私は20代の後半にニューヨークに来て、ニューヨークにあるユダヤ系の大学院に行きました。渡米する前は自分が大学院に行くことになる事は全く予想していませんでした。いろいろな偶然が重なり、唯一受験をした学費が払えそうな大学院に合格。充実しながらも常にお金のことを心配する日々の始まりでした。
当時学生ビザだった私にとって合法的に働ける道は2つありました。
A.インターンシップをすること
B.ティーチングアシスタントとしてプロフェッサーのもとで働くこと
Aのインターンシップをするのは大体2年生の夏になります。Bの選択肢だけが、その時の私にできる唯一の道でした。
留学生が多かった私の大学では、このティーチングアシスタントと言う仕事は、決まった人種に世襲されてました。例えばインド人の学生がやっているティーチングアシスタントの仕事は、その人の知り合いが受け継ぐと言う感じになっていました。日本人が圧倒的に少なかった私の大学院では、その世襲にあやかることができませんでした。
私は勇気を振り絞って、学長に直接掛け合ってみることにしました。アメリカの生活で、自分から行動を起こさなければ何も起きないと言うことを、学んだ時期でもありました。学長には会えませんでしたが1人のプロフェッサーと出会いました。
彼は私の話を真摯に聞いてくれて、レジュメつまりは履歴書を持って来るように言いました。あなたの今の英語力では苦労するかもしれないけれども、私のティーチングアシスタントの仕事が空いているよと。私は自分のできる限りの努力をすることを約束し、お仕事を頂きました。
その日から私が大学院を卒業する3学期間、私を雇ってくれました。ジューイッシュの中でも1番ユダヤ教を厳格に信仰する、オーソドックスジュイッシュの教授でした。曲がった事が嫌いな真っ直ぐな人柄の教授。感覚が日本人と似ているので、とても働きやすかったのを覚えています。
節約こそしなければいけない生活でしたが、安定した収入があると言う事が当時の私にとってとても有り難いことでした。
最近次男が、ユダヤ系の幼稚園に通い始めたのを契機に、教授にお世話になったことを思い出しました。
どうされているのだろう、あんなにお世話になったのに。最後にお別れを言った事は覚えているけれども、きちんとお礼を言ったかどうかは思い出せませんでした。
パブリック大学の教授なので、名前Eメールアドレス、電話番号が簡単に検索できてしまいました。
もう退職されたかもしれないと思いながらも、メールをしてみることにしました。
自分の近況を話し、ジューイッシュの主人と結婚して子供が2人いること、コロナの中でどう過ごされているのかと思っていること、何よりも経済的に苦しい状態であった時、お仕事くれて、助けてくれたことを感謝していること。
もう私のことを覚えていないかもしれないし、返事が来ないのを覚悟しつつも、家族の写真を添付しメールを送信したら、日曜日に返事が来ました。
もちろん覚えているよと。ご家族もコロの最中、皆さん無事でいらっしゃるようです。
感謝の気持ちを伝える事ができて、本当に安堵しました。沢山の人達に支えられて、今の私があること、そして感謝の気持ちを言葉にして伝えることの大切さを忘れてないようにしたいです。
better late than never.
遅くても、実行しないより良いというフレーズです。その通りだと思いました。
先日は拙ブログにコメントをありがとうございました。
いつも楽しく拝見しています。
私はかなり前になりますが、夫の駐在でVAとNYに住み、子育ての傍ら大学の授業を取っていたことがあります。その時の経験が忘れられず、今は日本の大学で秘書として学生や留学生をサポートする立場にいるので、rikaさんが書かれていらっしゃることに深くうなづきながら拝読しました。
子育てしながらフルタイムでお仕事を続けられるのはたいへんと思いますが、いつか努力が実を結びますことをお祈りいたします。
ところで先日アメリカのJewishのファミリーはクリスマスに中華料理を食べに行くことが伝統になっていると記事で読んだのですが、ほんとうですか? 異なる文化と接して生きていく中で、新たな習慣が生まれ受け継がれていくこと。アメリカ社会の奥深さに興味はつきません。