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児童虐待を考える。

2012-04-26 12:43:08 | 思考の散歩
 よく『泣く子と○○には勝てぬ』なんて表現を目にしますよね。

 ○○には様々な言葉が入れられます。自然災害だったり、会社の上司だったり、役所だったり、警察だったり。

 御存知の方も多いと思われますが、出典は『泣く子と地頭には勝てぬ』です。


357.【な】 『泣く子と地頭(じとう)には勝てぬ』

「泣く子と地頭には勝てない」という言葉の意味するところについて



 赤ちゃんがわんわん泣いて、こっちは仕事なりで疲れていて。

 鬱陶しくてイライラしてしまう。

 怒鳴りつけてみると、一層声を高くあげるので、自分もさらに強い口調になる。

 相手は負けじとさらに声を張り上げる。埒が明かないので手を出す。

 それでも静かにならないので、暴力がエスカレートする。


 その結果、この日本中で何人の赤ちゃんが亡くなる事になったか、昨今のニュースを見ていましても心が絞りきられる様な気持ちになってしまいます。有名な『北風と太陽』、北風は勝つ事が出来ないんですよね。


 今日の冒頭、○○に入る物はいずれもそういった言葉になると思います。

 例えば、雷。台風。津波。地震。

 思い出すのも嫌なワード、ここに入れられる事がありますよね。


『力を尽くしても適わないもの』『暖簾(のれん)に腕押し』

 そういう事ですよね。真っ向から立ち向かっても相手が強大過ぎて、こちらは自分の小ささを痛感させられて終わってしまう、これは大変なストレスと挫折感を伴います。


 しかし、赤ちゃん相手の場合。愛情が希薄な場合には、自己都合でいとも容易く暴力手段に訴える事で物理的に黙らせてしまえるわけです。御自分が挫折感を味わう事無く、力によって黙らせる事で「自分は相手を黙らせられる偉大者だ。無力感に苛まれる様な、小さい存在ではないのだ」と、歪んだ自己満足と浅はかな達成感を得てしまうわけです。

 「自分は強い北風だ」と自分を納得させてしまう、そこに愉悦を感じてしまう。


 悲しいことです。御自分もそうやって小さい頃に泣き喚いて、親を我慢させて育ったであろうに。




 身近なお話で、意外な事例がありました。


 中学時代の同級生、ワルのヤンキーだった男の子が、何年か前に小さい娘さんを連れて歩いているのを見ました。

 3~4才ぐらいだったでしょうか、えんえんと道端で泣き喚く子に、彼は屈んで目線を合わせ、一生懸命「これはこうでしょう、あれはああでしょう」と、猫なで声で諭していたのです。

 ああ、アイツはこの子のことを、本当に大事にしているのだなと安心し、改めて世間で起こる児童虐待がどうして起こるのか、憤りを感じてしまいました。



 別の事例では、子供を作らない女性がみえまして。

 彼女曰く、
「私は子供を作ったら、虐待をしてしまうと思う。でも、大事な子供にそんな事をしたくない。そんな事をする親にもなりたくない。だから、私は子供を作れないんですよ」
だそうで、それも衝撃を受けました。


 結局、『我慢をして、子供と接する』と言うのがネックなのでしょう。

 件の女性は才能型で、自分に良い意味でも強くプライドを持ってみえて、少々精神的に不安定な傾向があった方なので真面目に考えて自分がそうしてしまう、自分の精神を蝕まれる事に我慢が出来ないだろう、と気付かれたのだと思います。
 自分も子供も大切にしようと思えば、『作らない』という寂しい結論に至らざるをえなかったのでしょう。



 それでは、どうして実際に虐待のニュースがここまで溢れているのでしょう。

 罪の無い赤ん坊が、どうして早々と人生を閉じなければならないのでしょうか。


 結局、現代人は『我慢』が出来なくなってきているのだと思います。


 文明が発達し、様々なストレスを感じなくて済む様になってきていますよね。

 戦後の様な貧しさは無い。世界各地のおいしい物が食べられる。遠い場所に速く辿り着ける。公衆電話を探さなくても手元に電話機がある。いろんな店を回らなくてもデパートで全部買い物が出来る。或いは、出掛けなくてもネットで注文して自宅に届けられる。洗濯物を機械に放り込めば乾燥まで自動でやってくれる。冷めてしまったご飯が電子レンジで簡単にホカホカになる。夜中に電球が切れても近くのコンビニですぐ手に入る。

 また、『便利』を提供する事で商売が成り立ち、メーカーは『便利』な物を作る事で利益を上げる。

 我々はその恩恵を受け続ける内に、『我慢』しなければならない機会が随分と減ってしまいました。


 『我慢をする』と言う事は、『自分を抑える』と言う事ですから、どんどん『自分を抑えなくて良い』時代になってしまった。

 『自由』『権利』が叫ばれる時勢が、そこへさらに拍車をかけてしまった様にも思えます。


 『自分が我慢をする』と言う事を、『自由・権利を奪われた』とネガティブに捉える様になったのではないでしょうか。



 よく、アメリカを『自由の国』呼びますが、彼の国の自由・権利には『責任・義務』も伴います。

 翻って我が国は戦後、その『責任・義務』をすっ飛ばして『自由・権利』ばかりが叫ばれる様になったのではないでしょうか。


 これは、極端な支配や統制が行われていた敗戦国に対して、市民を解放する意味、またはそれによって(あえて言う、立場的な表現ですが)占領軍に対する民衆の敵意を緩和させる目的もあったのでしょう。



 さて、随分前に書きました記事(どの記事かはさすがに忘れてしまいましたが)で『人間は、やって良いと思った事をやるなと言われると怒る』みたいな言葉を出しましたが、これはアラブの方で言う『ラクダが頭をテントの中へ入れる事を許すと、そのラクダは全身をテントの中に入れてくる』と言う事ですね。

 ラクダの気持ちで考えてみれば、テントに頭を入れても怒られなければ『頭を入れても良い』。

 そして『ここまで良い』の次にどんどん『首は』『前足は』『胸は』と、許可の要求はエスカレートしていくわけです。


 我々日本人は、我慢しなくて良い『便利』に慣らされる内に『ここまで我慢すれば良い』と言うハードルが、どんどん下がってきてしまったのではないかと、最近ニュースに出てきます数々の衝動的な犯罪を見ていて痛感するのです。





 泣く子供を静かにさせる『便利な機械』など、存在しません。




 我々誰もが、『不便利な人間』に育てられたんじゃありませんか――――――






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