日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

豊浦寺跡(向原寺)|奈良県明日香村 ~稲目の向原の家・推古の豊浦宮・我が国初の尼寺豊浦寺~

2020-08-09 16:47:48 | 歴史探訪
 *** 本ページの目次 *** 

1.基本情報
2.諸元
3.探訪レポート
4.補足
5.参考資料

 

1.基本情報                           


所在地


奈良県高市郡明日香村大字豊浦630



 

2.諸元                             



 

3.探訪レポート                         


2019年3月8日(金) その1


 ⇒前回の記事はこちら

 古宮遺跡の次は、豊浦(とゆら)寺跡の向原寺(こうげんじ)へ向かいます。

 案内標識に従って路地の中を歩いていくとありました。



 向原寺は太子山と号する浄土真宗本願寺派の寺院です。

 説明板がありますよ。



 ここに書いてある通り、もともと推古天皇は豊浦宮にいて、603年に小墾田宮を造り移転し、その跡地に豊浦寺を建立したのですが、実際に発掘の結果、寺院に先行する遺構が見つかっています。

リアル日本書紀!

 『日本書紀』の欽明天皇13年(552)10月条によると、欽明は百済の聖明王から金銅製の釈迦仏や幡蓋、それに経典をプレゼントされました。

 百済の使者から説明を受けた欽明は喜んだものの、どうしてよいか判断できず群臣に諮ったところ、物部尾輿や中臣鎌子は、外国の神を祭ると元々の日本の神が怒ると言って祀ることに反対したのですが、結果的に仏像を蘇我稲目に試しに祀らせてみることにしたのです。

 そこで稲目はまず小墾田の家に安置し、つづいて向原(むくはら)の家を浄めて寺としました。

 ところがその後、国に疫病が流行したため、さきに仏像を祀ることに反対した物部尾輿や中臣鎌子が稲目の仏像を廃棄すべきだと欽明に訴え、欽明がそれを許可したため、彼らは向原の寺に押し寄せて、仏像を難波の堀江に流し、寺に放火しました。

 以上が、日本書紀が伝えるところの仏教公伝と、その後のできごとですが、『蘇我氏を掘る』によると、稲目の向原の家はここ向原寺にあり、それを改築した寺が放火された後は推古天皇の豊浦宮となり、推古が小墾田宮に移った後、わが国初の尼寺である豊浦寺になったとしています。

 ややこしいですね。


 豊浦寺は、伽藍を整えた寺院としては日本最古の寺である飛鳥寺の「妹寺」と呼ばれ、なぜ「妹寺」なのかというと、豊浦寺は尼寺だからですね。

 日本書紀によると、推古天皇は592年に豊浦宮において即位し、推古11年(603)に小墾田宮へ遷っています。

 遷った理由は、『日本書紀』には書かれていないのですが、600年に最初の遣隋使が遣わされており、その報告を聴いて今までのしょぼい宮殿から最新のカッコイイ宮殿に変えようと思ったのに違いありません。

 そうしないと、隋からの使者が来た時に大恥をかきます。

 600年の遣隋使の派遣は倭国にとっては非常に大きな転機なりましたが、『日本書紀』にはその記念すべき第1回の遣隋使派遣について何も書いていないんですよね。

 ※なお、今は推古天皇が実在の天皇であるとした場合の話をしましたが、この辺りの歴史はもっと複雑ですので、気になる方は、下記の「4.補足」をお読みください。

 こちらの説明板はちょっと読みづらいですね。



 お寺に頼めば遺構が見られるようですよ。



 とりあえず、本日は先を急ぐことにします。

 境内の様子。



 本堂。



 薬師堂。



 境内を出ます。

 ここにも説明板が。



 日本書紀に記されている物部尾輿らが稲目の仏像を取り上げて捨てたという難波の堀江はこの池のことだということですね。



 というか、その捨てられた仏が長野の善光寺で祀られたという話も興味深いです。

 それでは甘樫丘へ登りますよ。

 ⇒この続きはこちら

 

2019年3月8日(金) その2


 明日香村埋蔵文化財展示室の見学を終え、橿原神宮前駅へ戻ります。

 またまた道標が。



 あとは地図を見ずに適当に歩きます。

 方向さえ合っていればたどり着くでしょう。

 あれ、この景色は朝見たような・・・

 またもや豊浦寺跡に来ちゃいました!

 そういえば、今朝訪れた時に、飛鳥時代の遺構が見られるって張り紙してありましたね。

 せっかくなのでお願いしてみます。

 庫裡のチャイムを押すとお寺の方が出てきてくださいました。

 飛鳥時代の遺構の拝観は200円です。

 こちらですね。



 正面の壁面を見て欲しいのですが、最上部の石が積んであるところの下には石のない厚い層があります。



 その部分は版築されている豊浦寺の伽藍の基壇で、段々と色あせてきてしまっているそうですが、よく見ると層によって色味が違うのが分かります。

 日本書紀には豊浦寺を造る前には、推古天皇の豊浦宮があったと記されていますが、このように、寺の遺構よりも下に柱の跡が出てきました。



 ということは、この柱の跡は、豊浦宮の柱跡である可能性が高いということになりますね。



 楽しい・・・

 でも、『蘇我氏を掘る』では、豊浦宮よりも前に稲目の向原の家があったとしていますが、その形跡は見つからなかったんでしょうかね。

 礎石もあります。



 と思ったら、「文様石」と書いてありますね。



 人工的に文様を刻したのでしょうか。

 こちらは礎石だ。



 今まで私が列島各地で見てきた主として国分寺跡の礎石は、もろ自然石のようだったり、丸い形のものばかりだったのですが、飛鳥ではきっちりと四角く仕上げたものがあって面白いです。

 こっちは丸いの。



 ※帰宅後知ったのですが、『飛鳥の宮と寺』によると、現在の向原寺境内に残る4つの礎石は鎌倉時代の仏堂に伴うものでした。

 現在みられる豊浦寺の伽藍配置は中世以降のもので、古代は現在の本堂の場所が講堂で、道路の向かいの公民館が金堂、そしてそのさらに向こうに塔があったそうです。

 お寺の方にいろいろと教えていただき楽しかった。

 裏に行くと塔跡が見られるそうなので、つづいて塔跡を見に行ってみましょう。

 甘樫坐(あまかしにいます)神社。



 うわ、盟神探湯(くがたち)の説明だ。



 子供の頃に、初めて盟神探湯の話を聞いたときは恐怖しました。

 熱湯の中に手を入れるなんて、随分と恐ろしいことを考えたものですね。

 あ、ありました!

 こちらが豊浦宮の塔心礎と石碑ですね。



 というか、ここは普通のお宅の敷地内の玄関前じゃないですか・・・

 今日は最後の最後まで充実の歴史歩きになりました。

 では、再び駅へ向かいますよ。

 (つづく)

 

4.補足                             


豊浦寺の建立と推古天皇 2020年8月9日


 豊浦寺がいつ建てられたかですが、『元興寺縁起』では、乙巳年(585)に止由良佐岐(とゆらさき)に刹柱(塔の心柱)を建て、癸丑年(593)に等由良の宮を寺として等由良寺と称したとあります。

 日本書紀によると推古天皇は592年に豊浦宮で即位していますから、それと合わせると、推古が即位したときには、その宮と同じ場所で豊浦寺の建立が進んでおり、翌年には宮として引き続き機能させながら、同時に寺としても機能し始めたことになります。

 宮が同時に寺であるということがあるのでしょうか。

 日本書紀によると推古は603年に小墾田宮へ移りますから、『元興寺縁起』がいうように593年に豊浦寺ができたとすると、それから603年までの10年ほどの間は、豊浦寺は「豊浦宮と言われている場所」の一画を間借りして運営していたのではないかと考えます。

 そして、推古が「小墾田宮と言われている場所」へ遷ったのを契機に、寺として正式オープンしたのではないでしょうか(わざと「」を付けて呼んだ意味は後述します)。

 その間の豊浦寺の責任者についは、590年に百済から帰国した善信尼が候補として挙げられますが、さらに上位の人物として、豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ=推古天皇)が、叔父である蘇我馬子の命で君臨していたのではないかと考えます。

 ちなみに、豊浦寺と同時期に建立されたと伝わっている飛鳥寺(法興寺)の建立の様子を『日本書紀』で追いかけていくと、用明2年(587)に馬子が建立を発願したものの、大きなプロジェクトだったことも影響してか準備に時間がかかり、崇峻5年(592)になってようやく起工され、推古4年(596)に堂宇の一応の完成をみたようです。

 ただしその時点ではまだ本尊(飛鳥大仏)は安置されていませんでした。

 以上を簡単な年表にまとめてみます。

 ・552年 稲目が向原の家を寺に改造し仏像を祀る
 ・同年 稲目の寺が破却される
 ・554年 推古生誕
 ・590年 善信尼が百済から帰国し桜井道場に住す
 ・592年 推古が豊浦宮において即位
 ・同年 飛鳥寺起工
 ・596年 飛鳥寺堂宇完成
 ・603年 推古が小墾田宮へ遷り、豊浦寺が正式に発足

 実はこの6世紀後半から7世紀に至る時代は、日本の正確な歴史ははっきりしないのです。

 一番頼りになるであろう日本書紀の記述ですら、既述したように600年の遣隋使派遣は無視していますし、中国の史書『隋書』によれば、600年に倭国からやってきた使者は、自分たちの王は男性だと述べていますが、日本書紀によれば600年の時点で天皇だったのは女帝・推古天皇です。

 600年時点ではまだ「天皇」というものは存在しないため、正確には「大王」の方が適切だと思いますが、私はこの時点での大王は蘇我馬子だったと考えています。

 以前から私は、大山誠一氏の説と同様に、用明・崇峻・推古の3名を天皇(大王)として考えていません。

 つまり、炊屋姫は炊屋姫のままで推古天皇にはなっておらず、叔父・馬子の王権下で尼僧政策に携わった重要人物であったというのが今の私の考えです。

 上記でわざと「」を付けて呼んだ意味ですが、「豊浦宮と言われている場所」は、炊屋姫は天皇になっていないので宮とは呼べず、炊屋姫が育った実家のことを示します。

 炊屋姫は母方の祖父である稲目の家で育ったと考えます。

 婚姻後、引っ越した可能性がありますが、その場合でも馬子によって尼僧政策を任された後は、実家へ戻りそこを尼寺(豊浦寺)として善信尼らとともに活動したのでしょう。

 日本の大王家が列島各地の有力者と比べて隔絶した権力を得たのは5世紀半ばだと考えており、その時代からはまだ1.5世紀ほどしか経っていません。

 大王家が権力を維持できていた理由の一つは、弥生時代に始まり古墳時代に古墳の築造によって体系が完成された日本古来の信仰観念を上手に利用していたことで、そういった観念のもと支配者として君臨していたのです。

 ところがそこに仏教という外国の宗教が入ってきた時に、それが単なる興味本位の文化であればまだよかったのですが、その信仰・思想が支配者層に広がっていった場合、大王の立ち位置は危うくなります。

 新興勢力である蘇我氏(蘇我稲目が中心)は、その仏教を武器に、旧来の大王による支配体制に切り込んでいき、大王とそれに付き従っている古豪たちの力をそぎ、蘇我氏による覇権の獲得に成功したと考えます。

 

5.参考資料                           


・『新装版 日本古典文学大系 日本書紀(上)』 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋/校注 1993年
・『新装版 日本古典文学大系 日本書紀(下)』 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋/校注 1993年
・『飛鳥の宮と寺』 黒崎直/著 2007年
・『蘇我氏を掘る』 橿原考古学研究所附属博物館/編 2016年


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