⇒前回の記事はこちら
時刻は13時を過ぎましたが、今日は松屋の牛めしを朝ご飯として食しているせいか、まだお腹が空きません。
なので、とくに休憩は設けず、今度は那珂川流域から久慈川流域へ行って見ますよ。
久慈川流域最大の前方後円墳である梵天山古墳へは、性海寺を目標に行きます。
40分ほど巡航し、性海寺に到着しました。
気づけば少し曇ってきていますが、寒くはありません。
では梵天山古墳を見に行きますよ。

まずは性海寺に参拝してから。

性海寺は梵天山宝金剛院と号する真言宗のお寺です。


墳丘へは本堂の左奥から登れるようです。
ここからですね。


説明板に書かれている通り、梵天山古墳は墳丘長151mを誇る茨城県内で2番目に大きい古墳です。
築造された年代ははっきりしないようですが、墳形から5世紀中ごろということで、古墳時代中期後半と考えているようです。
でも、後円部と前方部の高低差が結構あるのと、後円部の直径と前方部の幅の開きが大きいことから、もう少し早い時期の古墳ではないかと思います。
試しに、墳丘長に占める後円部径の割合を求めると、0.54となり、前方部幅は墳丘長の38%にしかなっておらず、4世紀前半(と私は考えている)に築造された山梨県甲府市の甲斐銚子塚古墳の数値と近似です。
『茨城の考古学散歩』(茨城県考古学協会/編)によると、2004年の茨城大学の測量調査により、墳丘長は160mであることが分かり、そうすると前述の値も少し変わってきますが、墳丘長が違うことが分かったのなら後円部の直径や前方部の幅も従来とは違う値が出ていそうです。
また、同書によれば、表面採集された壺型埴輪片によって築造時期は4世紀後半と考えられるようになっているそうですが、宮城県名取市の雷神山古墳が奈良県天理市の渋谷向山古墳の相似形であることを考えると、梵天山古墳は4世紀半ばの築造ではないでしょうか。

梵天山古墳群に関して、『茨城の考古学散歩』(茨城県考古学協会/編)には非常に興味深い記述があり、上の図の3号墳は何と直径が100mもあり、それだけでも異様に大きいのですが、さらに径30mの4号墳と本来は一体型の古墳で、双円墳という全国を見渡しても極めて珍しい墳丘だというのです。
これは2000年の茨城大学の調査により分かったことだそうで、『茨城の考古学散歩』ではサラッと記述されていますが、軽くは聞き逃せない問題ですね。
これについては今後もっと調べてみます。

では、墳丘へ登ってみますよ。
鞍部に登り、前方部を見ます。

かなり立派なボディです。

ただ、樹木が植わっているので視界が効かずに、今一スケール感を楽しむのは難しいです。

いったん麓まで降りてみます。
傾斜はなだらかで楽に降りれます。

説明板には周溝がないと書かれていましたね。
多分本当はあるんじゃないかな。
手前に小さな土盛りがありますが、これは円墳の13号墳ですね。

再び後円部へ登り、後円部から前方を眺めます。

後円部墳頂には神社がありました。


ここで梵天山古墳周辺の地形を確認しておきましょう。

※これを見ると確かに3号墳は巨大円墳のようですが、当日は探訪しなかったのでまた後日調べに行きたいと思います。
南東の久慈川方面の眺望。

ところで、梵天山古墳は久自国造・船瀬足尼(ふなせのすくね)の墓という伝承があります。
ここで常陸国内の国造の分布を見てみましょう。

私は関東の国造は6世紀末から7世紀初めに設置されたと考えており、そうなると梵天山古墳の築造時期と想定できる4世紀とは大きな時代の開きがあります。
ですので、久自国造の墓である可能性はほとんどないと思いますが、銚子塚古墳や雷神山古墳などと同じく、東国の豪族としては早期にヤマト王権への協力を申し出た王の墓であることには間違いないでしょう。
そしてこの地の国造が8世紀ころの時点では物部氏の系統とされていることも考えてみたいです。
あれ、これは葺石っぽいですが。

麓に下りて後円部裾から前方部方面を眺めてみます。
全体が収まる写真が撮れると嬉しいんですがねえ。
少し周りを歩いてみましょう。
これくらいが限界かな。

それでは、久慈川流域でもう一つ行って見たい遺跡があるのでそちらへ向かいますよ。
⇒この続きはこちら
時刻は13時を過ぎましたが、今日は松屋の牛めしを朝ご飯として食しているせいか、まだお腹が空きません。
なので、とくに休憩は設けず、今度は那珂川流域から久慈川流域へ行って見ますよ。
久慈川流域最大の前方後円墳である梵天山古墳へは、性海寺を目標に行きます。
40分ほど巡航し、性海寺に到着しました。
気づけば少し曇ってきていますが、寒くはありません。
では梵天山古墳を見に行きますよ。

まずは性海寺に参拝してから。

性海寺は梵天山宝金剛院と号する真言宗のお寺です。


墳丘へは本堂の左奥から登れるようです。
ここからですね。


説明板に書かれている通り、梵天山古墳は墳丘長151mを誇る茨城県内で2番目に大きい古墳です。
築造された年代ははっきりしないようですが、墳形から5世紀中ごろということで、古墳時代中期後半と考えているようです。
でも、後円部と前方部の高低差が結構あるのと、後円部の直径と前方部の幅の開きが大きいことから、もう少し早い時期の古墳ではないかと思います。
試しに、墳丘長に占める後円部径の割合を求めると、0.54となり、前方部幅は墳丘長の38%にしかなっておらず、4世紀前半(と私は考えている)に築造された山梨県甲府市の甲斐銚子塚古墳の数値と近似です。
『茨城の考古学散歩』(茨城県考古学協会/編)によると、2004年の茨城大学の測量調査により、墳丘長は160mであることが分かり、そうすると前述の値も少し変わってきますが、墳丘長が違うことが分かったのなら後円部の直径や前方部の幅も従来とは違う値が出ていそうです。
また、同書によれば、表面採集された壺型埴輪片によって築造時期は4世紀後半と考えられるようになっているそうですが、宮城県名取市の雷神山古墳が奈良県天理市の渋谷向山古墳の相似形であることを考えると、梵天山古墳は4世紀半ばの築造ではないでしょうか。

梵天山古墳群に関して、『茨城の考古学散歩』(茨城県考古学協会/編)には非常に興味深い記述があり、上の図の3号墳は何と直径が100mもあり、それだけでも異様に大きいのですが、さらに径30mの4号墳と本来は一体型の古墳で、双円墳という全国を見渡しても極めて珍しい墳丘だというのです。
これは2000年の茨城大学の調査により分かったことだそうで、『茨城の考古学散歩』ではサラッと記述されていますが、軽くは聞き逃せない問題ですね。
これについては今後もっと調べてみます。

では、墳丘へ登ってみますよ。
鞍部に登り、前方部を見ます。

かなり立派なボディです。

ただ、樹木が植わっているので視界が効かずに、今一スケール感を楽しむのは難しいです。

いったん麓まで降りてみます。
傾斜はなだらかで楽に降りれます。

説明板には周溝がないと書かれていましたね。
多分本当はあるんじゃないかな。
手前に小さな土盛りがありますが、これは円墳の13号墳ですね。

再び後円部へ登り、後円部から前方を眺めます。

後円部墳頂には神社がありました。


ここで梵天山古墳周辺の地形を確認しておきましょう。

※これを見ると確かに3号墳は巨大円墳のようですが、当日は探訪しなかったのでまた後日調べに行きたいと思います。
南東の久慈川方面の眺望。

ところで、梵天山古墳は久自国造・船瀬足尼(ふなせのすくね)の墓という伝承があります。
ここで常陸国内の国造の分布を見てみましょう。

私は関東の国造は6世紀末から7世紀初めに設置されたと考えており、そうなると梵天山古墳の築造時期と想定できる4世紀とは大きな時代の開きがあります。
ですので、久自国造の墓である可能性はほとんどないと思いますが、銚子塚古墳や雷神山古墳などと同じく、東国の豪族としては早期にヤマト王権への協力を申し出た王の墓であることには間違いないでしょう。
そしてこの地の国造が8世紀ころの時点では物部氏の系統とされていることも考えてみたいです。
あれ、これは葺石っぽいですが。

麓に下りて後円部裾から前方部方面を眺めてみます。
全体が収まる写真が撮れると嬉しいんですがねえ。
少し周りを歩いてみましょう。
これくらいが限界かな。

それでは、久慈川流域でもう一つ行って見たい遺跡があるのでそちらへ向かいますよ。
⇒この続きはこちら