日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

竜塚古墳| 山梨県笛吹市 ~中期に築造された大型方墳~

2020-05-16 13:55:27 | 歴史探訪


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 地蔵塚古墳を見て、もう少し笛吹市内をめぐりますよ。

 次は中期の方墳である、竜塚古墳を目指します。

 中期に築造された方墳というのも少数派で面白いですが、しかもでかいそうなので尚更楽しみです。

 おや、小さな古墳!



 ここは岡の集落の入口なので岡銚子塚古墳でしょう。

 こんなオブジェがあるのは知らなかったです。

 今日は朝から笛吹市内を探訪していますが、笛吹市は遺跡に説明板を設置してある場所が多いですし、想像していたより遺跡が豊富で楽しい場所ですよ。

 ナヴィに脳内を支配され山の上へ向かって走らせていくと、山の頂上に大きな墳丘が現れました。

 うーん、しかし車を止めるところがない!

 駐車場が無いのは仕方ないとしても、普通は路駐ができる場所があるのですが、辺りは果樹園だらけで道幅は軽トラ仕様ですから、止めると邪魔になります。

 一度やり過ごし、グルっと一周してきてなんとか大丈夫そうな場所を見つけました。

 とても良い眺望!



 今日は天気が良くないのがちょっとマイナスですが、それでもとても気持ちの良い場所です。

 おっとこれですね、竜塚古墳は!



 でかい、でかいなあ、うふふ・・・

 立派な説明板があります。



 説明板に書いてある通り、古墳時代中期前半に築造された一辺が56mの大型方墳で、2段築成の上段のみ葺石が施されていました。

 主体部は読む限りでは木棺直葬という感じで、墓壙の大きさが書いてないので何とも言えませんが、大型の方墳の割には質素な主体部だったのでしょうか。

 副葬品が見つからなかったのはすでに盗掘を受けていたからでしょうか。

 墳丘図。



 周溝も見つかっていますね。

 なんとなく2段築成の名残があります。



 墳丘が大きいため、先ほど登ってきた道路にかかっています。

 こんな大きな古墳ですが、戦後間もないころ、地権者のもとに「潰して畑にしないか?」との提案があったそうです。

 そう提案した人は土が欲しかったのかもしれませんが、地権者は古墳の重要性を理解していて断ったそうですよ。

 ポツンと石が残されています。



 見た目的には葺石のイメージとは違うような気がしますが、こんな山のてっぺんにこういったものが半ば埋まっているのは不自然です。

 墳頂。



 小さな祠があります。

 墳頂から甲府盆地の眺望。



 ここから北西方向約9.6㎞の位置に甲府駅があります。



 呪力ズームで甲府駅方面を撮影。



 近世甲府城の天守台も見えますね。

 ここから見ていたら信玄の軍勢が躑躅崎館を出陣して南下するのが手に取るように分かりますよ。

 北東側の眺望。



 そして東側約500mの位置にはさきほどミニチュアがあった岡銚子塚古墳の本物があります。



 4世紀後半に築造された墳丘長96mの堂々たる前方後円墳で、時期的に見ると竜塚古墳より前の笛吹川流域の首長墓と考えられます。



 この石も怪しいなあ・・・



 石室に使えそうな感じがしますが、説明板によると石室はなかったようなのでいったい何なんでしょうか。

 できれば墳丘全体を写真に収めたいのですが、極力引いても全体が収まりません。



 ところで、一辺が56mって大したことがないと思われるかもしれませんが、3世紀から5世紀にかけての古墳時代前期と中期だけを見ると、東日本で最大級の方墳になるのです。

 しかも前期と中期は方墳という形自体が少数派で、これが古墳時代の終末期(7世紀)であれば、東日本に大型の方墳がもう少し多く作られる時代であり、蘇我氏との関係を含めて考察することもできるのですが、5世紀前半という時期にこれだけ大きな方墳を造った理由を考えると非常にエキサイティングなわけです。

 ちなみに、山梨県内には方墳は竜塚を含めて3基しか確認されていません。

 しかし良い眺望だ・・・



 天気が良い日にまた来たいです。

 ※なお、帰宅後、『第1回笛吹市歴史フォーラム 山梨県最大の方墳、竜塚の謎に迫る 記録集』所収「竜塚古墳の調査と成果」(伊藤修二/報告)で確認したところ、主体部の墓坑の大きさは、東西9.2m×南北3.6mで、粘土槨らしき形跡もないことから木棺直葬の可能性が高く、また、江戸期に墳頂の祠の基壇として使った石が散乱していることが分かっているため、私が見た石はそういったものである可能性が高いです。

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