日本史大戦略 ~日本各地の古代・中世史探訪~

列島各地の遺跡に突如出現する「現地講師」稲用章のブログです。

塩古墳群|埼玉県熊谷市 ~埼玉県内の古墳時代の幕開けを探る上で重要な古墳群~

2021-02-14 23:59:50 | 歴史探訪


 

塩古墳群はいくつもの支群に分かれた大規模な古墳群で、その中でも1~3号墳の首長墓系列は埼玉県における古墳時代初期の首長墓系列であり、邪馬台国の時代の関東地方を探る上で重要な古墳群です。

発見容易
説明板あり
墳頂登頂可能
埼玉県最古級
駐車スペースあり
トイレなし

お勧め度:

1.基本情報                           


所在地




埼玉県熊谷市塩

 

2.諸元                             



 

3.探訪レポート                         


2021年2月6日(土) 2021年ファースト古墳めぐり②



この日の探訪箇所
栢山天王山塚古墳 → 塩古墳群 → 宮塚古墳 → 埼玉古墳群

 ⇒前回の記事はこちら

 埼玉県熊谷市の塩古墳群には県内最古級の古墳があるため、埼玉県の古墳時代の幕開けを探る上では絶対に抑えておかなければならない古墳群です。

 同じく最古級と言える根岸稲荷神社古墳は、歴史を歩こう協会で昨年の1月に探訪してきました。

 ⇒根岸稲荷神社古墳の探訪レポートはこちら

 塩古墳群は、前期の古墳を中心にいくつかの支群に分かれていますが、その中でも中心となるⅠ支群へ行ってみます。

 Ⅰ支群は丘陵の最高所に位置し、支群内に丘を縦断する道路が走っています。

 当該路に侵入し、車が止められそうな場所を探しているとちょうどよい空き地がありました。

 車から降りて手元の古墳分布図を確認してみると、ナイス、もろにⅠ支群のど真ん中でした。

 目の前にあるのは14号墳ですね。



 14号墳の西には上述した丘を縦断する道路が走っており、当該路の反対側に首長墓と考えられる前方後方墳などがあります。

 道路を渡ると12号墳。



 奥に見えているのが前方後方墳の2号墳ですね。

 行ってみましょう。

 おー、いいねえ。



 墳丘長は30.1mです。

 塩古墳群の首長墓は、最古のものが方墳の3号墳、ついで前方後方墳の1号墳、そしてこの2号墳となります。

 2号墳は「稲用編年」では3期とし、実年代は301年から340年の間に置いています。

 2号墳の前方部に登って南側を見ると3基の古墳が見えますよ。

 2号墳の軸線のほぼ延長線上にあるのは小さな11号墳。



 右にパンすると10号墳。



 道路側の左にパンすると12号墳が見えます。



 あの道路の向こう側に車を駐めていますよ。

 前方部から後方部を見ます。



 小さな古墳なのに一丁前に前期古墳らしく前方部と後方墳の比高差が顕著なのが可愛い。

 それでは2号墳を降りて1号墳へ行ってみましょう。

 再び10号墳。



 では、1号墳に登りますよ。

 後方部墳頂から前方部を見ます。



 前方後方墳の1号墳は墳丘長35.8mを誇る塩古墳群最大の古墳で、「稲用編年」では1期後半、実年代は251年から275年とします。

 後方部の西側法面には掘割状の通路のようなものがありますが、この墳頂にはかつて神様が祀られていたということなので、その折に作られた通路の跡でしょう。



 1号墳の西側にある8号墳。



 8号墳の北側に隣接する7号墳。



 1号墳から3号墳を見ます。



 ではつづいてその3号墳に登ってみましょう。

 3号墳の墳頂から1号墳の後方部を見ます。



 3号墳は一辺が19mの方墳で、塩古墳群最古の古墳、「稲用編年」では1期前半とし、実年代は226年から250年とします。

 卑弥呼がまだ生きていた頃かもしれないの。

 あ、「卑弥呼の墓」とは言っていませんよ。

 ちょっと古く設定しすぎてない?という声が聴こえてきそうですが、私はこの3号墳を根岸稲荷神社古墳と並んで埼玉県で最古の古墳と見ています。

 少し右にパンすると7号墳が見えますが、その手前は5号墳です。



 1号墳と2号墳の墳頂と違ってこちらには樹木が植えてありますが、何の木でしょうか?



 3号墳の西側には、第二次世界大戦のときに掘った物資保存用の穴の廃土が盛られているということですが、それがこの辺でしょう。







 この更に北側にも小さな33号墳があるのですが、藪の中です。



 分布図を見ると33号墳の北側から等高線の間隔が狭くなっています。

 3号墳を北から見ます。



 1号墳・2号墳・3号墳とも、地山を削り出して墳丘下部を造成し、その時に出た土を上に盛り上げて墳丘を仕上げています。

 元々の地形では3号墳の場所が最高所となります。

 3号墳と1号墳の間の周溝跡。



 このⅠ支群では顕著な周溝は造られておらず、そもそもがこの丘を掘るとすぐに岩盤にぶち当たるため深くは掘れませんでした。

 反対側の東側(道路側)に回ります。

 右側から3号墳墳丘、3号墳の周溝跡、周堤状の土盛り、1号墳の周溝跡、1号墳の墳丘となっています。



 もうちょっと角度を変えて。



 そしてようやく説明板を読みます。



 本当は最初にこれを読んだ方が良かったかもしれませんが、車を降りて古墳を見て回ると位置的には最後になってしまいますね。

 説明板には「古墳時代前期(四世紀中葉~後半)」と記されていて、私の説明とかなりの開きがありますが、さて、真実はいずこに。

 今まで見てきた古墳の配置図はこちらです。



 4号墳とプロットされている土盛りは古墳ではなく、既述した通り、第二次世界大戦のときに穴を掘った際に出た土を積んだもので、その左上の小さいのが4号墳で、その隣の小さいのが21号墳です。

 そしてこれも既述しましたが、33号墳は藪に覆われています。

 では、車に戻りましょう。

 道路の東側の森の中には13号墳がありました。



 道路から見る1号墳。



 同じく2号墳。



 そして最後は駐車スペース(?)にある15号墳。



 この南側の森の中にも古墳があるようです。

 さて、前期古墳のなかでも特に古いものを探求している私にとっては悲願の塩古墳群を見ることができてとても嬉しいです。

 午前中のうちに熊谷市内の古墳をもう一つ見に行きましょう。

 ⇒この続きはこちら

 

4.補足                             



 

5.参考資料                           


・現地説明板
・『埼玉の古墳 大里』 塩野博/著 2004年
・『熊谷市埋蔵文化財調査報告書 第10集 埼玉県指定史跡「塩古墳群」の調査』 熊谷市教育委員会/編 2011年
・『埼玉の古墳めぐり』 宮川進/著 2019年



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