⇒前回の記事はこちら
甲斐国分僧寺跡を見学した後は、今度は亀甲塚(かめのこうづか)古墳を探しに行きます。
律令時代と古墳時代を行ったり来たりですね。
タイムマシンを使わなくても、私は脳内タイムトリップができるので便利です。
さて、亀甲塚古墳ですが、見つけることができるかなあ。
果樹園の中にあるようなので、ゆっくり雷電號を走らせながら果樹園内を注視します。
あった!
でも普通に果樹園内なので、入っていくのが憚られます。
ところが、遠くを見るとちょうど作業中の方がいらっしゃいました。
土地の方の姿があった場合はきちんと断って見させていただくことができるので逆にありがたいです。
許可をいただいたので見させていただきます。
頂部が平になっているのは、後世の削平でしょう。
円墳のように見えますが、名前が「亀甲塚」なので、通常、「亀」と付く場合は前期の前方後円墳や前方後方墳です。
前期の前方後円墳や前方後方墳は、後円部(後方部)と前方部との高低差が激しくて横から見た姿が亀のように見えるため、そういった名前になることがあるのです。
前方部のようなものが見える。
近くで見てみよう。
うーん、微妙・・・
いや、でも、可能性はあるな・・・
山梨県のHP内の「遺跡トピックスNo.0264亀甲塚古墳出土の碧玉製管玉(へきぎょくせいくだたま)」には、
「1975(昭和50)年には墳丘の測量が行われましたが、不正形な楕円形をしており、造られた当時、この古墳が円墳なのか、帆立貝式の前方後円墳なのか、その形は現在も不明のままです。古い写真を見ると、方墳のようにも見えます。」
とあります。
また、築造年代は一般的に5世紀前半と言われているのですが、同ページによると、出土した碧玉製管玉の分析によって、古墳時代前期の築造と考えられるとしており、私も亀甲塚はその名が示唆している通り元々は前方後円墳で、その築造時期は前期だと考えます。
面白いねえ、謎の古墳。
道路側には標柱があります。
でも、説明板はありませんよ。
作業をしている方にお礼を言って立ち去ります。
つづいて、またまた律令時代。
甲斐の国衙跡へ行って見ます。
※後日註:『帝京大学文化財研究所研究報告第19集』所収「山梨県笛吹市亀甲塚古墳の研究」(櫛原功一/著)をもとに補足
該書によれば、墳形に関しては「現段階で言及するのは厳しい」とするものの、「あえて推測するならば」として、内径32mの周溝の内側に直径25m以上、高さ4m程度の後円部をもつ全長40m以上の前方部が低平な前方後円墳と考えられるとしています。
そしてその築造時期は、3世紀後半から末としています。
甲斐最大の前方後円墳である甲斐銚子塚古墳がある中道地域では、上の平遺跡の方形周溝墓群が造られた後、小平沢古墳(甲斐唯一の前方後方墳)、天神山古墳、大丸山古墳、甲斐銚子塚古墳というふうに首長墓系列が復元できますが、亀甲塚古墳は小平沢古墳と同時期と考えられ、近辺には岡銚子塚古墳という墳丘長92mの大型前方後円墳もあることから、中道地域とは別系統の首長墓系列があったと考えることができます。
つまり、笛吹市域にも有力な首長が存在したということで、彼が甲府盆地内でどのような地位にいたのか、ヤマト王権とどのような関係にあったのか、そういうことを考えてみるのも楽しいですね。
⇒この続きはこちら
川もあり地形的にもいい場所二ありますね。