福岡県小郡(おごおり)市にある小郡官衙遺跡群の上岩田遺跡の見学を終え、ナヴィに脳内を支配されながら大宰府へ向けて車を走らせていると、「城山」とか「焼ノ峠古墳」などの標識が視界に飛び込んできました。
寄ってみるか!
矢印に指示された方向へ走っていくと、道は軽トラ仕様の細い農道になってしまいました。
今回借りているヴィッツなら余裕ですね。
少し道なりに走っていくと・・・
何だあれは!
うわっ、ヤバイ、古墳だ!
しかも綺麗・・・
興奮を抑えつつ近接します。
ちゃんと駐車場もありました。
墳丘まで少し階段を上るようです。
階段の登り口にはパンフレット入れもあります。
こんな辺鄙な場所まで時折補充しに来ているのでしょう。
ありがたいことです。
おーっ。
綺麗に整備されていますねー。
おそらく、掃除も頻繁にしてくださっていると思いますし、地元の方には本当に感謝です。
説明板。
国指定史跡・焼ノ峠(やきのとうげ)古墳。
墳丘長40メートルの前方後方墳です。
地山を成形して、その際に削った土で後方部の2段目を造るという、オーソドックスな築造方法ですね。
こんな山の上でも周溝を掘ったというのが面白いです。
出土土器の説明が詳しく書いてありませんが、後述する理由により、東海系の土器が見つかっているはずですよ(説明板の土器の絵をみると畿内系かな?)。
この平面図だとよくわかりますが、前方部西側の張り出しが面白いですね。
張り出し部分で祭祀を行ったのかな?
では墳丘に取り付きましょう。
墳丘を直登しなくてもよいように階段がついています。
階段が設置されると見た目は落ちますが、文化財保護の観点からはこれが一番良いのかなあと思います。
前方後方墳は古墳時代前期に築造されたものがほとんどで、古墳を築造した勢力が盤踞した土地の地勢によって絶対にそうとはいえないですが、山の上に築造されるケースが多いです。
ですから、場所によっては古墳にたどり着くまでちょっとしたハイキングのようになることがあって、クマに怯えながら歩いたりもするのですが、焼ノ峠古墳は墳丘間際まで車で来れるので楽ですね。
前方部から後方部。
あれが城山でしょう。
※城山は山隈城という中世城郭があった場所で、南北朝時代に北朝側として戦った小弐頼尚が陣城を構え、戦国時代には立花道雪も使用し、豊臣政権下では小早川隆景が大規模な改修をして支城にしました。本丸跡に日方神社があり、二の丸跡には駐車場もあるようで、遺構も残っているということですが、この日は探訪を諦めました。
後方部から前方部。
張り出し部分も綺麗にわかりますね。
南側にある城山も入れてみます。
いやー、それにしても素晴らしい眺めだ!
西側。
大宰府のある北西側眼下の平野には、目視による確認はできませんが、筑後川の支流である宝満川が大宰府方面から流れてきています。
なるほど、隆景がこの地に支城を築いたわけもよくわかります。
南側の小郡市・久留米市方面や東側の朝倉市方面から大宰府方面に向かう場合は、眼下の平野がちょうど交差点のようになっており、そこを通って北西側に進むことになります。
つまり、交通の要衝に位置しているわけですね。
古代においては、おそらく焼ノ峠古墳の被葬者の集落は西側に展開しており、その場所から古墳を仰ぎ見ると、ちょうど横腹が綺麗に見えたはずです。
北側の眺望。
前方後方墳は東海から近江の辺りが発祥と考えられ、ヤマト王権が奈良で発足するかしないかの3世紀半ばから前方後円墳が列島各地に広がる4世紀前半までの間には、東は宮城県から西はここ福岡県まで、列島各地に築造されました。
例外中の例外として、出雲では古墳時代後期にも前方後方墳が造られるのですが、日本に5~600基ほどはあるとされる前方後方墳のほとんどが前期の築造です。
この形状の古墳の位置づけについては、古墳の形状や大きさによって中央・地方の豪族をランク付けし、前方後方墳は前方後円墳の下位に属するという考え方をする研究者もいますが、私はそうは考えません。
ただし、中期に帆立貝式古墳ができてからは、前方後円墳・帆立貝式古墳・円墳の序列ができたと考えていますが、前期にはそういったシステムはまだなかったと考えているわけです。
ヤマト王権が発足した時の重要メンバーの一つに東海勢力があり、ある種、東海勢力はヤマト王権より特別な待遇を受けており、東海勢力が独自に版図を伸ばした地域や、東海勢力の勧誘によりヤマト王権のフランチャイズに加盟した勢力は前方後方墳を築造したと考えています。
焼ノ峠古墳の位置は、筑紫平野の最奥部に位置し、これを築いた勢力は有明海から筑後川をさかのぼり、途中宝満川へ分け入り、この地に入植したのではないでしょうか。
この重要地点に前方後方墳があるということの意味は非常に重要です。
私個人の今後の課題は、筑後川流域における東海人の足跡を見つけることです。
ヤマト王権が列島各地に影響力を及ぼしていた古墳時代は、ヤマトの勢力が全国に展開したと考えられがちですが、それに負けないくらい、東海勢力は全国に展開しているのです。
もちろん、ヤマト王権の下での活動ということになりますが、ほとんど注目されることのない東海勢力が古代国家建設に果たした役割を解明したいと考えています。
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はい、タンポポ。
駐車場を見下ろします。
偶然の出会いでしたが、良い古墳に来ることができて嬉しいです。
ここはクラツーのお客様も連れてきたいですが、古墳まで登ってくる道はバスは無理ですね。
車に乗り込み、元来た道を戻ります。
途中、サイドから撮影。
おそらく、往時の配下住民たちが眺めていた光景はこんな感じじゃないでしょうか。
それでは、当初の予定を消化しましょう。
(つづく)
寄ってみるか!
矢印に指示された方向へ走っていくと、道は軽トラ仕様の細い農道になってしまいました。
今回借りているヴィッツなら余裕ですね。
少し道なりに走っていくと・・・
何だあれは!
うわっ、ヤバイ、古墳だ!
しかも綺麗・・・
興奮を抑えつつ近接します。
ちゃんと駐車場もありました。
墳丘まで少し階段を上るようです。
階段の登り口にはパンフレット入れもあります。
こんな辺鄙な場所まで時折補充しに来ているのでしょう。
ありがたいことです。
おーっ。
綺麗に整備されていますねー。
おそらく、掃除も頻繁にしてくださっていると思いますし、地元の方には本当に感謝です。
説明板。
国指定史跡・焼ノ峠(やきのとうげ)古墳。
墳丘長40メートルの前方後方墳です。
地山を成形して、その際に削った土で後方部の2段目を造るという、オーソドックスな築造方法ですね。
こんな山の上でも周溝を掘ったというのが面白いです。
出土土器の説明が詳しく書いてありませんが、後述する理由により、東海系の土器が見つかっているはずですよ(説明板の土器の絵をみると畿内系かな?)。
この平面図だとよくわかりますが、前方部西側の張り出しが面白いですね。
張り出し部分で祭祀を行ったのかな?
では墳丘に取り付きましょう。
墳丘を直登しなくてもよいように階段がついています。
階段が設置されると見た目は落ちますが、文化財保護の観点からはこれが一番良いのかなあと思います。
前方後方墳は古墳時代前期に築造されたものがほとんどで、古墳を築造した勢力が盤踞した土地の地勢によって絶対にそうとはいえないですが、山の上に築造されるケースが多いです。
ですから、場所によっては古墳にたどり着くまでちょっとしたハイキングのようになることがあって、クマに怯えながら歩いたりもするのですが、焼ノ峠古墳は墳丘間際まで車で来れるので楽ですね。
前方部から後方部。
あれが城山でしょう。
※城山は山隈城という中世城郭があった場所で、南北朝時代に北朝側として戦った小弐頼尚が陣城を構え、戦国時代には立花道雪も使用し、豊臣政権下では小早川隆景が大規模な改修をして支城にしました。本丸跡に日方神社があり、二の丸跡には駐車場もあるようで、遺構も残っているということですが、この日は探訪を諦めました。
後方部から前方部。
張り出し部分も綺麗にわかりますね。
南側にある城山も入れてみます。
いやー、それにしても素晴らしい眺めだ!
西側。
大宰府のある北西側眼下の平野には、目視による確認はできませんが、筑後川の支流である宝満川が大宰府方面から流れてきています。
なるほど、隆景がこの地に支城を築いたわけもよくわかります。
南側の小郡市・久留米市方面や東側の朝倉市方面から大宰府方面に向かう場合は、眼下の平野がちょうど交差点のようになっており、そこを通って北西側に進むことになります。
つまり、交通の要衝に位置しているわけですね。
古代においては、おそらく焼ノ峠古墳の被葬者の集落は西側に展開しており、その場所から古墳を仰ぎ見ると、ちょうど横腹が綺麗に見えたはずです。
北側の眺望。
前方後方墳は東海から近江の辺りが発祥と考えられ、ヤマト王権が奈良で発足するかしないかの3世紀半ばから前方後円墳が列島各地に広がる4世紀前半までの間には、東は宮城県から西はここ福岡県まで、列島各地に築造されました。
例外中の例外として、出雲では古墳時代後期にも前方後方墳が造られるのですが、日本に5~600基ほどはあるとされる前方後方墳のほとんどが前期の築造です。
この形状の古墳の位置づけについては、古墳の形状や大きさによって中央・地方の豪族をランク付けし、前方後方墳は前方後円墳の下位に属するという考え方をする研究者もいますが、私はそうは考えません。
ただし、中期に帆立貝式古墳ができてからは、前方後円墳・帆立貝式古墳・円墳の序列ができたと考えていますが、前期にはそういったシステムはまだなかったと考えているわけです。
ヤマト王権が発足した時の重要メンバーの一つに東海勢力があり、ある種、東海勢力はヤマト王権より特別な待遇を受けており、東海勢力が独自に版図を伸ばした地域や、東海勢力の勧誘によりヤマト王権のフランチャイズに加盟した勢力は前方後方墳を築造したと考えています。
焼ノ峠古墳の位置は、筑紫平野の最奥部に位置し、これを築いた勢力は有明海から筑後川をさかのぼり、途中宝満川へ分け入り、この地に入植したのではないでしょうか。
この重要地点に前方後方墳があるということの意味は非常に重要です。
私個人の今後の課題は、筑後川流域における東海人の足跡を見つけることです。
ヤマト王権が列島各地に影響力を及ぼしていた古墳時代は、ヤマトの勢力が全国に展開したと考えられがちですが、それに負けないくらい、東海勢力は全国に展開しているのです。
もちろん、ヤマト王権の下での活動ということになりますが、ほとんど注目されることのない東海勢力が古代国家建設に果たした役割を解明したいと考えています。
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はい、タンポポ。
駐車場を見下ろします。
偶然の出会いでしたが、良い古墳に来ることができて嬉しいです。
ここはクラツーのお客様も連れてきたいですが、古墳まで登ってくる道はバスは無理ですね。
車に乗り込み、元来た道を戻ります。
途中、サイドから撮影。
おそらく、往時の配下住民たちが眺めていた光景はこんな感じじゃないでしょうか。
それでは、当初の予定を消化しましょう。
(つづく)
今太宰府急上昇中なので嬉しい情報です。
あと前方後円墳じゃなく後方墳でも作り出しありですね!それも嬉しいです。
それから四三島で面白い読み方するんですね。
最近行くところ三島が多かったのと個人的四好きなんでなんか超気になりました。四隅また切ると八角ですし、三島とハも関係してる気がするので間のワンクッション情報が嬉しいです。
各地の古墳を見ると、奇妙な造り出しの古墳がたまにあって、造り出しも外観の特徴として含めると、日本人はなぜこんなに形状のバラエティーに富んだ墓を作ったのかとても興味がわいてきます。独特な民族ですね。