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命に関わる心臓だからこそ予防が大切 肥満を改善し動脈硬化を防ぐ

2021-10-29 08:30:00 | 日記

下記の記事はプレジデントオンラインからの借用(コピー)です

近畿地方に住む40代の女性は20代で結婚・出産して以降、苦労の連続だった。精神的に弱い夫は壁に穴を開け、妻に罵詈雑言を浴びせる。一時同居した義父は目が不自由で介護が必要だ。両親も肺炎や認知症を罹患した。ワンオペで3児を育てる女性はパニック障害になり、その後、子宮摘出することに――
この連載では、「ダブルケア」の事例を紹介していく。「ダブルケア」とは、子育てと介護が同時期に発生する状態をいう。子育てはその両親、介護はその親族が行うのが一般的だが、両方の負担がたった1人に集中していることが少なくない。そのたった1人の生活は、肉体的にも精神的にも過酷だ。しかもそれは、誰にでも起こり得ることである。取材事例を通じて、ダブルケアに備える方法や、乗り越えるヒントを探っていきたい。
「こんな人生があるのか」20代で結婚以降、苦難続き壮絶
近畿地方在住の松野貴美さん(40代・既婚)は、中学・高校と陸上部に所属した。高3の頃、市の大会に出場した際、応援に来ていた2歳先輩の夫と知り合い、1995年に20代で結婚。翌年には長男、1998年には長女を出産した。
メーカーに勤める夫は、若い頃から精神的に弱いところがあった。松野さんは結婚前からそのことを知っていたが、「まさかここまでとは思わなかった」と苦笑する。
夫は数年に一度くらいの頻度で気が大きくなったり、手がつけられないほど落ち込んだりする。気が大きくなるときは、高額な買い物をしたり、突然「仕事を辞めて大学に通う!」と言い出して資料を取り寄せたり、マシンガンのように喋り続けたりし、ひどく落ち込むときは、仕事ができなくなるだけでなく、食事を摂らなくなったり、入浴しなくなったり、松野さんはじめ、身近にいる人を2〜3時間誹謗ひぼう中傷し続けたりした。
義父は網膜色素変性症のため、幼い頃から目が見えづらかったが、2000年(当時55歳)以降、年を重ねるにつれて悪化。介助してきた2歳下の義母も50代のため、「2人暮らしでは不安だから」と、義両親から同居することを懇願される。
松野さん夫婦は同居することを承諾したが、当時は長男が4歳。長女が2歳。手がかかる時期に夫は子育てに全く協力しないばかりか、調子が悪くなると松野さんを精神的に振り回し、義両親には気を使う生活に、松野さんの限界が来た。
義両親との同居から3年で別居を切り出した松野さんを、義両親と夫は聞き入れ、松野さん夫婦は、実家と義両親の家の中間ほどのところに新居を購入し、移り住んだ。
「今振り返ると、私の若気の至りとしか言いようがありません。私が一方的に義両親に対して拒絶反応が出てしまうようになっていて、いつも家の中が険悪な空気になっていました……」
松野さんは自嘲気味にこう話すが、まだおむつが取れるか取れないかの幼い子どもを2人も抱え、目の見えない義父をサポートしながら、精神的に危うい夫や高齢の義母に気を使いながらの生活は、想像を絶する苦労があったはずだ。
「お前はダメだ!」罵詈雑言を3時間浴びせる夫が抱えていたもの
2002年に3人目の子供となる次男が生まれたが、夫は精神が安定しているときでも、一切子育てに協力しない。調子が悪くなると、幼い子どもたちを一人で世話する松野さんに対して見下した態度を取り、「お前はダメだ!」「頭がおかしい!」などと、罵詈ばり雑言を2〜3時間浴びせ続けた。
この頃すでに夫は精神科へ通院していたが、時には薬を大量に飲んで大暴れして救急車で運ばれたり、物を投げたり壁に穴を開けたりするため、新居は数年で傷や穴だらけになった。
「子どもに被害が及ぶこともあるので、小さいうちは子どもたちを守るのに必死でした。誹謗中傷に対して言い返したり、やり返したりすると数十倍になって返ってくるので、黙って嵐が過ぎ去るのを待つしかありませんでした」
夫は躁うつ症状が出ると休職で無給、自分は“ワンオペ”でパニック障害
結婚前は看護師をしていた松野さんは、産後は資格を活かし、ヘルパーの仕事を始めた。育児と家事、仕事に追われ、夫の症状が出ると動悸や不眠の症状が出るようになったため、心療内科を受診すると、パニック障害と診断。精神安定剤や睡眠薬を服用し始める。
夫の不調時の対応に悩んだ松野さんは、心療内科医に相談すると、「旦那さんはおそらく双極性障害でしょう」と言われた。
「夫に躁うつの症状が出るのときは、おそらく仕事上のストレスが原因だと思います。長年勤めていますし、理解がある会社で、症状が悪化するとちょこちょこ休職させてもらっています。しかし休職中は無給なので収入はなくなりますし、夫がずっと家にいるので気がめいります。次男が小学校に上がるまでは本当にしんどかったです」
子どもの頃から走るのが好きだった松野さんは、中学の頃から市の陸上部に所属していたが、結婚や出産を機に活動を休止。次男が小学校に上がってから再開したところ、市役所に勤める陸上部仲間から、「介護認定調査員が不足しているんだけど、挑戦してみない?」と声をかけられ、試験を受けることに。無事合格した松野さんは、ヘルパーを辞め、2008年から認定調査員として働き始めた。
夫と義父のケアに仕事…多忙な中、次男と自分にがんの疑い
2014年。中学生になった次男が熱を出した。風邪だと思って様子を見ていたが、微熱が1週間以上続き、鼻の奥がみるみる腫れてきた。
心配した松野さんが病院へ連れて行くと、「がんの可能性があるので、念のため入院してください」と言われる。入院中は毎日のようにさまざまな検査を受けたが、次第に熱が下がり、鼻の奥の腫れも治まってきたため、10日ほどで退院。その後に検査結果が出たが、がんではなくウイルスによる「単核球症」と診断される。
単核球症とは、発熱やリンパ節の腫れなどの症状を起こす急性感染症だ。数週間で症状が治まっても、肝臓や脾臓が肥大化している場合があり、腹部に衝撃や圧力がかかると破裂することがある。脾臓が破裂すると、出血性ショックで重篤化する危険性が高いため、肥大した状態が治まる2カ月ほどは、転倒や打撲、外傷に気をつけ、力仕事や人と接触するスポーツは避けたほうがいい。
松野さんと同じように陸上部で活動していた次男は、「2カ月くらい、激しい運動は避けてください」と医師から告げられ、残念そうな顔でうなずいた。
その翌年、市の健康診断を受けた松野さんは、子宮で再検査となり、婦人科を受診。超音波検査などの結果、「高度異形成」と診断される。
高度異形成とは、子宮頸がんの一歩手前の状態だ。すぐに細胞診を行い、異常が認められれば、組織診を行い、確定診断となる。
松野さんは入院し、病変部分だけを取り除くか、子宮全部を摘出する手術を受けるか選択を迫られる。松野さんは「子どもは3人産んで、もう産むことはないだろうから、子宮を摘出してもいいかな」と判断し、子宮の全摘出手術を受け、1週間ほどで退院。その間子どもたちは実家の両親に世話になり、夫は義実家へ行っていた。
おまけに近隣に住む両親にも異変が「父は肺炎、母は認知症」
松野さんは、結婚後も週に1〜2回は実家へ顔を出していたが、2016年に入ると、当時62歳の母親におかしな言動が見られ始める。松野さんが来ると、必ず母親は、何も言わなくても松野さんが好きな、砂糖と牛乳を入れたカフェオレを作ってくれたが、ある日突然、「砂糖何杯入れる?」「牛乳どれくらいだった?」と訊ねるように。
また、きれい好きで、部屋はいつも整理整頓し、食卓の上には何も置かない主義だった母親だが、次第に実家が散らかり始めた。洗面所には洗濯洗剤が何十個と積み上げられ、キッチンの戸棚には封を切られた醤油が何本も並び、食卓の上にはモノが溢れ、食事ができないほどになってきていた。
「ヘルパーをしていましたし、介護認定調査員という仕事柄、『もしかして認知症かも……』とは思っていましたが、しっかり者だった母が認知症になった現実を受け入れられず、私は気づかないフリをして、だんだん実家から足が遠のいていきました」
ところがその年の8月。当時15歳の次男が、夏休みなので、松野さんの実家へ遊びに行って戻ってくると、「じいちゃん、ものすごく調子が悪そうだったよ」と言う。それを聞いた松野さんは、すぐに実家へ父親の様子を見に行った。すると父親は、足がむくんでパンパンに腫れ、熱もあり、「夏バテ気味で息が苦しい」と言ってフラフラな状態。松野さんが急いで病院へ連れて行くと、医師は父親の肺が真っ白に写ったレントゲン写真を見せながら、「肺炎」と診断。すぐに入院することに。
当時64歳だった父親は、42歳の頃に胃がんを経験している。胃を全摘出して以来食が細くなり、がんの再発こそなかったが、ずっと体力が戻りきらずにいた。
一方母親は、父親が肺炎で入院したと聞くとひどく動揺し、松野さんが父親の病院に面会につれていくと、トイレに行ったきり迷子になることが頻繁にあった。
母親は徐々に認知症が進み、ご飯は炊くことができたが、炊きすぎて悪くしてしまったり、できていた料理もやり方が分からなくなったりしていた。父親が入院し、松野さんは実家に1人きりになる母親が心配だったが、この頃、高3の長女は通っていた看護学校の実習先で患者の死に直面し、看護師になることを躊躇。アトピー体質だった長女は、全身にアレルギー症状が出てしまうほど悩み、結局、看護学校を退学。さらに、夫が数年に一度の不調で休職して家におり、松野さんは母親をサポートしたくてもできない状況に陥っていた。
幸い、当時80代の島暮らしの父方の祖父母が、入院した息子(松野さんの父親)を見舞うため、実家に滞在して母親をサポートしてくれることになり、松野さんはほっと胸をなでおろした。

「目の前で失禁・大便」人間崩壊する母の介護をする娘が心の平穏を辛うじて保てた"ある活動"

ゴミ屋敷の実家の片付け「捨てる予定のモノが必ず戻された」ワケ
前編から続く。
20代で結婚・出産して以降、近畿地方に住む松野貴美さん(仮名・40代・既婚)には信じられないほど多くの試練がやってきた。
夫は精神に不調をきたすと壁に穴を開け罵詈ばり雑言を吐く、義父は目が不自由で介助が必要だ、実父はかつて胃がんを患い最近は肺炎で入院した、実母は認知症になった、そして自分自身は介護認定調査員の仕事をしながら、3人の子どもを育て、親たちのケアもしてきた。心身のストレスからパニック障害になり、子宮頸がんの一歩手前の症状を抱えた。
実父が肺炎で入院したため、実家には認知症の実母がひとりで暮らしている。仕事と育児の合間に松野さんはモノが溢れ、足の踏み場もなく、ゴミ屋敷と化した実家の片付けを始めた。父親は退院後、介護が必要になると思い、先んじて介護環境を整えておこうと考えたためだ。
しかし、実家の片付けは難航することになる。両親が夫婦で理容室を営んでいた実家の片隅の、もう使われていない店舗部分に不要な家具や荷物を集めて、後日運び出そうと考えるが、店舗部分に置いたはずのモノがいつのまにか戻されていて、なかなか片付けがはかどらない。母親の仕業だった。
「母が認知症になる前は、私は母と喧嘩なんて一度もしたことはありませんでした。でも実家の片付けをしていた頃は、何でもかんでも『これはまだ使うんじゃ!』『何でも捨てやがって!』と怒られて、何度喧嘩になったかわかりません」
実家を片付けていると、タンスの裏などから何枚もの福沢諭吉が出てきた。以前、松野さんが時々実家に顔を出していた頃に、母親が「お金がなくなった。泥棒に盗られたかもしれん」と言っていたことがあり、松野さんは、「そうかもしれんけど仕方ないわ」と言って聞き流していた。松野さんは、自分でどこへ置いたか忘れてしまう認知症特有の症状だと気づきながらも、見て見ぬ振りをしてきた自分を責めた。
それでも約1カ月後には、2トントラック4台分の不要物を処分し、父親を介護できる環境を整えることができた。
肺炎だった父は無事退院したが飲み薬の副作用が…64歳で急死
そして2016年9月末、父親は退院し、実家へ戻って来た。ところが父親は、四六時中倦怠感を訴え、起き上がるとフラつき、ほとんど寝たきり状態となってしまう。
実家へ戻ってきて2日後、あまりに父親の様子がおかしいため、病院へ連れて行くと、飲み薬の副作用で肝機能が悪化しており、そのまま入院することに。
そして10月半ば、肝炎を起こした父親は、肝不全のため急死した。64歳だった。
松野さんは、葬儀の手配、親戚や父親の友人への連絡、今後の母親の介護のことなど、やらなくてはならないことや考えなくてはならないことが多すぎて、悲しんでいる暇がなかった。
「葬儀中、母が友人たちの前で泣き崩れている姿を何度も目にしましたが、私には母をいたわる余裕も、自分自身が涙を流す余裕もありませんでした。正直、私は一人で両親を介護するのは難しいと思っていました。父の再入院後、父も私も父の死が近いことが分かっていたため、今後の母の介護やお金のことなどを父に相談することができたのは、良かったと思います」
松野さんは再入院した父親の面会の帰り道、ふいに前が見えなくなり、車を端に停めた。
愛する父はもうじき死ぬ。母も、もう昔の母ではなくなった。仕事や育児は待ったなし。精神科に通いながら働く夫にはSOSを出せない……。孤立無援の私は、この後、どう生きていけばいいのか。不安が全身を覆いつくし、自然と目から溢れ出るものがあった。
若年性アルツハイマーの母親はスマホを使えなくなった
父親が亡くなり、母親を一人にしておけないと考えた松野さんは、母親を自分の家に呼び寄せ、同居することにした。
ちょうどこの頃から夫は他県へ単身赴任が決まり、社会人になった長男は家を出ていた。長女は看護学校を辞めてから美容系の仕事に就き、忙しくしていたし、次男は学校と陸上部の活動でほとんど家にいなかった。それでも子どもたちは、家にいるときに祖母が危ないことをしそうなときは「ばあちゃん、危ないよ」と声をかけたり、サポートが必要なときは手を貸したりしてくれた。
母親を病院に連れて行くと、「若年性アルツハイマー」との診断がついた。介護認定調査の結果は、要介護1。松野さんはすぐにデイサービスの利用を申し込んだ。
母親は、この頃はまだ自分のことは自分ででき、簡単な家事なら手伝うこともできたが、短期記憶が弱くなってきており、すぐにモノを失くし、何度教えてもテレビのリモコンや携帯電話の使い方が分からなくなる。また、雑巾がけをしても掃除機をかけても、同じところばかり繰り返しかけていた。
「床屋をしていた両親は、人に好かれる朗らかな性格でした。特に母は、よく動き、よく気がつく、笑顔の多い癒やし系。私には3歳下に妹がいますが、私も妹も母のことが大好きでした」
起床は5時、子どもたちの弁当を作った後、出勤するが…
松野さんは平日、朝5時ごろに起きて子どもたちと自分の弁当を作り、電車通学をしている高校生の次男を起こし、車で駅まで送っていく。
次に母親を起こして、自分も食事をしながら母親の食事介助をし、終わったら着替えさせる。長女を7時ごろ起こしたあと、8時ごろ母親をデイサービスに送り、仕事に出る。
認知症の症状が進んできた母親は、出発ギリギリに大便や失禁をしてしまい、その処理に時間をとられ、仕事に遅刻してしまうこともあった。
ワンオペ育児・家事・介護「母はついに娘の名前がわからなくなった」
2018年ごろになると、母親は言語能力が急速に低下し、松野さんの名前がわからなくなるだけでなく、うまく言葉が出なくなった。それでも母親は、時々トイレを失敗して松野さんに下着やズボンを取り替えてもらうときには、「ごめんね」「ありがとう」と口にした。
16時半に仕事が終わると、17時には帰宅し、デイサービスから帰ってきた母親を迎え、食事の支度などの家事に追われる。母親のお風呂はいつも2人で一緒に入り、入浴介助した。
松野さんの唯一の趣味である市の陸上クラブの活動は、週に1回、21時までだ。陸上する日は、母親がデイサービスから帰ってきて松野さんが帰宅するまでの間、結婚して近くに家族と暮らしている妹に来てもらい、母親の世話はヘルパーに頼んでいる。
松野さんの3歳下の妹は、子どもの頃からメンタルが弱かった。10代の頃には、恋愛関係の悩みからうつ病を発症し、しばらく部屋に引きこもり、自殺未遂までしたこともあった。その後、妹は20代で結婚したが、産後うつになり、子育ても家事もできなくなってしまう。そのため、見かねた母親が助け舟を出し、妹家族は妹の症状が落ち着くまで、4年ほど実家に身を寄せていた。
「正直に言えば、妹に対しては、母親の介護をすべて私に任せきりでずるいなと思う気持ちはあります。でも、精神的に脆い妹に母の介護は耐えられないでしょう。だから、私が看るしかありません。妹もそれをわかっているのか、姉がプロだから任せとけばいいという感じなのか、手を出さないけれど口も出さないので、それだけは助かっています」
単身赴任中の夫がコロナ感染、母親は目の前で失禁・大便
2020年に入ってしばらくすると、単身赴任中の夫が「調子が悪い」と言う。夫は月に2回ほど家に帰ってきていたが、世の中はコロナ禍。体調を崩している夫は、帰宅を控え、単身赴任先でひとり自宅療養していた。
2、3日様子を見ていたが、夫の病状は悪化する一方。電話で聞く症状から、松野さんはコロナを疑い、夫が単身赴任している市の保健所や大きな病院などに問い合わせ、PCR検査をしてもらえるよう相談。すると、夫が自宅療養を始めて10日ほど経った頃、ようやくPCR検査をしてくれることになった。
案の定、検査の結果は陽性。幸い病床に空きがあったため即入院することができ、レントゲンを撮ると肺は真っ白。医師は「もう少し遅かったら、命が危なかった」と言った。
「実は、私たち夫婦の仲は、完全に冷え切っていました。夫は精神的に調子が悪くないときでもモラハラ的な発言が増え、私のことを見下した態度で接するようになっていたのです。だから6年前に夫が単身赴任することになり、私は内心喜んでいました。でも、私が保健所に問い合わせるなど尽力したおかげで、自分の命が助かったと思ったのか、コロナから回復してからは、夫の私への接し方が変わったように感じます」
7月になると、母親はますます足腰が弱くなり、介護はたちまち重労働になった。トイレに連れて行ってもズボンの上げ下ろしさえ自分でできず、失禁や大便を漏らしてしまうことも一度や二度ではなかった。食事も食べさせなければ全くできず、すべてにおいて介助が必要になり、介護度は要介護4に。デイサービスの送迎車に乗り降りすることも難しくなってきていた。
しかし、母親がデイサービスに行ってくれないと、松野さんは仕事に行けない。困った松野さんは、母親が認知症で通院している病院の主治医に相談。すると、「ちょうど今、病室に空きが出たのですが、入院されますか?」と提案があった。そこは介護度の高い認知症患者を預かる認知症の専門病院で、特養が決まるまで置いてくれた。
現役の介護認定調査員「母が要介護になって肌で感じたこと」
松野さんは、母親が要介護4になったことを機に、昨秋に特養を申し込んでいた。
2021年3月。特養に空きが出たとの連絡が入り、同月21日から入れることになった。
「私は介護認定調査員という仕事柄、たくさんの認知症の人を見てきましたから、『現状、精神的な症状が出ているから、次は身体的な症状が出るかな』とか、『被害妄想が出たからそろそろ中期に入ったかな』といった感じに先がある程度わかるので、そこまで介護がつらいとか苦しいとかは感じませんでした。母親が同じことを何回もするときもイライラせず、『今日は何回やるかな?』と楽しむように努めましたし、おむつ交換も、『今回はこれだけ時間がかかった。次はもっと短時間でやろう!』みたいに毎回チャレンジしていました。介護っていつまで続くかわからないものなので、そうやって気持ちを前向きに保っていないと、続けられないと思います」
そんな松野さんでも、大好きな陸上の時間を奪われるのはつらかった。今でこそ週1回の活動に参加できているが、当時は月1回になってしまうことも少なくなかった。
「自分に使える時間がないのはつらかったですが、自分の母親を介護することで、介護する人の気持ちがわかるようになったのはよかったと思います。認定調査員の仕事で介護中の家庭を訪問しますが、『今、この人はここに困ってるんだろうな』ということがわかるようになって、『この部分はつらくないですか?』などと声をかけやすくなりましたし、『私も介護をしています。一緒に頑張りましょうね』と言うと、相手の方も安心されるようで、『介護のことがよくわかる方でよかった』と喜ばれるようになりました」
認定調査員の仕事は、多い日で1日5〜6家庭を訪問する。松野さんが管轄するエリアには島も含まれているため、船で市内の島へ渡る日もある。島へ渡ると、ついでにそこに住む父方の祖父母も見舞った。
「自分なんかよりもっと苦労されている方がいることを知ると、『私ももっと頑張ろう』と思うことができました。認定調査員の仕事では、日々利用者さんからの学びや気付きがあります」
介護が一番大変な時期も大好きな「走ること」を諦めなかった
松野さんは、子育てと仕事の両立と夫への対応に悩み、一時は心療内科に通ったが、結局3年ほどで断薬に成功。現在は通院も服薬もしていない。今も不調なときの夫に手がかかることは変わりないが、「夫の誹謗中傷を聞き流すすべを身に付けました」と笑う。
そして、認知症になった親族の介護をしている人々へこうアドバイスするのだ。
「認知症の症状の経過を知っていれば、ある程度手立てがわかります。だから病気に関して学び、情報収集しておくと振り回されずに済み、少しは介護が楽になるのではないかと思います。そして、けっして1人で抱え込まないでください。私は無理を続けて自分が介護うつになってしまった人をたくさん知っています。完璧を求めるあまり、自分を責める人、暴力に出てしまう人もいます。ダブルケアの人はなおさら、絶対に1人でやろうとしないで。介護サービスをしっかり使って、できるだけ楽に、横着して介護をしてほしいと思います。そうでないと、介護は続けられません」
特養に移った母親とは、コロナ禍のため、一度も会えていない。入院中もほとんど面会できず、母親はもう、言われたことも理解できない様子だ。特養への入所の際、胃ろうや経鼻経管栄養など、延命治療などについての確認があったが、松野さんはすべて断った。
「母は、全介助必要な状態になってまで、長生きを望んでいないと思います。ベッドで硬直したまま動かない人や浮腫んだ人、いろいろな方を見てきましたが、食べられなくなったら無理やり食べさせる必要はなく、母親の場合、自然に枯れるように亡くなるのが本人の望みでもあるのではないかと考えています」
島で暮らしていた父方の祖父母は、現地に住む父親の弟が在宅介護をしていたが、祖母は2017年、自宅で誤嚥性肺炎を起こして、85歳で亡くなった。その後、祖父は徐々に衰えていき、次第に食べられなくなり、ある日おむつを替えてもらった後、「ありがとう」と一言つぶやき、2020年12月に93歳で眠るように亡くなった。
「私も心情的には母を自宅で看取ってあげたいと思っています。でも、やっぱり現実的には難しいですね……」
松野さんは現在、週に1〜2回、1回あたり5〜6キロをジョギングし、体力維持に努めつつ、市の陸上クラブの小学生や中学生のコーチとして、子どもたちとともに大会に出場している。
ダブルケアでもシングル介護でも、介護のキーパーソンは、被介護者の介護度が重くなるにつれて、いや応なしに介護が自分の人生の中心を占めることになる。
しかし松野さんは、介護が一番大変な時期も、大好きな「走ること」を諦めなかった。
介護者と被介護者の距離が近すぎると共依存関係に陥りやすいが、時間の長短にかかわらず、介護のことを忘れて、自分で自分のために使う時間を守ることができる人は、その危険性が低いように思う。難しいことかもしれないが、誰もが自分の人生を生きられる社会の実現を望んでやまない。
旦木 瑞穂ライター・グラフィックデザイナー



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