とは認められていない人だが、徳富蘇峰の『近世日本国民史』に、「後戸(五島)・平戸・長崎にて、日本人を男女を問わず数百人ずつ黒舟が買いとり、 手足に鉄の鎖をつけ舟底へ入れて運び去るは、地獄の責苦にもまさって、むごい有様である」といった実地にみた大村由己の、『九州動座記』の奴隷売渡しの実況が挿入されているだけである。  由己は豊臣秀吉の祐筆頭で、これは当時の公文書である。そして現在と違い、マカオ九州間の帆船は百トン以下だった。  だからそれに、数百の日本人が奴隷として押しこまれ、ディーゼル・エンジンや蒸気機関のない昔、季節風だけで動くマカオへの旅。  そして、そこから印度への輸送は、アフリカからの黒人奴隷が大西洋一つ渡るだけで済んだのに比べ、もっと悲惨だったろう。  そして、こういう秘められた歴史があるからこそ、世界中で一番、黒人びいきなのは、日本人だというのもそのせいかもしれない。
 さて天文十二年以降においても、古くは源平合戦の起因となる神戸福原からの原住民を奴隷輸出された事実や、室町時代においても、四国の三次氏や山口の大内氏は、 日本原住民を捕らえこれを明国や南蛮船に売っていた。また羽仁五郎の『都市の論理』において、「アテネの人口は市民九万に対して奴隷は三十万いたから、憲兵や警官のごとき仕事 は奴隷の仕事であった」とかかれているのは前述したが、西暦1603年(慶長八年)の、 「ゴア(印度)人民のスペイン国王フェリッペ二世陛下の城砦を守っているのは、白人の五、六倍もいる日本人奴隷で、好戦的な彼らは鉄砲をもち土民を撃退しています」とある。
 インドやマカオでは、奴隷の日本人が、「軍人」として使役されていたのである。さて、これがスペイン国王の名宛なのは、ポルトガル国王セバスチャンがモロッコで行方不明となり、 その妻が代り、のちエンリケ親王が国政をみたが急死していた。この当時はスペイン王がポルトガル王を兼ねていたからである。  さて、現在のマライ半島は最近まで英領だが、その前はオランダに奪われるまではポルトガル領だった。ということは、マライの軍人も奴隷日本人だった事になる。 そして地図で一目瞭然だが、マライは南支那海にある。「和寇とよばれる日本人が南支那海沿岸を侵した。足利政権は明国に取締まり方を申込まれ、犯人の首を切って明国へ塩漬で送っていた」 「八幡船とよばれる彼らは、遠く海南島まで百余にわたって襲っていた」と、「八幡大菩薩」の旗をたてた五、六人のりの小舟にのったフンドシ一つの男の絵がある。
 歴史家は壱岐対馬を根拠地にしてから、そこから南支那海へ出稼ぎに行ったものと、「海の男」の勇壮さだけをたたえるが、ディーゼルエンジンもなかった頃に、あの怒涛さかまく南支那海を、 夏なら逆風なのに、どうして人力で漕いでゆけたか。四日や五日でいけるはずもないのに、呑み水や食料はどうしたのか?その時代、香港側のマカオから、日本の堺や九州の口の津に、 「定期航路」が開設されていたのは、フロイスの日本史にも明記されているが、それは、「季節風」にのって行くのだから、日本発はどうしても毎年十二月ときまっていた。  さて、百トン位の大きな帆船でさえ、冬でなくては出航できないのに、なぜ八幡船ごとき五、六人のりの小さな舟の乗組員が、その反対の夏の出発をものがたるフンドシ一つのスタイルとは如何?ということになる。  日本では歴史屋がすこしも疑問符を投げかけないから、代りに私が首を傾げれば、「夏」というのは貿易風が西から東へ吹く季節で、マカオ政庁の司書館の記録でも、 「日本行きは七月または八月、ゴア行きは十二月から正月」と、これはなっている。つまり南支那海へ夏ゆける海流の通る地帯なるものは、それより西に位置する場所しかない。  もし中学校か高校の地図をもっていたら、マライ半島の部分をひろげていただきたい。そこの支那郡海に面した部分は今でも、「バハン州」である。そして戦前の地図は「バハン土候国」の文字が シンガポール以北にあり、バタビヤ日記など古いものには、「Pahang」の名になっている。私は春にリスボンへ行って来たが、今でもポルトガル人は、マライとよばずに彼らのつけた、「バハン」とよぶ。 マラッカのベンハーの丘に城砦を築いて同地を占領した「バハン公爵」の名をとったものだそうだ。  つまりバハン公爵が軍艦にのり、捕鯨船のキャッチボートのような小舟に、日本人奴隷をのせ略奪をやらせていたのであるらしい。  五島列島の王直らのような和寇も、ボスは中国人で末端の消耗品が奴隷日本人だった。それより何故日本人が、こんなに奴隷に売られたのか?これまでの日本史では極秘である。  というのは今日の日本史は明治帝国主義の所産だから、これは明治軍部のせいだろう。  真相は天文十二年に銃器が種ガ島へ渡来。器用な日本人は直ちにそれをまねて精巧な銃も作った。  しかし、硝煙とよばれた硝石は、現在でもそうだが日本では一片も産出しない。みな輸入に依存するしかなかった。鉄砲があっても火薬がなくては戦争できぬ立場にあった。  よって、しめしめとばかり黒人の奴隷売買で味をしめたドミニコ派の宣教師が、マカオよりの火薬と交換に、日本人を牛馬のごとく買ってゆき奴隷転売にしたのである。  戦国時代に切支丹大名が多かったのも、信仰の為ではなく火薬入手の手段だった。判りきったこんな明白な歴史事実でさえ、明治軍部は国民を無謀な戦争にかりたてるため、 (国内に火薬の原料なし)を隠すために歴史屋を黙らせたのである。  さて、戦後七十三年。今になっても歴史家は一人も知ってか知らずか、この真実を発表しない。また吾々をどうするつもりなのかと、ここに告発したい。
 白銀海岸は日本の島原
 アフリカには有名な「黄金海岸」がある。 此処は何も金が採れたわけでも、それを積み出したからと付いた名称ではない。
 それは大陸奥地から捕らえられ、連れられてきた黒人の男女が、一かけらの黄金か、硝子の玉と交換に、遠いアメリカ大陸に売られていった、黒人奴隷の一大積み出し地だったゆえ、その名が伝わっているのである。  これは映画の「ルーツ」でも今は良く知られている。
 だが「サイド・オブ・シルバー」つまり白銀海岸の名がある所が存在するのは、全く知られていない。
 これは中世期の世界地図を見れば、ゴールドとシルバーの文字はどれにも載っている。 しかもそれは日本列島の九州の中程にある島原半島の突端から、口之津と呼ばれる原城の辺りである。
 しかし、白銀と呼ばれてもそれは銀ではなく、火薬の七割を占める原料の硝石のキラキラした粉末だったらしい。
 黒色火薬というが、硝石が七割五分、硫黄一割五分、木灰一割を混ぜるため全体が黒くなるので、肝心なのは何といっても硝石で、これは昔も今も日本には一粒も産出されないものである。
 余談になるが、スペインが開発した、強力な爆発力を持つ新チリ硝石が、織田信長爆殺に使われたふしがある。詳細は拙の別館「敵は本能寺」を読んでいただきたい。
 さて、当時此処を領していたのは後に長岡藤孝を変名する細川忠興だが、島原の三角湾には信長生前中は、京の出入りを見張るため丹波を領していた長岡の「長岡番所」と同じく、  長岡番所を持っていて、そこでポルトガル人から硝石樽を仕入れていたのである。そしてこの交易には日本から何を提出したかと言えば、人狩りをして集めてきた、 日本原住民の男女なのである。現在活字本として出回っている「細川家記」には、勿論こんな事は隠しこんで記されているはずもない。   この細川家に関する詳細は「奇怪・細川忠興」として以下に在る。
     http://www2.odn.ne.jp/~caj52560/hosokawa.htm        いくら戦国時代といえ、硝石欲しさに同国人の老若男女がどんどん売られて行き、黒人奴隷と共に鎖に繋がれて死ぬまで、白人に酷使されていたとは多くの日本人は知らないだろう。  戦国期は硝石欲しさに、切支丹大名と謂われる武将の中には、己の妻や娘まで売り払った者も居たという。
 こうした「棄民」と呼ばれる国辱になるような存在は、日本では伏せてしまい、真実は隠しこまれている。だから一般の歴史書には出ないのである。  日本は明治になって、ボルネオやフィリピン、ハワイや米国本土、ブラジルなどに移民と称して大量の国民を送り出したが、実態は過酷な棄民以外の何ものでもない。  後段では有馬で和蘭教科書として使用された「少年使節訪欧録」の抄訳の抜粋を記す。
 日本史では、「フランシスコザビエルが来日してから、おおいにキリスト教が広がり切支丹大名も多くなり、信仰の為当時のルソンへ追われた高山右近の例もある」 といったのが正史とされている。しかし聖書の日本語訳の刊行も秀吉の晩年のことである。大体が「ドリチナ・キリシタン」つまり「讃えんかな神を」といった一語だけで、 言葉も意味も理解できぬのに布教など広がるはずが無い。
 フロイスが残している記録でも、「入信してくる人間は信仰の為ではなく、教会は治外法権の場所だから、人殺しや盗人が隠れ場所としてくるだけで、言語が通じぬゆえ教化は困難だ」 と記している。それなのにイエズス派が東洋で何故に布教したのかといえば、ヨーロッパがプロテスタンの新教に脅かされたカトリーコの旧教が、全てが魔女の仕業だと理由付けし、 そしてその魔女は箒に跨って遠い東洋へ逃亡を図ったと神の御告げが有ったといい、この魔女を探し捕らえるためその任務を、白人へは布教できないアンドロのバスク人にさせたからである。  このバスク人とは、かって有色人種がヨーロッパを支配していたが、バイキングなどで徐々に力をつけた白人種が、有色人をヨーロッパからアフリカ大陸に追い返した。  その時一部の人間が、逃げ遅れてスペインのアンドロに残留して独特の文化を維持した者達の子孫である。  後年ナチス旋風が吹き荒れた時代になると、ゲルマン民族優秀説によって差別され、ユダヤ教会と共に、非白人とみなされるイエズス派の教会も、片っ端からゲシュタポに破壊占拠されている。  古代のインドにはアンドロの国名もあったし、バスク人はジプシーと同じく有色人種として差別されてきている。
 ナポレオンでさえピレネー山脈越のアンドロから先はヨーロッパでは無いといい、今も偏見は生きている。 かってスペインのフランコはドイツと提携していたのに放任されていたのはそのせいである。  そて、日本に鉄砲が伝来されてから、器用な日本人は直ぐに真似をして生産できた。しかし、弾丸の鉛は採掘されたし、硫黄も豊富だし、木灰もいくらでも作れるが、 肝心の硝石は一粒も産出さず、だから弾丸を飛ばす事は出来なかった。  従ってこの硝石を手に入れるため、戦国大名はイゼズス派の宣教師にすがり、自国民を奴隷として積み出したのが真相なのである。  歴史の本によれば当時の交易は、金屏風や甲冑刀剣漆器の類だったと堂々と書かれている。  尤もらしく書かれているから、つい読み流してしまうが、それは向こうに住んでいる在留邦人用でしかない。  つまり奴隷の身分から必死に働き出世して、人並みの生活が出来るようになった者らが、故郷を懐かしみ忘れ難くて注文したのである。
 直ぐ錆が出る日本刀や、ひびが入り割れやすい漆器や書画など白人が欲しがる訳は無い。だから御朱印船などと恰好つけていても、日本からの輸出品は人間だったと理解すべきである。  明治に入って、中国人の奴隷を積んだ英国のノルマント号が、日本近海で沈没し、400人以上も犠牲になって世上蒼然となり、多くの日本人が同情して涙したのも、 人道上よりも、古来からそうした言い伝えが有った為、同病相哀れむ気持ちからだろう。
   さて、天正遣欧使節のヨーロッパ巡路だが、長崎を出て、マカオ、マラッカ、インドのゴア、アフリカのモザンビーク、リスボン、マドリード、ムルシア、アリカンイから マリョルカ島、イタリアのリブォルノ、フイレンツ、ローマ、ボローニアと、とてつもない距離である。 こうした史実はいとも奇異にして驚嘆すべきものである。
  使節の四少年が母国を出発したのは僅か十三歳の頃であり、九州の片田舎から、郷里を離れ雲煙万里の彼方なるヨーロッパまでたどり着いたということは、破天荒の壮挙と評するしかない。  動乱に明け暮れていた、九州の戦国大名がキリスト教の何たるかも解らず、何故にマドリードやローマへ派遣したかの謎は深い。  この後慶長十七年には伊達政宗の家臣支倉常長が、太平洋廻り、メキシコ経由で大西洋を渡りヨーロッパへ渡っているが、彼が何故にヨーロッパへ渡ったかの 詳細は伊達騒動と政宗の正体と合わせて以下を参照されたい。 これにも火薬原料が深く関わっていて、少年使節渡欧の意味も窺うことができる。
 ミゲル===有馬晴信の甥で日本名清左
 マルティーノ===大村純忠の一族
 マンショ===大友宗麟の甥で日本名祐益この三少年が天正11年に出発した。
 そしてこの少年達のヨーロッパ見聞記に拠ると、
 ミゲル「吾々の旅行中、行く先々で同じ日本人が数多く奴隷にされ、鉄の足かせをはかされ、鞭打たれて働かされているのは家畜並みで、見るに忍びがたい」
 マンショ「僅かな値段にて、同国人をかかる遠隔な地に売り払う徒輩への怒りは尤もなれど、白人は文明人でありながら、同じ人間を何故に奴隷に致すのか」
 マルティーノ「我らと同じ日本人が何処へ行っても多数目に付く。まだ子供までが首を鎖で繋がれ吾々を見て哀れみを訴える目ざしは辛くてならぬ。真っ黒な墨塗りのよう中で         肌の白いみめよき日本娘たちが、秘所も丸出しで繋がれ、連れて行かれるのは目を覆いたかった。日本の女たちが転売されるてゆくのを正視できない。
吾らの見た範囲でもヨーロッパ各地で五十万以下と言う事は無い。ポルトガル人の 教会や神父が硝石と交換し、証文をつけてインドやアフリカに売っているのは何としたことだろう」
 (注)当時の日本の人口は二千万人と推定されるから、五十万の奴隷とは残忍な実態である。
だからこの日本奴隷の血は、ポルトガルやパペルやバスク人に伝わっているし、日本語そのままの言葉も多いのである。
 戦国期拝火教の末裔だった織田信長は、仏教を大弾圧し、比叡山の坊主共を3000人、また敵方の女といえども数百人単位で殺している。  これを当時の人たちは「残酷だ」とは思わなかった。何故なら奴隷にして売れば大変な儲けなのに、それを殺してしまうとは「誠に豪気なお方である」と賞賛している。  ということは、当時も日本人の奴隷売買は盛んだったという証拠で、信長はそれをしなかった立派な武将だったといえる。
日本軍の悲劇・火薬不足
 日本は富国強兵政策を明治軍部が推し進めた際、当惑したのは火薬原料の硝石が国内では補給できないことだった。  だから本当は、弾薬が無くては戦が出来ぬという処を、「腹が減っては戦が出来ぬ」と変えて世間に流布させたのである。  そして国民は知らしむべからずで、事硝石に関しては口にすることも書く事も厳禁した。
 代わりに、斬れもしない日本刀を持ち上げ、下士官でさえ銃は持たず昭和刀をぶら下げ、兵はゴボウ剣なのに、戦術ともいえない、斬り込み突入を繰返し玉砕を強いた。  日本軍は兵は「消耗品」としか考えてなく、何しろ一銭五厘の赤紙一枚で幾らでも徴兵できるため、兵の命などは一顧だにしていなかったのである。    戦後米軍が日本軍の武装解除をした際、彼らは准将クラスでも自動小銃を持つ米軍は、日本軍将校の拳銃があまりにも少ないのに怪しんだというが、全員に支給されていなかったからである。  日本の技術では、機関銃や自動小銃もいくらでも製造できたのに、明治製の旧式三八銃で一発ずつ撃つ単発で押し通したのも、弾薬原料の硝石が産出しないからである。  だから大戦中日本軍は、兵站の拙さは勿論、最後まで弾薬不足に悩まされ、食料も弾薬も満足に与えられず死んで逝った兵隊は哀れの一語に尽きる。
 さて、徳富蘇峰は「大村由己」の書いた「九州動座記」の内容を書いているが、その中に「宣教師より硝石樽を入手せんため、大名小名はいうに及ばず、豪族の輩までが、  己の下卑や郎党はおろか、自分の妻妾まで南蛮船に運ぶ。それを獣の如く縛って船内に押し込むゆえ、泣き叫び喚くさま地獄の如し」と
 秀吉の共をして九州へ行った時の見聞録を「近世日本国民史」の初版本には入れている。しかし二版からは憲兵隊の命令で削除され、現在に到ってる。
 日本国が昔から火薬原料に事欠いていたと広まっては、国民の戦意高揚に害があるからとの、理由で、隠しこんでしまったのである。
 つまり島原半島の三角湾が白銀海岸と呼ばれる故事来歴があり、島原半島に、奴隷として売り渡されるために集結させられた者達が、その頃は口の津と呼ばれていた 半島突端の、原の古城は、宣教師達やその従者たちが硝石の倉庫にしていたから、彼らを襲って殺し占領して、硝石を奪って反乱したのが真実である。 海外へ積み出されたら、どんな悲惨な状況が待っているか知っていた男女が、死に物狂いで戦ったのである。
 この反乱軍の中には関が原で敗走した小西行長の残党も多く紛れ込んでいた。だから徳川幕府は、全国的な討幕運動を恐れ、切支丹の一揆だと発表し、局地解決を図ったのである。
 余談だが、幕府は天皇や公卿が討幕運動に勅旨を出すのを警戒し、京の周りに多くの大名を動員して、 十五万人もの兵を駐屯させ見張ったので、兵の慰安のため、京に島原遊郭を設置した。この島原反乱を取って「島原遊郭」と名づけたのである。
 さて、この反乱軍があくまでも頑強に幕府軍に抵抗したのは、海外奴隷にされるのは死ぬより恐ろしいと判っていたからだろう。
 そうでなければオランダ商館長が軍艦を派遣し、同じキリスト教の者達を十五日にもわたって連続砲撃をするはずが無い。
 反乱軍はキリスト教などと無関係で、同国人の宣教師を殺して硝石を奪って籠城したから復讐として参戦したのである。
 ローマ法王庁には、長崎聖人26人殉死の記録や絵はあるが、戦死者四万人ともいわれる島原の乱に関しては、もしもこれが殉教なら世界的に無比なことだから特筆されるべきなのに何の記録も無い。
 日本ではキリスト教の旗があったから、切支丹一揆とするが、肝心な法王庁では認めていない。
 また、天草四郎なる者が反乱軍の指揮をしたと伝わっている。そして豊臣秀頼の落胤だとか、豊臣家の旗印を立てて戦ったとか、絶世の美少年だったとか・・・・・
 こうしたことは全て後世に作られた与太話で、四郎の首実験をしたところ、何個も首がありどれが本物なのか迷ったというが、そんな美少年なら直ぐ判るはずで、四郎に似た少年も多数 奴隷に売るため居ただろうから、それらも大人に混じって必死に戦ったことのこれは裏書に過ぎない。
 だから現代、丸山明宏が、長崎生まれだということからか「自分は天草四郎の生まれ変わりだ」と宣言しているが、こういう手合いを歴史知らずの、トンチンカンな勘違い人間という。
 

琉球哀歌 尊王攘夷は沖縄製  沖縄首里城消失を悼む

2019-11-11 16:21:58 | 新日本意外史 古代から現代まで
  琉球哀歌
 尊王攘夷は沖縄製

沖縄首里城消失を悼む

今回焼けた首里城は、明治政府による琉球処分までの450年間は、琉球王朝の居城である。
海外交易の輪を広げて発展した王国の拠点らしく、城と言うよりは宮殿に近い。
琉球処分以降、沖縄の受難の歩みを象徴し、沖縄戦で運命を共にしたと言えよう
その正殿をはじめ、首里城の主要施設が、31日未明の出火で全焼した。なすすべもなく見守る住民の「ただただ悲しい」という言葉が胸に刺さる。
今は喪失感でぼうぜんと立ちすくむしかない状態だとしても、いつか再建の日が来ると信じたい。

さて、沖縄の首里博物館が今あるところの前に古びた池がある。あまり見事とか美しいとは、お世辞にもいいかねる。ただ周囲の青々とした熱帯樹の茂みに眼がひかれる。
 しかし、この竜潭池というのは琉球王朝が華やかな頃には、丹青色の船が浮かび、下々の者は近づけない高貴な場所だった。
 さて、〈尊王攘夷〉なる言葉がある。
 今では日本の幕末の勤皇志士あたりが、東山三十六峰を背にして新選組と、
 「いざこい来れ」と斬り合いをしながら、悲壮な叫びをあげたもののように考えられ、そう想われて居る。しかしそういうものの、
 (勤皇……なら判るが、日本では天皇を王様といわないのに変てこではないか?)
 といった疑問を、投げかける者はなかったかどうか……歴史家さんは誰もこれまで書いていない。
 なにしろ日本の歴史は講談や芝居によって、歪められた優で堂々とまかり通っている……
 というけれど、これも故尾上松之助、市川百々之助、阪東妻三郎、沢田正二郎といったスターたちの、チャンバラ幕末ものによって作られた虚像といえるようだ。
 というのは明治八年五月二十九日に、ときの日本の太政大臣三条実美よりの、
 「琉球藩は、もう清国へ朝貢と称して使節を派遣したり、清国より冊封を受けてはならぬ」
 との内示をうけ、渡航してきた内務大丞松田道之が、首里城へ今帰仁王子以下百余名を集めて、きびしく冷酷にいいわたしたとき。
 
ついで翌明治九年五月の太政官令に反したとの理由で、年があけた三月二十日に、
 「処分の都合があるから首里城内から、何物も持ち出すことなく三十一日限りにて明げ渡し、尚泰王は城を出て東京出発まで謹慎のこと」という命令がでたとき。
 病臥中の王を守ろうというので、「尊王攘夷」の旗が、尚王一世の五百二十八年前の時点、石で底をかためて作られた竜潭池の畔に、再度に及んで立てられた。
 かつて中国の重陽の節句の日など美々しく装われた竜形船で埋められた池だが、蘇鉄や芭蕉が茂った木立に、ついで翩翻とひるがえったレジスタンスの旗に対し、
 「かまわぬ、撃ってこませ」と、薩摩出身の川路大警視の命令によって、派遣された園田二等警視補を隊長とする百六十三名の巡査隊と、
旧薩州士族三百名が、神聖視しされ一般の者は近づくことを禁じられていた池畔を襲って旗をひきちぎった。
 そしてこの結果、首里士族、泊村士族、久村士族らは、次々と内務省の出張所へ呼び出されて苛酷な取り調べもうけた。がそのため、かえって反発が強くなった。
 「御病気中の王や、まだ幼年の王子まで、東京へ連れて行くとは何たることか。首里城をあけ渡せとは、五百年つづいた琉球王朝の最後ではないか。
かくなる上は徒手空拳とはいえど、夷であるヤマトンチュを撃ち払わねばなるまい」と固く、一致団結をしたのである。
 
どうも尊王攘夷なる熟語は幕末の日本製ではなくて明治に入ってからの、いわゆる琉球処分の際に、どうやら生まれたものであるらしい。
つまり尊ぶ王とは、尚泰王のことであり、「攘夷」と、それに続くのは、幕末までの日本では、英米仏あたりの異人をやっつけることであったが、
沖縄では、夷は内地人の意味であったのである。さて、いくら哂の宮古上布の旗をたてて皆が必死になって「尊王攘夷」と反抗して騒いでも、また、
 「泣血奉御願候」と王子や旧摂政が、本土から派遣されてきた松田道之や、勅使の富小路敬直に懇願したけれど情け容赦もあらばこそ、
とりあえず王子尚典は明治十年四月二十七日郵便船明治丸にのせてつれてゆかれた。
 そして病臥中の尚泰王も翌月、タンカにのせられたまま、彼らのいう夷の軍隊である日本軍の鉄砲隊に包囲された中を、東京行きの船にのぜられてしまった。
 沖縄の人々は大地にひれ伏し、おんおん泣き伏して見送った。しかし王を奪い返したくとも、いかんせん武装のない彼らはどうしようもなかったのである。
 さて王様や王子でさえ旧薩州出身の士族らの鉄砲隊で、身柄を拘束されて護送されるくらいゆえ、彼らによって住民への、掠奪暴行は目に余るものがあったらしい。
 そこで東京政府は治安維持にやむなく、一部の者は残留させたが、他の者は三月前から風雲急を告げていた九州へ、政府軍の助勢として回されることとなった。
 このとき鹿児島第二大隊長として、池田屋斬り込みで名をはせた奈良原喜八郎が、五十名の薩州健児を率いて沖縄を荒し回った記録が詳しくある。
 が、このとき、奈良原喜八郎は分捕品として、
 
「尊王攘夷」の宮古上布の旗を、十数流も持ち戻った。そして改めて、
 「討賊官軍第六大隊長」を拝命するや、この旗をもって、大隊旗に代用した。
 つまり奈良大隊長の指揮をとる官軍は中隊ごとに、沖縄から持ち帰ってきた、
 「尊王攘夷」の旗をたてて西郷軍に対し、「おのれ……賊軍めッ」とばかり、攻めたてた。
 東京から派遣されてきた兵や鎮台兵は、ろくに戦歴もない連中だが、奈良原の率いる二百余名は非武装地帯とはいえ、沖縄では連戦連勝みたいに勝ち誇って、
気ずい気ままを勝手にしてきた連中である。だから普通なら同じ薩摩人どうしゆえ、そこには手加減や遠慮がありそうなものだが、逆に奈良原隊はすこぶる強かった。
 もちろん旧幕時代に奈良原は島津久光の命令で、有馬新七ら過激派を斬り倒し、そのとき西郷隆盛も追手にせまられ入水自殺まで企てているのだから、昔からの仇敵どうしとはいえる。
しかし、なんといっても琉球処分の荒稼ぎが奈良原隊を意気軒昂にしたことは否定できまい。
これまで歴史家は等閑視しているけれど、琉球王や王子を東京へ護送してしまったの、か、やがては同年九月二十四日の城山での大西郷の悲壮な自決とも結びつく。
いうなればこの結果は、「琉球処分、大西郷を死にはしらす」となるのである。さて十月一日。惜しくも城山で西郷隆盛や桐野利秋か自刃したので、
「西南の役」は終結となったから、奈良原喜八郎らは凱旋ということになった。
 そこで硝煙にまみれた宮古上布の旗を、意気揚々と十数流たてて上洛した。
 彼らが陣営をはっていたうずまさが、その後京都における活動写真のメッカになった。だから故牧野省三も幼時に眺めたことのある、
「尊王攘夷」の旗の記憶がなまなましかったのだろう。そこで時代劇のタイトルに、
「尊王」とか「尊王攘夷」といったのを、まさか沖縄からの輸入とは知らずして、堂々と用い世にひろめてしまったのだろうと思われる。異説めくが、
 「勤皇」というのは、昔からの本物であるが、そうでないのはどうも明治十年に奈良原喜八郎によって、もたらされたものといえるようである。
まあ沖縄の観光に行くひとは、かつて、「尊王攘夷」の旗が初めて立った博物館前の古びた湖畔にたって、往時をしのび、
「ひめゆりの塔」や「健児の塔」の参拝もぜひついでにしてきたいものである。



坂上田村麻呂

2019-11-09 16:32:50 | 新日本意外史 古代から現代まで

 坂上田村麻呂 

坂上 田村麻呂(さかのうえ の たむらまろ)は、平安時代の公卿、武官。名は田村麿とも書く。姓は忌寸のち大忌寸、大宿禰。
父は左京大夫・坂上苅田麻呂。官位は大納言正三位兼右近衛大将兵部卿。勲二等。贈従二位。
忠臣として名高く、桓武天皇に重用されて、軍事と造作を支えた一人であり、桓武朝では二度にわたり征夷大将軍を勤める。蝦夷征討に功績を残し、
薬子の変では大納言へ昇進して政変を鎮圧するなど活躍。死後平安京の東に向かい、立ったまま柩に納めて埋葬され、軍神として信仰の対象となる。
現在は武芸の神として親しまれ、多くの伝説、物語を生んだ。
上記が歴史書に書かれている彼の経歴である。

この人物は苅田麻呂の子というのは間違いないが、百済系という説もある。
藤原氏に命令され、征東将軍となって東北の我ら日本原住民の御祖先様をば討った相手なのである。
それなのに、今では庶民が、知らずに五月人形の鍾馗さまとして祀っている。
青森のねぶた祭りでは、地元の企業がスポンサーになって田村麻呂の巨大な提灯が練り歩いている。
こうした歴史の真実をを知らずに地元の人たちは「ねぶた(根蓋)祭」として盛大に祭っている。
しかし彼は、原住民を殺し、「根(死)の国へ行け」とばかり穴を掘って埋め、その上に蓋をして、殺した家族に踏み固めさせるという残酷な仕打ちをさせている。
だから現在のねぶた踊りも、「はねこ」という踊り手たちは、遠慮するような、躊躇するような踊りになっている。
ドーント、ドントドントのような勇壮な踊りと違うのはこの訳なのである。
考えても見て欲しい。先の大戦中、東京大空襲や、日本各地の大小都市の無差別爆撃を強行し、
民間人の大量虐殺を指揮した米国のカーチス・ルメイ中将がいた。
また「ジャツプは黄色いサルだ」と罵倒して、広島、長崎に原爆投下を命令し、何十万の無辜の民を殺したトルーマン大統領も居た。
いくら日本人が馬鹿でも、よもや彼らの銅像を建てたり、山車に載せて祭りはしまい。
全く倒錯した国民性である。
さて、前記のように、百済人苅田麻呂の息子ということになっているが、その身長は5尺8寸にて眼光は碧く、頭髪や髯は金線をはやしたるごとしとある。
八郎潟の白人の子孫の多い地方ではイエスキリストの後裔説もあるが、幕末までは、田村麻呂の忘れ形見とか、それに随行した者が残していった、
子種の子孫だとともいわれるところをみると、彼ら討伐軍は白色人種の韃靼(ダッタン)あたりの傭兵だったかも知れぬ。




 堺人はどこから来たのか

2019-11-05 18:31:33 | 新日本意外史 古代から現代まで
 堺人はどこから来たのか
 
 NHKの大河ドラマ「黄金の日々」では、堺が出てきて、近代的自由都市として放映していた。
しかしこれは間違いである。
実際は、明治になるまでここは、摂津、河内、泉州を含む地域で徳川幕府の直轄領だった。
しかし堺だけはエビス島と呼ばれ、隔離されていた特殊な町だったのである。
織田信長の頃は、ここに宮内卿法印の官位を持つ信長の家臣、松井有閑が奉行を務めていた。
堺は西南からの黒潮が突き当たるために、マカオから、年に一回、硝石を輸入をしていたものである。
だから有閑は織田軍団の鉄砲の弾丸を飛ばす、大切な硝石(火薬)輸入長官でもあった。
ここに住む納屋衆は、火薬の輸入もしていて、わび、の茶を広めていたため、信長は彼らを取り込むため、
茶筅髷まで結って、彼らを懐柔していて、自分の息子にまで「茶筅丸」の名さえつけている。
のち、豊臣秀吉は、ここに住む千利休一派の反乱を恐れ、全国的に刀狩という武器の没収令を出している。
その後、秀吉は大陸渡海後の後顧の憂いを取るため、結局利休とその妻の恩まで、張り付けにして殺すことになる。
ついでに月代についての考察も以下にしておきます。
 月  代(さかやき)
 〈玉葉〉仁安2年7月8囗の条に、平時忠が出陣を思い止まって剃ったとする。
<太平記>には、大塔宮が熊野から脱走の際に、親王以下が頭の前額を剃って変装したと書かれている。
しかし、武士が兜を被るのに、前の毛をすっては痛くて冠れないから、さかやきを思いきり剃るのは武器をもたぬ身分証のようなものだったが、
織田信長が前額がはげあがってきたので月代を剃ってしまった。
このため武人はこれにならって、みんな剃ってしまい、額が痛くないように、下に太鉢巻をなし、兜をかむる武土習俗にもなった。
さて、テレビでは、市川染五郎の呂宋助左衛門も美丈夫だった。
これはマレーシア北部のベラク、ケランタン、バハンから南方ジョホールにまでに住まっていてた人種が、
海流によって各地へ移動したので彼らは「サカイ」と自称し、美男が多かったからである。
彼らの中で、フイリッピンに渡ったのがアタエ族となった。アンダマン諸島へ住みついたのがミンコビ族になる。
インドへ行ったのがヴワダ族。人種学上では総称して、これらを「ベラク、ケランタンのセンマンダ族」という。
これらの部族は海を恐れずTeAを好む人種だが、排他的でもあった。
そしてそれぞれの住居に堀をこしらえて通行を拒む風習があったという。
1850年代の堺の地図を見れば、港口からぐるりと町を囲んだ堀割に囲まれているのが判る。
だからこの堺人を日本に住んでいたから日本人とみるより、サカイ人なる存在を視野をもっと広げて見るべきかも知れない。