*** 本ページの目次 *** 1.基本情報 2.諸元 3.探訪レポート 4.補足 5.参考資料 |
1.基本情報
所在地
埼玉県比企郡嵐山町大字千手堂
現況
山林の中に小さな円墳がポコポコ
史跡指定
出土遺物が見られる場所
2.諸元
築造時期
墳丘
形状:
墳丘長:
段築:
葺石:
埴輪:
主体部
不明
出土遺物
周堀
3.探訪レポート
2014年12月28日(日)
この日の探訪箇所
杉山城跡 → 嵐山史跡の博物館 → 菅谷館跡 → 山王古墳群 → 鎌倉街道 → 菅谷館跡 → 穴八幡古墳 → 中城跡
菅谷館跡の見学途中ですが、ここでいったん西側の道路に出て城外を散策してみます。

おや、何か説明板がありますね。
山王古墳群だと!?

以前来た時はまだ古代史に興味がなかったのでスルーしていたみたいですが、説明板によるとこの近辺には東原・向原・寺山・原・山王などの大規模な古墳群があり、100基以上の古墳があったそうです。
しかし現在見られるのは、稲荷塚と寺山一号墳を除いては、ここ山王古墳群の20基ほどだそうです。
あ、円墳がある!

何号墳とかそういうのは分かりません。

周りを見ると、小さな円墳がたくさんありますよ。

ここにも。

あそこにも。

古墳が、あるのです。

ちょっと見ただけでも6基ありました。
円墳たちを見ていたら、古道のような窪みを見つけましたよ。
今度はそれを探ってみましょう。
4.補足
山王古墳群について(2020年4月14日補足)
2014年に探訪した時はまだまだ古墳についての知識も少なく、また、手元にも資料が集まっていなかったため、山王古墳群については、何とも言えませんでした。
しかし、今の時点でも頼りになるのは、塩野博著の『埼玉の古墳 比企・秩父』くらいです。
該書によると、14基の円墳が所在しており、昭和34年に金井塚良一の指導により発掘した際の様子によると、これらの円墳の主体部は河原石積みの横穴式石室で、天井石には緑泥片岩を用いていたようです。
この探訪の翌年、稲荷塚古墳を見学したので、それがヒントになるかなと思ったのですが、稲荷塚は山王古墳群の古墳よりも一回り大きく(長径20m)、石室も玄室・前室・羨道に分かれる立派なもので、格が違います。

※稲荷塚古墳の石室(2015年2月1日撮影)
稲荷塚の壁面は河原石積みでなく、現地説明板がいうところの「結晶片岩の扁平な割り石の小口積み」ですから全然違いますね。
ただ、その説明板に、「都幾川左岸の菅谷台地に狭い分布を示す地域的」な特徴の石室とあるのにもかかわらず、至近にある山王古墳群に稲荷塚と同じような構造が見られないのは不思議です。
なお、上述書によると山王古墳群の遺物としては大刀や鉄鏃が出土しており、山王古墳群と小さな谷を隔てた南側には、石堂古墳群があり、4基の小円墳が確認されています。
山王古墳群については、今のところこれ以上の情報はないのですが、立地に注目してみると、古墳群のすぐ南では槻川が都幾川に合流しており、その合流地点を見下ろすような位置に、この古墳群の被葬者たちは墓域を定めました。
つまり、被葬者たちは、都幾川本流と槻川の両河川を意識していると考えるのです。
山王古墳群の築造時期はおそらく終末期で、遡っても後期だと思いますが、終末期にはここから槻川を遡った直線距離で約6.7㎞の地点に、県内最大の方墳である穴八幡古墳が築かれます。
となると、山王古墳群は同じ流域にある穴八幡古墳と近い関係にありそうですが、穴八幡古墳もまた山王古墳群とは格が違う立派な古墳で、石室の構造も穴八幡は独特です。
これは関東各地の古墳に言えることですが、終末期の古墳でその地域の王かその右腕的存在の人物の古墳の場合は、かなり広域の文化的交流による影響のもと横穴式石室を設計することが多いため、石室の構造からこういった下位の群集墳との関連を考えるには、群集墳自体のデータの蓄積が欲しいところです。
そもそも、群集墳や横穴墓に葬られた人びとについては良く分かりません。
立地という点では、上述した穴八幡古墳は都幾川の支流である槻川の上流部にあたりますが、本流である都幾川を遡った、ときがわ町内には、古墳時代の遺跡はわずかながらあるものの古墳そのものはないようです。
5.参考資料
・現地説明板
・『埼玉の古墳 比企・秩父』 塩野博/著 2004年