⇒前回の記事はこちら
今回は渡来人関連のものが多く見られればいいなと思っており、高麗神社と聖天院の参拝はできました。
つづいて毛呂山町方面に北上しますが、そろそろお昼の時間ですね。
巡航中に食べ物屋さんが現れたら寄るとしましょう。
でも結局街道沿いには目ぼしいお店が現れず、大寺廃寺跡の近辺まで来てしまいました。
さきに遺跡を見てみますか。
ナヴィを頼りに大寺廃寺跡を目指していくと、道がかなりデンジャラスになってきました。
小川に架かる橋は雷電號なら渡れる道幅ですが、柵がありません。
「えー、ここ渡るんですか!」と後ろから聞こえてきましたが、スミマセン、突撃します。
ところが、渡った場所から先が異様な急カーブになっており、その先はちょっとどうなっているか分からないので引き返すことにします。
狭いところで転回し、もう一度危ない橋を渡って、やや広い道路まで戻りました。
とりあえず、畑の脇に路駐して歩いて行ってみましょう。
大寺廃寺跡の場所は大体は把握していますが、初めてきたのでKKDで歩きます。
お、説明板らしきものが向こうに見えたぞ!
石仏。
よし、見っけ!
現況はほとんど雑木林で、一部が草地になっており、礎石が散見できます。
関東地方ではある地域の最後の首長墓級の古墳が築造されるのとほとんど同じ頃、寺院の建立が行われた場所がいくつかあります。
例えば、群馬県前橋市の総社古墳群や千葉県栄町の龍角寺古墳群です。
今のところの私の感覚では、そういう勢力はヤマト王権から優遇されて国造に任じられた勢力が多いと感じており、ソウジャ勢力の場合は上野国府の誘致も成功しています。
逆に強大な勢力を誇った埼玉県行田市の埼玉古墳群の近くには古いお寺がなく、サキタマ勢力はヤマトから干され、行田に国府が置かれることはありませんでした。
さらに、7世紀や8世紀の古代寺院の場合は、渡来系の人びとが果たした役割が大きいと考えており、ここ日高市は高句麗の遺民たちのメッカであり、そういうこともあって日高市内には3つも古代寺院が造られたのではないでしょうか。
その3つのうちの1つが大寺廃寺跡です。
通常、「大寺」と呼ばれた場合は、単に大きい寺ということではなく、国家により保護を受けている官寺のことを言います。
説明板には高麗氏の氏寺ではなかったかと書かれていますが、氏寺でもあり官寺でもあるということになるでしょうか。
この辺りには「大寺」という地名も残っています。
ところで、変わった礎石ですね。
安斉さんも気になっているようですが、こんな黄色い礎石は見たことがありません。
遺跡としてはこれくらいしか見るものが無いので雷電號へ引き返します。
農家の倉庫の横を通り、そこにいらっしゃった方に挨拶すると、「何しに来たの?」と聞かれたので、「上の遺跡を見に来たんです」と答えると、「結構遠くから見に来る人がいるよ」と言い、「ちょっと待ってて」とニヤリとしました。
そして倉庫の奥の方に行き、戻ってくると「これあげるよ」と土器片を手渡してくれました。
※この時いただいたもの。
畑作業をしていると見つかるそうです。
布目が付いているので、これは瓦の欠片ですね。
大寺廃寺に使われていたものでしょう。
しばしの間、会話を楽しみお礼を言って辞去します。
先ほどの方の話によると、来るときも渡ったこの川は入間郡と高麗郡の境界だったことがあったそうです。
入間郡と高麗郡の境界は歴史的に見るとかなり動いており、どういうわけか、中世の頃になると高麗郡の領域はかなり東まで進出して川越に迫ろうかという勢いを見せます。
それでは、食べ物屋さんを探しつつさらに北上しましょう。
なかなかお店がないですねえ。
あ、先に板碑に来ちゃった。
毛呂山町の「嘉元の板碑」です。
これはかなり巨大なのですが、単に板碑だけ写真を撮ると大きさが分からないので、いつもはS源寺さんに並んでもらっています。
でも今日はいないので、代わりにオーメンさん、お願いします!
でかいでしょ?
なんと3.4mもあります!
嘉元四年(1306)と刻されているのが分かりますね。
同じ武蔵国内でも、東京都側にはこれほどの巨大板碑は存在せず、埼玉県側にはこういった巨大な板碑がこんな風に道端や境内に佇立してあることも多く、この事実の裏には重要な何かが潜んでいるような気がします。
中世の板碑は全国にありますが、他の地域では自然石とさほど変わらないようなものもあって、武蔵の板碑が一番カッコいいかな。
いろいろな歴史遺産のなかで、埼玉県が世界に誇れる(大げさ?)ものはこの板碑でしょう!
これは中央にも負けない!
と、他者と張り合っても仕方ありませんね。
というか、そろそろ空腹の限界。
雷電號に乗りこみ進発し、金子さんがスマホでラーメン屋を見つけてくれたのでそこへ行きましょう。
到着!
久しぶりのラーメンです。
今日は寒いので味噌ラーメンがことのほか美味しい。
そしてセットで付いてきた牛筋カレー。
これもいける。
カレーはカレーで普通に一人前なのでヴォリュームありますね。
健康指導を受けているので本当はこんなに食べちゃいけないと思いますが、たまにはいいでしょう。
私は自分に甘く、他人にも甘い。
お腹いっぱい幸せ気分になったところで、午後の探訪を開始します。
八高線の毛呂駅の近くにいるので、駅のすぐ近くにある独立丘に登ってみます。
丘の上には出雲伊波比(いずもいわい)神社があるのです。
坂道を登っていき、駐車場に駐機。
おっとー、いきなり前方後円墳発見!
古墳マニアはこの世のいたるところに古墳を見るのです。
では参拝。
安斉さんが「拝殿が参道の中心にないですね」と言ったので、正面に立つとなるほどそうです。
なんでだろう?
これは珍しい。
拝殿。
由緒書きもあります。
なぜ武蔵には出雲の神様が多いんでしょうね?
以前から気になっており、最近は少しずつ解明の糸口が掴めてきたような気がします。
さらに、「いわい」というのが非常に気になるのです。
字は違っても「いわい」という地名や神社は各地にあって、さらに福岡の筑紫君磐井も含めて「いわい」という言葉の本来の意味が気になっています。
ところで、拝殿脇に弓矢の的のようなものがありましたが、ここは流鏑馬で有名なんですね。
馬場がありました。
流鏑馬は来週のようです。
来週だったら人がすごくてここに来れなかったでしょうね。
境内神社。
本殿は塀で囲まれています。
隙間から激写。
あ、猫ちん。
お昼寝中かな?
モップの上に座っていて、なんか掃除のおばちゃんみたいで可愛いですね。
同業者だ。
ちなみに、モップは鎌倉時代にはすでにあったそうで、武士の館などの板敷きの床を掃除する際に、雑巾がけが楽になるように雑巾に柄を付けて拭いていたそうです。
さて、雨は相変わらず普通に降っており、まったく止む気配はありませんが、この後は少し歩きますよ。
⇒この続きはこちら
今回は渡来人関連のものが多く見られればいいなと思っており、高麗神社と聖天院の参拝はできました。
つづいて毛呂山町方面に北上しますが、そろそろお昼の時間ですね。
巡航中に食べ物屋さんが現れたら寄るとしましょう。
でも結局街道沿いには目ぼしいお店が現れず、大寺廃寺跡の近辺まで来てしまいました。
さきに遺跡を見てみますか。
ナヴィを頼りに大寺廃寺跡を目指していくと、道がかなりデンジャラスになってきました。
小川に架かる橋は雷電號なら渡れる道幅ですが、柵がありません。
「えー、ここ渡るんですか!」と後ろから聞こえてきましたが、スミマセン、突撃します。
ところが、渡った場所から先が異様な急カーブになっており、その先はちょっとどうなっているか分からないので引き返すことにします。
狭いところで転回し、もう一度危ない橋を渡って、やや広い道路まで戻りました。
とりあえず、畑の脇に路駐して歩いて行ってみましょう。
大寺廃寺跡の場所は大体は把握していますが、初めてきたのでKKDで歩きます。
お、説明板らしきものが向こうに見えたぞ!
石仏。
よし、見っけ!
現況はほとんど雑木林で、一部が草地になっており、礎石が散見できます。
関東地方ではある地域の最後の首長墓級の古墳が築造されるのとほとんど同じ頃、寺院の建立が行われた場所がいくつかあります。
例えば、群馬県前橋市の総社古墳群や千葉県栄町の龍角寺古墳群です。
今のところの私の感覚では、そういう勢力はヤマト王権から優遇されて国造に任じられた勢力が多いと感じており、ソウジャ勢力の場合は上野国府の誘致も成功しています。
逆に強大な勢力を誇った埼玉県行田市の埼玉古墳群の近くには古いお寺がなく、サキタマ勢力はヤマトから干され、行田に国府が置かれることはありませんでした。
さらに、7世紀や8世紀の古代寺院の場合は、渡来系の人びとが果たした役割が大きいと考えており、ここ日高市は高句麗の遺民たちのメッカであり、そういうこともあって日高市内には3つも古代寺院が造られたのではないでしょうか。
その3つのうちの1つが大寺廃寺跡です。
通常、「大寺」と呼ばれた場合は、単に大きい寺ということではなく、国家により保護を受けている官寺のことを言います。
説明板には高麗氏の氏寺ではなかったかと書かれていますが、氏寺でもあり官寺でもあるということになるでしょうか。
この辺りには「大寺」という地名も残っています。
ところで、変わった礎石ですね。
安斉さんも気になっているようですが、こんな黄色い礎石は見たことがありません。
遺跡としてはこれくらいしか見るものが無いので雷電號へ引き返します。
農家の倉庫の横を通り、そこにいらっしゃった方に挨拶すると、「何しに来たの?」と聞かれたので、「上の遺跡を見に来たんです」と答えると、「結構遠くから見に来る人がいるよ」と言い、「ちょっと待ってて」とニヤリとしました。
そして倉庫の奥の方に行き、戻ってくると「これあげるよ」と土器片を手渡してくれました。
※この時いただいたもの。
畑作業をしていると見つかるそうです。
布目が付いているので、これは瓦の欠片ですね。
大寺廃寺に使われていたものでしょう。
しばしの間、会話を楽しみお礼を言って辞去します。
先ほどの方の話によると、来るときも渡ったこの川は入間郡と高麗郡の境界だったことがあったそうです。
入間郡と高麗郡の境界は歴史的に見るとかなり動いており、どういうわけか、中世の頃になると高麗郡の領域はかなり東まで進出して川越に迫ろうかという勢いを見せます。
それでは、食べ物屋さんを探しつつさらに北上しましょう。
なかなかお店がないですねえ。
あ、先に板碑に来ちゃった。
毛呂山町の「嘉元の板碑」です。
これはかなり巨大なのですが、単に板碑だけ写真を撮ると大きさが分からないので、いつもはS源寺さんに並んでもらっています。
でも今日はいないので、代わりにオーメンさん、お願いします!
でかいでしょ?
なんと3.4mもあります!
嘉元四年(1306)と刻されているのが分かりますね。
同じ武蔵国内でも、東京都側にはこれほどの巨大板碑は存在せず、埼玉県側にはこういった巨大な板碑がこんな風に道端や境内に佇立してあることも多く、この事実の裏には重要な何かが潜んでいるような気がします。
中世の板碑は全国にありますが、他の地域では自然石とさほど変わらないようなものもあって、武蔵の板碑が一番カッコいいかな。
いろいろな歴史遺産のなかで、埼玉県が世界に誇れる(大げさ?)ものはこの板碑でしょう!
これは中央にも負けない!
と、他者と張り合っても仕方ありませんね。
というか、そろそろ空腹の限界。
雷電號に乗りこみ進発し、金子さんがスマホでラーメン屋を見つけてくれたのでそこへ行きましょう。
到着!
久しぶりのラーメンです。
今日は寒いので味噌ラーメンがことのほか美味しい。
そしてセットで付いてきた牛筋カレー。
これもいける。
カレーはカレーで普通に一人前なのでヴォリュームありますね。
健康指導を受けているので本当はこんなに食べちゃいけないと思いますが、たまにはいいでしょう。
私は自分に甘く、他人にも甘い。
お腹いっぱい幸せ気分になったところで、午後の探訪を開始します。
八高線の毛呂駅の近くにいるので、駅のすぐ近くにある独立丘に登ってみます。
丘の上には出雲伊波比(いずもいわい)神社があるのです。
坂道を登っていき、駐車場に駐機。
おっとー、いきなり前方後円墳発見!
古墳マニアはこの世のいたるところに古墳を見るのです。
では参拝。
安斉さんが「拝殿が参道の中心にないですね」と言ったので、正面に立つとなるほどそうです。
なんでだろう?
これは珍しい。
拝殿。
由緒書きもあります。
なぜ武蔵には出雲の神様が多いんでしょうね?
以前から気になっており、最近は少しずつ解明の糸口が掴めてきたような気がします。
さらに、「いわい」というのが非常に気になるのです。
字は違っても「いわい」という地名や神社は各地にあって、さらに福岡の筑紫君磐井も含めて「いわい」という言葉の本来の意味が気になっています。
ところで、拝殿脇に弓矢の的のようなものがありましたが、ここは流鏑馬で有名なんですね。
馬場がありました。
流鏑馬は来週のようです。
来週だったら人がすごくてここに来れなかったでしょうね。
境内神社。
本殿は塀で囲まれています。
隙間から激写。
あ、猫ちん。
お昼寝中かな?
モップの上に座っていて、なんか掃除のおばちゃんみたいで可愛いですね。
同業者だ。
ちなみに、モップは鎌倉時代にはすでにあったそうで、武士の館などの板敷きの床を掃除する際に、雑巾がけが楽になるように雑巾に柄を付けて拭いていたそうです。
さて、雨は相変わらず普通に降っており、まったく止む気配はありませんが、この後は少し歩きますよ。
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