*** 本ページの目次 *** 1.基本情報 2.諸元 3.探訪レポート 4.補足 5.参考資料 |
1.基本情報
所在地
奈良県奈良市二条大路南3-5-1(平城宮跡管理センター)
2.諸元
3.探訪レポート
2017年11月23日(木)
国内最大の円墳に昇格した富雄丸山古墳を見た後は、今回の最終探訪地である平城宮へ行ってみます。
しかし、平城宮といっても広いので、どこへ行けばいいんでしょうね?
適当に行ってみましょう。
暫く走ると、周囲は普通の地方都市のような風景になってきました。
チラッと万葉チックな大きな建物が見えたので、この辺に車を止めて歩いて行ってみようと思います。
おー、あったー!
朱雀門のやや南の朱雀大路跡に来たみたいです。
朱雀大路は絶賛整備中でした。
しかし、宮殿も重機を使って作る時代になったんですね。
律令国家の技術も進んだものです。
では、朱雀門の向こう側、すなわち平城宮内へ行ってみますよ。
平城「京」と平城「宮」ってややこしいですが、都全体を「京」と呼び、天皇が君臨する大極殿とその周辺の官庁街などのコアゾーンのことを「宮」といいます。
あ、電車!
こんなところに電車が走っているなんて。
平城宮の中を近鉄が横断しているんですね。
周囲を見渡すと、遺構の展示のようなものがあります。
どこから行ってみようかな?
ここは何だろう?
式部省跡でした!
律令国家というのは、律令と呼ばれる法律をもとに統治した国家のことで、中国が本家本元なんですが、日本では、おおよそ7世紀末から10世紀前半くらいまでが当てはまります。
時代名称でいうと、飛鳥時代末から奈良時代、そして平安時代の前半ということになります。
日本の場合は、天皇の下には二官八省という組織が最上位にあって、太政官と神祇官の2つの官と以下に示す8つの省がありました。
・宮内省
・式部省
・兵部省
・大蔵省
・民部省
・刑部省
・治部省
・中務省
もちろん中央省庁はこれだけではないのですが、中心になるのが二官八省です。
明治の大日本帝国や現代の日本国にも律令時代の役所の名前は少し残っていて、今は「庁」になっていますが、宮内省の名残はあり、少し前までは大蔵省がありましたね。
ちなみに、式部省は奈良時代に藤原仲麻呂が権力を握っていたほんの一時期ですが、文部省という名前になったことがあります。
文部省はその後、現代になって復活しましたが、今は文部科学省になっていますね。
説明板には、「文官の人事や勤務評定を担当した」と書いてありますが、それ以外にも教育関連も担当していたので、文部省という名前は合っていると思います。
それと、上の一覧を見て戦国武将の名前を思い出した人もいると思います。
例えば、石田三成は「治部少輔」ですし、大谷吉継は「刑部」という通称で有名ですね。
省のトップは「卿(かみ)」で、その下が「輔(すけ)」なのですが、輔は「大」と「少」に分かれており、つまり三成は律令制でいえば、治部省で3番目に偉い人になるのです。
陸奥守や武蔵守などの受領名を名乗る武将も多いですが、戦国時代になっても律令国家の影響は残っており、支配者層の人びとは実権はないものの令制の官名を名乗りたかったのです。
今でも肩書を非常に気にする人っていますが、今も昔も変わりません。
日本各地の戦国武将を都に集合させて政治を執らせてみたらどういう国家になるのか想像するのも楽しいです。
ところで、線路を越えて北側にも遺跡は広がっていますね。
遠くにチラッと見えるのが大極殿だと思いますが、広すぎるので今日は時間的に考えるとこの周辺だけしか見れないでしょう。
もうすぐ日も沈んでしまう・・・
しかし、電車がひっきりなしに通りますね。
行ったと思ったら反対方向からまた来た。
今度は真横から!
カッコいい!
いやいや、電車より遺跡だ。
これは朱雀門と接続されていた築地塀跡ですね。
すなわち、平城宮の南側を画していた壁です。
門跡らしきものもあります。
うわ、また電車。
近鉄は車体のデザインやカラーリングが豊富で楽しいですね。
しかも、違うカラーの車両と平気で編成を組んでしまうのが堪りません。
関東ではまず見られませんね。
子供の頃にNゲージで遊んでいるときに、持っている車両が少ないため、ディーゼルカーと通勤電車に貨物を繋げたりしていましたが、そういうのを思い出して楽しい。
いやいや、だから電車じゃなくて遺跡だって。
今立っている場所は、壬生門跡でした。
※先ほどの写真をもう一度お見せしますが、説明板の絵と見比べてみると、左側から築地塀があり、溝があり、そして二条大路があったのが分かると思います。
平城京や平安京の場合、東西方向に走る道のことを「条」とよんでいました。
それと、説明板に書いてあるとおり、奈良時代後半には壬生門が実質的に平城宮の正門となります。
少し離れて壬生門跡を見ます。
周辺図がありましたよ。
「第一次」とか「第二次」という文字が見えますが、大極殿は位置を変えて建て替えられています。
大極殿の南側には朝堂院があり、朝堂院は官人たちが集まる場所ですが、第二次の場合は朝集殿院がプラスされていますね。
ところで、「朝廷」という文字もそうですが、なんで「朝」なのかというと、当時は早朝から政務を行っていたためです。
平城京は710年に正式オープンしましたが、その前に日本の中心だったのは694年に正式オープンした藤原京で、藤原京が我が国初の都城です。
その藤原宮で政務を開始した当初は、官人たちは日の出前に出勤していたんですよ。
そしてまずは皆で旭日を拝んで、それから仕事を開始し、お昼にはお仕事が終わり、残業がなければ、「ちょっと飲みに行こうか?」という流れになったわけです。
あ、「魚民」とかは無いので、家飲みでしょうね。
あちらの遺構展示はなんでしょう?
兵部省だ!
さきほどの式部省の説明板に兵部省と対称の位置をなして建物配置もほぼ同じと書いてありましたね。
でも、兵部省も式部省も現在遺構展示がしている場所は、奈良時代後半の位置です。
戦国武将で兵部を探すと、大内義隆がそうでしたね。
しかも兵部卿ですから、兵部省で一番偉い人です。
兵部省から朱雀門を見ます。
朱雀門へ行ってみます。
説明板がありました。
これは前期の図ですが、宮部分は真四角ではないですね。
南東をわざと欠いていますが、それでも無理くり合計12の門を造っているのは、中国の長安の都と同じにしたかったからです。
藤原京は実際にある中国の都を真似せず、中国の「周礼」に記載されている理想上の都の形を具現化したといわれていますが、平城京は長安がモデルなのです。
でも向こうとこちらでは地形等の前提条件が違いますから、完コピは無理だったものの、なるべく寄せたかったのですね。
大極殿と朱雀門の説明。
今日は大極殿まで行けないので、また後日を期したいです。
朱雀門から朱雀大路を見てみましょう。
最初に見た通り、現在鋭意整備中。
大極殿を望みます。
電車も走ります。
もうすぐ16時半になります。
そろそろタイムリミット。
名残惜しいですが、ここで終わりにしましょう。
※後日注:現在平城宮を横断している近鉄奈良線の線路は、将来変更になる予定です。
さて、最後の探訪地である平城宮からは京都駅へ向かいます。
今回のレンタカーは京都駅で借りていたため、京都に着いて車を返却したら新幹線に乗る前に夕飯を食べたいです。
京都駅のガード下に位置するモール内には食べ物屋さんがたくさんありますが、お腹は空いているものの今一どれもあまり食べたくない。
凄く混んでるし。
あ、吉野家発見!
こういったお店は、列島内どこへ行っても安心して食べられていいですね。
昨晩のココイチに引き続き、安定の味です。
というわけで、京都発19時35分の新幹線に乗りますよ。
新幹線の中ではこちら。
この純米大吟醸は伏見にある山本本家というところのお酒で、とてもバランスの良い美味しいお酒です。
また、「世界の山ちゃん」の「てばさきいか」も甘辛い味がよく染みていて美味いですよ。
(了)
2019年1月3日(木)その1
⇒前回の記事はこちら
長屋王邸跡からさらに西へ向かいます。
最近整備された平城宮の朱雀大路に来ました。
うわー、道広い!
前回来た時は工事中でゴチャゴチャしていたのであんまり良く分かりませんでしたが、こうして綺麗になると広さが実感できますね。
道幅は75m、ここから朱雀門までは260mあります。
呪力ズーム!
朱雀門とか朱雀大路とかの朱雀(すざく)は、中国の四神思想において、南側を表す伝説上の動物です。
つまり、南方向に開いている門や道路なので朱雀と命名されたわけですね。
ですから私はいま真北を向いており、この先には大極殿があって、そこには天皇がおり、「天子南面」していたのです。
なお、ここから南側(私の背中方向)へ行けば羅城門のあった場所にたどり着き、そこから南は京外となります。
ついでなので、ここでもっと巨視的に見てみましょう。
※『唐古・鍵考古学ミュージアム 展示図録11 道の考古学』(唐古・鍵考古学ミュージアム/編)より転載
字が小さくなって読みづらいと思いますが、右上に四角形でくくられているのが平城京で、奈良盆地には南北の直線道が3本走っています。
西から下ツ道、中ツ道、上ツ道で、もう1本東には山の辺の道というのが現在は遊歩道として整備されていますが、現在の山の辺の道と古代の道は重ならないといわれています。
下ツ道、中ツ道、上ツ道は平城京や藤原京ができる前からあった道で、古代において奈良盆地に何かを造る場合は縦のラインに関してはこの3本の道が基軸とされ、朱雀大路は下ツ道のライン上に位置します。
下ツ道は、平城京から南下すると、藤原京の西二坊大路と重なり、さらに南下すると現在の近鉄「橿原神宮前駅」のすぐ近くを通り、上図で「軽衢(かるのちまた)」と書かれている場所にたどり着き、その近くで奈良県最大の前方後円墳で欽明陵とも蘇我稲目の墓とも言われている五条野丸山古墳(墳丘長310m)の前方部にぶつかります。
※五条野丸山古墳
ちなみに、上ツ道のライン上には箸墓古墳がありますが、箸墓の後円部のために道を造ったときにちょっとだけ曲げており、また、これらの幹線道は壬申の乱の際でも軍隊の移動に利用され、上ツ道の箸墓の前では戦いが繰り広げられています。
※上ツ道と箸墓古墳
平城京の平面プラン。
※『なるほど!「藤原京」100のなぞ』(橿原市ほか/編)より転載
こういった都城では京域を大きく東西に2つの分け、右京・左京と呼びますが、地図で見ると左京が「右」で、右京が「左」ですよ。
というのは、天皇は南に向かって座るため、天皇から見て右と左なのです。
右大臣・左大臣などの呼び名も同様で、宮中で官人が集まった際、天皇から見て右にいるのが右大臣で左にいるのが左大臣で、日本の場合は伝統的に「左」の方が格上です。
ちなみに、私は路線バスに乗るときは、進行方向に向かって左の一番前に座るのが好きなのですが、そこに座ることができると「気分は左大臣」と独り言をつぶやいています。
なお、上図の右京に前方後円墳が描かれていますが、これから訪れる予定の宝莱山古墳(現・垂仁天皇陵)です。
平城京を造ったときには破壊された古墳が多かったのですが(その証拠に、町のいたるところで埴輪片が出るそうです)、生き残った古墳のなかの一基ということになりますね。
折角なので、平城京より前に造られた藤原京の平面プランも見てみましょう。
※『なるほど!「藤原京」100のなぞ』(橿原市ほか/編)より転載
平城京と藤原京の縦のラインを合わせてみるとこうなっていますよ。
※『日本古代の国家と都城』(狩野久/著)より転載
道というのは当たり前のことですがとても大事で、地方で国府などを造るときもそうなのですが、すべてはそれ以前にあった道を基準に造り、もっというと、まずは道を造ってから町を造るといってもよいでしょう。
ただし、この図を見るには注意が必要で、よく見るとこちらの藤原京の図と、『なるほど!「藤原京」100のなぞ』の図では条や坊の数が違うのです。
実は平城京では現在の番地表示と同じように、条と坊を機械的な数字で示していたためその名残もあって分かりやすいのですが、藤原京では機械的な数字で呼んでおらず、普通に小字のようなもので呼んでいたのです。
しかも、藤原京から平城京へ遷都したあと、藤原京は田園へと戻っていく中で実際の道の形跡もどんどん消えていきましたし、『古代の都市と条里』所収「五畿七道の条里 畿内 大和」(山本崇/著)によると、天平勝宝末年から神護景雲初年の間(神護景雲元年は西暦767年)に大和国の条里プランが成立した「らしい」とし、そのプランによって藤原京跡の地割は上書きされてしまいました。
そのため、実際に当時どういうふうに条や坊が張り巡らされていたのかはっきりせず(範囲さえはっきりしません)、『日本古代の国家と都城』の図が長らく定説となっていたものの、近年では、『なるほど!「藤原京」100のなぞ』の図が有力になっているというわけです。
ところで、694年にリリースされた藤原京と710年にリリースされた平城京の平面プランは異なる点が多いですが、もっとも大きいのは宮殿の場所(天皇の玉座があるので日本国の中心の中の中心)が、藤原京では京域の中央、平城京では京域の北端にあることです。
藤原京を建設していた時代、日本人はすでに唐の都・長安を見ており、長安の場合、宮殿は京域の北端にあることを知っていたはずですがそうなっていません。
これは、古代中国の「周礼」という書物に描かれた理想的な都の図を元にして中央にした可能性が高いといわれており、また日本独自のオリジナリティを出そうとした可能性もあります。
つづいて平城京を造ったときは長安をモデルにしたことは明らかでしょう。
なお、日本と中国の都城も違いはたくさんあり、興味深いのは、中国は京域全体、つまり街全体を堅固な城壁で完全に囲むのですが、日本はそうしないことですね。
中国と違って、日本の場合は最も大事な天皇の住処を列島内にいる勢力に攻撃される可能性はないと考えていたことの表れだと思いますが、考古学的にはそれがあだとなって、壁がないために京域の確定が困難で、それが判明したのは最近のことです。
平城宮跡にはたくさんの見学施設があるのですが、今日はまだ営業していません。
おや、説明板がありますよ。
「西一坊坊間東小路」とあります。
なるほど、道が分かるようになっていますね。
奈良に来ても古墳ばっかり見ているので、平城宮跡もいつかゆっくり見学したいです。
おや、この仏様は随分とサディスティックな環境下にいらっしゃいますね。
車がビュンビュン走るすぐ近くに何の覆いに守られることもなく佇んでいます。
まるで荒行をしているかのようですが、表情はクールで素敵。
この表情、大好き。
身体が結合されていますので、破壊されてしまった過去もあったようです。
車にひかれちゃったのかな?
覆屋などで保護することはできないのかなと思いますが、こういう姿を晒して衆生に何かを示そうとしているのかもしれません。
⇒この続きはこちら
2019年1月3日(木)その2
制作中。
(つづく)
4.補足
5.参考資料
・『日本古代の国家と都城』 狩野久/著 1990年
・『唐古・鍵考古学ミュージアム 展示図録11 道の考古学』 唐古・鍵考古学ミュージアム/編 2010年
・『平城京100の疑問』 橿原考古学研究所/編 2010年
・『なるほど!「藤原京」100のなぞ』 橿原市ほか/編 2012年
・『古代の都市と条里』 条里制・古代都市研究会/編 2015年