可児市広見の身隠山の丘陵上にはかつては多数の古墳があったようですが、現在は2基の円墳を残すのみです。
発見容易
説明板あり
墳丘登頂可能
お勧め度:
*** 本ページの目次 *** 1.基本情報 2.諸元 3.探訪レポート 4.補足 5.参考資料 |
1.基本情報
所在地
岐阜県可児市広見
現況
公園?
史跡指定
岐阜県指定史跡
出土遺物が見られる場所
可児郷土歴史館
2.諸元
この項目は現地説明板を参照
築造時期
両墳ともに前期(4世紀後半)
墳丘
身隠山御嶽古墳
形状:円墳
直径:36m
墳高:4.5m
段築:2段
葺石:
埴輪:
身隠山白山古墳
形状:円墳
直径:42m
墳高:4.5m
段築:2段
葺石:
埴輪:
主体部
身隠山御嶽古墳
竪穴系だが不詳
朱を使用しているようだが詳細不詳
身隠山白山古墳
竪穴系
長方形の墓壙の底を円礫・粘土敷き
木棺
朱を使用しているようだが詳細不詳
出土遺物
身隠山御嶽古墳
内行花文鏡×2、四獣形鏡×1、勾玉×2、管玉×132、小玉×178、石釧×2、刀剣類、土師類、朱
身隠山白山古墳
内行花文鏡×1、だ龍鏡×1、鍬形石×4、車輪石×1、石製模造剣×1、石製紡錘車×1、三輪玉様石製品×1、筒形石製品×1、刀剣類数本、鉄斧×2、巴形銅器×2、朱
周堀
不詳
3.探訪レポート
2019年8月1日(木) 濃尾・思い付き古墳ドライヴ その5
この日の探訪箇所
長篠設楽原・織田信長戦地本陣跡 → 久々利城跡 → 可児郷土歴史館 → 広見熊野古墳 → 身隠山御嶽古墳 → 身隠山白山古墳 → 長塚古墳 → 野中古墳 → 西寺山古墳 → 川合考古資料館 → 次郎兵衛塚1号墳 → 東之宮古墳 → 妙感寺古墳 → 青塚古墳
熊野古墳の次は、身隠山(みかくしやま)古墳群に行ってみます。
入口が良く分からないためとりあえず近接し、公園のようになっている場所の東側の入口を見つけました。
でも駐車場は無く、周りは住宅街になっており、車を止める場所がないです。
グルっと巡回し、空き地の前に路駐できる場所を見つけました。
では、行ってみますよ。
公園のような場所の入口には説明板はなく、少し登ると墳丘のようなものが見え、その上に標柱が立っています。
奥の方(南の方)を見ると方墳のようなものが見え、さらにその奥に説明板が立っているのが望見できます。
まずは、標柱を確認してみましょう。
身隠山御嶽(おんたけ)古墳とありますね。
でも、いまいち形状が分からない・・・
ここで先ほど郷土歴史館で見た平面図を思い出してみます。
これを見ると身隠山御嶽古墳は元々は円墳だったようですが、現状はダイナミックにも程があるくらい改変されています。
私はこの図の下側のスケールが書いてある左側からこの場所に登ってきたようですね。
もうちょっと探ってみましょう。
身隠山御嶽古墳の墳頂には社があります。
古墳の名称のもとになっている御嶽神社です。
先ほど見えた南側にあった説明板の方へ行ってみます。
この方形状に成形されているのは後世の改変で、現在は御嶽古墳と一体化しています。
東側の眺望。
※あとで地図を確認したら、明智城跡など明智光秀のコアゾーンを望見していたようです。
では、説明板を読んでみましょう。
そうでした、これは前期古墳でしたね。
複製品ではありましたが、先ほど郷土歴史館で石製品などを見ました。
説明板と照らし合わせると、白山古墳から出土した鍬形石4個と車輪石1個はこれですね。
こういった石製品が出ると前期の古墳だと推定できるわけですが、関東の古墳では石製品の出土は少ないため、非常に珍しい、というか羨ましく思います。
白山古墳では上の写真の通り車輪石が1個出ていますが、説明板によると御嶽古墳では車輪石に似た形の石釧(いしくしろ)が2個出ているようですね。
鍬形石、車輪石、石釧の3つを総称して「腕輪形石製品」と呼びますが、実際に腕輪として使ったのではないと考えられているので「形」を付けてお茶を濁しているわけです。
それらの中で鍬形石がもっとも出土数が少なく、畿内の古墳からはそこそこ出ているのですが、ここ東国ではかなり出土例が少ないと考えられるため、白山古墳からそれが4つも出ているのは驚きに値するでしょう。
しかもその4つのうちの最も大きいものは他と比べてデザインが著しく違い、パッと見で格が違うように見え、興味を引きます。
さらに、同じく白山古墳出土の筒形石製品、巴形銅器2個、石製模造剣、三輪玉様石製品、石製紡錘車もちゃんと写真に収めていました。
そして、だ龍鏡と内行花文鏡も見ていますから白山古墳の主体部から出た遺物に関しては複製品でほとんど確認できたことになります。
説明板の平面図は先ほど郷土歴史館で見た図と一緒ですね。
今度は白山古墳に登ってみます。
こちらも標柱があります。
墳頂には白山神社があります。
白山古墳から御嶽古墳を望見しますが、形状がかなり変わっているため往時とはまったく違う景観になっていることでしょう。
この公園のような場所は、もしかしたら私が入ってきたのと反対側の西側が正規の入口でしょうか。
お散歩をしている人影もあります。
西側に少し降りて古墳群を眺めてみます。
さらに降ります。
では、この辺で雷電號に戻りましょう。
前期の円墳って意外と貴重なので、良いものを見ることができました。
前期はそれ以前の弥生時代末期と違って、特定の一人の人物のためにとてつもない大きな前方後円墳の築造を始めた時代で、畿内では有名な箸墓古墳が280mあり、それと同じころの中山大塚古墳は130mで、地方でも100m級の大型前方後円墳やそれより規模は劣るものの前方後方墳が多数造られた時代です。
ですから、前期の古墳を見に行くと前方後円墳か前方後方墳であることが多くて円墳は影が薄いのですが、こういうふうに久しぶりに前期の円墳と出会うとそれを再評価してみたい気持ちになります。
後期には群集墳として円墳が異常な数が造られますが、それとは明らかに別個のものです。
前期の円墳に葬られた人物はいったいどのような人物だったのでしょうか。
その地域の主役級の人物ではないかもしれませんが、ある種、「名脇役」的な人物が葬られたかもしれませんよ。
それでは続いて、前波の三ツ塚へ行ってみます。
(つづく)
4.補足
5.参考資料
・現地説明板