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欅の大木はすっかり葉を落とし、ジョウビタキの雄が裸の枝に寒そうに止まって、頭を下げ、尾を細かく振って「クワックワッ」と鳴いている。
私は昨日の余韻のさめやらぬまま、量子力学2の授業に出席していた。
「P185 8.3.2 HーJ表示のハミルトニアン…」
一月のテストへ向け、最低限ノートだけはまめに取っている。
授業が終わり、奈歩と坂を下りサークルへ行く。
坂の中腹に建つマンションの中庭には、パンジーがきれいに並べて植えられている。ここのマンションはいつも花が絶えない。
ラウンジには早苗がいた。私を待っていたようだった。
「理美、カフェテリア行かへん?」 席に着くなり、早苗が切り出した。
「どうや?それから解決した?優のこと」
「高村くんとは近所の友達なの。彼もそう思っていて、それ以上には思っていないわ」
昨日高村くんのアパートへ行ったことは話せなかった。
「うちはあんたがどう思ってるかを聞いてるんよ!」
早苗はきつく言った。
「理美は、理美の気持ち的には、優は本当に単なる近所の友達なん?この際徹底的に話し合わんと」 早苗は続けた。
「優だから心配なんよ。理美は絶対引き寄せられていくと思うんや。うちかて彼にはすごい惹かれとって、池上に話すことが憚られるくらいなんよ。優はね、ある意味危険な人や。彼とは友達以上にはならん方がええ」
「なりたくてもなれないのよ。昨日、そう言われたわ」
静かに言った。
早苗は口を開けたまま、私を凝視し続ける。
「この先、近所の友達以上になることはないわ。私の気持ちが緩んだとしても、彼の気持ちが緩むことはないと思う。そういう確かな意志を感じたわ」
私がそこまで言うと、早苗は、今度は同情の眼差しになって、
「理美、ごめんな。うちてっきり二股してるんかと思っとって。うちもな、優は憧れの存在なんよ。池上と比べてとか、そういうことやなく…。きっと、優は万人に愛される何かを持っているんよね。優と話をして嫌がる人がいたら見てみたいくらいや」 すると、それまで黙っていた奈歩が、
「二人共、れっきとした恋人がいるのにそんな不純でいいのかなぁ?」
遠慮がちに言って、そして続けた。
「私もね、冬からは正式に彼ができるわよ。理美には話したけど、松崎の友達で上智を休学してカナダに行ってた井上祥っていう人なんだけど、この冬帰国するの。メールのやりとりをしていて、帰ったら付き合うことになったの。私ね、ずっとこういうことを夢に思い描いてたんだ。井上くんのこと、初めて出会った時から好きだったから。でも自分から言うことってずっとできなくて…」
「良かったやん。奈歩にそういう人ができるの待っとったよ」
早苗は明るく言った。
「うち、正直奈歩のことは軽蔑することもあったんや。うちと考えがあまりに違って。広く浅くの意味を取り違えていると思っとったんよ。特定の彼を作らないっていうのは、都合はいいんやろけれど、得るものも限られる。人を本気で愛して得られるものは、宝物やと思うんや。今度井上って子が帰ってきたら本気で愛してみ。怖くないから。もし何かダメになってもいいやん。当たって砕けてみなよ。ダメになった時にはうちらがクッションになってあげるから…ねぇ理美?」
「そうよ。広く浅くって言っても、ちゃんと付き合ってみなければ本当のことは分からないと思う。だから奈歩、がんばってみて。でも、今までも、きっと、中・高の経験があってのことだと思うし、悪くなかったと思うわ。過去の自分を責めなくていいわよ」
早苗も奈歩も、それぞれに思い思いのことをしゃべり、顔には陰りがなく、明るい表情だった。私は…ちょっと疲れていたかもしれない。高村くんと、これからどうなるのかは、まるで想像がつかないし。なんとなくもやもやが残っていた。 「さてと、食べましょうか!」
早苗は、きのことベーコンのスパゲッティ、奈歩は煮魚定食、私は一番安いカレーライス。
「冬物の服でどうしても欲しいのあって倹約してるんだ」
私は頭をかいてみせた。
その週の金曜の夜、研究の後、松崎が直接アパートに来てくれた。
私は、松崎が来る前、ベランダで久しぶりに煙草を吸った。高村くんの胸に飛び込んだ自分を反芻しながら…。
寒かったのでグラタンにした。ちょうど支度が終わった頃に「トン・トン」とドアを叩く音がしたので覗き穴で碓認し、中に入れる。
松崎に会うのはすごく久しぶりだった。島根に行く直前も結局会えなかったから、実に20日ぶり。
松崎はいつもと変わらない雰囲気で、今日で研究が一段落したんだ、とにこにこして言った。
「ワインとチーズ買ってきたよ」
コンビニのビニール袋を渡す。
「うれしい。ありがとう。今日は大ちゃんの好きな、エビととり肉のグラタンだよ。今ちょうどできあがるとこ。あと2~3分待ってね」
松崎はダッフルコートとマフラーをハンガーにかけ、洗面所で手と顔を洗ってうがいをしようとして、
「理美ちゃん、オレ、ちょっと風邪気味でさぁ」
と言った。
「大丈夫?あれ、確かうがい薬あったはず、ちょっと待ってて」
私は押し入れの奥に閉まい込んでいた薬箱を取り出し、中からうがい薬を取り出した。
「これ、使ってみて。ちょっと古いかな…」
私は松崎にそのうがい薬を差し出した。
その後、テーブルに水色のビニール製のランチョンマットを敷き、赤と白のギンガムチェックのキッチン手袋で、グラタンをテーブルに並べた。ワイングラスがなく、小さなガラスのコップで代用した。
「サラダもあるのよ」
私は冷やしておいたサラダを出してきた。
今日はきゅうりとレタスとピーマンのグリーンサラダにした。
「理美ちゃん、ここんとこ会えずにいて、ほんとごめんね。でもこれからしばらくは試験もあるっていうことでひとまず研究お休みできることになったから。明日は久しぶりにオレの実家に遊びに来ない?理美ちゃんのピアノもどのくらい上達しているか聴きたいし」
ドキッとした。最近島根に行ったり高村くんと夜会ったりしていて、ピアノの練習があまりできていなかった。
「ピアノね、最近あんまり進んでないんだ。月の光が終わって、ベートーヴェンのテンペスト第三楽章が始まったんだけど、ほんの少ししか進んでない」
「それでもいいよ。そんなこと家のお母さんに言わなくてもいいし」
グラタンはすごく美味しいと誉められた。
「理美ちゃんってさ、料理の本見ないで作ってるんだよね。天才的だね」
確かに私は、参考にこそするが、一から十まで料理本の通りに作ったことは一度もない。でも、別にそれは自慢することでもない。
「そうそう、緑にね、会ってきたの。彼氏のことは引きずってたけど、元気そうだったよ。病院もとても落ち着いた環境で、暇がたくさんあるからテスト勉強もできてるみたいなの」
「がんばって作ったネックレスも渡せた?」
つぶらな瞳で、松崎が私の顔を覗く。
「うん、泣いて喜んでくれた。苦労して作った甲斐があったよ。ビーズで大ちゃんにも何か作れるものがあったらいいのになぁ」
「この間ケイタイストラップ壊れちゃったんだよね。理美ちゃんとおそろいで作ってくれないかな?クリスマスプレゼントそれだけでいいよ」
とてもよい提案だ。
「いいよ。色はやっぱり青系?緑系?どっちも混ざったようなのにするね」
夕食の後紅茶を入れ、松崎にこの間の島根旅行の写真を見せた。
「出雲大社って有名だよね。理美ちゃん何を祈ったの?」
松崎にそう言われて、戸惑った。なぜなら、松崎とも高村くんともうまくいきように、と祈ったからだ。あの時とは、だいぶ状況も変わって、複雑な気持ちだった。でも、それは顔には出さず、
「大ちゃんの研究がうまくいきますように、って祈ったよ」
ウソをついた。
「理美ちゃん、自分のことも祈ったでしょう?」
大ちゃんは、大きな目でこっちを見ている。私は、
「うん。一月のテストがうまくいきますようにって」
と言った。実際そんなことも祈ったような…。
「そう」
松崎は一通り写真を見終わると、アルバムを机の上に置き、ベランダに出てKOOLを吸い始めた。自分のジャムの空き瓶は隠し、松崎用の缶にしておくことは、いつも忘れない。高村くんとのことを、松崎に言えない自分が、すごく嫌らしく感じられた。
そんな思いを振り切るようにして、お風呂を沸かした。入浴剤を入れる。
「すっごく寒い!」
煙草を吸い終わって、両腕で体をかかえて部屋に戻り、急いで窓を閉める。
「今、お風呂沸かしてるから」
私はTVの脇にあるミニコンポに、ショパンのノクターン集のCDを入れ再生を押し、ソファに凭れた。一曲目は哀愁漂うOP9ー1。大学に来て初めての発表会で弾いた曲だ。
松崎も隣に座った。そして20日ぶりにキスをした。
しばらくして唇をそっと離し、松崎は私の顔を正面からじいっと見た。
「理美ちゃん、好きだよ」
松崎は優しくそう言った。
私は、もう限界だった。もう、本当は全て見透かされているような気がした。涙が出かかった。
「大ちゃん…」
抱き合って、貪るようにキスし合った。
「大変、お風呂忘れてた」
急いで止めに行ったが、既にお湯はあふれかえっていた。
「今日私生理だから大ちゃん先入って。お湯たぷたぷだから、最初に髪や体を洗ってね」
松崎がお風呂に行くと、私は、力が抜け、ソファに横になった。
ノクターンを聞きながら、何も考えないように、目をきつく閉じ、眠る。
突然メール音がする。ケイタイを取り出し、見る。二通来ている。そのうちの一通は、なんと高村くんからだった。
「この間は楽しかったです。あとで思ったんですが、夏木さん、もしかして何か用事があったんじゃないですか?オレでよかったらいつでも相談のりますよ。それではまた」
高村くんは何を考えているのだろう。私の告白は、『用事』にも入らなかったのか…。空しかった。読むだけで返信はしなかった。
もう一通は、香織からだった。
「お久しぶり。12月22日からフランスに行ってきます。何か買って来て欲しいものあったらリクエストして。年明け二日に成田からそのまま福島に帰省する予定なんだけど、時間あったら向こうで会わない?」
こちらにも、今は返信する気力がなく、閉じる。
松崎がお風呂から上がって、Tシャツと短パン姿でリビングにやってきた。このラコステのTシャツと短パンは、松崎が初めて私のアパートに泊まった一年の夏、持参して以来私のアパートに置きっぱなしになっているお決まりのだ。何年も丁寧に洗濯され上品に色落ちしている。
私もお風呂に入る。生理の時はお風呂に入らない人もいるようだけれど、私は、医学的にどうかはわからないが、そういう時こそお腹を温めてあげようと思って、いつもより長風呂をする習慣だ。
浴槽はちょっと汚れたけれど、次に誰が入るわけでもない。ちゃんと洗えば済むことだ。
お風呂に入りながら、自分の、このところの信じられない行動を、後悔していた。 冬用パジャマを着てリビングに行くと、松崎はTVを点けたままソファに横になって眠っていた。研究で相当疲れてるんだな。私はその横顔を眺め、とてつもなく愛おしくなった。松崎はまつ毛も長い。その無防備な表情が何とも言えなく可愛い。私は洗面所に行ってコンタクトを取り、化粧水と乳液で肌を整え、歯磨きをする。 優しく揺すって、
「大ちゃん、歯磨いたら?」
と促す。松崎は少しの間ぐずぐずしていたが、起きて洗面所へ行った。
松崎はコンタクトをしていない。目がいいのだ。ただ最近、研究でパソコンもよく使っているらしく、少し視力が落ちてきたようだ。
その後、ロフトに行った。
松崎が求めたわけではなかったが、セックスできない代わりに口でしてあげた。体の繋がりに頼るしかなかった。そうやってしか、今は、愛を示せなかった。
相手の気持ちになって舌を上手に使って、私は松崎を快楽の世界へ連れて行く。松崎は目をきつく閉じ、うなり声は次第に甘い声に変わっていった。
「だめだよ、もう」
と必死で言うので、
「大丈夫、口に含んであげるから」
と、優しく、さらに激しく、上下に動かす。
松崎は、悪がりながらも快楽に勝てず、間もなく射精した。精液は、甘いような渋いようなしょっぱいような何とも言えない味がした。
時計は12時を回っていた。 ロフトに戻ると松崎はつるんとした良い表情で早くも寝息を立て始めていた。
高村くんとは、もう会ってはいけない。そう強く思い、目が冴えていたが、波の音楽を小音でかけ、しばらくして眠りに就いた。
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