⇒前回の記事はこちら
それではいよいよ、「初よすみ」です。
「よすみ」というのは弥生時代の終わりごろに、出雲を中心として造られた四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)というお墓のことです。
呼び名が長いので「よすみ」という呼び名が定着しています。
また、「ダニエル」と呼ぶ人もいます。
多分。
■古墳ギャルのコフィー 第1話(前編)
これから、さきほど資料館で詳しく展示解説がしてあった「よすみ」の矢谷古墳へ行きますよ。
やはり、弥生末期の王の墓にふさわしく、丘の上にあるようで上り坂を登っていきます。
ここだな・・・
階段を昇ります。
あったー!
念願のよすみだーっ!
古墳が好きになって以来、ずっと見たかったのです。
そのため、クラツーのお仕事でこちらのツアーをやりたいと志願しました。
そしてお客様が集まってくださったお陰で、下見としてこうやって来ることができたのです。
会社にもお客様にも本当に感謝です。
そしてもちろん、矢谷古墳の被葬者にも感謝です!
おそらく被葬者の霊力が働いてくださっていると思います。
説明板を見ましょう。
先ほどは模型で見ましたね。
ところで、上の「古墳ギャルのコフィー」はご覧いただけたでしょうか。
古墳マニアを自称していながら、まだ見たことがない方はどうぞ見てください。
その中でダニエルのことを「墳丘墓」と呼んで笑うシーンがありましたね。
こちらの説明板には「矢谷古墳」と書いておきながら、カッコ書きで「矢谷弥生墳丘墓」と書いてあります。
私たちはあまり気にしませんが、呼び名に関しては考古学者の方々のなかにうるさい拘る方がいます。
つまり、古墳とういうものは古墳時代に築造されたもので、古墳時代は3世紀半ばの築造と言われている箸墓古墳ができて以降のことをいうため、それ以前の弥生時代に造られたこういったお墓は「弥生墳丘墓」と呼ぶべきだと主張するわけです。
そういう方への配慮(ビッグネームの方にイチャモンを付けられたら師弟関係が厳しい世界ですから失職しないためにも配慮せざるを得ません)のためにカッコ書きを加えたのではないかと「邪推」します。
似た例は奈良県桜井市の纏向古墳群でも見ることができますね。
今ではだいぶ「纏向型前方後円墳」という呼び名は定着した感があります。
こういった説明をクラツーでもよくするのですが、そのたびにお客様からは「くだらない」とか「古墳でいいじゃん」という声が上がってきます。
私自身はこれに関しれはあまりこだわっておらず、弥生墳丘墓のことを現地で古墳と呼んだり「古墳みたいな、これ」と呼んだりします。
だって、もしかしたら箸墓古墳の築造時期はもっと遅いかもしれませんよ。
では、墳丘へ登ってみましょう。
おーっ、突出部!
フフフ・・・
突出している・・・
墳頂には主体部の場所を示していると思われる表示があります。
草に覆われていてよく分かりませんが、説明によると矢谷古墳では11基の埋葬主体が見つかっているようですね。
こういった、一人の権力者のためというよりかは、多くの権力者やその家族かもしれない人びとのためにこういった墓を造るというところが弥生チックなわけで、こういうのを見ると、古墳とは違うなあと感じるのも事実です。
ちなみに、よすみの場合は「葺石」とはいわず「貼石」といいます。
現在見られる貼石は、整備の際に復元したものでしょう。
墳丘からの眺め。
いやー、感無量・・・
なんか、もう一つ説明板がありますよ。
須恵器の窯跡も見つかっているんですね。
こちらは矢谷古墳(須恵器窯跡)という呼び名になっています。
文化庁に登録してある正式名は「矢谷古墳」なので、このカッコ書きは公式なものではなく通称と考えていいと思います。
いやー、しかし良かったー。
ところで、よすみというと出雲のイメージが強いと思いますが、発祥を追っていくとどうやらここ三次あたりがそうらしいのです。
よすみのなかでも特に古いものがこの地域に多いのです。
それが出雲の方へ進出して大型化したと考えられます。
三次市は今は広島県ですが、水系を見ても日本海側との文化的なつながりが深いことが理解できると思います。
日暮れまでもう少しあるので、欲張ってさらに遺跡を見て回りますよ。
⇒この続きはこちら
それではいよいよ、「初よすみ」です。
「よすみ」というのは弥生時代の終わりごろに、出雲を中心として造られた四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)というお墓のことです。
呼び名が長いので「よすみ」という呼び名が定着しています。
また、「ダニエル」と呼ぶ人もいます。
多分。
■古墳ギャルのコフィー 第1話(前編)
これから、さきほど資料館で詳しく展示解説がしてあった「よすみ」の矢谷古墳へ行きますよ。
やはり、弥生末期の王の墓にふさわしく、丘の上にあるようで上り坂を登っていきます。
ここだな・・・
階段を昇ります。
あったー!
念願のよすみだーっ!
古墳が好きになって以来、ずっと見たかったのです。
そのため、クラツーのお仕事でこちらのツアーをやりたいと志願しました。
そしてお客様が集まってくださったお陰で、下見としてこうやって来ることができたのです。
会社にもお客様にも本当に感謝です。
そしてもちろん、矢谷古墳の被葬者にも感謝です!
おそらく被葬者の霊力が働いてくださっていると思います。
説明板を見ましょう。
先ほどは模型で見ましたね。
ところで、上の「古墳ギャルのコフィー」はご覧いただけたでしょうか。
古墳マニアを自称していながら、まだ見たことがない方はどうぞ見てください。
その中でダニエルのことを「墳丘墓」と呼んで笑うシーンがありましたね。
こちらの説明板には「矢谷古墳」と書いておきながら、カッコ書きで「矢谷弥生墳丘墓」と書いてあります。
私たちはあまり気にしませんが、呼び名に関しては考古学者の方々のなかに
つまり、古墳とういうものは古墳時代に築造されたもので、古墳時代は3世紀半ばの築造と言われている箸墓古墳ができて以降のことをいうため、それ以前の弥生時代に造られたこういったお墓は「弥生墳丘墓」と呼ぶべきだと主張するわけです。
そういう方への配慮
似た例は奈良県桜井市の纏向古墳群でも見ることができますね。
今ではだいぶ「纏向型前方後円墳」という呼び名は定着した感があります。
こういった説明をクラツーでもよくするのですが、そのたびにお客様からは「くだらない」とか「古墳でいいじゃん」という声が上がってきます。
私自身はこれに関しれはあまりこだわっておらず、弥生墳丘墓のことを現地で古墳と呼んだり「古墳みたいな、これ」と呼んだりします。
だって、もしかしたら箸墓古墳の築造時期はもっと遅いかもしれませんよ。
では、墳丘へ登ってみましょう。
おーっ、突出部!
フフフ・・・
突出している・・・
墳頂には主体部の場所を示していると思われる表示があります。
草に覆われていてよく分かりませんが、説明によると矢谷古墳では11基の埋葬主体が見つかっているようですね。
こういった、一人の権力者のためというよりかは、多くの権力者やその家族かもしれない人びとのためにこういった墓を造るというところが弥生チックなわけで、こういうのを見ると、古墳とは違うなあと感じるのも事実です。
ちなみに、よすみの場合は「葺石」とはいわず「貼石」といいます。
現在見られる貼石は、整備の際に復元したものでしょう。
墳丘からの眺め。
いやー、感無量・・・
なんか、もう一つ説明板がありますよ。
須恵器の窯跡も見つかっているんですね。
こちらは矢谷古墳(須恵器窯跡)という呼び名になっています。
文化庁に登録してある正式名は「矢谷古墳」なので、このカッコ書きは公式なものではなく通称と考えていいと思います。
いやー、しかし良かったー。
ところで、よすみというと出雲のイメージが強いと思いますが、発祥を追っていくとどうやらここ三次あたりがそうらしいのです。
よすみのなかでも特に古いものがこの地域に多いのです。
それが出雲の方へ進出して大型化したと考えられます。
三次市は今は広島県ですが、水系を見ても日本海側との文化的なつながりが深いことが理解できると思います。
日暮れまでもう少しあるので、欲張ってさらに遺跡を見て回りますよ。
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石張るっていうのも興味深いです。